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2005年12月31日 (土)

大つごもり

人の評価は、その棺をおおってのち決まると言われている。特に死者にむち打つことのない日本ではその感が強い。

今年も一世を風靡した人のうち何人かが失意のうちに幕を引いた。さぞ、くやしかったことだろう、若いうちなら再起もあるが老いてからでは時間がない。

今年の流行語のなかで、「勝ち組 負け組み」というのがあったが、勝ち組と言われるのはほとんどが大金を儲けた人のことで、それも、我々が想像できない単位のお金をあちこちに動かして儲けた人のこと、いわゆる相場師をいうらしい。

自分は失意のどん底を味わったこともないし、一世を風靡したこともないが、今までのところどちらかというと少しだけプラスできたかと思っている。

そして、ことしもありがたいことに健康にめぐまれ、平穏無事にすぎようとしている。

人生は、”旅”だと芭蕉翁も「奥の細道」でのべているが、自分は人生の旅のどの辺まで来たのか、できるなら幸せなじいちゃんだったと言われるうちに緞帳が下がってほしいものと思っている。

今日は大晦日。自分ではなかなか美味く作れないので中国の高適という人の「除夜作」から

 旅館寒灯独不眠  客心何事転凄然

旅館の寒灯に一人眠らず 客心何事ぞ転(うたた)せいぜんたる

 故郷今夜思千里  霜鬢明朝又一年

故郷 今夜千里を思う 白髪の増えた鬢 明ければまた一年

来年は希望が持てる年となって欲しいものだが、、、、

 霜鬢明朝又一年 

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2005年12月30日 (金)

納めの竜爪

P1010065 先日敗退した竜爪山を負けたまま今年を終わらせるのはなんとも悔しいので今日は一番登り易いルートで行ってきた。

朝 日の出を横目にして、瀬名の谷を走らせ、水汲み場のある駐車場に7時半少し前に到着した。すでに2台の車があるので「皆さんお早いことで、、」と挨拶したらいずれも水汲みの人たちだった。

誰がつけたか”長寿の水”なんてネーミングが受けてこんなに朝早くから順番待ちとは恐れ入りました。当然同じ事を向うも思っているんだろうな。

支度もそこそこに、鳥居をくぐり古道を谷伝いに登る、何時の時代から使われた道か知らないが修験道の道としたらかなり古いんだろうな。よく踏まれているせいか手入れされた道は登り易い。

20分くらい登ると、しばらく降らない雨のせいか谷の水音も消え、風の音 鳥の声さえしない静寂な一人旅が始まる。下を見れば谷の底がコンクリートを張ったように見えるが、頁岩と谷の傾斜が一致しているための現象でこの近くに静岡大糸線と言う日本有数の大断層があるはずなのにその片鱗が見えない。

穂積神社の近くで新道と合流し、正月支度をすませた境内に着いたのが歩き出してから35分ほどの所、下着が汗ばんでいるので防寒用にきていたヤッケを脱ぎ、一休みをして杉の巨木が立ち並ぶ境内を後にする。

今日は身体の調子も良いらしく、俵峰から来る道と合流する尾根には25分で到着。山登りを再開した4年前に登った時は「途中でへばったことがあったのに」と思った。

薬師岳を過ぎて文殊岳に着いたのは、麓から1時間半に少し切れる9時25分だった。山頂近くの斜面に少しばかりの雪を見たものの他にはなく、穏やかにそして遠景は霞んで、まるで春山と言った感じ、途中の道脇の植物は全て地面の下に隠れ写真にしようにもなんにもない。

早飯は、家で食べてから間もないのにどんどん入る。満腹の腹をなでながら普段散歩に使っている麻機沼を見下ろし、帰り支度にかかる。

穂積神社からの降りは、新道を散歩気分で帰ってきた。往復4時間足らず,

「今年3度目の竜爪山」「納めの竜爪」で今年も無事終了。

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2005年12月29日 (木)

青枯れと翡翠

P1010047 今月に入って、ここ静岡では降水量が0ミリだという。乾燥注意報も出て天竜川、大井川などで取水制限もでているようだ。

北陸から東北 北海道にかけて連日の雪降りだと言うのに、、、、分水山脈 北アルプス 南アルプスが雪雲をさえぎっているせいなのだ。

しかし、寒気だけは間を縫って進入しているらしく、例年なら1月末になって麻機沼に氷がはるのに今冬はすでに何度かはって鴨や背黒セキレイが氷の上でスケートをしていた。

植物の方にも計算違いがあったらしく、何種類かの寒さに強い草が寒さと水分不足のせいで枯れる前にドライフラワー状態に青枯れしている。

葉を取って手の中で揉むとかさかさになった葉は粉々になってしまう。

P1010052 そして、今日はやっと念願の翡翠(カワセミ)を映すことが出来た。それも場所はべつべつながら三羽も。川辺の生きた宝石と言われた名前に恥じぬ色をして、たたずんでいた。

いるんだね~、年末総決算で大放出したようなもんだ。あとは、先日失敗した竜爪山を失敗したまま終わらせたくないので明日にでも解消しておくことにしようと思っている。

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2005年12月28日 (水)

花餅

P1010044 今日は餅つくりの日。餅つきではないのだ、電動の蒸す こねるをやる釜でつくるのだから。

頼まれたもの3升、お鏡5セットそれに夕食と花餅にするのを入れて6升を作った。以前は父親が作った臼で突いていたが、静岡に引っ越してくる時に人に譲ってきたため現在の形になってしまった。

田舎だったので子どもの時から、餅は臼と杵でつき食糧難の時もなんだか絶えさせずに突いていたような気がする、それどころか、正月になるといって突き 小正月だ、寒餅だといって突いたような気がするが、あれはどういう事だったのだろう。いまでは分からないことになってしまった。

それにしても、親父が50代になったばかりのことだったと思うが、直径1m余の欅の丸太を持ってきて臼を2つ作ったとき、臼の底をを掘るチョウナと下が丸くなったカンナを買ってきて、うれしさと得意げが混じった顔をして削っていたのを思い出す。

それを、引越しの時「捨てて来い」と言ったそうだが自分にはどうしても思い出せない。丁度 元首相が1億円貰ったのに記憶がなく「周りがそういうのだから貰ったんでしょう」といったと同じ現象だった。

