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2005年9月26日 (月)

稲のなみ

P1010123 船津太郎兵衛にみせたいもの~は

 盆のおどりと~ 稲の波

           え~稲のなみ~

ふるさとの盆踊り唄の一節。江戸時代 百姓一揆を起こした首謀者の一人として処刑された義民に送る言葉として今も唄われている。

今年は、夏の気候も良くて米も取れすぎる予想が立ち、政府もその対策の検討に入ったと言う。

昔なら”豊年じゃ~万作じゃ~”とて、堂島の商人以外は歌ってうかれ、祭り騒いだことと思う。

米と言えば、戦後の一時期、食糧難で配給制度が採られていたが、その配給たるや月のうち10日分ほどしかなく、その10日分も芋などの雑穀を含めての配給であった。必然食料を求めて自分たちの親は身の回りにある食べられるものを探し、農家へ買い出しに行かねばならない。

飛騨は山国、下下の国。むかしから自国の民をたべさせるだけの米が出来ない所だったので、この時期は隣の富山県へ行って、なけなしの着物などと交換してきたそうで、「まるで乞食みたい扱いを受けながら米をわけてもらった」と言う。

その米も、県境に警察が出ていて、闇米として摘発していたので、その目をくぐるため走っている汽車から飛び降りたりしたこともあったようだ。「摘発した米はどうなったんだろうね。交換した沢山の着物はどうしたんだろうね」が疑問として当時からあった。

そして、高校生になった時、富山県出身の同期生が「白い米の飯以外食べたことがない」と言った時はショックだったが、考えてみれば当然だよね。

それから半世紀、飽食の時代は食糧難を思い出させない。世界的に見れば食べるものもなく、餓死者を出す地域もあるというのに輸入した食糧のかなりの部分をゴミ箱に持っていって苦にしない国民になった。

でも「いつまでもあると思うな親と金」と言うことわざがあるように、いずれ、再び食糧難の時代はやってくる、これは、確信を持って言えることのひとつだ。

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