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2005年11月30日 (水)

頭を雲のうえに出し

P1010022 頭を雲の上に出し 

四方の山を見下ろして

雷様を下に聞く 富士は日本一の山

今日は富士山と箱根に挟まれた愛鷹山系の最高峰越前岳に登ってみた。今日の富士山は、日の出と共に5合目あたりから上に雲がかかり、こちらからは時おり天辺が顔を出す程度、天気予報では降水量0%だったので雲はかからないと思っていたし、朝早くには真っ黒なシルエットに雲の気配はなかった。

東名の集中工事をあちこちに見ながら須山の駐車場に到着したのは、あさの7時過ぎ広い駐車場には誰も来ていなかった。

支度して山神社の脇から稜線の鞍部に向かって登る、予定では40分ほどの行程であったが意外と簡単に早く到着したので、予定外の黒岳によって見ることにした。

黒岳は1086m。広い山頂の間近に樹齢300年とも言われる杉の老木が何本かたっている、300年前と言えば目の前の富士山の宝永火口が噴火し麓の須山付近には2mほどの火山灰を積もらせ遠く江戸まで灰を飛び散らせた時代になる。

芽生えたばかりのこの杉はその光景を見たのだろうか、それとも火山灰で焼けた山頂に種が飛んできたのだろうかと想像しながら木肌に触ってみた。

P1010012 再び鞍部に引き返し越前岳を目指す、道は何年間人が歩いたのかかなりえぐれて溝状になっているところが多い。30分ぐらいだらだら登りに尾根を上がると鋸岳展望台に至る、ここからの鋸岳は立派、これで雪が積もればまさに「シエラ ネバタ」(スペイン語で雪の積もった鋸の歯)

また30分ほど頑張って富士見平。ここからの風景はむかしの紙幣に使われたと案内板にある。確かに端正な富士であるが、中ほどから上を雲が取り巻いている、切れるのを待って大休憩に入る。

ようやく写真をものにしてから1507mの山頂へ、山頂は高い木もなく結構広い土が剥きだしの広場になっている。景色は富士山は勿論富士、富士宮市外、伊豆半島、波ひとつない駿河湾を俯瞰図のように一望できるが、富士市は製紙会社の煙突からの煙で霞んでいた。

早飯の後汗で身体が冷えてきたので割石峠に向かって降る、急な坂の後痩せ尾根を歩くこと30分で1303mの呼子岳を通って割石峠に着くここからの駿河湾と伊豆半島はは狭い崖の間から眺める格好になり絶景。

ここから降ること2時間近く、谷のガラガラした礫の間を下るためかなり難儀した。谷を上り下りする山道は少ない、礫や倒木から言って雨のときこの道はかなり危険と思われる。

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2005年11月29日 (火)

みんなと一緒

"赤信号みんなで渡れば恐くない”と言うギャグが流行ったことがある。生真面目に言えば、信号を無視して交差点に入ることは、少なくとも法律違反である。

今日午後の国会中継を見ていてそんな言葉を思い出した。デベロッパ、建設会社、審査する会社、それに設計士とそれぞれが違反をしてマンションやホテルを建設し販売し、たがいに罪をなすりつけ合っている。

そして、つくづく思うのはこの国では沢山の者が違反すれば、なんとなく認めてしまう所があるのではないか思わせるところがある、「あまり悪者探しをすると業界がつぶれて景気が悪くなる」は、その際たるものであろう。

マンションの被害住民に同情して公的支援をという政治家もいる、確かに住人は気の毒である。しかし、もしこれがもらい火で全焼した家に公的資金という政治家がいるだろうか、欠陥住宅で住めない家を買わされた人に、水害で被害を受けた人には今までどうだったろうか、法律というものは公平がたいせつである。 

人数に関係なく被害者は個人個人である。沢山いれば援助し、小さければ”知らぬ顔半兵衛”では、”それぁ 聞こえませぬわいな~”と恨み節も行ってみたくなる。

なにかで、死ななければならないときは、なるべく人数の多いほうに寄り添って行こう、多分そのほうが貰い分が多いはずだから。

「あまえさんも馬鹿だね、死んでから物を貰ってもしょうがないだろうに!」

「はいそうでした。そこに気がつかなかったよ」

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2005年11月28日 (月)

土俵上でふらふらと

大相撲も朝青龍が数々の記録を更新して今年の大相撲は幕を閉じた。

前は、よくテレビで観戦したが最近はめったに見ていない。先日もチャンネルを回す間に2~3 取り組みを見たが、5時過ぎにもかかわらず画面の上のほうに空席が目立っていた。以前は「満員御礼」の垂れ幕がずーっと下がりっぱなしだったので、何時でも下げているのかと思ったらそうでもなかったようで、この日は見なかった。

自分たちの親世代は、テレビの前で力を込めて、力士と一緒になって気張っていた昭和30年代。ところどころにあるテレビを持っている家に押しかけて、力道山の空手チョップに拍手し、白黒テレビの流血を見て倒れた人がいたり、映画に行けばスクリーンの主役と一体化し、悪人が後ろに回ろうものなら一生懸命声をかけていた。

そんな時代の相撲はまさに国技であった。自分たちも学校でグラウンドに円を書いて取っ組んだものだったが、いまでは、たまに見かける土俵に人がいたことがないし、子どもが取っ組んだり喧嘩している様を見たことがない。

底辺が小さければ、競技も廃れていくのは目に見えている。日本人には外人力士に見られるようなハングリー精神もないし怪我を心配して親が取っ組み合いをさせない。そのため活躍する力士はどうしても外人になってしまう。

外人力士の活躍に恐れをなし、入門制限を始めたがサッカーを始めスケートなど世界に通用する力のない内だけにこもったスポーツにこれから先は望めない。

朝青龍が、横綱になった当時態度が悪いとか、品格に欠けるとか批判した審議会のおじいさん連中も、一人横綱の人気におんぶに抱っこでは、何にも言えないどころか、今日は賞賛していた。

相撲を見ていて感じるのは、朝青龍が強すぎるのか?。彼には相撲で言う心技体が確かに揃っているが、角番ばかりを繰り返す大関陣にも問題がある。もし、朝青龍がいなかったとしたら八百長まがいの無気力相撲が横行し人気はもっと下がっていたことと思う。

力士が感情を表に出して観衆にアッピールすることが何故悪いのか。礼とか道とかばかりを重んじて全てを押し殺された力士がインタビユーの時ハァハァフーフー言うだけの時代は終わった。自分の相撲を解析させたりして、他のスポーツのように自由に発言させたらどうだろう。

ひいきの力士が負けたからと言って何時から始まったのか知らないが、座布団をなげる観客を放っておくほうがよほど品格にかけている。

この一年全ての場所を制覇した横綱に、小泉首相は土俵上で讃えた「よくやった!(褒めてとらす)」とまでは殿様気分でよかったのだろうが、そのあと賞杯が重かったのか力がなかったのかふらふら担いでいたのが妙におかしかった。

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2005年11月27日 (日)

見殺しの城 高天神城

P1010089 穏やかな小春日和の中ではあるが、遠州海岸には寒くはないが結構強い風が吹いていた。先ごろから発掘調査が行われているという高天神城を見てきた。

(この小さな城を前にして、2万にも及ぶ武者が集まって、雄たけびを上げたのだろうか)

静岡県内で実際に凄惨な戦闘が行なわれた城と言うのは数少ないが、その中で他の地域まで知られた城を廻る攻防戦が行はれたのは、三島の山中城と今は掛川の高天神城であろう。

城は、何時ごろ造られたかは分からないそうだが、固い円礫岩が周囲の侵食から取り残されらしく、急峻な崖を持つ山城でいかにも難攻不落を想像させ高天神城を制するものが遠州を制すると言われたそうで、本丸からの眺望を見てもうなずける。いわゆる臍的存在。