もちを作るというと、孫も手伝うと証して集まってきた。お鏡は、適当にちぎって丸めさせる「熱い熱い」といいながら上手に丸めた。ようし、今年は花餅を作ろう。

自分たちの子供の頃は、前もって欅かもみじの切り株から飛び出した枝がいっぱいあるのを見つけておいて、雪の中鋸をもって取って来たものだが、今日は庭のもみじと沈丁花の枝で我慢する。子どもたちと一緒になって作り持たせて返す。

年の瀬もつまり、また、ひと行事すぎていく。

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2005年12月27日 (火)

エネルギーを商売に

静岡の中心街から西部デパートが来年3月に撤退するそうだ。

市をはじめ、まわりの商店街も翻意するよう説得したそうだが、最近の売り上げが落ちているところに持ってきて、西部そのものが再建に四苦八苦している中では無理な話だったのだろう。

そこへタイミングを合わせて今度は、持ち株会社、いわゆる親会社がセブンイレブンなどを傘下にもつ会社に飲み込まれると言う報道があった。これは、かなり前から準備をしてきたことであり、でなければ両社長があんなに淡々と話せる話しではないはず。知らぬは地元だけ世の中そのくらいの速さで動いている。

市の中心部まで、バスで20分とはかからない所に住む自分だが、最近ではめったに行かないし、行っても品物を見るだけで買ったことがない。理由としては欲しい物がなく、あっても高すぎるのである。

買物は、どうしても近くの駐車場が完備した大型量販店に行く、消費者としては少しでも安いものを買って生活防衛をしなくてはならない。それでなくても静岡の物価の高さ、殿様商売は有名なのだから、、、、、

そして、次に計画されている大型店の進出には、前に大型店やコンビニ出店を阻んだ「静岡方式」を再現させようとしているらしい。

静岡市は、他の都市に比べて大型店の一人当たり面積が少ない方だと言う、にもかかわらず市を動かしてまで出店阻止を働きかけるエネルギーがあるなら、商売上手になる力に変えてもらいたい。自分としても自転車程度でいけるところにきめ細かなサービスをしてくれる店を望んでいるのだ。

ちなみに、パソコンを始め電化製品は近所の電気屋さんだし、水周りと大工さんはなじみの店に決めている。良い店が近くにあればなにも遠出までして買いに行かないことを知って欲しいものだ。

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2005年12月26日 (月)

理屈付け

山高きがゆえに尊からず、とか。

今年になって800m以上の山を数えてみたら20座登ったことになる。800m以上としたのは丁度20になるからで、それ以下のものはいくつになるかよく調べないと分からない。(昨日の写真に載せた賤機山などは毎週ぐらいに登っているので)

静岡の山登りは出発地点が低いこともあって、標高の割には登る高さが大きい山があり、単に高さだけでは測れない面がある。

そして、今日は竜爪山の山登りに失敗して帰ってきた。

この山の北側、俵峰と南東の平山からは何度も登ったことがあるが西に当たる賎機郵便局の付近から登る道が地図にあったので試して見ることにした。

郵便局を少し過ぎたところから山道に入り、標高で300mほど稼いだ所の茶畑で道は行き止まりになっていたが、ここから先の道がわからない。自動車を降りて2ヶ所踏み後らしい所に入ってみたが確信が持てない。

風は昇りかけたところからかなり強くなっていたので、この場所は中断し下に降りてほかの登り口を捜したが地元の人も「ここらから登る人は今いない、奥の牛妻までいったら?」というのを聞いて急に気力がうせた、「そう何年か前にここで遭難をした人がいて、世間を騒がしたからね」理屈をつけて家に戻った。

山登りをしていて思うのは、気力と言うものが非常に重要である。目標にしていた山の頂上を間違え、その先に高い山が見えたときなど、気力を奮い立たせるのに一苦労する。今日みたいな時もやはり同じで、止めようと思った途端すっかりつき物が落ちた状態になってしまう。

大げさかもしれないが、病気で生き死にの際もこの気力が大きく係わるのではないかと思うので、いざと言う時の気力の立て直し方の練習をしているんだと、これも理屈付けしている。

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2005年12月25日 (日)

飛騨は大雪

P1010042 昨夜、ふるさとの従兄弟に電話をした。静岡の新聞にまでふるさとが記録的な大雪になっていると書いてあったので、、、、、。(昭和30年頃の雪、学校の屋根雪を生徒が降ろし、1階教室の窓が埋まったため掘り起こしている所、ぼやけているが右上の黒い者は自分たち)

屋根雪はすでに二度降ろしたとの事、畑の野菜を埋めた目印の2mポールがあと少し頭を出しているだけと言う。「そんでも まァ~ 56豪雪に比べると、どうなんかなァ~、山の村の方はもっとひどいらしいし、国道41号線をバスが走れなくなっている」という返事。56豪雪とは昭和56年の大雪のことで、自分の知っている限りではその前が38豪雪だったから久し振りの大雪になったらしい。

そのときの降り方は、多いところでは7,0mに達して平屋の長屋がは雪ノ下になり、屋根の一番高い所を歩いたことを覚えている。こんな話しは雪の降らない静岡の人に話ししてもほらを吹いているとしか取られないので、話さないことにしている

ひるがえって、今朝の空模様は絶好のハイキング日和。尻がムズムズするが午後の用事のため出かけられない。昼までに帰るからと沓ヶ谷の山に出かける。

沓ヶ谷の山は前にも書いたが、東海道本線や国道1号の北側に並行して走る2kmほどの山並みで高い所で108mしかないうえ、あちこちに登り降りできる道があるため手ごろな散歩道となり、いつも人の絶えぬところである。

家から歩いて20分ほどで一番東側の愛宕さんの上り口につく、愛宕山は今川の頃からの出城だったらしく今でも曲輪跡や壕がはっきりと分かる。ここに上がった後尾根伝いに西に向かう。

P1010039 古墳跡の神社を過ぎた所のベンチに4人の少し年上のグループがいたので仲間にしてもらって話しをする、目の前には自分たちの住む市街地と日ごろ散歩に使っている麻機山の尾根筋と南アルプスの聖岳から南が遠望できる。

少しの間に汗が冷たく感じるようになったので、清水(きよみず)さんに向かって山を下り、家まで戻る。

約3時間 10kmの散策になった。

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2005年12月24日 (土)

メリークリスマス

P1010033 ”メリークリスマス”

日本中惜しげもなく電飾で町を飾り、ケーキを買ってキリストの誕生日を祝っている。前日の天皇誕生日よりよほど盛大に、ウオームビズとかで電気や石油の使用量を減らすことを努力しているなど何処吹く風とばかりに。

