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2006年8月31日 (木)

こまつなぎ

Img_0005_1 「もう、8月が済んじゃうの?早いことだね。静岡では一昨日で小学校の夏休みが済んだんだっていうよ、いつまでも夏ボケしてんじゃないよ」

「夏ボケなんてしてないよ、ただ、年がら年中しているだけだ、フン!」

秋もそろそろ見えてきた今日、麻機沼の東側へ足を延ばした。

ここは、近年になって(といっても40年くらいになるか)静岡の食品などを扱う問屋街、流通センターや、塵焼却場とそれに伴うプール施設、ヘリポートなどが出来て、趣が随分と違ってきた、ところである。

しかし、その北西側に遊水地をつくり、ついこの間までは蓮の花が結構咲いており、他の花を愛でるためには格好の散歩道が作られている。

ここ一週間ほど、背丈ほどにも伸びていた草の刈り取りが行なわれ、見晴らしがよくなったのと、干草状態になった草の匂いが心地よい。

腰掛けて目をつむれば、幼いころ伯父の家で農耕馬の飼料にするため刈り取った草を秣小屋に引き込む時の情景を思い出す。

そう思って、周りを見わたすと駒繋が赤紫の花を、あちこちで咲かせている。

コマツナギ、一寸見には萩に似ているが、これでもれっきとした木だという。茎、根共に丈夫に出来ているため、馬の手綱を結びつけておいても切れない所からとも、この木の葉を馬が好む所から、放っておいてもこの草の周りから離れることがない所から付けられたも言われている。

花をアップすると、最近咲きだした葛にも似ている。

はじめてこの花の名を聞いた時は、どんな字が当てはまるのか分からなかった。薙ぎの木の親類筋なのかとも想像したが、正確には、駒繋と書くようだ。

最近は分類上とか言うことで、カタカナ読みに表記するようになってしまい、頭にミヤマとか、タカネが付いたりすると図鑑によっては親類筋でもズーッと離れた場所に移動してしまい、探すのに一苦労してしまう。

自分としては、読み間違えたり、読めなかったりはするが、漢字表記は付けたときの気持ちがわかって良いように思い、自分のマイフオトでは表題に漢字を使っているのだが、これも”胡豆の歯軋り”でしかないのだろう。

いずれにしろ、小さい花を大きく写すとまた違った発見や味わいがあり、今日もおじいさんは野山を徘徊している。

これで、もう少しボケが入ると恐いものがあるよ。

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2006年8月30日 (水)

素直は身を滅ぼす

昨日だったか、アメリカで”ジョン.ベネちゃん事件”の容疑者として、逮捕されていたカーという人がDNA鑑定の結果、関係ないと分かった、と報道されていた。

この捜査はもともとがいい加減なものであり、これが、アメリカ流かと思わせる典型的な事件のようだ。

日本でも、交通事故の容疑で裁判中に、友達が物的証拠を探し出して無罪が証明された事件があった。(彼はいい友達を持ってよかった)

科学捜査とはいいながら、これでは、かなりの部分で感と思い込みにたよる江戸時代さながらの杜撰な取調べがあると見える。

7月に、イギリスで航空機テロの容疑で20人余の人が逮捕され、その後危険があるとして、飛行機に乗ろうとしていた一般乗客が世界中でペットボトルに入った水溶液を捨てさせられている映像が報道されていた。

あの時逮捕された人のその後は、二人が容疑なしとかで解放されたとは聞いているが、ほかは音沙汰なしである。

まさか、1年前のロンドン同時テロを思いださせるためではないだろうな、とか、政府の支持率が落ちているため、外に眼を向けさせるためではないかと感ぐらかさせる。

というのも、最近ではイラク戦争の原因となった「大量破壊兵器」も結局はなく、アメリカ政府による戦争に踏み切る口実だったことが明白になり、その後の幾万人とも知れない血が流されることになった。

このほか、日中戦争の口火となった「盧溝橋事件」やベトナム戦争の「トンキン湾事件」など数えればきりがない。

国のすることは、「ほんまかいな」と疑ってかかるのが鉄則。

アメリカ牛肉の感想を求められていた人の中に「”国が大丈夫だ”といっていたから大丈夫だ」と答えていた人がいたが、「そんなに信頼していいの?、自分の身は自分で守らなきゃ」     

素直は身を滅ぼす元だよ。

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2006年8月29日 (火)

てふてふ

Img_0135 蝶々~蝶々~

菜の花にとまれ

菜の花にあいたら 

さくらにとまれ

好物のヒヨドリにつかまる浅黄斑)

こんな出だしの童謡があったが、いつも疑問に感じていた。

菜の花の咲くころは、まだ寒い季節であり、たまに見かける蝶々は、紋白蝶ぐらいしかいない。その蝶は確かに菜の花畑で、さも自信が無げにひらひらと飛んでいるが、桜の花につかまっているのはいまだかっておぼえがない。

この自信なさそうにひらひら飛ぶさまを表しているのが、”てふてふ”と言うのではなかったかと思う。

それにくらべると、夏場の蝶のすばっしこさはすごいものがある、セセリチョウがその代表だろうが、先日テレビを見ていたらアサギマダラという種の揚羽蝶は、確認されているもので千キロ以上を飛んだものがいたという。

