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2005年10月31日 (月)

逆走

昨日も東名を逆送した車があったそうな。

正常に走っていたドライバーはさぞかしびっくりし、瞬間の対応に苦慮したことと思う、逆送した運転手の年齢が今回は58歳とか、前回は59歳でその前が70歳ということでなんだか他人事でないように感じる年頃である。

インターなりサービスエリアーからからでて合流する際になぜUターンをするのか。今回のものは報道によると静岡インターから入って西に行くつもりだったのが、気がついたら東に来ていたので由比のサービスエリアーから、逆に戻ったという、普通の常識では考えられない行動を取っている。

「間違えた」と思ったとき次のインターまで行って降りてからやり直すだけの余裕がないのか、逆走しても何とかなるさと思うのか。他の土地では起きていないのか。それとも認知症なのか。心理面や施設面などから原因を探り、対策を示して欲しい。

事故者本人のプライバシーとか名誉もあると思うが、かく言う自分も何時どこで同じようなことを仕出かさないとは言い切れないからだ。ただ単に認知症でした、で片付けられたほうがもっと本人も嫌だろうと思う。

本日これを題材にしたのは、自動車免許を取る時、教官から「あなたは、大雑把な性格らしいから大体こんな所でよかろうという運転をする、事故を起こさないためにも、そこら辺に気をつけなさい」と言われ、今でもその言葉を思い出すことがあるのはよく身にしみている証拠だが、性格のいい加減さは直らない、自動車を運転していても他車には厳しく自分には甘い。

血液型はABなのに、世間で言うAB型とは違った性格らしい。(エッ 几帳面はA型ですか。失礼しました)免許を取って40数年、小さな事故は何回かあるが最近は運が良くてゴールド3回を達成している。しかし、認知症は自覚がないというから、この実績はあてにならない、どの程度老化を含めて呆けているか知る方法がないものか。

でも、知った所で認めたくはないこのごろだ。

   

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2005年10月30日 (日)

ことわざ

「石原裕次郎は、金持ちのお坊ちゃんだろ、それが前面に出すぎいて、好きじゃないよ」と言ったところ「お前、変わっているな」と変人扱いをされたことがある。

昭和33年頃だったか、ヨットに乗ってギターを弾くなんて夢の時代だった頃の話し、その後、「美空ひばりってそんなに人より歌が上手いの?」とか「長島より王の方が優秀なのではないか」などというたびに同じようなことを言われたり、別な言い方では「クール」(冷たい)ともいわれた。

前にも書いたと思うけど、「和を以って尊し」とするわが国では、人はメダカのように同じ方向に向いて、群れなければ不安らしく、大勢、体制(どちらもたいせい)と違う発言や行動に対して、理由を述べずに変人扱いにして、自分は大勢の方に入っていることを周りに知らせ、確認する風潮が強い。

日本人は、単一の民族だから考えも一緒、まとまりが良いともいうが、ただ仲間はずれになりたくない、といって同調しているのが多い。ことわざにも「出る杭は打たれる」とあるように、自己主張は悪という捉えかたをする。

これは、何のせいだろうか。人によっては集団で作業をする農耕民族だからとか、その地域さえよければという島国根性だとかいうが、今回の衆議院選挙に見られるようにどんな人か分からない落下傘候補が票を集めたのを見ると、他候補がよほど悪い人でない限り、「長いものには巻かれろ」だったのかも知れない。その結果というか当然の成り行きというか初当選の自民党議員は、いい年こいて「小泉チルドレン」とかいって、ただ追随している。

よく、「子は親を見るにしかず」とか「この程度の国民にこの程度の政治家しか出ない」といわれるが、よく考えればわしもその程度なので、小さくつぶやいておくことにしよう。

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2005年10月29日 (土)

国体の成績

地方紙「静岡新聞」が社説で怒っていた。

題名は「不振だった国体県勢」というもので、2年前に静岡で開催した時は、46年ぶりに天皇杯の頂点に立ったのに、今年は19位まで落ちたことをさして嘆き、競技団体と行政が足並みをそろえて強化策を計れ。と言っている。

とりわけ、サッカー、陸上、水泳に奮起するように、としている。

国体については、かなりいろいろな面で考える時期に来ているとの指摘があるなかで、とにかく上位に入れと言うのは、どうなんだろう。

46年目に示されるように、開催県が優勝ということ事態がおかしいと感じないのか。そこには、かなりの無理を積み重ねての成績であるはず。さらに、無駄な施設を作った例など枚挙の暇がない。

こんな記事は、社説で発表するほどのものではない思うが、そんなに目くじらを立てるまでもないか。

本日は朝からの雨模様。家にいても退屈するだろう、と知り合いに連絡を取り、梅が島の市営温泉「黄金の湯」へ一緒に行き、のんびりと湯に浸かり、ムダ話と持参の食事で一日過ごして来た。

ぬるぬるとした気持ちのいい湯だったので、長時間はいっていたら湯疲れで、いまフニャフニャと崩れかけている。

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2005年10月28日 (金)

麻機山脈

P1010022 いまどきの野山の散策はひっつき虫が多くて困る。(写真はオモナミ)

センダン草、猪子槌、ぬすびと萩がまっさかり、もう少しすると、オモナミとチカラ芝がわたしも連れってとばかりにしがみ付く。お陰でズボンのすそは種だらけ、これがこの植物の繁殖方法だといわれても迷惑する。

下手なズボンは、繊維を引き出し台無しになってしまいそう。

静岡の浅間神社の裏から小さな山脈状にのびた尾根は千メートル余の竜爪山にまで達し、その尾根は安倍川沿いに北上し安倍川をぐるッと包み込んでいる。

ここ、浅間神社から桜峠まで約7キロと言われる区間が、人気のハイキングコースであり、何時行ってもすれ違う人がいる尾根道である。

家をでて、まっすぐ北に向かい20分ほどで尾根に到達する。標高は150mほどか、このあたり一帯はみかんと茶畑と竹林が多く、自動車であちこちから登れるように舗装された農道が整備されている。みかんの季節にもう少し間があり、農作業の車も少ない。

尾根道は、人が歩けるだけの広さで30~50mほどのアップダウンを繰り返しながら東北の竜爪山に向けて伸びる、途中何箇所か手入れを放棄した茶畑や杉檜の林があるものの、左右両側に麻機団地と安倍川沿いの人家、第2東名の工事現場を眺め下ろして進む。

一度大きくダウンし、登ったところに小さな神社が鎮座している、いつの頃からあるかは分からないと書かれているが、石灯篭には、紀元二千六百年なんて文字が掘り込まれている、おもわず子供の頃聞いた歌が口に出る。またこの紀元が復活する時代にならないことを祈る。

道はこの後ほとんど降る一方になり、鯨が池に到達して終わる。此処に来て予定より歩きすぎたことを足いっぱいに着いた草の種を取りながら後悔した。

戻りが大変なのだ、桜峠のトンネルを下り舗装道路を延々と歩くのだが、どういうわけか自分は舗装道路が苦手ですぐに疲れる、歩きにくくても舗装してない方が疲れないのだ。

この辺は自分の錯覚なのかどうか、もし分かる人がいれば聞いてみたい。

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2005年10月27日 (木)

翡翠(カワセミ)考

散歩道 麻機沼に「翡翠(かわせみ)」が二羽以上住んでいる。

この鳥かなり神経質なうえ敏捷なので、自分のデジカメにはなかなか納まってくれない。今年初めから散歩には、デジカメは袋に入れて持って歩いているが、こちらが見たときには、むこうはすでに確認しているらしく、モタモタとカメラを取り出す最中とか、焦点を合わせようとしている間に、艶のある綺麗な緑の背中を見せて飛び去ってしまう。