八百万(ヤオヨロズ)の神が住みたもう日本に十や二十の神がいまさら増えたってどうってこたァないよね。キリストだってマホメットだってみんなで祭ろうよ。

そのうち、日本の神や仏の一員にして大菩薩にするとか如来号を進呈しようじゃないか。日本人は宗教に関してはそのくらいおおらかであり、無関心なのだ。

ということで、今日は我が家にも孫たちがケーキを下げてやってきて、仏壇に線香を上げて手を合わせ、神棚の下で蝋燭に火をともすという、典型的な過ごし方をした。

ところが、ある国では他の宗教に気兼ねして、クリスマスカードに”ハッピーホリディ”と書き、記者会見でもそう発言した大統領が国内のキリスト系保守派から突き上げられていたとテレビで放映していた。

宗教は、気候や風土が大きく係わるとか、きびしい自然に立ち向かっていくには唯一絶対の神に頼らなければやっていけないのだろう。それに反して四季それぞれに変化して恵み多い自然に囲まれると、もの皆全てに精霊がやどり神となって八百万にも達するのであろう。

先がどうなるのか全然見通しのたたない国ながら、一神教の窮屈な(自分から見て)世界を見ると、つくづく日本に生まれてよかったと思える今日この頃である。

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2005年12月23日 (金)

みやま越え 高ドッキョ

P1010018 林道終点の道脇に車を止めた。先客があるようで軽の自動車が止めてあったが人影はない。用意しているとなにか動くものがいる、見ると白黒の猟犬らしきものが茶畑のうえでうろうろしていた。

「どこかで猟をしているのかな?下手に撃たれることのないよう」にと持参の笛を長ーく吹いてから出発した。

今日の目的は”高ドッキョ”先日登った青笹山から東に長く伸びている尾根上にあり、標高は1,134mもあるのに名前が書いてある地図はほとんど見たことがないという珍しい山である。なのに、山梨県の百名山に入っているし静岡の団子標識もある。

またこの山の名前についても、カタカナ以外にどんな字を書くのか分からないそうだ。そして、静岡では”ドッキョ”と切るのに対して山梨では”ドッキョウ”と言うそうだ

林道の最終点にある標識から谷沿いに40分ほどで樽峠という尾根に取り付き西のほうへ尾根伝いに高度を稼いでいく、自分の予想では先日来の雪情報で尾根筋まで上がれば、雪景色だと思って前回履いた合成ゴムの保温作業靴を履いてきたのに雪の気配はまったくない。

乾燥注意報は山の上まで達していたらしい。思わず鼻歌が出たね。

ひとやま ふたやま みやま越え

奥に咲いたる~ 八重つばき

なんぼ 色よくゥ 咲いたとて

様ちゃんが 通はにゃ あだの花

  サノ ヨイヨイ   とね(炭坑節から)

小さなこぶ状の尾根をいくつも乗り越え最後の登りになって、ようやく格好だけの雪が道の両側に見え出した。

頂上からの展望は富士山側だけが見えるようになっているため、後ろ側の十枚山や青笹山は雑木越しにかすかに見えるだけ、途中で清水港を見下ろす展望台も逆光で陸地部分が黒くなり判別しがたいくらい。

頂上は登りだして2時間半くらいで到着、空はあくまでも青く鳥のさえずりもなく風もない静寂な世界。日向ぼっこと早飯を兼ねて1時間ちかく滞在していたら、さすがに登りでかいた汗が冷たくなってきたので降ることにした。

今日は祝日、15分ほど降り始めてからようやく後続部隊が上がってきた。下に着くまでに4パーテイ8人とすれ違った。

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2005年12月22日 (木)

冬至かぼちゃ

早いもので今日は冬至だそうだ。一年で一番太陽がずるをする日である。

冬至と言えばかぼちゃを連想する。縁側のすみに転がっていたやつをひとつ引っ張り出し、包丁の柄に近い部分をまずめり込ませて二つに割る。これが一番安全に固いかぼちゃを割るコツである。

いまでこそ、かぼちゃなんて根がら年中あるものだが、むかしは年を超すと味が急に落ちるので早く食べろと言う意味と冬至にかぼちゃを食べると長生きするとか、中風にならない、しもやけにならないとかいい事ずくめをいって沢山食べさせられたものである。

土地によっては、ゆず湯に入るところもあるがゆずの出来ない土地に育った者としては、やはり冬至はかぼちゃである。

いずれにしろ、明日からは米粒ひとつずつ日脚が長くなるかと思うと気分は明るく感じるから不思議である。本来なら、「寒さもこれから本格的になりますのでどうぞ気をつけて、、、」というところだがこの冬はすでに真冬並みの寒波を二度にわたって来ているので、これ以上寒くはならないと思う。

静岡でも今朝方雪がちらついたようだが、ほとんどの人の目に触れることもなかったようだし、富士山も真っ白という状態ではない。

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2005年12月21日 (水)

人は神が造りたもうた?

大分まえの話になるが、縁側で日向ぼっこをしていたら見知らぬ親子連れの訪ねてきた。

「ちょっといいですか」というんで「セールスならお断りだよ」って言うと違いますと言いながら取り出したのはキリスト教系?の宗教パンフレットだった、ちょっと眠気がしていた時なのでからかい半分に相手をしていたら、進化論のほうに、こちらから言ったのか向うが言い出したのか覚えていないが、「人は神が造りたもうた物で猿など他のものから進化したものではない。キリンの首は始めから長かったし、象の鼻も始めに神が造ったときから長かったのだと言う。

それで、「普段の仕事は?」ときいたら学校の先生をしていると言う。おもわず「そりゃ 大変だね」といった。この人 学校で進化論の話になるとどうしているんだろう。まさか強硬に否定するんだろうか。なんてね

今日の新聞によると、アメリカで人間は人知を超えた力で造られたとする教育を公立学校で教えるのはいけないとする判決があったと書いてあった。

ははん、先年の宗教はここが出元だったのかとと納得したが、この団体はブッシュ大統領の再選の原動力になったキリスト教保守派の団体となると、ブッシュさんの思想 思考もこんな所が根源かなと思ってしまう。現に彼はこの判決に批判的だったと報道官が言っている。