この蝶は、羽が丈夫なので、捕まえたとき羽に文字を記入して放し、再度捉まえた所を、直線で結んだ距離だとのことだから、寄り道していれば、もっと飛んでいることになる。

アメリカでも、オオカバマダラというのがやはり何千キロと飛んでいるようなので、あのひらひらを見てバカには出来ないものだと感心した。

2~3日前だったが、立派なデジタル一眼レフカメラをもった人が、自分たちの休んでいる場所に来たので、いろいろと聞いてみたが、この人は蝶専門に写しているそうだ。

ところが、蝶を専門にしているだけあって、野草の名前にはあまり関心がなく、蝶が好きな花、卵を産みつける草など以外は、、、、といっていた。

そこで、本日は自分が花の付け足しで写したもののうち、一番派手なアゲハを載せてみることにする、間違っていたらゴメン。

 Img_0089_1 Img_0003 上 深山烏揚羽 下 紋黄揚羽                                 

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2006年8月28日 (月)

天地はじめて寒し

Img_0156 今日は七十二候で「天地はじめて寒し」だという。

あまりにもの当たり振りに驚かされる。昨日長野でこんな朝を迎えたので、「さすがにこちらは涼しい、また静岡に帰ればうんざりするんだろうな」と話したばかりだったが、こんなに暦どおりに涼しくなるとはネ、(農薬散布の周りを飛ぶツバメ。小さい黒い点が、、、)

散歩していても、いつもの半分も汗をかかない。農家の方も稲穂が出てきて、虫送りの季節なのか、あちこちで農薬をポンプで噴霧していた。

この農薬で、虫が苦しくなって飛び出すせいか、田んぼの上を燕が沢山飛び交っている。

その数、ざっと見ただけで30羽くらいもいる。大丈夫なのかと心配しながら見ているのだが、燕も農家の人もお互い無関心、自分の作業に没頭している。

農業や農薬については一切の知識がないが、以前にも農薬の使用によって水辺の生物が減少したり、いなくなったという記事を目にし、最近では低毒農薬と下水道整備が進んだため、魚をはじめ水棲動物が戻ってきたという話も聞いているのだが、虫が逃げ出すくらいだからまったくの無害ではなかろう。

一方で、食物の自給率が40%を切って輸入食物に頼っていると聞くと、何とか自給率を上げたいとも思うし、爺ちゃん婆ちゃん主体の農業ではむかしのような農作業は、自動車交通を自転車に戻せというに等しく無理な話であり、兼ね合いの難しいところである。

ともあれ、道端にはトンボや蝉も行く夏を悟って天寿を全うしたかのように落ちており、子どもも夏休み最後の仕上げにかかっている様子。

そのなかで、我ひとりのんべんだらりは少々恥ずかしいような気がする。

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2006年8月27日 (日)

入笠山(1,995m)は人だかり

Img_0131 視界10m前後深い霧の中から突然対向のゴンドラが現れてすれ違い、瞬時に霧の中に音も無く消えていく。

前後左右上下まるで灰色の世界、下にときどき草地やむき出しの地山が見えるのと、前方に現れる対向ゴンドラとそれを支えるポストが現れガタガタと揺することで自分の乗っているゴンドラが上へ上がっているのが分かるくらい、静寂で一種浮遊状態とも言うべき不思議な感覚。

ここは、冬になるとスキー場になる”富士見パノラマリゾート”の山頂に向かうゴンドラの中である。

始めは、自動車で向かっていたのだが、中腹から上が濃い霧が撒いており、しばらく慎重に上がっていたものの、ますます濃くなる霧と初めての山道ということもあって、諦めて下に降り、ゴンドラで入笠湿原を目指すことにした。

不思議なもので、終点で降り立ったとたんに霧が薄れはじめ、薄日が差し出した。

標識に従って、唐松林を10分ほど、ほとんど上り下りなしで目指す入笠湿原に到着しする、あまりあっけないのと観光客の多さに、高い山に来たという実感が無い。

Img_0089  それでも、木道の周りは沢桔梗、松虫草、蝦夷竜胆、曙草など数々の花が咲き乱れ、標高1,775mの高かさを示している。

ここは、帰りにゆっくりと見ることにし、目的の入笠山に登ることにする。

入笠山と書いて「ニュウカサヤマ」と呼ぶそうだ、標高は1,995mともう少しで大台に乗るのだが、すぐ傍まで放牧場になっており、そのための道路もついていて、湿原から40分ほどで行ける山である。

そして、その便利さ、簡易さが受けてか格好な観光登山が出来る山として、簡単な装備ともいえない格好の人がバスガイドらしき人に連れられて来るは、来るは、で大賑わいを呈することもあるという。

山頂一帯は、踏み荒らされてか、地山まるだしの状態であったが、その周りはやはりお花畑が維持されていて、白山風露、山母子草、胡麻菜、野紺菊などを見る。

しかし、あまりに多くの人に呑まれ写真だけ写して早々に下山し、山小屋前の人気の少ないベンチで、ビールの祝杯とコンビニおにぎりで昼食をし、鳥兜と円葉岳蕗の多い道を引き返し、湿原に戻り約2時間ほどゆっくりと回ってきた。