まさに、名前の通り生きたヒスイを見せびらかしながら。

それが、今日二羽とも現れたのだ。最初のは、堰堤の縁にたたずみ、下の小魚をねらってダイビングを繰り返し、くわえた魚を何処へともなくもち去った。

次のものは、わずか10mほどのところでポールの先に止まってしばらくたたずんでいた。この絶好のチャンスを見ながら、手元にはカメラがないのだ。

むかし、スズメ取りに空気銃を持っていくと日ごろ其処此処に群れているスズメが軒下に入って、チョロチョロとこちらの様子をうかがっていたように、翡翠もこちらがカメラを持っていないのを知っているみたいだ

出演料のを出してでも写させて貰いたいのだが、生憎と通訳がいないので、意思疎通が出来ない

家を出るとき、天気予報は雨は午後から上がりますといっていたので、傘を持って降られてもいいように用心したのが間違いの元。

「チャンスは前髪をつかめ、後ろ頭には毛がないのでつかめない」をまさに地で行ってしまった。次のチャンスは何時くるか。

そう言えば、今朝ほどのテレビで言ってた「ゴメンナサイ 12月生まれ人は今日の運勢が最低です」だって、でもこんなことぐらいなら赦せるか。

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2005年10月26日 (水)

日本人は大金持ち?

今回もむかし経験したことにもとづいて書く。

まえに、アリマセン(中南米の百貨店)の支払方法について書いたところ、メール友達の日系ペルー人アンヘルさん、(勿論ハンドルネーム)から、私はそんな店に行ったことが無い、とやんわり言われたのでひょっとすると自分だけの体験かも知れないが、、、、、

かの国では、タクシーに乗る前に運賃の交渉をして、納得できる値段を決めてから乗り込むのである。だから、運転手は乗る人の男女、国籍、人品骨柄を見て高めの値段を言い、客はそれを値切りまくるのが常識だった。

日本のように、行灯を屋根につけている訳もなく、メーターがある訳でもなく、ただ、手を上げたとき停まってくれたのがタクシーなのである。というわけで同じ距離を行くのに3倍くらいの差がついた。

日本人、特に東京を中心に静岡県や長野県の人など自分の知る範囲では、店先に並んでいる商品を値切ることはごく稀であり、値切ると言うことは恥ずかしいことのように言う。

この人たちが海外に出かけると、相手の言いなりにお金を払う。自分がイタリアで見た最悪のケースはテーブルの上に大小のお金をざらーッと広げて必要なだけ持って行けと言うしぐさをしていた人がいたことだ。一事が万事この調子だから「日本人は大金持ち」これが世界の常識である。

あちら流で言えば、罪を犯す人より犯す動機を作らせるものの方が悪い。の典型であり、自分はこんなに金を持っているとまわりに知らしめていることになっていることに気付いていない。

元に戻る、タクシーの運転手の一番いい鴨は日本人だと言う、行く先を言って黙って乗り込む到着した所で言われただけの金を払う。日本人にしてみれば日本のタクシーと比較するが、あちらではとんでもない金額なのに平然と支払ってくれる。はじめはびっくりするが、次からは鴨を探すと言う。

そのため、自分はチーノと名乗った「チーノ」とは、スペイン語で中国人を言い、同じ東洋人でもけちで有名だから、むこうも始めから多額の請求をしないと聞いた。しかし、セニョリーターはそれよりもずーッと値切って乗った。さすが、こういうときは世界中どこでも、女は同じだなと感心したものである。

そして、今朝のテレビを見ていたら、フジモリ元大統領を待望するする支持者がフジモリ氏の愛称だと言って「チーノ チーノ」と叫んでいたが、フジモリ氏もやはり、中国人の方が都合が良いのかな。

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2005年10月25日 (火)

三つ峠山 1,785m

P1010005 近頃少々困っている。あしたは天気が良いなんてテレビで言おうものならどこかへ行きたくなってしまうのだ。

ということで、山梨の三つ峠山に決めた。子どもの遠足と一緒で朝早く目が覚めた、4時20分外は綺麗な星空で、今日の天気を保障してくれている。

朝霧高原にかかって、富士山がうっすらと見えかけてきた。「この調子だと、本栖湖の湖尻に日の出前につけるな」と踏んで車を急がせる。

途中で気がついたが、気温が3度まで下がったため湖面が霧ごんでいて幻想的に見えるが日の出が近いため止められない。6時少し前にようやく駐車場にいれすぐ支度した。6時1分日の出、太陽は富士山の左すその雲の間から顔を出す。6時20分ご来光と撮影を堪能し、河口湖を越え登山口駐車場に向かう。

「車上あらし注意」の看板が立っている、駐車場には、かなりの車がすでに駐車しているが、人は少ない。聞くと工事関係者のものがほとんどだと言う。

この山、20数年前仕事で登ったことがあったが、歩いて登るのは今回が初めて、前はジープでゆすりたくられて、ほうほうの目にあったものだ。

で、今回は、別の登山ルートがあるのかと思ったら、この荒くれ道をずーッとたどることになった。お陰で今までに無い広くて登り易い山登りになる。

一時間ちょっとで三つ峠小屋に着く、なんだかあっけない、小休止の後最高峰開運山に到着したのは9時だった。

三つ峠山とは、主峰の開運山、御巣鷹山、木無山の三つを総称したものであると書いてあった。しからば、「三つ峰山」ぐらいに改名する必要があるのではないだろうか、どう見ても峠とは言えないものな。あまり簡単に登れたので、飛騨古川の三寺参りならぬ三山廻りをと廻って下った。

この山はすでに初冬に入っているらしく、木の葉も落ちたものが多く、少しの紅葉と黄葉、そしておち葉とわくら葉。山頂近くでは霜柱が立っており。自分の今年の初霜である。

降る途中で、十人ほどの自衛隊員が三々五々登ってきたので、聞くと訓練だという、さらに降るとしたから大勢で歌う声がする。近づくと三十人ほどの若い隊員が担架を二つ下げてくるのに会った、救助訓練らしいのだが、そのときの合唱が「およげ鯛やき」なのだ。なんだかちぐはぐな感じがしたのは自分だけなのだろうか。

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2005年10月24日 (月)

ハローページから

どこの土地にもその土地特有の姓があるのだが、静岡県もかなり極端である。

先日、自分の加入しているブロバイダーの通信欄のナビゲーターKOさんも隣の神奈川県から来た人のようだが、静岡に来て周りに「望月」姓の人が沢山いるようで「世界に羽ばたけ 望月さん、、、」なんて冗談めかして書いていた。

静岡県は、昔から東海道の真ん中にあたり、人の往来はの多いところだが、意外と外には出ていないように見受けられる。

ハローページ(個人用電話帳)をによると、旧静岡市内で突出している姓としては、鈴木さん、杉山さん、望月さん、海野さんなどがあり(以下敬称略、数字は概略)、鈴木3200人、杉山2,700人、望月3,000人、海野1350人ほどが記載されている。このほかいくつか特有の姓があるがひとまず省略するが、これだけで、記載名簿の14%ほどになるのだから驚く。

また、上の姓に対して語呂がいいのか名前の方も固まっているようで、鈴木姓には、康弘が23人、茂が22人、実が18人、そしてカタカナ読みにすると、トシオが62人、ヒロシが56人、ヒデオが40人となる。

他の姓にもそれぞれ、かたまった名前がついている上、電話帳に乗っていない人もいるから、病院などでカタカナ風に呼び出しを受けると2~3人が同時に立ち上がる風景に出っくわすんではないだろうか。