日本人はとにかく意見が対立するとまあまあと玉虫色に納めてしまおうとするが、アメリカ人などは、幼い頃から自己主張をはっきりさせ相手を論破する技術を身につける、どちらの方が良いとは一概に言えないが、日本人だったらねじ伏せられた方は根に持つだろうが、かの国ではどうなんだろう。

「それでも 地球はまわっている」という言葉は有名だが、もし、アメリカで進化論の教育が否定されたとしたら「それでも 生き物は環境に順応していく」というべきか、前にも書いたようにペット(犬 猫など)を自分たちの都合に合わせて作り変えていく人間は神の領域に入っているんだろうか。

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2005年12月20日 (火)

家庭看護の講習

ビルの窓からポカポカと日が差し込み、その向うに真っ青な空の下 穂積神社から高山にかけての稜線が、そして、麻機の羽高団地の奥に建設中の第二東名がくっきりと見える。

こんな日に今年納めの山登りをしたかったなあと歯軋りしていた。

今日は、静岡日赤の県支部六階の講習室。約50名の男女が机を並べている。家庭看護のフオローアップ講習会と言うことで、説明によると御殿場 下田までの介護員300名に呼びかけたうちの応募者だとの事であった。

昨年の5月に4日間の缶詰講習をうけた自分にも呼びかけが来ていたので参加したのだが、やはり、介護の仕事をしている人に比べれば、1年半何もしていなかったので忘れていることが多々ある。

風呂の入れ方、着替え、車椅子の操作の仕方と一日何度もやらされてどうにかこうにか終了した時には、こちらが介護してもらいたいほど疲れた。

そもそもこの講習に参加したのは、まず閑であったこと、ついで、自分が介護される立場になった時、少しでも知っていれば、迷惑を少なくして良いおじいちゃん、可愛いおじいちゃんとして点数を稼ごうと言う魂胆からだったので、しっかり覚えようという意識が低い。知識を家族の介護に役立たせようとする人や就職の糧にしようとする人から見ると、いわば、異質の受講生であった。

若い頃、救急法の受験をしたときは相方の人工呼吸の練習ををしていて肋骨にひびをいれ病院送りにしたこともあり、どちらかと言うと手加減のしにくい人、デリカシイーに欠ける人と言われる自分には、願わくば今日の知識が役立たないことを祈る。

一年半前、受講が一緒だった唯一の男性とバス乗り場まで一緒していたら宝くじ売り場で今日が最後ですからとおね~ちゃんに引き止められ、なけなしの財布から10枚買い求め今年の運勢を占うことにした。

俺って脳天気?

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2005年12月19日 (月)

赤富士

PC220053 4時を過ぎた頃から富士山頂が赤みを帯びてきた。昨日もその前の日も同じような赤富士となっていたに違いないが、薄ら寒くて外に出ていないため見ていなかった。

元清水と静岡の市境にある梶原山は、夕焼けによる赤富士の絶好のポイントの一つである。背中に沈む夕日と富士山を結ぶ直線状にあるため、満遍なく赤くなり絵葉書的になりすぎて面白くないと言う人もいるが、綺麗なことでは他の位置にひけを取らないだろう。

富士は周りの空も含めて35分過ぎまで桃色がかった赤から深紅に染まっていくが突然下から黒くなり始め光を失う。

山頂横の空はまだ赤みを帯びているが「自分の出る幕は終わった」とでもいうかのように青黒くなり闇に沈んでいく。空も遅ればせながら幕を下ろし、観客は帰り支度をする。

富士山は、浅間神社の御神体でありながら大日如来でもあるという。八幡神社の御神体が応神天皇 神功皇后であるのに八幡大菩薩となったように、古来の神が実は仏が別の姿をとって日本に現れた。とする神仏習合を八百万の神を承認する日本人は何の疑問も抱かずに受け入れたようだ。

そして今日、山梨県と静岡県が先の「世界遺産」の認定に富士山がもれたことから今度は世界文化遺産にしようと連携する会議を持ったそうだ。

富士山が世界遺産にもれたのは、あまりにもごみの山で有名になりすぎたことにあるそうだから、裾野を含めて綺麗にごみ掃除をしてからにしないといけないのだが、産業廃棄物を含めてその量は膨大なものになるという。

最近山登りをしていても、登山道を含めてごみを捨ててくる人は少なくなったが、建築、建設業界を主とした企業モラルの低下は山にも及んでいるようでここら辺が大きな鍵になってくることと思う。

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2005年12月18日 (日)

六十は耳したがう?

むかし孔子さまという非常に理屈をこねるのが上手なお人がいた。

その人は自分の一生の節目を次のように述べている。

吾れ十有五にして学に志、三十にして立ち、四十にして不惑(まどわず)、五十にして天命を知り、六十にして耳順(みみしたがう)、、、、、、、と。

これを見ると寿命の短い時代にしては、気の長い話しに見える。自分を当てはめてみると好んではいなかったが6歳から学校に行かされ、30歳を遡ることかなり前に立つことを知ったが、40、50を過ぎても惑うし、天命も分からないままできた。

したがって、60歳をかなり前に通過したにもかかわらず人の言うことが素直に聞けない、この辺が孔子さまの偉い所か。逆に「忠言 耳にさからう」の状態で何時になったら耳順になることやら。

しかし、自分たちへなちょこの場合、社会に与える影響は高が知れているが、一国の総理大臣ともなるとその影響は大きい。

「靖国参拝」に関して「理解できない」として余計な摩擦を引き起こしているが、自分から見ると「理解したくない」のであって、60歳をかなり前に過ぎた宰相も孔子さまから見れば「まんだ 吾の領域には届いていない」と優越感に浸っていることと思う。

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2005年12月17日 (土)

雪がふる

今夜も頭上には、十六夜の大きな月と星が瞬いている。

北陸を中心に雪が降り積もっていると言うのは、ここにいる限りでは信じがたいことである。雪は本来人間の活動を邪魔する厄介者であったが、近代になってスキーを初めスポーツが盛んになるにしたがって利用価値が出て来た。

今年は、最近になく早くから降りだし、積雪量も多いようでスキー場関係者にとって久し振りに安心して正月を迎えることができそうなシーズンである。

”津軽恋女”という歌には、こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つこおり雪と津軽では七つの雪が降ると歌っている。雪の名は地方によって違うかもしれないが、自分の解釈では実際に天から降ってくるのは、このうち始めのこな雪 つぶ雪 わた雪に ぼたん雪ぐらいであとは地上に落ちてから変化するものだと思っている。