今回は深い霧のため展望が利かず、花の時期としてもまた別の時期が良いそうなので再度別な方からチャレンジすることを期してゴンドラに戻った。

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2006年8月26日 (土)

事故にはもっと敏感に

紙を裁断するシュレッダーで指を切断する事故が増えている、と報じられている。

書いてある字が分からないように細かく裁断するため、刃の構造が複雑になっているので一度挟まれたら最新の医学でも修復不能になってしまうようだ。

ことに、骨の柔らかい幼児の場合、それは深刻なものになる。

自分の身内にも30数年前、同様な事故があっただけに考えただけ、聞いただけで寒気がする。

以前、新聞に載っていたが、アメリカで身体を洗った猫を早く乾かしてやろうと、電子レンジ入れて死なせてしまった女性が、「猫をいれるな!」という説明がなかったとして訴え、巨額な賠償金を請求し認められたことがあった。

当時は、何でも訴訟に持ち込むアメリカ社会の典型といわれ、猫を電子レンジに入れる常識のなさ、知識のなさ。そして何よりも懲罰的判決が話題になったのを覚えている。(作り話だと言う説もあるが確認していない。しかし、マクドナルドのコーヒーで火傷をして訴訟になった話もあることから、かなり、訴訟の多い国であることは間違いない)

今回の事故に関して、企業側が「稀な事故」「想定していなかった事故」と釈明していたが、この事故がアメリカで起きていたとしたら、こんなノンキな会見ではすまないはずである。

さらに、近い将来、普通の人が裁判にかかわることになると、懲罰的判決も下される可能性が出てくる。

同様なことは、ガス湯沸かし器やプール事故などにおいてもしかり、

前にも書いたことがあるが、ハインリッヒの300事故の法則を当てはめると、最初の事故で気がつくべきであった。それを怠ったのは、売る方にだけ力をいれ、アフターケアの情報をおろそかにしたせいだろう。

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2006年8月25日 (金)

格差は活性化の元?

Img_0058 「同一労働 同一賃金」これは、昭和30~40年代の若い者がなにかのたびに口にしたことだった。

とくに、自分たち企業内労働組合の青年部では、学生運動をはじめ、社会の矛盾に対する世間の風潮もあって、よく口にした言葉だった。

先日、日経連前会長であり、豊田自動車の前会長だった奥田氏が講演で「格差は活性化につながる、金儲けこそ活力の源泉で、成功者を嫉妬せず賞賛をすることが経済繁栄に不可欠である」といったと、新聞に載っていた。

さすが、小泉総理の後ろ盾、大成功者は言うことが違うと思ったね。

いまの世の中の、格差は官僚のキャリアーとノンキャリアーのように、初めから勝ち組負け組みというコースがあって、正社員とそうでない雇用者の差が永久に縮まらないことにある。

傍目で見ていて、同じ仕事をしているのに待遇の面で格段の差がある。

世の中は全て、その人の立場から物を見ているのであって、被害者は加害者の立場に立つことははなはだ難しく、その反対も難しい。そして中間に立つ裁判官的な人もどちらかに偏っていることは、いくつもの裁判が証明している。

いま、奥田氏が勝ち組の頂点に立っての意見であろうが、ライブドア事件、村上フアンド、そして、新たな形で始まった、幾つかのTOBは金の力で、、、金さえあれば、、、の風潮は金儲けに成功者した者の驕りではないだろうか。

それを煽って行く先はどうなるのか、フランスやアメリカをはじめ各国で何かというと暴動になり略奪や破壊が下町を中心に起こるのは、虐げられたものの不満のはけ口がないところから来る。

それで良いという訳ではないが、京都や高山の豪華な山車や屋台は格差の激しかった時代に庶民の打ちこわし(暴動)を恐れた当時の旦那衆(豪商)が作らせたものだという。

今の世、無気力で声も行動も表に出さない民衆も悪いが、不満は深く沈みこんでいることを、政府や成り金は肝に銘じておくことをお勧めする。

いま(4時)北西の空が暗く雲って雷がなっている。最近はやりのゲリラ的集中豪雨にならなければいいのだが、、、

空に不満がたまって、一気の豪雨は世情を反映しているかも。

と、思っていたらまたしてもおしめり程度で止んでしまった。歓迎するわけではないが”腰抜け天気!も少し意地を見せろや”

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2006年8月24日 (木)

身体が覚えてる第一

P1010081 二十四節季のひとつ処暑は、昨日だった。

「猛暑きびしくとも、勢いは止まり、冷風が吹き始める」とあった。たしかに、身体がなれたか行く異聞気温が下がったのか、言われてみると勢いは止まっている。

また、七十二候では、”綿の花しべ開く”とあったが、浅学の身、花しべがなんだか分からない。

きのう、宇津の谷で、三々五々手帳と電子辞書を持って散策していた中高年の人たちに聞いてみればよかったと、今頃になって思っているが、文字通り”あとのまつり”