高天神城は、大きく分けて徳川方の城を武田勝頼が落としたときと、その城を取り返すため、徳川家康が落としたとき二度にわたって大きな闘いが繰り広げられ、その詳細?は昔から軍記物語で有名である。

詳細について、?マークをつけたのは自分が軍記物語をあまり信用していないためである。

しかし、この城はかなり守るに適した城であることはたしかで、いつも千に満たない城兵をもって、二万人?とかの寄せ手を引き付け長期間持ちこたえている事からも分かる。

そして、落城した二度とも援軍が来ないで見殺しにされ、同じ場所から攻め落とされたという共通点がある。

最初は、強大な武田軍に対して家康が一人で立ち向かう実力がなく織田信長に援軍を求めたが断られたためであり、次は、長篠の戦いで大敗した武田方に援軍を送る余裕のない事情があったためであろう。

それぞれの事情から、部下を見殺しにするという選択は、指導者にとってつらいことだと言うが、本当につらく感じているのだろうか。

たとえば、アメリカの大統領がイラクで国民を二千百人も死なせ、その何十倍ものイラク人が死んでいるが、心からつらく感じているかとなると、やはり?マークをつけざるを得ない。

よく、会社を大きくする人は、借金を平気で出来、平気で踏み倒せるぐらいに面(つら)の皮が厚くないとだめだと言われ、「ニコニコ笑って現金払い」は小心者で、何時までたっても個人事業者にしかなれないと聞いたことがあり、自分の経験からその通りだと思った。

「一将功成って 万骨枯れる」とか、戦のたびにムダに命を失った人々は「命は地球より重い」「世界が平和でありますように」なんて言葉をどう聴けばよいのか。

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2005年11月26日 (土)

蚤の市

P1010083 近所のお宮さんで毎月最後の土日にやっている「蚤の市」に自転車で午後3時間ばかし行ってきた。

「蚤の市」と言ったって本家パリの爪の垢ほどもないが、それでも30軒?ほどがいつも来ている。自分はここの雰囲気が好きで時どき出かけている。

並べてある品物は、骨董品と言うにはもう少し時間が欲しい古道具や茶碗、鉄瓶から端布、おもちゃ、掛け軸が乱雑に散らかっている。

売る方にあまり真剣みがなく、呼び込みはおろか、自分の店をほったらかしにしていくつか離れた店で話し込んでいたり、隅っこの方で居眠りをしたりして、通りすがり(お客?)が品物を手に取ってみても説明するわけでもない。それでいて、話しかけるときちんと応えてくれる。これが、こうい言う商売のやり方なのだろう。

最近流行のフリーマーケットとの違いは、まず若い人がいない。売り手も買い手も服装がなんとなくきちんとしていない。

境内の少々薄暗い雰囲気の中、古い道具や雑誌、レコード、カメラなど見て自分の若い頃を思い出したり、手に持って重さを確かめたりしているうちにたちまち時間が過ぎていく。

こういう商売も、いずれ「フリマ」なんて素人衆に変わっていくのだろうか。縁日の露天商を見ても「風天の寅さん」みたいな口演で商売する人にお目にかかることはなくなった。ガス灯の下で金魚すくいなども映画の中でしかない情景。

少し前までは、「明治は遠くなりにけり」なんて言っていたが大正はという閑もなく昭和になり、それも30年代以降みたいなことを言う。それ以前はいつの間にか吹っ飛ばされてしまったような気がするが、これでは、歴史から学ぶという姿勢は求むべきもないね。

ちなみに、今日の買物は自分の生まれた年月の”世界写真画報”二冊。

中国東北部に満州国を作り、ノモンハンでの大負けを隠した写真とその説明を主体とするの写真集、定価1円20銭也のものを500円で購入した。

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2005年11月25日 (金)

隙間なく植林

P1010017 静岡に来てあと1週間で29年になる。ふるさとの旧財閥系の大企業が希望退職を募ったのと静岡の小さな会社が是非というのにひかれて、移ってきた。

(写真は植えたっきりで何の手入れもされていない昼なお暗い植林地帯。こんな山がかなりある)

こちらに来て、驚いたことは幾つかある。そのひとつは冬の暖かさと山の景色だった。ふるさと飛騨は以前12月に入ると山に雪が積もり、ブナやナラ カエデなどの落葉樹が多いため山の稜線が5分刈りの頭みたいになるのに対して、静岡は1年中同じように濃緑色であった。

近くで見れば、みかん お茶、そして杉檜が隙間なく植えられている。「静岡の人は働き人」だとそのとき思った。しかし、仕事の関係で山に入り地滑りの調査をし、その対策工事はほとんどが植林した山だった。

根が地中深く入らない植林地帯は、木材価格の低迷とかで放置され、下草がないどころか荒れた岩屑だらけ。保水力が衰え大量に降った雨は水を通さない岩盤付近で地すべりを起こすのだ。

12月の県議会で、県は森林税を県民からとり、森林の手入れをしたいという。飲料水の確保、地すべり防止などの意味合いを説明するが、森林業者の保護策だけにならないか心配である。

というのは、昨日登った梅ケ島地区の上に県が「間伐展示林」と看板を上げ、20%間伐と誇らしげにうたっている。確かに他の杉林に比べれば明るい森であるが、切り倒した木はそのままの状態、間伐してから10年もたつのに下草もろくに生えていない。

森林税の使い道。それは、急傾斜地や地すべりを起こす可能性のある土地は、県が買い上げ保水力のありその土地にあった広葉樹などを植え直すような方策を取ってもらいたいものだが、議員の中にどれだけその知識があるやら、、、、

事務局が用意した書面を前に、事務局が用意した意見を述べるだけというのは考えすぎか。

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2005年11月24日 (木)

安倍奥の盟主?

P1010062 山高きがゆえに 尊からず

安倍川の源流をつつみこむように聳えているのが「八紘嶺」である。遠くから見るとどこが頂上やらはっきりしないし、さらに西の大谷嶺 山伏岳に比べると8~100mは低い、名前もいつ付けられたのか(割と新しいんとちゃうやろか)分からない。しかし、自分としては安倍川本流の源流を要していることから盟主としたい。

この山、山城で言えば曲輪をいっぱい持った城のようで、尾根に上がっても頂上(本丸)がなかなか見えない。目前の高みを頂上かと思って頑張ると、その先にまた高い所が出てくる。前回は安倍峠から登ってバテバテになったことがある。

今回は、安倍峠にあがる林道が通行止めになっているため、麓の梅ヶ島温泉に車を止め人道を登ることになった。おかげで林道との出合いまで40分ほど余計の山道歩きになった。しかし、この道はよく整備されていて歩きやすい。

一度林道に出たものの再び山道に入り安倍峠からの道と合流し、林道から40分ほどで尾根道に到着し始めて富士山が見られた、今日は頂上に雲が取り巻いて離れない、笠雲でないから天気の崩れる心配はない。

P1010066 なんども、急登とだらだら登りを繰り返し最後に大きな空掘り状地形を下がって登れば頂上は近い。静岡の山のどこにでもある「団子三兄弟」みたいな標識には1918mと書かれている。

いつもの通り頂上飯を食べたが風が冷たく濡れたシャツをひやす、アノラックを着込み手袋をして下山する。降り始めて30分始めて人に会う中年の女性二人連れ、男一人は調子が悪く途中で置いてきたとの事。

下の駐車場には上りだしてから5時間を少しきる程度の時間がたっていた。

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2005年11月23日 (水)