しかし、その前の句に”降り積もる雪 雪 雪また雪よ”とあるのは2メートル以上の雪を目の前にして、実際に雪国で生活した者にとって押しつぶされるような暗い気持ちを言い当てている。

夕ご飯の後、共同浴場に入った帰り道、街頭の下で空を見上げると一面の雪の中で細かい雪が顔をめがけて降り注ぐ、なんだか身体が宙に浮かんでいくような幻想的な感覚が今も覚えている。

本日は取りとめもなく雪の一面を書いてみた。

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2005年12月16日 (金)

ところ変われば品変わる

P1010015 長野で不祝儀事があり、当ブログを三日間の忌引き休暇にした。

静岡から約200kmはなれた地の葬儀は、風習も葬儀用語も違い、他の土地から来た者はただ手をこまねいてみているしかない。

所変われば品変わると地元の人があちこち手配をするのを眺めているうちに、時間感覚も次第になくなり、今日は何日だっけと言う状態になる。

まあ、この歳になると一応親類仲間では長老ということになるので、そうジタバタするわけにも行かない、みかん食ってお茶飲んで、コタツに入って格好だけは悠然として見せている。

おかげで、日ごろのペースがまるっきり狂ったためか、今度は通じがなくなってしまった。トイレは母屋から離れた所ににあるため、零下3~7度の外に出て通うのだが、あったかい室内でゆるんだ身体にはつらい。

葬儀当日は、この長老なるものが災いして「座見」という役ががあたった。いぜんは重要な役回りだったらしいが、今では形式として残っている役だと言うので引き受けたが、これがなんのなんの寒い役回り、さすがに寒さには強いと豪語していたが膝頭にガタガタの震えが走り隠すのに一苦労した。

見上げれば、浅間の山が青空にくっきりと輪郭を浮かび上がらせ「どうだ 参ったか」と笑っていた

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2005年12月13日 (火)

アイゼンだらけの足跡(雨ヶ岳)

P1010011 「おっと、今日は駄目かな、朝からちょっと調子の悪いことが続いているからな。まぁ雨ヶ岳が駄目なら引き返して竜ヶ岳、それが駄目ならまた来りゃいいさが今日の目標だから、、、」(道の駅から見た雨ヶ岳山頂)

帆足峠から、小さなデボを越えて雨ヶ岳に上ろうとしたとき、日曜日に登ったらしい多人数の足跡が全てアイゼン(飛騨ではカネカンジキという)をつけている。それも6本8本以上くらいのものを、これは上のほうでは凍っているんだろうか、今朝も静岡山梨の県境ではー8度だったからな、と思いながら行けるとこまでと思っているうちに1,772mの頂上に着いてしまった。

雨ヶ岳は、富士五湖のひとつ、本栖湖から発して富士宮の西側に連なっている山脈の北のほうにある山で、隣は先日登った最高峰 毛無山のため高度がありながら無視されたところがあり、静岡の山に大抵はある団子状の標識も山梨百名山の標識もない。富士の展望もよく、岳樺に守られた二等三角点もあるのに、、

かえりは、次第に雲も多くなり、ほとんど日も差さない状態になり、気温も下がっている、富士山も上のほうが雲に隠れ、登る時見えた南アルプスや八ヶ岳も雲に隠れてしまった。かろうじて三つ峠山や先日登った越前岳が”こんにちは”と恥かしそうにしている下には本栖湖が波のしわもなく深い紺色で静まり返っていて、寒さをさらにつのらせている。

朝5時、外を見れば昨夜の続きで星が瞬いている。「よし出かけるか」リュックの中を確かめ、ご飯をそこそこに済ませて、家をでたのが5時30分。

P1010010 本栖湖の日の出に間に合った。今回は霧がないので湖面ぎりぎりまで降りて待つ、水の上を冷たい風が吹くので太陽が出るまで、草むらに隠れて様子を見ると富士山の左側にある雲が次第に焼けてくる。何度きても同じ風景はない、まさに「一期一会」とはこのことか、なんて柄にもないことを考えてカメラを取り出すと調子が悪い「しまった 電池切れか?予備の電池は車の中だし、取りに行く時間がない。まあ一枚でも仕様がないか」と言いながら写し、車に戻って交換。

つぎに、根原の駐車場に車を入れて、登り出したはいいが目的の登山口が見当たらない、標識もなく20分くらいの予定がうろうろと1時間費やし。上りかけて見た霜柱を映そうとしたら電源が入らなくなると言うアクシデントが連続した。そのため初めの文句になってしまった。

ちなみに、自分もこの日のために靴を新調した、店は近所の大きな雑貨屋さん、仕事のコーナーに防寒用の合成ゴムで作った2千円に少し切れる編み上げ靴である。このくらいの雪には至極調子が良かった。ただ、かかとの後ろがフイットしないため靴擦れを起こしそうになったので、絆創膏を張り靴下を一枚余計に履くとでなんとかした。

明日、カメラの修理にだしてみるまで写真はお預けか

(追)カメラ屋に電話して聞いたところ寒すぎて電池か部品が機能低下を起こしていると思うから、暖めてみてと言う返事があり、暖めてあちこちいじくったら回復した。結果的にはー10度をかなり下回っていたようだ。

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2005年12月12日 (月)

モット 愛して

木枯らしとだえて 冴ゆるそらより

地上に降りしく 奇(くす)しきひかりよ

ものみないこえる しじまのなかに

煌めきゆれつつ 星座はめぐる

先ほどから窓の外でかなり強い木枯らしが吹いている。

電気を消して外を見るに、ひところよりいくぶん小さくなった火星をはじめ、久し振りに賑やかな数の星がまたたいている。

子供の頃のような星空は望むべくもない。スバルも前は七つ数えられたし、オリオンも斜めに三つのベルトが目じるしだったが、今ではそれら全部が見えないほど町の明かりが強く、北斗はどこに、と目を凝らさねばならない。

しかし、キラキラゆれる星は上空が澄んで、風が強く吹いているあかしであり典型的な冬空を物語っている。

さて、京都 清水さん恒例の今年の一字というのが今日発表された。

応募が一番多かったのが{愛}だったそうで、管長さんが太い筆で見事に書き上げていた。テレビの解説では愛の付く人が活躍したり、めでたい結婚式があったりしたほか、子どもたちの受難から、もっと愛をという願いを込めて選んだ人が多かったのではといっていた。