さて、水泳と自転車は一度身体が憶えると、しばらくしないでいても忘れると言うこともないものである。

体力は衰え、バランス感覚も悪くなっているので、むかしのようにとは行かないで、ふらふらとよろめいてはいるが、、、、、

これに付け加えるとしたら、ラジオ体操があるのではないだろうか。自分たちが学校に行っていたときは、第一しかなかったので、第二の方は知らないし、大人になってから何度もやったことがあるのに、こちらの方は身につかなかったらしくそのたびに人の顔を横目で見ながらついていく。

そして、第一の方は頭で考えても手が先なのか足が先なのか分からないのに、音楽を聞くと身体が勝手に動くと言う感じである。

そのラジオ体操を、このごろめったに聞かない。前は夏休みに入ると各町内の人が集まれる場所で、朝早く、カセットテープで大音量の音楽を鳴らし、少しの大人や小さな子どもを含めた小学生が体操をしていたものだった。

まだ目が覚めないのか、だらだらとした動作の子も少なからずいるなかで、大人の方が真剣にやっている。

義務とされている、主人公の小学生は、体操が済んで持っていた小冊子にハンコを押してもらうと目が完全覚めたように急に元気になり、勉強が済んだら昼からどこそこに行こうと約束をしている。

こんな風景が消えてしまっている。何時の頃からだろうか。

たしか、自分の子どもたちはハンコを押してもらったはずだから、そんなにむかしではないはず。

理由は幾つかあるようだが、その中で一番多きいのは、音がやかましいと言う苦情と、地域のつながりがなくなったせいだと言われている。

しかし、本当の理由は、朝早くから起きて騒いでもらいたくない親と、夜遅くまで起きていて、とても起きられない子どもにあるようだ。

以前は理由もなく欠席するのは恥ずかしいことだったが、不登校同様親が子どもに「それ行って来なさい」と尻を叩かなくなって、参加しなくなったのだと見ている。

いつまでも、むかしは、、、、というつもりはないけれど、朝いつまでもダラダラとしているのではなく、生活の区切りという意味と、自分たち朝早く目覚めて身体を持て余している年寄りのためにもあってほしいものだが、、、。

少子化の影響ばかりではなく家の外で遊ぶ子どもを見かけなくなった昨今、野菜同様、季節の特徴も消えてしまったようで寂しい。

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2006年8月23日 (水)

十団子は小粒

Img_0047 ”十団子( とうだご)も 小粒になりぬ 秋の風     許六

境内の脇に小さな石に彦根藩士であり、蕉門十哲のひとりである森川許六の句が石に刻まれている。

今日は、宇津の谷、慶龍寺の地蔵御縁日。

そのむかし、東海道がこの寺の前を通っていたころは、さぞ賑っていたことと思うが、昭和のトンネル、平成のトンネルと国道1号が下を通るようになって、この地は街道からはずれ、静かな山里になってしまった。

そして、十団子のいわれとして次のような話が残っている。

いつの頃か、東海道は駿河の国、宇津の谷というところに鬼が住み着いて、峠を通る旅人を、襲っては食べてしまうため、人々は難儀していた。

あるとき、旅の僧が通りかかって、鬼と問答をし、大きい本性を見た後で今度はどのくらい小さくなれるのか、と言った所、掌に乗るくらいに小さくなったので、僧は持っていて杖で打ち砕き飲み込んでしまった。

それ以来、峠には鬼が出なくなって旅の安全が保たれてきた。

十団子は、このことに由来し道中安全は勿論全ての厄除けに効果があるとされている。

Img_0049 縁日は、今日の午後と明日の午前中とのことだったので出かけてみたが、割と閑散としている。手水の前にいた中学生くらいの女の子三人が早口に「お手水はこちら、花と線香は200円です」と呼びかけている。それを買って供え、本堂で十団子を分けてもらう。

十団子は、写真で見るように小さい、聞けば5mm程の団子10個を9連、一束になっているという手の込みよう、さぞ難しいことと思う。

とにかくご利益がありますようにと、玄関の上に吊るしてみた。

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2006年8月22日 (火)

「してはいけない」が、、、、

Img_0006 暑い太陽に背中を押されるようにして、農道を登る。(写真は屁糞蔓)

今日は、久し振りに麻機山の尾根筋を回って見る気になって、上がってきたが、農道が平らになった時点で気持ちが萎えてしまい、農道伝いにそのまま降りてきてしまった。

少しばかり薄い雲も出てきて、直射の日光ではないが風がない、草いきれで暑苦しい中に、牡丹蔓(ボタンヅル)が木に白いテーブルクロスをかけたように被さってあちこちの木に花を咲かせているし、屁糞蔓(ヘクソカズラ)とその名も可愛そうな花も、「わたしゃ、人でなく虫に好かれたらそれでいい」とばかりに咲き誇っていた。

中学のころ陸上選手は練習中は水を飲むなと言われたため、いまだに散歩ぐらいでは水も持たないで歩くのだが、汗びっしょりで下着はおろか、ズボンの腰周りまで濡れるほどになると、よる年波、水分不足は身体にこたえるらしい。

それまで、「してはいけない」と言われていたことが急に「しなさい」と変わることがある。

些細な例としては、上記の「水を飲むな」や「うさぎ跳びでお宮さんの足段登り」などがあるが、以前は何の理屈や説明もなしに鬼監督の慣性の下「根性根性ど根性」で指導されてきたきらいがある。