焚き火だ焚き火だ

P1010003 さざんかさざんか 咲いた道

焚き火だ焚き火だ 落ち葉焚き

あたろうよあたろうよ

                  しもやけ おててが もう痒い

この歌には当時実感がこもっていた。からからに乾いた落ち葉をほうきで集め、庭の片隅で火をつける。

薄い煙が勢いを増すと落ち葉の下のほうにサツマイモを濡れた新聞紙に包んで放り込み、次の落ち葉をかき集めてくる。

煙が風に吹かれて右左になびく中、我慢の限界に達してなみだ目で逃げ回る。手の甲は次第にかゆみを増し、こすり合わせ始めると後が怖いことを知りつつ、我慢できなくなってさらにこすり合わせる。

「もういいかな」「まだだよ」「新聞が焦げている」と取り出した芋を「あちち あちち」と取り出しポンポンと叩き、年長の権力で一番大きいやつをかじれば中はまだ固い、「外はこげているのになぁ」とまた放り込む。

小さな芋は、真っ黒けの炭のようになって芯だけがかろうじて食べられる。落ち葉焚きで、美味い焼き芋なんて出来たためしがないがそれでもなにか放り込まなきゃ気がすまない。

こんな時代が何時から出来なくなったのか、静岡に来た昭和53年、引越しの後始末に庭で焚き火をして苦情が来たのがはじまり、以来外での焚き火は川原でやるバーベキューの時ぐらいである。

火と言うものは、なにか妖しい魅力を持つものである。人間が始めて火をコントロールできた時の名残りだろうか、そのため焚き火の周りには大人が付き添い、ある程度の時間がたつと「あんまり、火を構っていると寝しょんべんををするから」と追っ払われたものだ。

時代はさらに世知辛さを増し、焚き火は二酸化炭素やダイオキシンを発生させる、燃えカスやすすが飛び散るといって農家のしか駄目だという、同じ落ち葉でも植木屋さんは産業廃棄物だといって、ごみ処理場で有料始末をしなければならないとこぼす。

今日は勤労感謝の日。むかし新嘗祭といってその年出来た穀物を神にささげ感謝する宮中行事の日だったが、戦後の時代に合わせて作られたのが働けることを感謝してとなった。いまでは、無事働けてその余禄で食べさせてもらっていることに感謝する日になってしまった。

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2005年11月22日 (火)

いい夫婦

今日11月22日は小雪(しょうせつ)。全国から初雪の便りが届く頃という。

地球温暖化で紅葉は二週間ほど遅れたとの話しもあったが、富士山はもう綿帽子をかぶって、最近では根雪のように消えることがないし、長野の山々も山頂は白くなっていた。

また語呂合わせで、「いい夫婦の日」というらしいのだが、どんな夫婦が良いのか前にもおしどり夫婦といわれたタレントが突然離婚したなどと聞くと、仮面を装っていたもののこらえきれなくなったのかなと想像したり、喧嘩ばかりしていたり、割れ鍋に寄せ蓋的というのもあるが、どんなのがいい夫婦なのか模範例がないところに人間らしい所がある。

そして、「大工さんの日」というのもあるそうだ。なぜか分からないが、大工の神様は聖徳太子だそうだ、その人の命日が2月22日だそうだが、何故11月なのかも分からない。

大工さんに関係があるのかもしれないが、いま旬な話題は、姉歯建築設計事務所が設計したマンションやホテルなど鉄筋高層建築の耐震性が連日テレビをにぎわしている。

住んでいる人には悪いが、建築に係わった関係者がお互いに罪をなすりあっていることに日本人も変わったなと思った。自分が海外で仕事した時、かの国の人々は決して自分の非を認めようとしなかったことによく腹を立てたものだった。

「ジョ ノ セ」私は知らない。そして必ず後に「なぜならば、あれがこうだったから そうなったので私はけっして悪くない」といういい訳が続いたものだった。これを何度も聞かされたとき、日本人なら人のした事までかぶって謝る人がいるのに、宗教のせいだろうか植民地だったせいだろうかと当時考えたものだ。

しかるに、先日からの関係者の言い分はいずれもこの類のものが多かった。(ひょっとしたらアメリカの植民地になったせいなのか、クリスマスやハロウインなど異国の宗教行事を取り入れたせいなのかな。)

いろいろな試験を取って資格を取り、許認可を受けて作った企業がインチキをしたり、いい加減な審査をしたら信用がなくなり会社の存続性が危うくなることが分からなかったのだろうか。そして、このことが氷山の一角なのかどうか、今後の解明は地震が来た時までお預けではおちおちマンションなど高い建物に住んではいられない。

それにしても、木造の建築物には2~300年というものがあるなかで、鉄筋コンクリートの建築物や最近の民家が老朽化したなどと3~50年で壊されていくのを見ると、技術の進歩とはなんだろうかと、築45年になるが柱も根太もしっかりしているのおんぼろ屋の亭主は不思議な気持ちで聞いている。

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2005年11月21日 (月)

天下泰平 天上無風

P1010046 それこそ一瞬だった。八ヶ岳の主峰赤岳の肩から飛び出した朝陽が細長い食堂の奥にまで差し込んできた。

低い角度で差し込んだ光は、テーブルに反射してまぶしい。人々は今日の行楽を楽しくしてくれることを約束した太陽なのに一様に顔をしかめる。

食事を終え、朝陽の当たる草原では霜で白くなった部分が日の光を少しはなれて追いかけている。

さぁ、出かけよう。あの山越えて、蓼科山の西を巻いて”りんごの里”立科町へ。

知り合いのりんご園は、「今朝の霜はきつかったね」といいながら、最後の収穫に精を出していた。寒い地方の果物でありながら、水分が多いせいか寒さがきつくなる前のぎりぎりに取入れを済ませたいとのこと、完熟との兼ね合いもありこれも生活の糧をうる仕事となれば、管理が大変なところである。

幸いにして風もなく空は真澄に澄み切って、浅間の煙も今日は群馬県側に流れているため、白い山頂は稜線がはっきり見える。振り返れば蓼科山が、なだらかな尾根の先にこんもりとおわんを伏せたように盛り上がっている。

天下泰平 天上無風

世の憂さも忘れるひと時、こんな日が永遠に,,,,,,,,続くはずないよな!

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2005年11月20日 (日)

流れもあえぬ紅葉なりけり

P1010029 朝一番に広い湯船の温泉に一人でつかる。年寄りには朝の眠気などない、手足を伸ばしたり、顔を洗ったり、鼻歌のひとつもうなりながらのんびりと明けゆく外の景色を眺めている。

夕べは日が暮れてからの宿入りだったので周りの景色は勿論、野天風呂の周りも冬枯れの木立に囲まれているというほどしか認識がなかった。

ところが、今目の前に見える光景はさながら百人一首の「山川に 風のかけたるしがらみは 流れもあえぬ 紅葉なりけり」の世界を演出してくれている。

ここは、今は佐久市となったが、古代から馬の産地で有名な望月町。

静岡の望月さんは、ここが出身地、武田信玄等に連れられて駿河に来て住み着いた人の後裔だという。しかし、望月町には望月という姓は一軒もない。

ということは、話が本当なら望月出身の権兵衛だ、なんて言っているうちに望月が姓になってしまったのか、それにしても多すぎる。

そんなどうでもいいことを、思い出しながら朝食にむかう。最近は何処の宿も朝はバイキングが多い。この宿もその通り。

開始と同時に食堂に行けば、遠慮会釈もない小太りのおばちゃんがいっぱいいた。「やぁ しまったもう少し遅い方が良かったのに、、、」と思ったが遅い。

長い行列の後についたが、なかなか動かない。みれば前後の仲間と声高に話し合っている人、どれにしようかと迷っている人、そんなに食べられるのと思うくらい持っているのに「あれを取り忘れた」といって逆走する人など、それこそ後ろにいる人のことなど眼中になくテンヤワンヤ。