ちなみに、自分の場合、全国的にはかなり多いほうだが、旧静岡市では来た当時7人だったのが15人までにようやく増えた。同姓同名は旧清水市と藤枝市に一人づつしか確認していない、時たま「○○先生ご在宅でしょうか」という電話があるので「そんな偉い人いません」と返事している。

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2005年10月23日 (日)

いやぁ えかったえかった

今日は暦の上での霜降(ソウコウ)、霜がおり始める時期になったという。

事実、今朝ほどの富士山は青空にくっきりと白髪頭を見せていた。朝になってどうしょうかなと思った.。清水のハリボテカーニバルや近くの流通センター祭りもあるが、少し遠出をしてと思い、森町 の「ハロウイン 収穫祭」というのに釣られていったのが失敗。何も見るべきものもないままアマゴの塩焼きを一匹食べて帰ってきた。

帰りは久し振りの県西部、牧の原台地をあちこちと廻る。やっとこの間までこの辺りで仕事していたのが懐かしくて、、、、、

帰ってきたら、菊花賞を放映していた。一番人気の”デイープインパクト”の動向を逐一解説している。昨日、東京競馬場で日本史上最高の1,860万円の配当が出たのでこのレースも荒れないかと興味津々でみる。

もし予想通りなら、21年ぶりの三冠馬になり、単勝100円は51年ぶりとかといっている。騎手 武 豊の重圧は大変なものがあろうと想像するが、騎乗前の馬主や調教師らしい人との話し振りを見ていると平然とした様子がみてとれる。

野球のイチロー選手なんかと共通する精神力の強さはたいしたものである。日本人は重圧に弱く本番では力の出せない人が多い中で、新しいタイプの出現で頼もしい限り。

レースは、途中で馬が走りたがるのを、手綱を引き絞っておさえ、最後の100mほどで軽々と決めてしまったが、これが、同じ馬かと見えるほどの強さでゴールを駆け抜け、いくつもの記録を達成した。

優勝インタビユーで、「フアンのみなさん、あめでとうございます」と言っていたが単勝100円では、馬券も記念に持っておく人もかなりいることと思うと、「おめでとう」は競馬関係者だけのもの、フアンは「面白いゲームを見せてもらって、ありがとう」と言う所か。

ちなみに、自分は買っていないので、「いやぁ えかったえかった」でおしまい。

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2005年10月22日 (土)

因果は廻る糸車

因果は廻る糸車

糸車の代わりに尾車 小車などと言われることもあるが、自分としては糸をつむぐ時、ばあ様が二階の障子窓の近くで、8の字を横にしたような糸車をゆっくりとまわし、綿から糸をつむぐ時、グルグルと廻った紐がまた元に戻ってくるのをあかず眺めていたのを思い出すので、”因果は廻る”とくると糸車が適切に感じる。

語源は知らない、多分歌舞伎あたりにあるのではないか、仏教用語では下の句が気が利きすぎているように感じる。

ともあれ、最近の IT長者やなんとかフアンドなど40代を中心にお金をおもちゃのように振り回して、既存の大企業の経営者を振り回している。いずれも法律違反ではないところに目をつけて仕掛けているため、目を付けられた方は度肝を抜かれてオタオタするしかないみたいだ。

今から40年ほど前になるか、60年安保、三池争議、大学紛争、70年安保と日本を揺るがした最後の大騒動のとき、当時大学生だったであろう、今の経営陣たちは、騒動が治まったとたん見事に変身をして社会人になった。

以後、苦節40年会社人間として、馬車馬のように働きバブル経済を乗り越え、同僚を蹴落として、今の地位に到達した。そして、当時 反権力、反既得権、反形式主義を唱えて社会に立ち向かってきた若者が、次第にそれらを手にすると保守することに専念し始めた。

そしていま、思いもしなかった角度から攻められている。まさに、攻守を逆転した立場にあり”因果は廻る糸車”になった。

これからまた、何十年か後には、今の状況を見ている小中学生の諸君が、「お金さえあれば何でもできる」という教訓を得ているはずだから、今話題の人たちにどんな戦法で立ち向かっていくのか見たいのだが、、、、、、

残念ながらそんなに寿命が無い。

<雨も朝のうちだけで止んだので、きのうの続き、稲刈りはさがけも終了。やはり、人数が多いとはかが行き、気分も違う。あしたは、温泉でのんびりを予定す>

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2005年10月21日 (金)

気構え不足

P1010123 ここ静岡でもほとんどの田んぼで稲刈りが済み、黄金色の田がパッチワークのようにポツポツと点在するだけになった。

それにしても、散歩道の傍らで農作業をする人を見ていると、日本の農家の縮図がよく見える。田んぼに入っている人は老人ばかり、50代から下の人はほとんど見受けられない。この調子で行くと農作業を知らない人ばかりになるのか。

知り合いの老夫婦が天気予報を見て、とても、息子たちの手助けを待っていられないとばかりに稲刈りを始めたと聞き、閑人はボランテイァ気分で田にむかう。

よく実ってしだれてはいるものの、幸い台風の影響も無く倒伏した稲は無い、ここ2~3日の天気で藁特有の乾いた匂いさえ香ばしい。

農業はまったくの素人だが、昨年までは腕っ節で来いとばかりに、やっていたのだが、力仕事をほとんどしていなかった1年のギャップはすごいものがある。今年は、最初から稲の量におされている。

腕力なし、気力なしときては早く時間が経たないかと祈るばかり、しかし、そんなときに限って時間が長い。水のみ汗かき、あぜに座り込み、時間を稼ぐ。

なんだか、手伝いが足を引っ張っているようで申し訳ない。そう思いながら5時に中途半端で止めた時は、上半身どころか全身疲労。慣れない筋肉を動かしてなんて言い訳をしたが、本当のところは、仕事を始める前の気合の入れそこないが響いていたのだと思う。

何事も最初の気構えが大きく左右することを確認させられた一日であった。

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2005年10月20日 (木)

金時山(1,213m)

P1010070 日の出も随分と遅くなったものだ。国道1号のバイパスにのって清水の近くで登りだした、正月なら初日の出だなんてもて囃すのに、今朝は遅いなぁなんて鼻にも引っ掛けてもらえない。

御殿場で東名を降りたのは7時少し前、ところどころで見てきた富士は雲ひとつかかってない。いつもは、山梨との県境の山であるが、今日は神奈川との県境にある金時山を目指す。普段は仙石ッ原から湖尻にかけて行く時に見るだけの山であるが、今日は一人なのでこの山を目指す。

目的の駐車場を乙女峠にしていたが、車を止めるところが無い、上り口は営林署が鎖を張っている。トンネルを抜けたところの駐車場から上り口を捜したが無い。結局仙石原に下って金時神社に駐車せざるを得なかった、これだけで、約1時間のロスをした。

金時神社から、しばらくは落葉樹の樹林帯を登り、矢倉峠に着くとそれからは笹原の中の道を登る、明るくて登り易い道、ハイキング気分で歩く。道の両脇は花の数も減ったが、ヨメナを始めノギクの仲間が花束のようにかたまって咲いている、リンドウ、トリカブトの紺紫の花も多い。

茶褐色の凝灰岩を踏みしだくと突然頂上の小屋の屋根が見え、小屋の高さに上がるとそれまで見えなかった富士が目の前に広がる。

小屋は二つあり、目指した”金時娘”こと小見山妙子さんの小屋は、静岡側の少し下がったところにあった。

テレビや雑誌などで聞いていた人だったが、他に客もいないせいで、しばらくそこらを片付けながら話し相手になってくれる、多いときには一日2千人も登ると言うからこんな訳には行かないだろうが、今日は、ラッキーと言った所か、話の内容はまた後日にして、