大きなものとしては、戦争に負けた途端、それまでの価値観がひっくり返ってしまったことなどが上げられる。

そして、九月になると自民党の総裁選挙があり、事実上の総理大臣が選ばれることになるのだが、新しい総裁はどのようにして、自分の特色を出そうとするのか、ひょっとして、いままで「してはいけない」とされてきたことを、自分の慣性だけで「しなさい」と変更して存在感を見せ付けようとするのではないだろうか。

最近、社会の右傾化、総理大臣の権力強化ぶりから見て不安になることが多い。

おりしも、夕方になって、黒い雲がかかりだし、八時前後に雷と雨が降ったらしいが、ほんのお湿りでしかなく、気温に影響するほどでもなかった。

日本の未来もこんな風だといい、というのはかなり「保守化」してきたのかな。

(操作間違いで”下書き”のままにしていたため記載遅れ)

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2006年8月21日 (月)

鷺の子別れ?

P1010004 ”グェ~グェ~”と突然不気味な音が道下の深くて大きいU字溝からした。

何事ならんとソゥーッと覗き見ると、二羽の中鷺が争っている、宙に飛び上がって足でけりあっているようだ。

負けたらしい一羽は少し離れた所にいて、逃げていく気配はない。再度、勝った方が近寄っていくとまた少し逃げる。そのうち見ていた自分に気がついたようで同じ方向に飛び去った。

飛び去ってから、カメラで写し損ねたのを残念に思った。

これは、想像だが、子別れの儀式だったのだろうか。普段鷺の仲間は何羽も集まっていても縄張り争いを見たことがない。

写真にも写しているが、他の種類の水鳥がいても追い出すようなことはない。

となると、大きさはほとんど同じに見えたが親子だったのだろうか、考えてみると卵からかえってまだ3~4ヶ月といったところか、食べ物から身の処し方まで全てを教えられたのか、後は自分の判断でやりなさいということか。

野生の厳しさは、また格別なのだなと感じさせる一場面であった。

野生の動物には、本能と言う見えないものによって突き動かされている。

たとえば、出産して初めて親になるのであるが、その途端いきなり母性本能というものに目覚めると言う不思議さ、その前の日までお腹が張って重いなと言うことしか感じていなかったと思う。

それなのに、子どもが出来た途端、哺乳類ならへその緒を噛み切り、身体をなめて乾かし、授乳すると言う一連の行動を済ませて、子育てにはいり。自分の判断で子別れをする。

誰もそばにいて教えてくれない以上、本能というしかない。そして、人間の場合、これら全てが、他の人の世話にならなければ出来ない仕組みになってしまった。

もっとも、自分のおばあさん世代の中には、畠で出産し、腰巻にくるんで帰ってきたと言う話を聞いたことがあるから、甲斐性がなくなったのはそんな昔の話ではないようだが、、、、。(この辺は男には分からないことなので、これ以上はかけない)

これは、霊長類などと威張っていてよいことなのだろうか。本能をなくしてしまった動物は、ちょっとした変化についていけず絶滅の淵に沈んでしまうのは目に見えている、と、クーラーで暑さをしのぎながら考えている。

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2006年8月20日 (日)

メタボリックが改善しない

猛暑 猛暑 猛暑ととどまることを知らないように天気予報はお日様マークを今週いっぱいつけている。

真夏日 熱帯夜とくれば、食欲も落ちて、メタボリックシンドロームも一時的に改善するかと思われるが、食欲は落ちてくれない。

このまま、秋を迎えたたらどうしょうかと、いまから心配している。

日が落ちてからの梢では、ヒグラシも鳴き始め、ススキも穂を出さんばかりにして、暑さとは別に秋が近いことを示していると言うのに、、、、、。

きょうは、甲子園で高校野球の決勝戦が行なわれたが、両雄譲らず再試合となった。

決勝戦で試合が決着つかず翌日に持ち越したのは37年ぶりのことだとか。

まさに、高校野球の球史に残る熱闘をした事になるのだが、自分の記憶では37年前のことは憶えていない。

かわって、昭和33年に準決勝だったが、徳島商業の板東と魚津高校の村椿の18回で決着がつかず、翌日も延長戦に入ってようやく結果の出た試合のほうが余程印象深い。

今考えてみれば、当時はまだテレビが普及していなかったはず、となると、ラジオを聴きながらの想像の世界だったのか、画面で見ていればセピア色の世界だったはずなのだが、、、。

自分も、そのころ高校生だったこともあるが、当時は、どの高校も地元の子どもが選手だったころで、いまのように野球留学なんてなかった頃の話だった。

土地が近いこともあって、村椿投手を応援したが、今頃どこでどうしているのやら、替わって板東投手は毎週おみかけすることが出来る人気者になっている。

この夏も、高校野球はほとんど見ていない。当然のことながら試合を通して見たなんてことはここ何年もない。

ほかに、見るものがあるせいだろうか。それとも、、、といって興味がなくなってしまったね。

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2006年8月19日 (土)

御牧の朝はもう涼しい

Img_0168 八月十六日、御牧高原の朝は涼しい。

先日来、朝の気温は17~8度で久し振り、布団の厄介になった。

昨日今日と、義妹の家の近所にある「みどりの村」という元町営の温泉に泊まっているので、早朝の朝風呂で身体を伸ばす。(朝まだ暗い露天風呂で浅間山のほうを見る)