ようやく、取り揃えた頃には、最初の人が追加に入ってきた。まったくの健啖家である、よほど立派な胃袋を所持しているようだ。

帰り際、テーブルを見れば食べ残しが散らばっている。家でなら子どもたちをしかりつけてきただろうに、、、、、それにしても、バイキング料理は落ち着いて食べるいう雰囲気からは程遠い食事だと思う。

幸い今日も天気が良い、佐久 小諸 海野宿 上田と廻り午後は峠を越えて兄弟の待つ立科湖畔に近い宿に向かう事のする。

 

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2005年11月18日 (金)

麻機沼のにぎわい

P1010023 昨日今日の良い天気に誘われたわけではないと思うが、麻機沼は小学生の声で大賑わい。いずれも、100人ほどはいたかと思われるが、爺さん連中いるところがなくて草々に解散して退場した。

「じいじ オナモミ取りに連れてって」突然 1年坊主から電話が来た。

P1010028 オナモミ? はて なんだったけと一瞬考えた。あっ ひっつき虫か

よし分かった行こう」と返事したもののさて何処にあったかいな。とまた考えながら、「そんなもん なんにするの」と聞いたところ、学校の何とかの行事で上級生にどうとかするもので、一人一人工夫をしたものを持っていくという、なんか分からん返事。

午後になって、この辺ならというところへ行くと、うまく見つけることが出来た、普段よけて歩いているくせに、いざとなると思い出せない。

しかし、さすがに子どもは遊び心があり、ある程度集めると、根から引き抜いて地面に叩きつける、種がバラバラと飛び散って草からむしりとるより簡単で面白いとなるとまた夢中になって拾い集めていた。

つぎがいよいよじいじの出番、ちょっと学のあるところを見せなければと、持って帰ったオモナミをカッターナイフで切り開き中の黒い種を引き出して曰く。「これは薬にもなる実で、このまま食べるとひまわりの種みたいな味がするんだ」と威張って一講釈。

これがなきゃ良いじいじなんだけどな。分かっちゃいるけど止められない。

結局は「じいじ 何の味もないけど美味くない」でおしまい、彼らもじいじの扱いに手馴れてきた感じ。

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2005年11月17日 (木)

ボジョレーヌーボー

子供の頃、奥山のめったに人が行かない所”猿酒”と言うものがあると聞いたことがある。

猿が山葡萄やサルナシ、マタタビなどの山の果実を木のうろに隠し、忘れてしまったものが自然発酵をして酒になっている、という寸法で、養老の滝伝説はこの続きだろう。だが、一度もお目にかかったことがないし、猿が物を貯めるという習性があるのかも知らない。

しかし、山葡萄が大量に取れたときなどは、潰して絞り、一升瓶に詰めておくと、正月の頃発酵し、その圧力でビンの蓋がボンッとはじけとび中身を噴だすことがあった、丁度その頃が飲み頃。アルコール分は有ったのかどうかは分からなかったが、少し薄め砂糖を入れてみんなで飲んだものだった。

今日は、ボジョレーヌーボーの解禁日だといって、テレビで騒いでいたが、日本が一番輸入しているとのこと、どのくらい積めるのか知らないがジャンボ機500機分も入ってきているという。

普通ワインというと2年以上は熟成し、古いものになると100年 150年もするものがある、ボジョレーヌーボーはどうかというと、フランスはボジョレー地方で取れた今年の葡萄を炭酸ガスで圧力をかけたりして造り、その年のぶどう酒の品質を商売人が確かめたことに始まるという。

日本に入ってきたのは、ワイン輸入メーカーなどが「フランスではこんなことをして楽しんでいますよ」という宣伝と便乗した業者に乗っけられたブームであるらしいし、ワインを水代わりに小さい頃から飲んでいる旧ローマ帝国圏内では、ヌーボーなんて騒いではいないし、まして、解禁だなんて期日まで決められ「日本が一番早くのめるんです」にいたっては何をか言わんであろう。

外国で流行っているというとすぐ反応してしまう人々。ちょっと、沸き立ちすぎではござんせんか?

これから、肌寒の季節、酒屋の暖簾をくぐり、「酒は静かに飲むべかりけり」なんて、ぬる燗を乙に構えるのもいいもんだよ。それとも、温泉に行って「浴衣の君は/ すすきのかんざし/ 熱燗とっくりの くびつまんで,,,,,,,,,,,]

 

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2005年11月16日 (水)

コショク

P1010002 新聞を見ていたら、「食育」をテーマの講演会で、「コショク」という言葉があって、その中身は「個食」「孤食」「濃食」「粉食」小食」とあった。

「個食」一人一人別メニューで食べることかな、フムフム。「孤食」なにかの関係でみんなと一緒に食べられないのかな、ウン。「濃食」ファミリーレストランやコンビニの食べ物は味が濃いと聞く。「粉食」うどんやパンのことかな。「小食」近頃の子どもは食べないからな。なんて、なぞときをしていたら、今年の6月10日に食育基本法というのが成立していたそうだ。

知らんかったぁ。そんな法律まで作らなければならなかったとは。

法律なんて難しくてはなから放り出しているので中身は知らないが、「食育」で見てみたら、食べるものについて深く知り、食べることが楽しくなること、食の大切さを多くの人に伝えること。などと書いてあった。

食べ物について、深く知るのは分かる、しかし、食べることが楽しくなるとはこれいかに。食べることの大切さを人に伝えるとは一体なんだ。食べることは人間三大欲望のひとつであり、教えられなくても楽しいぐらいのことは分かっているはずではなかったのか。

わざわざ教えてもらわなければ分からないほど,,,,,,,,,,となると、ほかの欲望も教えてもらわなければならない時代なのだろうか。

このごろでは夜更かしする人が多くなって全体寝不足気味だというし、子どもの数が減るわけだ。今度の国会で睡眠法、子作り基本法でも作り、子作り名人にでも講演を依頼しなければなるまいて。

さて、例のごとく自分の場合、食べたくても食べるもののない時代を経験している者として、なんでも一応口にしてみた。中国人のように四つ足は机以外何でも、とまでは行かなかったが。苦いもの、えぐいもの、渋いものを始め、いろいろと試して味を覚えた。そして、食べるもののモッタイなさは、身にしみている。

おかげさまでいま熊のように、腹の周りに食料を貯めこみ周りのひんしゅくを買っているが、折角溜め込んだものは吐き出したくない、という気持ちが身体のどこかにあるらしい。山登りなどして身体をしぼろうとするが思わしくない、しかし、薬を使って減らそうとするのは論外である。

おっと、今夜もまた脱線してしまったわい。

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2005年11月15日 (火)

第一 第二の真富士山

P1010005 静岡は安倍川沿いに真富士山という名の山がある。(写真は広々とした尾根筋の姫沙羅)

世界各地に多分日本人がつけたのだろうが、円錐形の山をさして「何とか富士」というのがいくつかあるし、本元の日本にも蝦夷富士だの薩摩富士だのといくつもあるらしい。しかし、真富士とは付けもつけたり、それも同じ駿河の国にあり、さらに念を入れて第一、第二とふたつもあるときては、本家はどうすればいいのか迷っていることと思う。

本日は、空模様もよくなく晴れ山好きの自分が出かける日ではなかったのだが、「本山茶」を分けてもらえるとのことなので、貰いがてら登ってみたしだいである。

家からやく20Km、平野という集落をから林道を6Kmで駐車場に着く。ここで支度をして山に分け入るのだが、まずは、手入れの悪い杉檜の中の道を登る、30分ほど登ると大平(オイダイラ)の分岐に着きそこを左にとって、稜線を目指す。

木の葉もほとんど落ちて、木の間越しに紅葉が鮮やかに見えるものの、時期はすでに遅いようだ。足元から突然ヤマドリが飛び出す、バサバサバサッと激しい羽音で、、、ぎりぎりまで我慢していたのだろうが、保護色のため山道に座り込んでいるのに気がつかなかった自分を驚かす。