40分ほど、そこで過ごし、「これを縁にまた来てね」という言葉に送られて下山する。

金時神社の駐車場に下ってきたのは昼少し前、空には雲がかかり青い所は3割程度の曇り空、市営の温泉で汗を流して早起きは三文の徳を実感して帰った。

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2005年10月19日 (水)

総じてこんな日

P1010053 きょうは終わってみれば天気の良い一日だった。

先日来天気予報にはだまされっぱなしで、昨日の夕焼けも、天気予報も今日は晴れることを保障していたが、朝次第に雲が多くなり、東のかた”富士山方面”は台風の影響か雲のなか、明日に賭けて「金時山」は延期することにした。

午後になって、静岡横田町の西宮神社の大祭だと言うので出かけてみたが、どこの「えべっつさん」でもあるように、くまでの屋台は出ているものの笛ひとつ吹くわけでもなく、天気予報同様はぐらかされて帰ってきた。

今日は、総じてこんな日だったのだ。「商売繁盛で笹もってこい」

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2005年10月18日 (火)

ひねくれじいじ

台風20号が足踏みの後、自転車並みの速さで動き出したとのこと。

当方、ここしばらくの雨模様のため、日本中がそうなのかと思っていたら、関東地方と東海の一部だけで他は晴れているんだっていう。  「ヤナ天気だね/」

お陰で今日も、雨の合間を見てちょこちょこッと散歩したほか閉じこもって、文庫本を読み、妄想にふけった。  そこで、今日は”妄想パート2”とする。

テレビは相変わらずどこを入れても同じ切り口の「靖国参拝」ばかりをくどくどいっている自分も反対だが一過性の大騒ぎにはうんざりする)むかし、ソ連に抑留されていた、中国派遣の日本兵が洗脳されされたと言うから、脳みそをどうやって洗ったのかと思ったら、朝から晩まで同じことをくりかえして吹き込んでいるうちに、それが唯一の真実である、と思い込まされるように慣らされるのだと聞いた。

そして、10~20年ほど前になると、英語も普及したらしく「マインドコントロール」と言う言葉がいくつかの宗教の脱会者や関係者から聴かされたことがあるが、これも洗脳でしかない。

結局、前者は強制、後者は自分から入ったものだが、世の中これしかないと思わせるところに、思わせたものの利益が出てきて、操りやすい人間を沢山作ろうとする。事実はひとつでも、真実には多様性があるということを放棄させたがる

その伝で言うと、せんころの選挙も洗脳の一種だったのかと言わざるを得ない、人間なんてちょろいもんだと、裏で嘯いているやつがいるんだろうな。

テレビや週刊誌の興味本位、お手軽情報だけでなく、新聞や本、そしてインターネットで検索するなど情報をあちこちから集める必要がある。おりしも開かれている新聞大会で「信頼される記事を」「警察などの後追い記事は慎重に」と言っているように、新聞も万全ではない。

「じいじたちも、物忘れをするようになってきたから、火の始末が心配。オール電化にしたほうがいいんじゃないの」と、まるで電力会社のコマーシャルみたいなことを言うので「いや、俺たちは電気が止まったらなんにもできんような生活はしたくない」と返事した。

CMでは、時代遅れにならないようにと脅かすが、今度どこかで木をこすり合わせて火を起こす練習でもしなければと思っている、ひねくれじいじである。

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2005年10月17日 (月)

小人閑居して妄想する

白髪三千丈  緑愁似個長

不知眼鏡裏  何処得秋霜     (李白)

先年の夏休み、自動車の運転をしながら、恒例の「子ども電話相談室」を聞いていた。

「もしもし、どうして眉毛はのびないんですか」とかわいい質問に「それはね、本当は眉毛だけでなくて、髪の毛もひげも伸びないの。人が猿みたいに身体中毛が生えていたときはのびなかったの。だから、猿が床屋へ行ったり、ひげをそるって聞いたこと無いでしよう。」

「ハイ」「ところが、人が道具を使うようになって、うるさいひげや髪を切るようになって切る、伸びる、切るをくりかえしたので、ひげと髪は伸びるようになったんだよ。わかったぁ」「ハイありがとうございました」

大人同士の話なら「そんな~」というところだが、専門家が子ども相手に冗談を言うわけが無いはずだから、そんなものなのかと半ば感心したおぼえがある。

三千丈はいかにも中国らしい大げさだが、日本でも平安時代の宮廷貴族や女官に尾長鳥のような黒髪が美人の代名詞になり延ばした時期があり、インドでも宗教上の理由でターバンの中にすごく長い髪が入っているそうだ。

一方で、髪の毛に不自由している人は自分では想像できないくらい切実なようで、かつら、植毛、粉をふりかけるものなど根本的対策でない方法が山ほどCMを打っている。

さらに、おばあさんに多い、白髪を青や紫に染めているのを見るとおもわず「なに考えとるんじゃぃ」と言いたくなるものがある。

「元総理大臣だった村山富一さんは、眉毛を剃ったのかな、すごく長かったよな」  「そうそう、そういえば近所のおにいちゃんで眉を剃って替わりにくろいいれずみしているのがいるよ」「なに言ってるのよ、今どきの女の人なんて、ほとんど剃っているんよ、やっとこの間げじげじ眉が流行っていたのにね、また、長い時のため剃っているんよね」

今日は、長月の望月(満月)。生憎の空模様で眺めがきかないが、すこしばかりの月食もあったそうで残念の限り。これからの空は霞みも収まりきれいな夜空となって、月のあばたも次第にはっきりしてくる。

月に心あるならば、厚化粧をしてかつらをかぶって、「こんばんは いいお日和で」と挨拶するのかな。

連日の雨降りの中。外の出て長歩きも出来ない小人は、閑居して一人妄想にふけっている。

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2005年10月16日 (日)

不敢毀傷(あえてしょうせず)

身体髪膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也 (孝経)

しんたいはっぷ これふぼよりうく あえてしょうせざるは こうのはじめなり

高校の同級生が何かで怪我をしたさい、教師が説教を始める前に黒板に殴り書きで書いた文字だった。この言葉が守れず、自分もその後何度か親不幸をしたことがあるので大きなことは言えない。

いま、若者の間で入れ墨が流行っていると言う。映画に出てくる外人がしている。他の人がしていないものをして目立ちたい。”タト-”なる横文字につられてなどと軽い気持ちで身体に一生消えない模様を入れてしまう。

本によると、医者仲間では入れ墨を入れている人に、かなりの割合で肝炎など感染症にかかっていることが常識だそうだ。理由として針の使い回しなど不衛生な上、医師免許は言うに及ばず何の資格もない人が見よう見まねでやっているが原因だと言う。

以前に、若い頃、イナセで鳴らしたと言うおじいさんを風呂で見たが、痩せてしわしわになった浅黒い身体になんだか分からない模様が入っているのを見て、なんとみっともない、情けないと思ったことを憶えている。

入れ墨は、古代から入れていたものと見え、先日 県立美術館で見た「アルタイの至宝展」では、2,500年前のミイラに鮮やかに入っていたし、1,800年ほど前の魏志倭人伝では日本人はかなりの人が何らかの文身を入れていたように書かれている。

時代は下って、江戸時代になると博徒の間に入れることが始まったが、刑罰のひとつとして手首に入れ墨を入れ、前科者として一生消えない印をつけた、今でも風呂や温泉などで「○ ○ と入れ墨の人 入浴禁止」などと差別されている。

アルタイのミイラほどになると貴重品として丁重に扱われるが、現状の日本ではなかなか、日影から出てこられないし、ミイラにはしてもらえない。

「あのぅ、美容整形も「不敢毀傷」になるんでしようか?だれでも見栄えがよくなりたいと思うんですが、、、、、

「勝手にしろ、わしゃ 知らん。でもな、生まれた子供がどっちにも似てなくて、旦那が悩んでしまった家庭を、わし 知っとるんじゃがな」

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2005年10月15日 (土)