義妹の家は、昨日行なわれた望月町”榊祭り”の若衆宿みたいになったので、こちらに移り、夕方、早めの食事をとって祭り見物にでかけた。

地元では、三大火祭りだと言っていたが、他の二つは聞き忘れた。

Img_0163 夕方、まだ西の空に夕焼け雲が残っているうちから、松明山で上げられた花火を合図に、いくつかのグループに分かれて松明の行列が山から駆け降ってくる。(橋の欄干越しに松明を穢れと共に川に放り込む)

中には、子どもの組もあると見えてひときわ甲高い”ワッショイワッショイ”もある。

最終点は、鹿曲川にかかっている中山道の橋から一斉に松明を放り込むと言う仕掛け、一組が済むとまた次の組と言う具合に進行するのだが、山の上からは次々と松明を上下させながら降ってくるのも見ものだった。

このほか、楢の木の枝そのままの神輿などで夜は更けていく。

そして今日、義弟の畠でじゃがいも掘りをした後、いつもとコースを変えて和田峠周り、諏訪サービスエリアで燃料を補給する予定だったが、混み合っていて、待ちが1時間以上になると聞いてあきらめる。

帰宅は、夕方6時過ぎとなったがさすがに疲れて、食事もそこそこで床に入る。

また、暑くて寝苦しい夜をひかえて。

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2006年8月15日 (火)

無言館 残せるものを持つ幸い

Img_0138_1 八月十五日、佐久平名物の霧が晴れて視界も良くなってきたが、浅間山周辺は今日も天辺を雲の中においている、左側の北アルプスは快晴なのに、、、(パレットを模した無言館前の碑)

朝早くからというより、ワイドショーの放送時間に合わせて小泉首相が動き出した。先日来この日に靖国神社参拝するとしていたためもあったのだろうが、まんまと罠にはまって、各局とも長い時間に渡って一部始終を放送していた。

大惨事ではあるまいに、他の話題をキャンセルまでして、放送しなければならないほど重要なことなのか、またしても、テレビと言うものの馬鹿さ加減がみえてきた。

今日は、終戦(敗戦)記念日。せっかくこの地に来ているのだから、と前から聞いていた「無言館」を見ようと出かけた。

塩田平、別所温泉のすぐ傍の丘の上ににある無言館は、先の大戦で戦没した画学生30余名、300点の遺作、遺品を集めた小さな美術館である。

絵の具の使い方や上手下手は分からない自分であるが、全てが画学生の身近な人物や景色など写実的な作品ばかりであり、分かりやすかった。

しかし、これを描いた人全てが、20代から30代前半で全て心ならずも、生きることが出来なかった人々である。生きていれば、その後に名作を残せたかもしれない才能を断ち切られた人々である。

遺品となった絵のほかに、手紙なども残っているが、これは検閲などを恐れてか一様でありそのことも戦争の痛ましさをみせている。

これらを見ているうちにふと思ったのは、この人たちは、まだ残せるものを持っていただけ、幸いだったのではなかっただろうか。

自分の従兄弟などは、遠くマリアナで一度は漂流後、助かった命も二度目は軍艦とともに亡くしてているが、名もなき一海兵として何も残していない。

十字型をした、狭い館内に50人ほどもいただろうか、見終わって出る際に500円以上どれだけでもと、料金を払う仕組みになっているのだが、最近では払わない人もいると聞いていたので、”貧乏人の見栄っ張り”もあって倍額を寄付のつもりで払って出た。

そのご、やはりすぐ傍にある前山寺により、参道の欅の巨木と重要文化財三重塔、藁葺きで重厚な本堂を見て帰ってきた。

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2006年8月14日 (月)

霧の七千尺コース

Img_0017_1 長野群馬両県にまたがる浅間山の西側に”水の塔山2,202m””東籠の塔山2,227m””西籠の塔山2,212m”と三つの山がかたまっている。(6月浅間山に登ったおり、遠望した籠の塔三山、左中央が車坂峠)

自分もつい先ほど知った山の名前だったが、地元でもほとんど知られていない山であった。「明日籠の塔山に行って来ようと思う」といったら「そんな山どこにある?」というのが法事に出席した人一様の受け答えであった。

”ランプの宿”として有名な高峰温泉の駐車場に朝6時に車を入れた。

駐車場のすぐ上は、深い霧が立ち込めており目指す籠の塔三山は影も形も見えない、おまけに、昨夜雨が降ったようで草の葉に露以上の水がついていて、上々のコンディーションとは言えない。

宿の客が止めた大型車の後ろにあった、小さな案内板を横目に見て上り始めると、すぐに、釣鐘人参、オンタデを主体にした草花の群落が出迎えてくれた。

その後、森林帯に入り抜け出た所に”うぐいす展望台”があり、普段なら周りの山を見渡せるところらしいが、今日は下のほうにある高峰~池の平線の道路が霧のすき間から時おり見えるだけ、しかし、ここから”天狗の赤ザレ”にかけての土と岩がむき出しになっている部分は文字通り、花道になっていたため、あっちで一枚こっちで一枚と時間を費やして登る。