大平から先の落葉樹林は曇り空ながら明るくて登り易い、これも30分あまりで稜線に取り付きすぐ左の真富士神社に詣でる、ここは、最近になって、覆い堂を作ったらしいが、鳥居の方は木の柱らしきもの残しているだけ。約10年ほど前は気がつかなかったのでそれ以後に崩れたものらしいが、回りに材料がいくらでもあるのだから何とかして上げたらと思う。

引き返して小高い丘を越した所が第一真富士山(1343m)一番高い所にないのが不思議、多分見晴らしの関係なのだが今日は何にも見えぬ、小休止の後広い尾根を下ると、大平から分かれた道が取り付く峠につく、ここは、先ほどの頂上辺りから掛かり始めた霧が濃くなってきたのと手入れの悪い檜のせいで薄暗く夕暮れ状態になっている。風も冷たくなったので、汗まみれの肌着を脱いで着替えをし第二真富士山にむかう。

同じ尾根道にありながら、ここからは岩の多いせまい道になる、両側は危険を感じないが、かなりの急傾斜で落ちている、そして、足元には岩鏡の葉が多く、木の種類も馬酔木、姫沙羅、つつじなど春夏に期待させる草木が増えてきた。

切戸(きれと)を過ぎて第一から30分ほど上下を繰り返したところに第二真富士山(1401m)の頂上がある。普通第一 第二とつけると第一の方が高いのにここでは第二のほうが50m余高い、初めてきたときは一二を逆転して憶えていたほど変わった名づけをされているし、三角点もこちらの山である。

しばらく天気の回復を待ったが寒くなる一方なので、引き返し第一と第二の間の峠から暗い林の中を下山する。

4時間足らずの山行きのあと、知り合いの家に向かった。

「本山茶」ホンヤマ茶とよぶ、静岡では各所に自慢のお茶があり、川霧などが味を左右するとかで、川筋ごとに茶の名前を分けている。本山茶は安倍川中流域を主体とした土地に出来るお茶であるが、詳しいことは、わしゃ知らん。

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2005年11月14日 (月)

タミフル

P1010071 ここ三日間でタミフルという名の薬を覚えた。(写真 まさかお前さんたちが鳥インフルエンザを持ってきてないだろうね)

最初は、例のごとくNHKの午後7時半からの「ナビゲーション」だったと思うが、このときタミフルという薬は、インフルエンザなどの元になるウイルスを抑えるのに効果があり、鳥ウイルスが突然変異をして人に感染するようになると、被害が1918年に流行ったスペイン風邪のように、大量の犠牲者を出すことが予想される。と話し、

そのため、欧米各国はこのウイルスに対して効果があるであろうと思われるタミフルを巨大予算を投入して備蓄している。これに対して日本は遅れているという内容の放送であった。

次の日の新聞によると、昨年2月にタミフルを服用した後二人の少年が場所が違うが連続して異常行動を起こし、死亡したほか乳児6人が突然死をし、輸入元の薬剤会社が無関係とは言い切れないとして、注意書きをつけていると書いてあった。

天下のNHKがこの事実を知らずに出したのだろうか、前日の放送では副作用について全然話していなかった。薬というものは必ず副作用があるものだから、この程度は許容の範囲内だったのだろうか。

いままでも、夢の○○といわれたものが、後ほどどれだけ反作用があって後始末に苦しんだことか、「PCB」「サリドマイド」「フロン」「石綿」と、、、、数えればきりがない。

そして、海外では副作用の報告がないというが、昨年使われたタミフルの8割が日本だという、そうなると日本だけがこんなに使用した異常さはなになんだろう。理由を聞くと欧米では、インフルエンザは自然に治癒する病気だとされ、罹ったら特別な場合を除き安静することで薬は出さないと言っていた。

日本でこんなに使用するということを今一度考える必要がある、日本人は体質的に弱いのか、薬を出せば儲かるという保険制度のせいか、薬を出せばよい医者だという薬好きの国民性か、、、、、でないとタミフルを服用した患者が異常行動を起こさないように目を離すな、と処方箋を書かなきゃならない。

かく言う自分は、どうしたことか何も予防処置をしてはいないのに、30年ほど風邪から遠ざかっていたが、今年からインフルエンザの予防注射代が安くなる年齢に達したので、したほうが良いのかどうか迷っている、下手に予防注射などして身体がびっくりしはしまいかと,,,,,,,,,,,,,,,,

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2005年11月13日 (日)

月みれば

P1010047 月みれば ちぢにものこそ悲しけれ

わか身ひとつの秋にあらねど

            大江千里

薄雲の中で朧の霞んだ月が、顔をのぞかせている。春の朧月夜は生暖かい風と共にこれからの春の息吹を感じさせ浮き立つが、秋は誰の目にもこれからの冬を想像して物悲しく見えるようで、歌の題材にされても浮き立つような歌はない。実際の気温は春よりは高いはずなんだけど寒さを感じるし、同じ月なのに先月までのように秋の名月とはもてはやされない。

ここ、静岡ばかりではないと思うが、昨日今日と各大学で学園祭をやっていた。高卒のわが身は学園祭など縁がなかったので、はじめて一番近い大学へ出かけてみたが、至極つまらんかった。

そこここにいる、学生がやたらと子どもっぽくみえるうえ、目玉のイベントが芸能人だということ、模擬店であることぐらいで、その大学独特というか建学の精神とか、そんなものひとかけらもない。この調子でどこの大学もやっているとしたら、、、なぜ同じ日にやるのか、、、他所がやるからうちもというだけなのか、不思議な気持ちで帰ってきた。

自分は川端康成の「伊豆の踊子」が好きでない。全編に渡って学生が踊子たち一座を見る視線は優越感にあふれているからだ。ただ、この頃の学生というものは将来の日本を支えていくというような自負心もあったし世間も認めていた。

それに比べて、今の大学は行く気になれば、学校さえ選ばなければ、猫も杓子もという状態になり、世間の見る目も相対的に下がったことから、こんな学園祭なるものを嬉々としてやっているのだろうか。

霞めるみ空に消え残る 朧月夜に秋の風

身に染み渡る夕風に 背広のすそを なびかせつ

思わずある旧制学校のこんな寮歌を思い出したところで今日は閉じる。

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2005年11月12日 (土)

たて飢えたるもの

P1010039 たて飢えたるものよ いまぞ日は近し,,,,,,,,,,

インタナショーォナールわれがもの

秋風と共に大音量の街宣車が小さな町を駆け巡った、小さな山あいの町だからどこにいても聞こえる、遠く近くに何回も聞いているうちにうろ覚えに覚えてしまい、鼻歌交じりに歌ってみた。すると、ちょっとばかし偉い人から「おまえ アカか、そんなもんにならんように」と言われた。

昭和32年、まだ、米が配給される時代、食い気は最高潮だった。就職した会社の独身寮は1日の食費が100円程度で、会社は出勤した者に10円の補助を出していた。

このころの10円は大きかった。われら新入社員の給料は1日247円、独身でもエンゲル係数は4割をこした。(いまの若い人はエンゲル係数といっても分からないだろうが、収入に対する食費の割合で、所帯持ちで5割をきるのが夢だった)そして、食べ盛りの少年は寮の食事だけで足らず、毎日10円のコッペパンを買い食いしていたので、実際はもっと高かったものと思う。

話は戻る、この10円をどうするか。寮生の集会で決めたのは、ご飯を秤にかけて欠勤した人から10円分引くことになった。以来、賄いのおばちゃんが麦の入ったご飯をアルミの小さなボールにいれ秤にかけ「出勤?欠勤?」聞きながら量を加減し、こちらのどんぶりにポンと入れてくれた。ところが、一度秤にかけたご飯が多すぎるとシャモジで適当に削り、計り直してくれない。米一粒でも余計に食べたい身にとっては、恨めしい気持ちで受けとったものだ。