りんね てんしょう

輪廻転生

生き物の中で、自分が死ぬと言うことを知っているのは人間だけだと言う。しかし、その人間も死んだ後のことになると一切が分からない。

そこで考え出したのが、肉体は死んだ後なくなっても霊魂は滅びず、再びこの世に生まれ変わって生をうけるというのだ。この考えは宗教民族を問わず多くの人に信じられている、考えのひとつである。

自分が死んだ後、「何にもありませんでは、やってらられないよ」というのと、「今良いことをしておくと、生まれ変わったとき、幸せな暮らしが出来ますよ」と言って自分勝手な行動を取らないように戒める、材料に使っている節がある。

話は変わる、NHKの「お江戸でござる」と言う番組があって(今もあるのかどうか知らないが)石川英輔?という小説家がよく江戸時代を礼賛していたが、そのなかで自分もそうだと思っているのは、江戸時代の町や街道は当時世界で一番綺麗で衛生的だったということである。

自分たちの、子供の頃でもその名残りがあり、街中にゴミが落ちていなかったような気がする。紙くず、タバコの吸殻はもちろん針金や釘などの金属製のゴミもなかった。そして、発酵した糞尿は肥料にするため大八車や天秤棒、背中に背負って田や畑に運んだ。

鼻紙は、ボロ布を使い洗濯し繰り返し使っていたようだし、もく拾いとかいうのもあって背中に竹篭を背負っていた人をみたおぼえがある。また、金属製品を買ってくれるところが近くにあって、小ずかい稼ぎに丁度よかった。

この風潮が崩れたのは、”大量生産大量消費”や、下水道整備を言い出した昭和50年代に入ってからか、とたんにゴミがどっと増えだした。

今朝のテレビでも、瀬戸内海豊島のごみ問題を映していたが、業者の違法投棄を行政が止められなかったばかりに、何十億円もの税金を使って処理しなくてはならないようになった経緯を放送していた。

このゴミも、上手にやればかなりの部分再生できる。たとえば、食べ残した有機物、下水道に流れていく糞尿などは、肥料として使う工夫は出来ないか。貴重な石油燃料をつかって、灰や泥にせず地球に堆肥として還元することも「輪廻転生」なのだが、そんな技術が難しいものだろうかと、じいさんは思うのだが。  さて

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2005年10月14日 (金)

知らぬ顔 半兵衛

今日も天気予報に反して青空が広がっている。しかし、昨日の歩きすぎで足腰が鉛とは言わないが重いので、散歩はいつもの半分で切り上げてきた。

さて、昭和30年代、初任給が何千円で労働者の平均賃金が2万円にならない頃ころのこと。

なんとか四百万円を貯めたかった。当時は預金の利率は銀行で6%、社内預金は10%の時代だった。ということは、銀行預金の利子が毎月2万円あることだし、社内預金だったら3万3千円も貰えるので遊んで暮らせると言うか、給料を全て預金に回して雪だるま状態になってしまうんだと、「取らぬタヌキの皮算用」をして、喜んでいたものである。

結局この皮算用は現実的でなく挫折で終わった。しかし、現在利子だけで生活しようとすると一体いくらぐらいのお金が必要なんだろう。天文学的数字になりそうだもんな。

先日、岩国哲人衆議院議員のホームページによると、この10年、銀行がほとんどゼロ金利になって、支払いしなくて良かった金利は驚くことに154兆円だと日銀総裁が答えたと書いてあった。

銀行がつぶれると大変だと言って、ただ同然のお金を企業に貸し出し、何千億もの注入を行なって、その上にである。いま、経済界は大企業を中心に景気が回復し、大もうけをしているとのこと、I T長者とかもいて、気の遠くなるようなお金が平然と動く。

そろそろ、金利を上げて、銀行が我々にお礼の還元する時期に来ているのではないだろうか、わずかばかりの年金にたよっている人に回してくれてもいいのではないか

「せめて、手数料の廃止ぐらいはと」みみっちく哀願してみるしかないのか。何しろこの国の政治家は、杉村太蔵君がいみじくも言ったとおりの人々ばかりだから、国民のことは、知らぬ顔半兵衛なのだ。

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2005年10月13日 (木)

かみしもで二十枚

P1010017 南アルプスに千枚岳いう山がある。標高は2,880m それに遠慮したのか、安倍川の左岸に十枚山が上と下に別れてフタコブラクダのように並んでいる。此方の標高は1,719m と 1,732mだと山頂の標識に書いてある。

直線距離でこの山は約1.5Kmほどしか離れていない。

朝の空は雲一つ見えない青空。これは行くっきゃないとばかりに考えたのは、8時になってから、支度もそこそこの家を飛び出したのが30分経ってから、行く先は、先週予定変更で止めた十枚山。ラジオから”走れ走れ おれたち、、、”とランナーが聞こえてきた偶然ながら幸先良しと車は北へ。

登山口の「中の段」の集落に着いたのがもうすぐ10時になるころ、もう少し早く入りたかったが仕方なし、集落の下の方にに車を止めて登り出す。

登山道は30分ほど登った所で一般道と直登ルートに別れる、直登ルートには健脚者向けとあるが、「なに ゆっくり行けばなんてことなかろう、今日はいつもより遅いのだから、、」と理由付けして登りだした。

静岡の山の傾向として、杉山の間を登る、そして直登ルートと言う割にはジグザグとしていて上りやすく、一歩ごとに確実に高度を稼いでいく。前回は一般道を登っていったが、直登より歩きにくいうえ、上に行くにしたがって霧が濃くなり峠で雨になったため引き換えした経験がある。

きつくなったのは、植林地帯を抜ける頃からで、頭は「また曇ってくる前に上がりたい」と言うのに身体は腰を下ろして休む味を覚えたたら、何のかんのと言って休みたがる。後ろには木の葉の間から先日登った大谷嶺やヤンブシがチラホラと見える。

12時近くやっと上十枚山の頂上に到着、先客3人あり。景色は竜爪から真富士山にかけて雲がかかっているだけで、富士山や大谷嶺の後ろに南アルプス塩見岳の近辺が見える。後は立ち木の陰。

昼食休憩のあと、峠に下り再び下十枚山に向かって登る、1時半頃山頂に到着、山頂下の笹原から見た南アルプスは、雪がかかれば絶景となるのにおしいことをした。そして、前に来た時は富士山えの見通しがなかったのに何時の頃か切り明けたと見え立ち木の間に秀麗な姿を見せていた。

峠経由で駐車場に着いたのは4時少し前、自分にとっては遅い帰宅になった。

今日は上下(かみしも)あわせて二十枚。千円札にしても二万円か、江戸時代、按摩さんは、かみしもで60文というから高すぎるかな、どうなんだろう。

(上の十枚からの降りに3箇所熊の爪らしい傷跡を持つ木がある、そして、下の十枚には偶蹄目の獣のぬた場が2箇所あり、足の大きさからして鹿でなく猪のように見えた。昨年の同じ頃、尾根続きの仙谷山で鹿を見たのでこのあたりは獣の多いところと見える。)

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2005年10月12日 (水)