水の塔山についたのが、出発してから50分後だった。ここで、コンビニで買ってきたおにぎりで朝飯タイムにした。

ズボンは、股下からぐっしょり、靴も防水が薄くなったか靴下まで湿っぽくなったのが分かる。これで年端もいかない子どもだったら「寝小便でないよ!」っていちいち弁解して回わらなければ、、、、と思いながら岩に腰掛けていた。

このあと、ふたたび石楠花やこめつがなどの低木帯で露払いをしながら、”赤ゾレ”といわれる長野側が崩壊した尾根筋を通って”東籠の塔山”に到着、まだ人っ子一人出会わない貸切の七千尺コースを満喫する。

山頂一面ガレ場で、一休みの後、時間も早いし折角ここまで来たのだからと、行き止まりになっている”西籠の塔山”へ行って来ることにした。

霧で、目的の前方の山が見えないながら道はしっかりとした下り坂。

標高差にして100m近く下がって再び登りに入る、鞍部の付近にもお花畑あり、しばらく眺めた後、山頂へ。

ここでも、霧深く、下のほうで池の平へ向かうらしいバスの音が聞こえ、ウグイスと岩ひばりの競演を満喫して帰り道につく。

帰りは、東籠の塔山から、池の平にくだり、そこから林道を高峰高原に戻ることにした。

降り道に入ってようやく登って来る人に出会いだしたが、一人旅で人嫌いになったのか、池の平の人ごみに嫌気がさし、湿原に下りるのをやめ高峰高原に向かう。

この道路、朝歩いた尾根の下を横切るのだが意外と長く、時間がかかった。

駐車場には、出発してから約5時間後に到着。その手前の道路閉鎖の監視所のおじさんに道端の花を写していたら、「この下にきれいな所がある」と案内された。

向うも、車相手に退屈していたのか、少し酒の匂いをさせながらの案内、ありがたくお受けした。

マイフォト籠の塔三山は、未完成です。4~5日後に見てください。

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2006年8月12日 (土)

すいとん考

Img_0019 久し振りに”すいとん”を食べたいと思った。

すいとんは、自分にとって戦後の食べ物だったような気がする。食糧事情の悪いさなか、煮干などの出汁もなく岩塩で味付けした湯に、小麦粉を少し硬めに練った物を小さくちぎって団子のして放り込んだものだった。

しかし、岩塩にはなにか臭みがついていたようだし、小麦粉も品質が悪く、いまみたいに練った後寝かせておくなんてことはしなかった。とにかく味よりもいかに腹が膨れるかが問題だった時期である。

食べごろは、一旦沈んだ団子が乳白色になって、浮かび上がってからだったが、少し大きかったり、慌てて放り込んだ時などは、中に粉のままの部分があってその当時でも不味かったのを憶えている。

いま目の前に出てきたのは、出汁もとって、大根を主体にした野菜や肉も入ってとても美味い。

何年か前、終戦(敗戦)記念日の行事だと言って、すいとんを食べさせていた記事を見たが、これ同様のものだったら戦後の食糧事情なんて、分からないだろうな。

と、いって、あのころ同様のものだったら、お変わりどころか一口も食べられないこと請け合いである。記事によるとお替わりをした人もいるとあったから、今様に作ったかゲテモノ食いだったのだろう。

きょうは、これから長野へ向かって出発する。

お盆休みの混雑にわざわざ閑人が拍車をかける必要がないかと思われるが、親戚の初盆とあっては、これまた浮世の義理。

約5時間の運転、気を引き締めて、いざやいざ!

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2006年8月11日 (金)

うちの○ちゃんにかぎって

Img_0116 先日、加藤由子という人の「うちの猫にかぎって」という本を中古本屋で買ってきた。

中身は、よくある猫好きの目から見た猫の本であり、ごくありふれたものだと思ったが、表題がその少し前に犬を放して散歩に連れていた人とおなじ文句だったのと、100円という値段に釣られて買ってきた。

いったい、この○○にかぎってと言う言葉、盲目的な信頼はどこから来るのだろう。

たとえば、犬、猫はまだしも、「うちのボクチャンに限って、、、」という人もいたが、それこそ”親ばかチャンリン茶のはかま”で、ろくな子どもではなかった。

犬を連れていた人も、「むかし他所の犬にかまれたことがあったが、この犬は気持ちが通じているから絶対です。まだ、このごろの人間のほうが危ないと感じています」とのことだった。

話が通じる人間でも、何するか分からないのに、言葉の通じない犬のほうを信頼するという心理。「動物は嘘をつかない」という通念に重きを置いているせいではないだろうか。

犬だって、ストレスがたまりいらいらしたり、衝動的行為をとりかねないことが多々あるし、じゃれているつもりが、しだいに興奮してきたり、相手が恐がったりで危害になってしまい新聞に乗ったことある。

犬好き、猫好きをみてよく思うのは、自分が好きな動物は、世の中全ての人も好きだと思っている錯覚の持ち主がかなりいる。

現に、犬好きはかならずしも猫好きではない、またその逆もあるというのに、飼い主にはその辺が分からない。おまけに愛情さえかければいいとばかりに、甘やかし放題にして、犬に引っ張られて散歩している人もいる始末。