愛とは、かなり抽象的な言葉でありいろいろな意味に解釈できる、とくに一字にするとその範囲が大きくなるし、この言葉を重要視するのは、どちらかと言うと女性に多いのではないかと思う。

男はというと語弊があるかもしれないが、愛という言葉を女性から言われると何か束縛されるような気がして、逃げ出したくなる。

また、国を愛すると言う意味で愛国という言葉もある。本来はいい響きを持つはずの言葉であるが、やはり抵抗感を持つ人がたくさんいる。愛というものはあくまでもこちらから自発的にする無償の行為であって、相手から強制されると、たじたじとするものである。

文豪ゲーテの最後の言葉として「もっと 明かりを、、、」と言ったそうだが文豪でない貴方は「もっと 愛して、、、」といわないでほしい。

最後にべサメ ムーチョをひとふし

べサメ べサメ ムチョ コモシ フエラ エスタ ノチェ ラ ウルテイマ べス 

私にキスをして うんとキスをして まるで今日が 最後の 夜であるように 

  

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2005年12月11日 (日)

横着なことよ

今日は高曇りで風は強くなかったものの日差しがないせいか寒々とした一日になった。

こんな日は近場の日帰りの湯が良かろうと藁科川上流の「湯ノ島温泉」に行ってきた。温泉は市営であるため「入湯税」をとらない、一日350円とごく安めに設定されている上、今日はお客も少なくのんびりと入ったり出たりで過ごしてきた。

P1010046 そして、温泉に行く途中、聞くともなしに聞いていたラジオから、昭和50年をピークに果物の消費量が減ってきているとの事であった。

ラジオだから詳しいデーターはなかったが、食べなくなった理由として、糖分の取りすぎとか、高価な果物ばかりになったせいかと思ったら、皮を剥くとか種を吐き出したり取るのが面倒くさいのが理由だと言う。なんと横着なことよ。

人間は本来横着モンであり、科学が発達したのも如何にすれば手が省けるかというところからきているものだが、食べることまで面倒臭がる時代になってしまったのだ。食べると言うことは人間三大欲望のひとつだというに、、、

まえに、小魚を食べなくなった理由のひとつとして、骨の始末が上がっていたが、この先どこまで行くんだろう。自分がこの世からいなくなる頃の食べ物は、全て味も素っ気もないサプリメントという錠剤になっているんだろうね。いい時代を過ごさせて貰った最後の日本人なんて言われないうちに、、、、、

そこで、思い出すのは海外で魚といえばオリーブオイルを敷いたフライパンに鱒をいれ、から揚げ状にした川魚料理しか食べられなかった頃「日本に帰ったら秋刀魚をじゅうじゅうと焼いて食べるぞ」「刺身を腹いっぱい食べてやる」というのが合言葉だったことを、、、、

果物をかじる時のさくさく感、口の中ではじけだすジュースや魚の焼けたにおいに夕焼けを思い出し「ご飯だよ!」って言葉を感じるのは我々でおしまいなんだ。

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2005年12月10日 (土)

子どもは風の子

北風小僧の寒太郎 今年も町までやってきた

ヒユ-ン ヒユ-ン ヒユルルン ルンルンルン

冬でござんす ヒユルルルルン

来週はまた寒波が押し寄せてきて寒い一週間になるという。自分たちが子供の頃、「子どもは風の子!外へ遊びにいっといで」とほっぽりだされ、青洟をすすり上げながら、どこかに仲間はいないか、焚き火はないかとあちこちうろついたものだった。

まさにこの時代は、犬と子供は外、猫と年寄りはこたつで丸くなり、父さんは床の間を背にドンと座っている、ときまっていたものだが、今はみんな家の中、蛍族の父さんだけが外という風に変わってしまった。

いま、子どもの受難時代。全国あちこちで訳もなく幼い命が絶たれている。その対策も立てようがないらしくうちに帰ったら外には出ないようになんてところもあるという。子供は、外で遊んで身体を鍛え、いろんなものを見て考える力をつけなければならないのに、、、、、

家の中ではすることに制限がかかり、どうしてもテレビゲームなどにかたよってっ仕舞うだろう。その結果仮想現実の世界にのめりこみ、独りよがりの傾向が強くならないだろうか。

子供同士の付き合いも廃れ、受動的な刺激だけを追い求める、、、、、おおこわっ!

今日も京都の学習塾で若い講師が小学生を包丁で刺したという、子供を相手に包丁を持ち出さなければ解決できないと思う男の精神状態はどうにも理解できないが、この年頃は、行き詰ればすぐにリセットしなおすように出来ているのだろうか。

いくら、カーッときたにしても後先を考えるだけの余裕がなかったか。刃物は子供を刺すためにあるのじゃない!。

このくらいの年頃から完全に刃物から離れて育っている。以前は「肥後の守」という二つ折りのナイフは誰でも持っていて、鉛筆を削ることを始め木工細工など日常普段に使い、少々の怪我をしながら刃物の恐さ 便利さを憶えたものだが、、、、、、

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2005年12月 9日 (金)

どうすんの

”みずほ信託”が一瞬にして300億円ほどの損失をだしたという。

すごいもんだね、これも、デジタルの恐ろしい所。ボタンを押して「しまった」とわかったけれど、そのときはすでに遅しだもんな。

まさに、幸運の女神に後ろ髪がないを地で行っているいる。

人間は間違えるもの、これに対する対策が出来ていなかったことが原因。

でも、巨額すぎるけどお金だけで済んだことだから良い(自分の金でないから平気で言う)これが、原発なんかだったらどうすんの。

それにしてもこれだけ巨額の損失を出しても、会社が倒産するなどと騒いでいない所を見るとあるところにはあるもんだな、と感心するやら驚くやら。

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2005年12月 8日 (木)

チュチュンがチュン

P1010055 チュチュンがチュン 

電線にスズメが三羽とまってた

それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ      オットットト ヨイヨイヨイヨイ

子どもが小学生だった頃の流行り歌(確か電線音頭?)だったから、昭和48年頃だったかな?あまり沢山電線に止まっているのを見て思い出して パチリ。

ひさしぶりの天気に雀たちも日向ぼっこらしく、あまり騒ぎもせずにじいっと並んでいた。

雀などは、子沢山だが大量に増えたとは聞いていない。以前に比べると人間がとらなくなった分増えてもいいはずなんだけど、やはり自然はきびしいのかなと考えさせられる。

そして、日本人は少子化とかでこれから減少傾向にあるというが、どうしても増やさなければならないものなのか?一時的には老人が増えすぎる時期もあろうが、それを越せば安定するだろうから。