こけ取り場

P1010009 久し振りに晴れた。湿気もなくからっと、そして適当な風が吹き渡る。

昨日まで秋雨に降り込められ、折りたたみ傘持参の散歩だったが、今日は青空の下、少し遠出を楽しんだ。

すすき、葦に、このごろ日本の秋にすっかり馴染んでしまった感のある背高泡立ち草の茂る草っぱらをあちこちと歩き回る。

やっと、この間まで騒々しく騒いでいたヨシキリは声を潜め、かわって百舌が我がもの顔でキチキチキチッと縄張り争いに一生懸命。

”天高く 馬肥ゆるの季節”麻機山のアケビは少し遅いようで、口をあけるどころか色づいてさえいない、この様子を見ながら毎年キノコ(飛騨ではこけと言う)とサルナシ マタタビの収穫に行くのだが、もう少し先になるようだ。

そういえば、富士山の初冠雪も昨年より10日遅かったとのことだから、ほかの木の実も遅くなるのだろうか。昨年はあちこちで熊騒動があったけど、今年の山の生り物はどうだろう。

竜爪のサルナシは台風でやられていた。キノコも後10日ぐらいすればクリ茸 シメジ ネズミ茸になるはずだが、、、、、、、そうそう、飛騨では「コケ取り場は子供にも教えるな」と言われているから、どの山とは言えないよ。

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2005年10月11日 (火)

鯨とは言わないけれど

P1010020 アンデス山中で仕事をしていた自分たちにも、休暇がたまにある。(写真は海岸線に沿って走るパンアメリカンハイウエイ)

4~50日三交替でぶっ続けに働き、つぎの場所への移動には、交替に誰かが責任を持って10余人の現地採用のペルー人を指揮して行なう。

その間、10日間ほどが羽を伸ばす時間である。

ペルーと言う国は、日本から見てほとんど地球の裏側に当たる国で、赤道と言う名を持つ国 エクアドールの南に位置しているから熱帯地方に当たる。しかし、この国で海水浴が出来る期間はごくわずかである。

理由は、南極から流れてくるペルー海流のせいである。この海流の行き着く先にあるガラパゴス諸島には南極から流れてきて進化したペンギンがいることは有名であるが、そのくらい冷たい海なのである。と同時にこの付近は世界三大漁場としても有名な場所でもある。

となると、当然魚釣りでしょう。ある日綺麗なパテオ(中庭)をもつペンションに、前夜約束したセニョリーターが迎えに来てリマの南60キロほどの所にあるフクサナの港に行くことになった。

ここで、土佐の漁師みたいに鯨と言わないまでも鮪ぐらい釣りたいと、漁船をチャーターするのだが、さすがに女の人は交渉が上手い、先輩に聞いていた1/3ほどの値段で海に出ることができた。

しかし、名にし負うペルー海流、20分も沖に出ると小さな船を揺さぶりたくる。結局は小半日がやっと、小さなものを3匹で引き上げざるを得なかった。

港に帰ると、岸壁に一羽のペンギンが放ってあった。どこから取ってきたものか、網にかかっていたのかは分からないが、餌をねだりに陸上に上がってきたペリカンとともにさすがに所変われば品変わるを実感させられた。

セニョリーターは、漁師から小さめの巻貝を貰いそのまま口をつけて、吸い出して食べている。魚介類の生食は日本人だけの風習ではないことに少し安心したが、日本でも牡蠣ぐらいしかやらないと思っていただけにこれもびっくり。

夕方になって、砂漠状の海岸線をリマに向かっていくタクシーの中では、くたびれ果てたハポネス(日本人)が一人眠りこけていた。

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2005年10月10日 (月)

キューポラのある町

P1010012 作家 早船ちよさんが亡くなられたと新聞に小さく報じられていた。

いまは、飛騨市となったふるさと出身で昭和の作家は、江間修 江夏美好と早船ちよがいるが、いずれも故人になられた。先の二人は「山の民」「下下の女」に代表されるように地元の資料を丹念に集めて作った小説なので割合外部の人には知られていないが、早船ちよは、昭和37年に吉永小百合 浜田光男主演による映画「キューポラのある町」の作者として世に知られている。

小さな工場に勤める父親が失業したため、高校進学を働きながら通える夜間高校にし、家計を助けようとする少女と小さな町工場に勤める青年工員が、生きるための二人の純真な交流を中心に、ぐれかける弟や組合運動を手伝う青年をアカよばわりする父親など、当時の世相とマッチしてヒットした作品だった。

キューポラとは、鉄板で出来た鋳物工場の独特の煙突で、埼玉県川口市では、この頃鋳物産業が盛んで小さな町工場のあちこちで黒い煙をモクモクとあげ、町全体がすすで薄黒くくもっていたといいう。

いまなら、環境汚染で大騒動になるところだが、その頃はそんな風景が町の繁栄の象徴であり、一種の自慢でもあった。

全国の鉱山のほとんどが肥料(硫安)の元になる硫酸を作るため、国から社宅の援助をもらい、硫化鉱社宅を作った時代。精錬所の周りは排出する酸性の煙で立ち木が全て枯れ、表土が流され岩山だらけになっていたり、四日市ぜんそく、川崎病、水俣病など土地の名前を冠した病気まであるなかで人々は生活した。

そんな時代でありながら、映画の中とは言え未来に希望があったのはなぜだろう。ほとんどの人が自分自身の貧しさを自覚していたせいのような気がする。そういえば、オリンピックがあったのは、昭和39年だったよな、そのせいもあるのかな。

一億総中流化と言われるようになってから、貧しさを脱却したと思い”生きる”と言うことを考えなくなって来たように思うのは自分だけだろうか。貧富の差が拡大していることに気がつかないのか、怖くて目を向けないようにしているのか、聞いてみたい。

誰に?   ううんと分からんけどさ、   「あしたのジョー」の歌のように、”あしたはどっちた~”って目的感がない時代なんだもの。

 

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2005年10月 9日 (日)

近隣の承諾

’94年1月17日、ロスアンジェルスで地震がおき、大きな被害が出た。とくに、テレビで放映された自動車道がずたずたに壊された画面を見て土木学者だったと思われる人が「日本では考えられない災害です」と言っていたのを見てそうなのかなとおもっていたら、丁度一年後の同じ日に阪神淡路地震が起き、同じように自動車道の橋脚がばたばたと倒れていた。

そして、昨日パキスタンカシミール地方で、また、大きな地震がありかなりの災害になっているようだ。これは、インドネシア地震同様、人間同士の紛争地域である。神様も嫌気がさしてのことか。とすると、こじ付けで有名な地震雲研究者ではないが次はイラクやイスラエル近辺に起きそうである。(くわばらくわばら これは雷除けか まあ このさいなんでもよかろう)

中部電力が、浜岡原子力発電所でプルサーマル計画を実施しようとして、近隣の市民の承諾を取りに歩いている。他の電力会社も同様の計画に取り組んでいる。

それでなくても、浜岡の場合、東海地震の震源の真上になる可能性が大きい場所であり、極端な上下動で配管切断が起き、致命的な被害がおきかねないので、今の状態だけでもかなりの危険が予想されている。

原子力発電所の被害は、発電所を中心に同心円状に広がるものではないことは、旧ソ連のチェルノブイリ発電所の例を見れば分かる。

風下に向かって”死の灰”は拡散していくのである。つまり、冬になると西風が強くなり焼津 静岡 富士市と海岸沿いの都市が軒並みやられていくことになるのは目に見えている。

そうなったら大変、地震被害プラス放射能被害が重なって目も当てられない惨状を呈することになる、しかし、当の中部電力はひょっとすると天災免責を得て、のうのうとする可能性があるという。

こんな重大事が最悪の場合予想されるのに、近隣住民でないと承諾の対象にならないのはおかしいと思わないかい。こんなことを言うのも東京電力や関西電力などが、情報隠しでプルサーマル計画どころでない電力業界の閉鎖性があるせいだが、ほかの電力会社が先の2社より情報公開をしていると思われないだけに不安がつのる。