そして、いつものことながら良い男や、好いたらしい人には、氷川きよしの「ズンドコ」でないが少しおまけ付きと来ると、若い義侠心はキリキリと傷み,,,,,,,、でも、おばちゃんに少しでも気に入ってもらって量を増やすよう手だてをした。とにかく、食べ物を前にしては意気地がなかった。

昨日の新聞の片隅に韓国は東亜日報の記事として、北朝鮮では仕事に出てこない者の米の配給値段を15倍にしたと言う記事を見て、本日は昔話を一語り。

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2005年11月11日 (金)

今日はなんの記念日

今日、11月11日にはいろんな記念日となっている。

いずれも、歴史的なものでなくこじつけ記念日であるところが面白い。たとえば、「鮭の日」魚偏に十一がふたつ。「電池の日」「磁気の日」は N極 S極をプラスマイナスに見立てた。「きりたんぽ」「もやし」「煙突の日」は1111といっぱいたっていることから、靴下も同様だが面白いと思ったのは「サッカーの日」11人対11人という意味だという。この記念日の面白い所は、こじつけた人しか知らないマイナーなところがなんともうれしい。

こんな調子で我が家にも、こじつけ記念日をつけて喜ぶのも良いかもしれない。実際暦に載っている記念日だって、ただの休みにしか思っていない人もあるのだからあまり深刻な記念日は、なくても良いか.,,,,,,,,,,,,,,,

と、こんな調子で書いていたら、地元のテレビに先をこされて放送されてしまった、どうしようかと思っていたが、急に変えるとまた時間がかかりそうなので、今日はこのままにしておく。

というわけで、今日は「こじつけ」と「祝日」に変更する。こじつけとは「故事をつける」とある。つまり、昔から伝わる物語やいわれに無理に関連付けをしてもっともらしくみせることで、自分のブログもいくぶんその傾向ありと反省している。

現在、暦には10幾日かの祝日があるが、正月、春分、秋分、憲法発布記念日、天皇誕生日を除いてこの日でなくてはならない、という祝日はない。

みどりの日だって、文化の日だって、勤労感謝の日だって、なぜこの日なのか、理由はない、どこに持ってこようとそれはそれで成り立つはず。しかし、この日は、小林旭の歌ではないが別の名前で出ていため取り消しようがなく、今の名前に衣替えしたのだが、実がこもっていないため、どの休日もただの休みになってしまった。

つまり、国が定めた祝日も実際はこじつけていたという「こじつけ」で今日は終わりにしょう。

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2005年11月10日 (木)

ナポレオンの再来をめざしてか

いつのころだったか、古今東西の英雄といえば豊臣秀吉とナポレオンと言われた時代があった。何を根拠にしたのか憶えていないが、それに関した伝記物をよく見たような気がする。

ナポレオンは、その生涯の前半をたくみに生き抜き、フランス皇帝の座を射止めたが、やがて秀吉同様”増上慢"に陥り、戦いに敗れエルバ島に追放された。

しかし、その後の政治状況は王政復古という、時代を逆行させたため民衆の不満がたかまり、それを察知したナポレオンは島を脱出し、フランス南部に上陸、民衆の歓呼の声に支えられて瞬く間に再び皇帝に返り咲いた。

先日、ペルーのフジモリ元大統領が隠密のうちに日本を出国しペルーの隣国チリに入国し、拘束されている。

かの国で生まれ育った彼のことだから、顔は日本人でも、日本人にはないしたたかな計算の上、ナポレオン同様に民衆に迎えられ北上するのを目論んでいることと思う。ここしばらくは、目が放せない状態になるだろう。

このことに関して、麻生外務大臣は日本国籍を持っているのだから、現在どんな状況なのかチリに問い合わせている、と暗に日本が後ろ盾についているような話をしていたが、これってどうなんだろう。

たとえば、なにかで出国した日系インド人が日本の総理大臣に立候補するため、韓国に来て拘束されたとして、インド政府の高官がインド国籍があると発言したら、と考えるとおかしな構造が分かると思うし、これだけの人物が本当に誰にも知られず出国できるのだろうか。出来たとしたら、日本の空港はつつぬけであることを証明したことになる。

以前にイラクで民間人が人質になったとき、日本は挙げて自己責任を言い、石をなげた。

今回の場合、仮にも一国の大統領をしたことのある人物が、している行動である、これを自己責任と言わずしてなんとしよう。それとも、アメリカが日本を見るように、かの国を半属国と考えているとしたらしっぺ返しが怖いよ。

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2005年11月 9日 (水)

はだかで勝負

名刺に肩書きがなくなってもうすぐ2年になる。いまでは、名刺そのものも使う場がないので持っていない。

しばらくは、何か頼りない気がして、何かで渡すたびに元○○ですなんて、注釈付きで渡していた。しかし、これも自営業だったから仕事をいくらか引きずっていたので仕方ない、と自分に言い聞かせた。

これが、同じ元でも、官公庁を退職してからでは笑いものだが、一度ならず見たことがあるし、元何とか議員というのも見た。「議員を辞めればただの人」にはなかなかなれなかったんだろうね。

いまでは、肩書きなしも身について、無職です。年金生活者です。と平気で言えるようになってきたが、遠くにいる親戚や知人には、静岡の、と土地を頭に載せているが、あとは、苗字だけで済ませている。

土地を頭に載せているのは、昔からあるようで、那須与一にしろ、熊谷直実や新田、足利をはじめ、歴史の中ではざらに出てくる話しである。

日本人は前にも書いたように、集団の一員であることに安心感を憶えるらしく名刺を重要視するし、貰った方もあの会社の社員ならと信用する。おかげで似たような会社名を名乗ったり、首から写真入のカードをぶらさげた営業マンが来る。

大きな集団に所属していることで自分が偉い人だと錯覚して、威張り散らす人もよく見受ける。激しい受験戦争をきりぬけて、就職した努力は認めるが、それが全てではないはず。

お役所や先生と言われる人の中に多いのは勿論だが、仕事で知り合ったゼネコンの所長がこぼしていたのは「下請けの人が、若い職員をチヤホヤするもんだから、実力もないくせに、すぐ自分は優秀なんだと錯覚してしまうのが結構いる。学校でたての若造をチヤホヤしてくれるのは、後ろ盾の会社があってのこと、というのに気付かないんだから困る」

「紳士ならびに淑女のみなさん、あなたが営々として築いてきた肩書きはいずれなくります。人生はそれからも結構長いのです。裸で勝負できるように今から心がけておかないと、さびしい余生になりますよ」

ついでなから、肩書きで生きてきた人に多いのが認知症いわゆるボケですが、退職後、自負していた功績を誰からも認められない失望感が大きな原因と聞きます。せめて、連れ合いの人だけでも人だけでも我慢して「あんたは偉いッ」とまつりあげていただきたいものです。

「エッ もう遅い? 疲れましたか/」

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2005年11月 8日 (火)

カサコソカサと毛無山

P1010018 富士宮の毛無山(1,945m)に登った。北アルプス笠が岳に穴毛谷という国土地理院承認のれっきとした谷がある。名前の由来はその名のとおりの場所が一番奥にあることから若者の人気の的であった。毛無山の名前の由来はどこにあるのか半ば期待して登ったが分からなかった。

毛無山の麓にその名も麓という集落があり、そこに車を止めて登り始めた。今回は標高差で、1100mほどあり、最近では破格の高さになると思いゆっくりと自制したつもりだったが、そうは行かなかった。