それにしても、戦争中は「埋めよ増やせよ」で5人以上が普通だった時代を超えると、今度は「産児制限」だといってサンガー夫人が引き合いに出され、そしていま、少子化対策とめぐるましく政策が変わる。

そのときそのときの絆創膏は、いいかげんにして長~い目で見たらどうなるか、わけのわからない”有識者"の意見が聞きたい。

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2005年12月 7日 (水)

白い花が咲いていた

P1010064 今日は仙谷山(1,509m)と青笹山(1,550m)へ行ってきた。

12月4日の雪と寒波で静岡 安倍川沿いの山も軒並み白くなっていたが、今日は等高線も緩んだとので青笹山を目指した。

自分の山登りに珍しく同行してくれる人もいて、楽しくのんびりとした山行きになった。

安倍川沿いに40分ほど行ったところで右側に別れ、有東木の集落を越え葵高原から征木峠まで車で20分くらいか、葵高原の付近から道片に白いものが少しづつ増え、峠の駐車場は少ないながらも一面雪で真っ白であった。雪が降ってから自動車も上がっていないのか轍はあるものの人の足跡はない。

新雪に点々と兎とテンかイタチのよう足跡が続く、こんな所を見ると動物も藪の中より歩きやすいところを好むようだ。雪は次第に深くなり10cm前後、40分ほどかけて地蔵峠に到着。休憩を兼ねて地蔵様に無沙汰の挨拶をする。賽銭はいつも通り10円。

ここから、仙谷山は、急登すること20分ほどあっけなく頂上に着く、風はないが空気は冷え、他に人がいないせいもあってシンと静まり帰っている。これからしばらくは尾根筋を歩いた後降りに入り細嶋峠。こちらも人の足跡がないところを見ると今回の山行きは我々の独占するところらしい。

連れは、雪道に弱いと言いながらモクモクと休まず歩く、うつろぎ山の手前の立ち木に白い花が咲いたように樹氷が輝いているのを励みにしばらくは無言。

安部川筋の山はいずれも山頂を雲の中に隠していたが、富士山だけは僅かの時間であったが挨拶をしてくれる。約2時間半で青笹山頂上に到着、南西に清水港から三保半島を望みながら昼ごはんを取り、身体が冷えてきたので早々に下山にかかる。

滑って転んで雪まみれになりながらも楽しい山行きであった。全工程4時間と少しか。

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2005年12月 6日 (火)

機械におべっか

○ 人民の酒 焼酎は 安くてまわりが速い

   焼酎よ 高く立て そのかげに 涙あり

   オールドよ さらばされ われらは 焼酎まもる

上の句に、すっと節が付いて歌えたらあんたはロートル。

達磨のオールドが憧れのウイスキーで、ジョニ黒なんて雲の上の存在であり、焼酎に今みたいな高級品がなかったころ、やけくそで歌った替え歌だった。そして、自分の周りだけのローカルな歌だと思っていたら、少し違ってもあちこちで歌われたことを最近知った。

「うたごえ喫茶」あたりから広まったのだろうか。いまでは、カラオケと言えば世界の共通用語であるらしいが、その前のうたごえ喫茶はみんなで歌うのが主流だった。

”うたごえ”のいい所は、たとえ下手でもみんなに混じればなんとなく上手に歌えたような気がするところである。それに比べてカラオケは個人技であり、親切に採点までしてくれ「あんたは下手!」と念押ししてくれる。まことにお節介な機械である。

ただ、どんなに下手に歌っても60点以下はないようだから。少しは気を使っているのかな

酔っているとはいえ、機械の採点に一喜一憂し、どんな風に歌えばこの機械は点数を高く出すかなんていっている所を見ると人間の将来像が垣間見えてくる。

先ほども、一年ぶりに年賀状のデザインなどを作るためあちこちを適当にいじっていたら、パソコンのやつ気を損ねたらしく、何処を押しても”ポンッ”って乾いた音を立てて言うことを聞いてくれなかった。

これからは、パソコン様にときどきおべっかを使い機嫌を取らなくてはならないか。

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2005年12月 5日 (月)

デイトレとは

いま、空前の株取引のブームだと言う。

デイトレという言葉があるそうだ、主婦や若い人を中心に一日のうちに何度も株を売ったり買ったりするためパソコンに噛り付いているそうな。

株というものは親が持っていたものを、処分する際に一度売っただけの自分には縁のないものであった。しかも、その代金の支払いを農協の通帳にしていしていたら、貧乏人と見くびったかカタカナにすると同姓同名の人の通帳に振り込まれたという馬鹿らしい記憶までがおまけについた。以来株と言えば野菜の蕪しか扱ったことがない。

そんな自分が株のことを言っても説得力がないが、1990年に始まったバブルの崩壊はよく知っている。土地や株を材料にしたマネーゲームの結果、それが立ち行かなくなったと分かった時から下落が始まった。

当時お金がなくても銀行が貸してくれて、土地や株は買いさえすれば儲かると催眠商法まがいにけしかけ、何でもかんでも金になると投資をした。

それから15年、10年ひと昔と言うようにあのときのことを忘れたか、それとも世代交代で記憶にない人なのか知らないが、若いI T長者が出て勝ち組負け組みと色分けされる中で、勝ち組の尻馬に乗って一儲けをたくらんでいるが、あの世界はそんな生易しい所ではないはず、火傷をしないように忠告しておこう。

今日は、モーツアルト忌という。モーツアルトの旋律は人を癒す効果があるという。もし万が一株で手痛い目にあったら、アイネクライネナハトムジークなど聞いて泣いて眠りなさい。

「わたし(アイ)は暗いね 名は富じゃない」と

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2005年12月 4日 (日)

かかとがザラザラ

P1010042 真冬並みの寒気が入ってきたとかで、各地で雪が降り積もっているようだ。

ここ、静岡でも、竜爪山(1056m)のかなり下まで自分の頭のようにゴマ塩になっているのが見えた。たいした積雪ではないのだろうが、いつもは年明けに降りだし、三度白くなると春が来るといわれていただけに、今どきの雪は場違いな感じがする。

冬と言えば、以前は水仕事をしていても荒れることなんかなかったのに、ここ2~3年は足のかかとが角質化してザラザラするようになった、それも、次第に早くなる、今冬はもう始まった。