中電さん、せめて地震の危険性が少ない所でやるか、東海地震が済んでからやってちょーよ。

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2005年10月 8日 (土)

季節の小箱

今日は、暦の上では”寒露”だという。ほぼ、一ヶ月前に白露があって露も冷たく感じる季節になったことを表し、田んぼの稲刈りをうながしている。

散歩道に面した田もかなり稲刈りが済んでいるが、最近はコンバインとかでいきなり籾にしてしまうので、はさがけの情緒がまたひとつ消えて行きつつある。

P1010004 自分のブログにしばしばコメントを頂く "季節の小箱”増田浩二さんのお誘いを受けて、清水のエスパレスドリームプラザへ行ってきた。

日ごろ、作詞 作曲 歌うを本職の傍らやっている人いわゆるシンガーソングライターですか。(カッコイイ/)

知り合ったきっかけは共通のメール友達(日系ペルー人)が音信不通になったことから始まったもので、本日が、初対面と言って良い人である。

午後2時の開演とのこと、少し前に行ってあいさつをし、演奏を聴いたが初めて聞く歌にしてはなじみやすい曲であった。自分はいわゆる懐メロ派なので、行く前は最近地下道や公園で若い人が座り込んで歌っているような歌なら途中退席も考えていたが、最後まで安心して聞けた、やはり、年相応な声のせいだろうか。

とにかく、この年になると我慢と言うものが出来にくくなってきた。料理が自分の口に合わなければ店内で平気で文句を言うとか、耳が遠いせいにして大きな声で聞くものだから、周りの関係者に後で非難される。とにかく、自分で言うのもなんなのであるが、頑固にわがままを掛け合わせているのが現状である、それが、黙って最後まで聞いていたのだから、そのことだけでも上手な証拠なんだと思う。

季節はめまぐるしく来ては去る、芭蕉翁も「月日は百代の過客にして、、」と奥の細道の出だしに書いていたが、それを小箱に収めた歌うたいに幸あれかし、とエールを送る。

ちなみに”季節の小箱”は http://www2.tokai.or.jp/kisetu/  です

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2005年10月 7日 (金)

地上波デジタル

電気屋へ行くと、2,011年には今のテレビでは放送が受信できなくなるので、テレビを地上波デジタルが受信できるものに買い換えるか、コンバーターを買って付けるしかないと、店員が勧める。

地上波デジタルは、画面が綺麗だし、双方向の通信が出来るなどいいこと尽くめの宣伝をし、こちらを見て比べてくださいと言う。

はい、確かに綺麗で、はっきり写っています。写りすぎて可愛そうにしわやにきびが見え、かつらの線がくっきり見えますね。ここまではっきりする必要がありますか。リモコンのボタンも沢山ありますね、でも、どれがなんだかよく分かりませんよ。

お客様、すぐに慣れますよ。なれると便利なものです。ほれ、ここをこう押しますとですね、、、あれ出ませんね。私の不勉強でした、何しろ今の最新型ですから。チョッと待ってください、エーと、ここをですね、、、、

我輩、自慢ではないが、今年になって携帯電話をやめた。手持ちの小型携帯になってからずーッと機種交換をして継続使用をいたのだが、最近のものはいろいろと余計な機能が付きすぎている。そして、リタイアしてみるとほとんど遣う用事もない

周りのものは、突然の連絡があるからと、持つことを勧めるが 1通話何百円にもなるし、前はなくてもなんの不充もなかったじゃないかといっている。

デジタルテレビも、我輩には用事のない機能がたんと付いている、こんなにはっきり見えなくても良い、余計な装置は要らない。そんなことするくらいならテレビを安くして欲しいのだが、どのカタログを見ても機能の多さで競争している

で、結局のところ、テレビは写る間使い、2.011年までお預けにすることにした。

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2005年10月 6日 (木)

効かない薬

広い意味で効かない(民間)薬というか治療法の代表といえば、がんの薬 やせる薬とはげに効く薬がある。

新聞の折り込み広告やポストに放り込んでいく広告雑誌などで、いろいろな薬や対症療法が宣伝されている。最近では薬事法がどうだとかで間接的な表現でいうだけに、何の薬か分からないものも多い。

当事者にとって見ればいずれも深刻な問題であるらしく、一度や二度効かない薬を使って失敗しても「今度のは効くかも知れない」と、つぎつぎと新しい宣伝に乗せられて、同じような新薬?に高いお金をつかって購入してみる。

はげるは直接命にかかわることではないが、がんとやせるでは副作用や命をなくした人さえあるのだから、笑い事では済まされないものがある。

自分は前にも書いたが、御先祖様から遺伝子のいい所取りをしたみたいで、いままでのところ怪我以外に医者にほとんど掛かったことがない。しかし、江戸時代に飢饉をくぐり抜けてきた遺伝子が災いして、20代の頃と比較すると背が2センチ程も低くなったのに体重は15キロ増え、胴回りは12センチも大きくなった。

山登りをするときいつも「若い頃より体力が落ちているのに、15キロも余計に荷物を背負っているのと同じなんだから嫌になってしまうよ」と言いながら足を踏み出す。

毎日4~10キロほどの散歩をしていても、体重は減らない。「薬で減るならそんな良いことはないよ」「肥満は万病の元、糖尿病や動脈硬化になったらどうするの」と悪魔が耳元でささやくが、自分はかしこいので「その手は桑名の焼きハマグリ」でいる。

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2005年10月 5日 (水)

マリナ ブラデイ

P1010001 あさからシトシトとこぬか雨が降っている。

秋雨前線が、本州の南岸に沿って延びているせいだというが、音もなく降り続くというのはどこか演歌の世界をおもわせる。

重苦しいような空気の間を縫って、時おり庭に咲き出した金木犀の強い香りがフワッと漂ってくる。この花満開より咲き掛けのほうが強く香る、そして、この花の香りで思い出されることがある。

いまでは、知る人もいないだろうが「マリナブラデイ」と言う、アメリカ映画の女優がいた。自分が始めてみたヌード画面のある映画だった。

近頃では、この程度のヌードは内外問わず、茶の間のテレビ画面でざらに見られるシーンだが、当時はこのことだけで評判になり、見る前から期待と軽い興奮をしていたのを憶えている。

周りには、やはり若い男ばかり、その中でも自分が最年少なのではないかとか、知った人に会わないかとか、自分は異常にスケベ心が強いのではないかなどいろいろなことを考えながら、早く映画館が照明を落として暗くしてくれないかと願望しつつ、固い木製の椅子に身を沈めていた。

映画の筋書きはどうだったのか憶えていない。ヌードシーンも一瞬だったようにおもう。ただ、彼女が当時15歳だったというが、少し小太り(このころから細い女がもてはやされ、少し後になるが枯れ木のツイーギーが来日した)の少女だった、しかし、とても年下とは思えないほど成熟していたことが印象として残っている。

映画を見終わり外に出ると、夕焼けの始まった空と共に入るとき感じなかった金木犀の強い香りに、、、、、

むせるような青春を思い出させるものがある。

      空蝉に 香り映すか 金木犀   山人

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2005年10月 4日 (火)

気恥ずかしいひととき

P1010075 ”女心と秋の風”なのか”男心と秋の風”どちらが本当なのかは知らないが、要はどちらもなんでしょうな。

昨夜来しょぼしょぼと降っては止み降っては止みを繰り返していた雨のすき間を狙って定刻少し前だったが、折りたたみの傘をもって散歩に出かけた。

いま、近所の安東川の河川拡幅工事をやっているので、その視察を兼ねてといえば格好いいが、つまるところただの野次馬。そのあと、久し振りに麻機沼に進路を転換した。

約1週間ぶりになるか、沼はかなり変貌していた。最近になく水鳥が多いのだ、夏の間はダイサギやチュウサギ アオサギを始めカルガモなど10~20羽もいればよいほうだったが今日は、サギだけでもざっと50羽くらい、鴨も遠目で種類が定かでないが、かなりの数かたまっていた。(日本野鳥の会に所属していれば数えられたのだが、、)