10分ほど行った所に直登コースと地蔵峠を迂回するコースがあり、迷わずに直登コースを選んだ。理由としては、膝の調子に自信がなかったので、降りを直登コースにすると段差が大きい場合衝撃がもろに来ると思ったからである。

P1010074 不動の滝までは割合と簡単に登った、二段に別れてはいるが、落差は100mとか落ち口が紅葉に囲まれて、優雅に見える。

それから稜線に出るまでが長くてきつい道だった。幸いところどころに何合目という看板があるのと、静岡の山にしては珍しく植林がしてないため山道が明るく背中の富士が木の間から見える。それらが結構励みになった。6合目付近まで紅葉があったものの、それから先はほとんど枯葉状態、足元の落ち葉をカサコソと踏みしめて登っていると、割合近いところで”ヒューン”という雄鹿の声が聞こえる。

おくやまに紅葉踏み分けなく鹿の こえきくときぞあきは悲しき                

                                猿丸大夫  

登りりだしてから 2時間と少し稜線にたどり着く、そこからはゆるやかな登りのまま頂上に着く、南アルプスも見えるもののかすんでいるうえに遠すぎてはっきりしない。

頂上は一等三角点が設置してあり木も刈り払われ富士山が目の前に広がる。恒例の頂上飯と昼寝を決め込むが今日は、風が強くて冷たい、30分ほどで退散することにした。下で追い抜いた老夫婦も誰も上がってこない。

地蔵峠に向かって降り出してからすれ違う人が三組いた、この尾根筋は夏場に花の多いところと聞くが、今は全て枯れている。尾根筋を離れると降りは急になり、地蔵峠の看板のあるところまでは山梨側のカラマツが紛々と落ち葉を散らす。看板から10分ほどの所に本当の地蔵峠(磨耗しているので分からないが地蔵でなく道祖神みたい)があり、そこから再び急なくだりと分かり難い道を通って分岐点に戻った。休み時間を入れて5時間半の長旅になった。

              

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2005年11月 7日 (月)

真夏日の立冬

今日は暦の上では冬の始まりである、立冬だという。

日脚がさらに短くなり、風物が寒々しく感じられるようになる、とある。昨夜来の大雨も、明けて今朝ほどからは、秋晴れのいい天気。気温もどんどんと上がって静岡市では25度を越す真夏日になり、冬は何処じゃいと探しても見当たらない状態になった。

立冬の真夏日なんていうと、最近はすぐに二酸化炭素による環境破壊で、地球が温暖化しているという人がいる。

たしかに、自分たちが子どもの時に比べても寒さは緩んでいると思うが、もっと長いスパンで考えると、地球がもっと暑かった時期もあるのだから、まだ、温暖化の原因ははっきりしていないというのが、本当のところであろう。(ヒートアイランド現象は人間が作ったものであるのは、間違いないことだが、、、)

気候のことはさておいて、例のごとくテレビによると安倍官房長官と参院自民党の幹事長が、財務大臣の増税発言に異論を唱えていた。曰く、財政改革でムダを取り払って後に増税の論議すべきだといっていた。

これは当然のことであり、選挙中の自民党の公約であったはずのものである。それを今になって別々の講演会で話すのは、閣内不統一なのか、人気取りとか、ガス抜き発言なのか疑ってみる必要がある。

政治資金規正法のときのように税金から活動資金を取っておきながら、献金の規制はしり抜けにした位、人騙しのプロなのだから、信用しているとどこでドンデン返しが有るかわからない。

信用するには"隗より始めよ”という言葉にもあるように、少なくとも自分たちの数を減らし歳費を減額してからでないと、政冶不信も行き着くところまで行ってしまい、他の国のように暴動にまで発展すると思うんだが、、、、、、

それとも、70年安保で尻子玉を抜かれた国民は、自分のようにブツブツ言うだけでそんな気力はないか。庶民の不満をまとめてくれる政党も団体もない。

  そ~んなお国にだ~れがした

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2005年11月 6日 (日)

宣伝の道具

午後から雨になるという予報だった。大道芸も最終日だが降らなければあと2~3見てみたいと思っていた。しかし、今日は珍しく予報が当たったので近くの集合店へ買物に行ってきた。

昼前はもっぱらテレビの大学駅伝を見ていたが、これも最近はつまらなくなってきた。

理由としては、各大学でスポーツ留学生というかアフリカからの選手を走らせ、そのたびに順位が大きく変動することにあると思う。

私立大学が、自校の宣伝のためアフリカに出かけ、有望な選手を連れてきて走らせる。そこにはスポーツというものは二の次にされているのがありありと見える。先日も高校野球の実態を放送しているのを見たが、地元の生徒がほとんどいない野球部なんかが沢山あり、何々県代表といって出てきて甲子園で争っているが、町内の○○くんが出ているということはまずない。

これでは、盛り上がるはずがない。同様なことが大学駅伝などで起き始めているといって過言でないだろう。自分は決して外国人排斥をいうつもりではない。

外国からの留学生がたまたま走るのが速かったから、選手として走るのは問題ではない。国の内外を問わず特待生として金に飽かせ、人集めにはしる姿勢がスポーツを駄目にしていると思う。駅伝大会や野球など私立学校の道具にされてしまっている。

プロのサッカーや相撲や野球を始め、企業が興行的に採算の合うところでやるのと、学校が生徒集めの宣伝に使うのとでは趣旨が違うと思う、選手が強ければ良い学校とは言えないはず、一般の学生の授業料をつぎ込んでいるとしたら、かえって悪い学校になのだから、行かないぐらいの見識が必要だろう。

余談ながら、選手の体格も紹介されていたが、ほとんどが、身長170~180センチ体重50~60キロと一様にスマートでストライド走法であった。自分が高校生の頃ボストンマラソンで優勝した山田敬三選手は身長150センチ少しで、ピッチ走法だった、体格の良い選手に混じって小さな選手が五分に闘うのは尊敬に値する。同じく柔道の嘉納治五郎さんも小柄だったと聞くが、日本人は胴長短足をいつ捨て去ったのだろう。

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2005年11月 5日 (土)

大道芸 ベンチャーを見に

P1010051 いやぁ、今日もいい物を見せてもらって、良かった 良かった。

またまた、大道芸を見に行った。今日の目的は、昨年に引き続いて出演している「ベンチャー」というチームみたいがためであった。

歳々年々 人同じからず

まさに、昨年よりは難度の高い、芸を見せてくれた。

昨年は、ゲートから吊るした三色の布を使ったもので、今回も基本的には前回を踏襲しているものの、メンバーの一人がバイオリンの演奏と歌を担当し、披露してくれた。

音楽に関してはよく分からないが、人間あんな状態でもバイオリンが弾けるということに驚いた。

写真にもあるように、前進に力が入っているはずなのにスムースに音が途切れることなく心地よい音が出せるのは、まさに神業といってよいと思う。

持ちネタとして以前から持っていたものか、昨年帰ってから作ったものかは知らないが本当にいい物を見せてもらったという感じだった。

つづいて、小柄で豊満な女の人が一人で、同じゲートから下げられた布地で演技したが、この人もやはり素晴らしかった。何よりも良かったのは、身体で表現する芸は、体形で決まらないことを改めて見せてくれたことである。

二日間大道芸を見ての感想、おじさんは渋ちん。終わるとそそくさと立ち去ってしまい、見物料は女子どもがほとんど、感動はしているんだろうけど、小遣いを締められていて出したくても出せないのかな。いやぁ、それにしてもすごい人出だった。駿府公園に砂埃が立ち込めていたよ。

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2005年11月 4日 (金)

大道芸 (ひとやまのくろだかり)

P1010026 週間天気予報をくつがえして、典型的な小春日和とあいなった。

あさから、雲のほとんどない青空とこの季節特有の湿気のない天気、普段ならどこの山にするかと迷う日だが、本日は「静岡大道芸」に決めていたため、家でゆっくりと過ごしてから駿府公園へ出かける。