医者様によると、油気がなくなったのではなく、細胞に水分が滞留しなくなったためだといい、老化現象のひとつだという。

前に、外傷の直りが遅くなったと言ったら「気持ちはどんなに若くても、身体は年をとっているのだから仕様がないことです」と言われたことがあった。

悲しいね、生物の中で死というものを意識できるのは人間だけだと何かの本で読んだことがあったが、その人間も徐々に来る自分自身の老化はなかなか自覚出来ないし、したくない。何時までたっても若いときにように走れたり、重い者を担いだりできると思ってつい怪我をすることがある。

加減を知る年頃だから、思っていることの八分目を心がけるのは何も腹だけではなくなった。

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2005年12月 3日 (土)

ウオームビズ

P1010021 暖かい土地と言われる静岡市でも昨日初氷がはったとか、気温は三度ほどだったが、地表は零下だったのだろう。北の方から寒気が確実に下がってきたようだ。

その中を市町対抗の静岡駅伝大会があり、選手がすぐ後ろの街道を駆け抜けて行った。昨年までは確か村が幾つかあったが、市町村合併で村の名前で走るチームがなくなったのは時代の流れか。

今朝の新聞によると、道州制になると県がなくなるとのこと、あまりの変化に地図を買っても、毎年名前や区分が変化するので電化製品みたいに買物をするタイミングを計って買い控えているが、この調子で行くと何時までたっても地図は買えないのか、早いとこ安定してほしいものだ、受験を控えた今の学生に同情をする。だって、訳の分からない名前に変わるのだからね、、、、

さてと、今年は早くから夏の省エネとかで「クールビズ」なんて可愛い子ブリッコの大臣が、故小渕官房長官みたいに紙に書いた文字を見せていたが、評判が良かったのに気をよくしてか今度は「ウオームビズ」だとおっしゃる。

たしかに、化石燃料を消費し続ければ、孫子の代という前に地球温暖化(原因がまだ特定されていない)を加速させることは想像できる。しかし、一歩町に出ると、あちこちで”ルミナリオ”とかなんとかいって電気の球をキラキラ光らせているし、ちょっと奥にはいるとこれまた庭から屋根の天辺までまぶしい家がある。

どのくらいの電気代がかかるか知らないが(電気代はその人の勝手)ハデハデしいことこのうえもない。これでは、寒さをこらえて明かりにをつけて、ちっとも省エネになっていないと思うが、これ如何!

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2005年12月 2日 (金)

殿様商売

いまでこそ静岡市内いたるところのコンビニが普及して他の都市と遜色がないように見えるが、コンビニの開設が最も遅れたところは、静岡であったことは間違いないだろう。

昭和50年代の前半、娘が水泳する時にかぶる学年帽?(学年ごとに色分けしてある)が必要だとの事で、スポーツ用具の店に行って「この色の水泳帽子が欲しいのですが、、、」と言った所、店の奥からやおら出てきた中年の男性が「ありません」と言ったきり奥に引き返した。

これには、なにかの聞き違いかと思って、唖然としながらも店の陳列棚を見ていたが最後まででてこなかった。少し待ってください取り寄せますからとか、どこそこの店ならありそうですからぐらいは他所では言う。

また、夏の暑い日に現場の仲間と冷たいものが食べたい、と近くの八百屋に行って店の主人に「おじさん、この西瓜3ッでいくらにする?」と聞いたところ、三個分の値段を言った。思わず言ったね「そんな計算なら誰でも出来るわい」と。

静岡は、昔から殿様商売しか出来ない主人が多い。また、買うほうも値段を値切ることが恥ずかしいそうだ。そのため、他と比べると物価が高い。

こんな人たちが、コンビニ導入や大規模店舗の進出に抵抗し、審議会の委員に嫌がらせをするなど妨害し、異常な行動を取ったことは記憶に新しい。

最近、市内にあるデパートが近くなくなりそうだと言う話しと郊外に大規模店が出店をし、さらに他の計画があるそうで、市内の商店主が市議会に市街地が空洞化する、お金が他所に持っていかれると進出反対の陳情をしているそうだ。

物を買う側とすれば、安くて便利で、アフターサービスが行き届いた店を望む、その辺の意識改革がなければ、早晩に淘汰されるのは目に見えているのに、、、。

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2005年12月 1日 (木)

一里塚

なんとまあ、今日が自分の戸籍上の誕生日であることを孫が言うまで忘れていた。

「戸籍上の誕生日?実際の誕生日は別にあるの」 今の人では不思議な話しかもしれないが、以前はよくあった話で自分の周りには何人かそういう人がいる。

もちろん、御釈迦様ではないので本人は自分がいつ生まれたかは知らない、大抵は母親なりその身内から聞いているのである。しかし、父親から聞いたと言う人はいないようなので、戸籍を届ける側の失敗などを言いたくないと言う心境か。

ただ意識的に変えたのもあって、3月末に生まれたのを1ヶ月ほど遅らせて遅生まれにしたり、12月末を1月1日にしたりはあったようだ。こういうことは、自宅で産婆さんの介助の元に生まれたファジイ?であったとおもう。

産院で医者の立会いで生まれるようになってからは、厳密に何時何分まで記され、こんなことはありえない存在のようである。

で、自分の場合はどうかと言うと、他の人は大抵生まれた日のほうが早いのに、戸籍の方が早くついているという(これは亡き母刀自が言ったこと)。このころは、生まれてからおちんちんがあるかないかがやっと分かる時代だったので奇妙奇天烈な現象だそうだ。ではなぜか、、、、、、、

60有余年まえのこと、生まれてからおちんちんを確かめ、どれだけかして名前を決め、町役場へ戸籍届けに行ったとき「生まれた日は?」と聞かれたんだろうと思う、そのときとっさに思い出せず適当に答えたと言うのが真相だったようだ。

ついでながら、幼少のみぎり「どうしてうちは、誕生祝いをしないの?」と聞いたところおやじさんは自分ちの貧乏を隠すため(?)即座に答えた「日本人は1月1日が誕生日なんだ。だからみんなでお祝いをする。数え年って言うけど昔は満年齢なんてものはなかった」そうか、年もみんなで越せば恐くないんだ。

この年になると、一休さんではないが「正月や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」というように誕生日だってのんびり喜んじゃいられない、忘れるくらいが丁度よいのだ。

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