なかでも、ダイサギが点々とあちこちに散らばって太陽(実際は曇ったり降ったりで太陽は出ていない)がある方向を背にして水面を覗き込んで餌の小魚を狙っている。

こちらも、閑人。土手にレジ袋を敷いて座り込み、傘をさして、この狩をながめる。知らぬ人が見れば、徘徊ボケ老人にさも似たりで、通報されても仕方のない状況である。

狩が成功した時点で腰を上げたが、むかし「池で釣る人馬鹿な人、それを見る人もっと馬鹿」という文句をきいたおぼえがある。「やあ 自然っていいですね」と言うには気恥ずかしいひとときであった。

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2005年10月 3日 (月)

貧しいものの目線から

インドネシア バリ島でまた爆発事件があり、観光客を含む多数の犠牲者がでた。

政府は早々に犯人をイスラム過激派と断定し、その対策に乗り出したようだし、その可能性があると想像する。しかし、インドネシアは、近隣の国々同様、貧富の格差が大きい上、最近は石油燃料の大幅値上げで貧困層に深刻な打撃があり、大規模デモなどで政情不安があると聞く。

一部の大金持ちと大多数の貧困層は発展途上国どこでもある話だ。どんなに頑張っても裕福になれない階層は、自堕落で富める階層に怨みを抱く、そんなところで派手な振る舞いはさらに怨みを増加させ、実行犯を人民の海に隠してしまう。

マスコミは、ODAなどで貧困層に支援をと言うが、その支援も途中で掠め取られて届かない。

また、今朝ほどの新聞によると、浜松市の行政審議会は国保の収納率向上のため「口座振替などを利用して収納の拡大を」と、提言したと言う。これには、低所得者や無職者の増加が背景にあるという説明を受けながらである。

細かい議論の内容は知らない、しかし、裕福な委員には一部特殊な人を除いて国保も納められない人の口座にどれだけのお金があると思っているのだろうか。

日本も、次第に貧富の格差が広がっていく様相を示している。富める者の理論でことを計れば、それを暴力的に壊そうとするものを国民の中に抱えてしまうことは、外国の例を待たずとも、明治維新など歴史が証明してくれている。

がんばった人には、頑張っただけの報酬をと所得税の最高税率引き下げをやったのは、つい先年のこと、そして今年は定率減税の廃止と取りやすいところを標的にする。税制で優遇された大企業は合併でさらに大きくなり、競争相手が少なくなる分利益はさらに上がる。

富める人をさらに富ませ、貧しいものはさらに貧しくと二極分化はこれから進み、いずれこの国にも何かが起きそうな予感がする。

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2005年10月 2日 (日)

四捨五入して 二千丁度

P1010155 朝 ピーカンの天気に誘われて、安倍川を遡る。行き当たりばったりなので十枚山にしようかとも思ったが、大谷崩れを登ったことがないので景色はコッチに置いといて大谷嶺にした。ここが、単独行のいいところ。

8時過ぎに、工事現場事務所のすぐ下にある駐車場に車を止める、気温は17度。少し厚着で登る支度をしたが、これが裏目だった。

案内板に、大谷崩れは300年前の地震で崩れ、今では日本三大崩れのひとつだとある、その中に富士の大沢崩れは入っていないようだ。

駐車場から、目通り30センチ位のハンノキなどが多い木立を登りはじめる、30分くらいの所から細かい岩片の多いがれ場になる。傾斜もこの辺からきつく、アキレス腱を伸ばしっぱなしの状態、ところどころで足を滑らせる所は富士山に似ている。

道端には、リンドウやアザミ イワジャシンなど秋の花が目立ってくるも、足元がおぼつかなくなってくる。歩き出して100分、ようやく新窪乗越に到着する。

ここまでくれば、あと少しと気を緩めたのが悪かった。「三池炭坑節」ではないがそれから、一山 二山 三山目が頂上なんて知らないものだから、登ると前にまた山 さらに高いまた山とつづき参ってしまった。

乗越からは、山梨側の斜面を登るが日陰の上、意外と強風が吹きつけ、汗で濡れた衣服を冷たくする。

ようやく、山頂に着いたのが10時40分 2時間半以上の苦闘だった。頂上は枯れたモミの木が一本と大谷嶺の看板に、山梨県の「行田山」という字を削られた木製の大きな木株が立てられている。(心無い静岡人のしたことのようにみえるが、立てる前にもう少し話が出なかったのだろうか)「おいおい、この山は二つ名の山かい?」標高も四捨五入して、二千メートル丁度になっている。国土地理院では30センチばかしすくないようだが、、、。

山頂からの展望は予想していた通りよくない、南側の斜面を覗くと自分が登ってきた礫ばかりの斜面と安倍川の流れは見えないものの十二一重の胸元みたいに山すそが交互に折り重なって見える。それを眺めながら早弁をする。

小一時間、山頂で過ごした後下山したが、この山 おとこやまなのかすれ違った8人全てが男であり一組以外単独行ばかりだった。

降りは靴の先端につま先が当たるのと膝に負担がかかるのを気にしながらゆっくりと歩き、駐車場に午後二時少し前に到着、すぐに「黄金の湯」2時間券を買い、汗を流して帰宅する。

今日の山行きは、降りのがれ場でかなりダメージを受けた、とりあえずはチビタイビールでごまかしにかかっている。

 

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2005年10月 1日 (土)

アメリカのこだわり

東京都知事がフランスの計算方法に言及した時、かなり激しい抗議を受けたと言う。文化の違いは他から指摘を受けても、なかなかはいそうですかとは言いにくいものである。

むかし、物の大きさ,長さ,重さなどの度量衡は、そのときの王様の身体の寸法など人の身体のサイズを元に決めていたため、随分といい加減なことがあったようだ。

足の大きさや、歩幅の長さ、腕の長さなどが基準になり、さらに、十進法や12進法それ以外などが複雑にからんでいた。今も身近で聞く寸法に尺貫法、ヤードポンド法がある。

メートル法が決められたのは、フランス革命の後地球の経線から1mを決め、水の質量からKgを決めたことが始めと言われ、1875年にメートル条約で世界に基準になった。

日本でもいろいろと抵抗があったものの1959年になって、ようやく完全実施になった。しかし、ここでひとつ、アメリカだけがヤードポンド法にこだわり続けている。ヤードポンド法の本家イギリスでさえ、メートル法移行に努力しているのに、、、、。

考えてみれば、1ヤードは3フイート、1マイル(千歩)は1760ヤード、1ヤードは36インチ、そして、1インチは8で割る。1ポンドは36オンス。そのほか、ガロンだのバーレルだのと換算、計算しにくいことこのうえもない。

アメリカがどこにあるか分からないような小国ならいざ知らず、人工衛星やミサイルなどを保有し世界に君臨する中において、自国だけが不可解な数字に固執することの不思議さ、たぶん気付こうとしていないようだ。その頑なさは他のことにも連動しアメリカエゴで嫌われる原因になっている。

先日も宇宙ステーションをつなぎ合わせるのに、換算表でごく細かい計算をしたが完全一致はできなかったと書いてあった。

「頑固さも、時には必要かもしれないが物事はほどほどが必用だね。」とのたまえば、「そんぐリその言葉はあんたにお返しします」だって。

口の減らないお人だね~

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