新聞によると、昨日は60万人の人出とか、ならば、今日は仕事の人もいるからずーっと少なくなるという予想の元、自転車に脚立を積んで出かけた。

しかし、自分みたいな閑人が他にもいっぱいいたのと、保育園や小学生が遠足のように引率されてきていたこと、老人ホームのマイクロバスが4台も来ていたことなどで、どのブースも(ひとやまのくろだかり)お陰で脚立を使わない所は全然なかった。

毎年のことながら、大道芸をする人が入れ替わり立ち代り来るのには感心する。レベルとしては、どうしても、外国人に分があるのはやむをえない。彼らはいくら招待されたとしても、生活費以上のものが欲しいだろうし、日本人は趣味でやっている素人さんもいるのだから、、、。

もうひとつ、どうしても雰囲気が少し暗く感じるのは自分だけだろうか、この辺をクリヤーすれば、技術的には負けない演者もいる。サッカーのように外国人の演技を見、交流すればやがて追いつくのではないかと想像するが、どうしても大道芸というと、日本は角兵衛獅子やジンタの物悲しいサーカスや見世物小屋を源にしているので。

そして、今年は、サーカスが2チーム入りかなり高い入場料をとっている。これは、「大道芸」ではない。やはり、大道芸を名乗る催しなら投げ銭で誰が稼ぐのかも、興味のひとつではないだろうか。今後、この催しがどこへ行くのかの分かれ道だと思う。

いずれにしろ、「私たちアーチストは、、」なんて黄色い声で言っている、若い娘っ子タレント(才能のない)よりはよっぽど芸人であり、芸術家の集まりであることは、誰しも認めるところである。

できれば、もう一日、人ごみを恐れず街中のパフオーマンスを見に行くつもりだ。

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2005年11月 3日 (木)

クヌギの実

P1010008 「じいじ、今度はクヌギの実を拾いに行こうよ。」と、水鳥にパンくずを与え終わったとたんにいいだした。

「クヌギって、あのドングリだろ。どうするの?」「うん、あのギザギザの帽子が面白いじゃん」

「そうかクヌギの木なぁ」其処でじいじはドングリのある場所を頭のなかで考えた。そして、クヌギのありそうな公園へ移動、が下草を刈られたクヌギの根元には帽子ばかりでドングリはない。「どうして?」「うん、たぶんネズミかリスみたいなものが食べるために、どっかへ持っていってしまったんだよ」

「じいじ、そんならネズミとかリスを探そうよ」「そりゃぁ無理だ、昼間っからいるわけない」望みは次から次へと発展し、方向変換していく。じいじは孫の前では博覧強識、オールマイテイであらねばならない。つらいのだ。

今日は「文化の日」、孫が帰った後、少しぐらい文化をしてみようと、護国神社の「菊花展」に出かけたところ、七五三の神事をおこなっていた。七五三も周りに該当者がいなくなるとつい関心がなくなるが、晴れ着を着た子どもが大勢いたので気がついた。

菊の方は、出品者が此処まで育てるのに苦労したものであろうが、その個性のなさにいつものことながら驚く、花の形も大きさも画一化され、「なんとか賞」と札が下げられていてもどうしてだか他のものに比べて分からない。

P1010014 この菊の形、種類はすでに江戸時代に完成されていたものときくが、以来進歩は止まったままか。それにくらべて、すぐ側では晴れ着に身を包んだ子らが、普段、着たこともないものに戸惑って、振袖の袂を振り回したり、草履や下駄では歩けないらしくスニーカーではしゃぐ。親はカメラ片手におろおろと周りを廻る。

そういえば、このスタイルは、明治の頃山高帽子に羽織袴の年配者が革靴をはいていたのと同じなんだ。この子らの未来は型にはまらず、明治の人のように進取の気概を以って欲しいものと無関係ながらエールを送った。

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2005年11月 2日 (水)

あんたはアメ車

昭和の何時ごろまでだったか、アメ車といえば手の届かない車であり、そのけばけばしいばかりのスタイルというかデコレーションは憧れの的であった。

映画なんかで見るだけの車であったが、いかにもスターの乗る車。プレスリーがオープンカーに腰掛けて、ギターだったかウクレレだったかを弾く姿は、日本の俳優なんか足元にも及ばなかった。

そのアメ車が、その後の技術革新を怠ったせいか、それともアメリカ人の気質のせいか次第に人気がなくなった。

いわく、燃費が悪い、いわく立て付けが悪い、いわく電気系統が悪いなど。それに引き換え日本車の価値があがり、最近では、経済制裁を恐れてアメリカでは値段を上げて売っているそうだ。

「どんなに食べても太らない人もいれば、自分のように水を飲んでも太るものもいる。先日も、むかしの娘さんに「あんたは、アメ車みたいだね、そんなに食べても太らないのは、燃費が悪いんだよ」って、、、、憎まれ口を叩きながら、その食べっぷりをうらやましく眺めていた。

かく言う自分も40代まではアメ車のつもりだったが、50台に入ってから、急に燃費がよくなったことを、念のため書き添えてておこう。

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2005年11月 1日 (火)

蕎麦粒山は満艦飾

P1010051 秋の夕日の 照る山紅葉

濃いも薄いも 数あるなかに

松を彩る かえでやつたは

         山のふもとの すそ模様

静岡の山はもともと常緑照葉樹林だった所に、杉や檜、みかんとを植えているため、一年中濃い緑の山で、紅葉の名所といえば作られたものがほとんどで、規模も小さなものだと思っていた。

朝天気を確かめて、川根にむけて車を走らせる。大井川の反対側の峠(富士城)から見ると向い山に林道が延々と延びているのがずーッと前から気になっていた。調べると旧中川根町の上に15~1600mクラスの山がいくつもあるとのことなのでその主峰「蕎麦粒山」を主体にした偵察行を行なってみることにした。

まず、上長尾の集落に着いたのが午前9時半頃、入り口をたしかめて山道に自動車を進める、舗装がすぐに切れると聞いていたが、大札山の駐車場まで8kmほど舗装されていた。駐車場に車を置き外に出ると、山は赤、黄、緑と程よく彩られている。此処で支度をして山道を少し登って見ると様子が違うので、地図を確かめた所予定の「山犬段」はまだ4~5km先だということが分かり、下って自動車で山犬段を目指しなおした。

ところが、悪路はこれから先だった。急な山の斜面を横切って作った道は、もろい頁岩のため、崩壊が激しくあちこちで崩壊対策工事が進められている。礫だらけで走りにくい上に工事用車両が何十台も道片に止められている間を縫ってようやく10時過ぎに目的の駐車場に到着。

駐車場の標高は1404m、蕎麦粒山は1627mと差がすくない、おまけに下草が綺麗に刈られていて、雨の日は傘をさして歩けるくらいひろびろとして気持ちのいいハイキングコースといったところ。

ツガやブナ、白樺、紅葉が今を盛りに色づいて周りの山全てが満艦飾気分よく鼻歌を歌いながら登りだしたところ、右膝の調子がおかしい。「困ったな、でも登れなければまた来りゃいいさ、行けるとこまで」と杖に頼り40分ほどかけて山頂に到着。

山頂は、東側が開けていて、山じゅうの紅葉のむこうに富士山を始め安倍川筋の山が見える。なんだか一番いいときに登ったみたいだ。

初めて来てくれた者を歓迎してくれたのかと、ご都合主義に考えて「よし、近いうちにまた来るからね」と山ノ神に約束して、五樽沢から林道に降る。足の調子もよくなったが、「今日は用心用心」

本当に久し振りの目の保養をした。ただ、林道を利用しておきながら文句を言うのもおかしいけれど、この林道は、山を荒らしすぎている。このことはまた後ほど

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