どうも、しつけということが出来ない人がいる。もっとも、飼い主自身の社会的常識が欠けているのだから無理ないか。

昨年、長野県の小さな宿の風呂に入ったら、先客が犬を連れて入っていたり、食堂の入り口にあった「動物はご遠慮ください」という張り紙に抗議しているおばさんを見たが、ほかの人に対する気遣いと言うものが全然感じられない人がよくいる。

動物には、癒し効果があるいう、しかし、それは、孫や子どものように憎まれ口をたたかず、擦り寄ってくることにあるのではないだろうか。

となると、動物にしか気持ちが通じなくなる人生の終着点は何か寂しい。

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2006年8月10日 (木)

肺いっぱいの香気

P1010044 また、暑い夏が戻ってきた。

天気情報は、24度から最高29.9度だと言っていたが、体感温度は30度を超えていたようだ。

神岡鉱山、栃洞坑。 今ではニュートリノの観測装置”スーパーカミオカンデ”で同じ鉱山の茂住坑のほうが有名であるが、茂住坑と谷ひとつ隔てた(といっても10kmほどはなれているが)栃洞坑で17歳から40歳まで勤めていた。(写真は昭和50年代の坑内で動いていたスクープトラムという、ショベルカー)

この鉱山は、銀、鉛、亜鉛を主体としていたが、岩盤が固く、有毒ガスも出ない、通気がよく、出水も少ないなど鉱山としては働きやすい部類に入る鉱山であった。

しかし、働きやすいと言っても、そこは鉱山。 労災事故で亡くなった人は、この20年余の間の30人ほどいたのだから、決して安全な所ではなく自分も何度かもうひとつ間違えば、という場面を二度三度と経験している。

地下をもぐって通気がよい、という鉱山は比較的少ない。

そのなかで、この鉱山は標高400m程から上は1200mほどのところで採掘していたため、夏は下から上に、冬は上から下にと空気が流れる。

この空気は、地下の温度が13度ほどで一定しているため、熱い空気は冷やされ、冷たい空気は暖められて外に出る。

どんなに暑い夏でも、一旦坑内に入るとクーラーなんて目じゃないほど冷やしぶりだった。しかし、空気の吐き出し口では気温差で、霧がかかったようになることや、何がしか独特の臭い(火薬や石)がして、人によっては地獄風という人もいた。

また、春先に強く感じたのは、坑口が入気口になったとき若葉の香りが強く鼻腔を刺激することだった、木の葉の香り、そして、秋の枯葉の匂いはキノコの香りを思い出させてこれまたなつかしい、普段外にいては感じられないのは、香水をつけている人によくあるように、自分の周りの臭いが分からなくなる、という現象と一緒だと思う。

仕事が済んで外に出るとき、こんな空気に会うと、生き返ったとばかりに肺いっぱいに息を吸い込むのが習慣だった。このときの幸せ感もまた格別。

本日は、鉱山の冷気を思い出して一文。

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2006年8月 9日 (水)

雨も嵐も踏み越えて

Img_0096 こよなく晴れた 

     あおぞらを

 悲しと思う 

     せつなさよ

                 、、、、、、、、、

昭和25年だと思う。「長崎の鐘」という歌の出だしである。藤山一郎さんの朗朗とした声とともに、かなりヒットした歌なのでのちのちまで歌われたが、”青空が悲しい”と言う意味を知ったのは随分後になってのことだった。

長崎の落とされた原子爆弾は、本来ならいまの北九州市の工業地帯に落とされるはずだった。それが、上空に雲がかかっていたため雲のない第二目標だった、長崎に変更されたと聞いたことがある。

雲のあるなしがで、運命が変わってしまったことを表している文節である。今日はそれを思い出しながら、長崎市長のメッセージを聞いていたが、原爆をなくす努力がない世界と、アメリカのダブルスタンダートを非難し、日本政府の努力を促していたが、臨席していた小泉首相にはどう聞こえていたのだろうか。

台風一過、澄み切った青空とは行かないが、油蝉は昨日の雨降りの中でも良き伴侶を探してかすまびしく啼きたてていた。

地上に出てくれば、あと1週間から10日の命だと言う、この間に何とか子孫を残しておこうと出来る限りの努力は、雨も嵐も踏み越える勢いである。

Img_0059 一方、池のほうに行けば、蝶蜻蛉が群れを成して交尾し、水面に卵を産みつけている、先日まで草にとまることなどめったになく、カメラマンを困らせていたが、余命僅かな老蜻蛉になったせいか、交尾が疲れるのかあちこちにつかまって一休みをし、また、群舞の輪に入っていく。

それを見ていて、ふと思った。「昆虫っていいよな、生存率を考えて、沢山の卵を産みっぱなしにしておけば、あとは自力で育つのだから」と

日本人は、いま人口減少期に入ってきた、65歳以上の人口比率が20%を超えた、などと聞くと、今後、蝉や蝶蜻蛉のように頑張らないと日本沈没は間近である。

よしんば、頑張ったとして、生みっぱなしというわけには行かず、20年前後と言われる世話が必要なんだからなぁ。

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2006年8月 8日 (火)

富士に文化遺産は似合わない

Pc230059

今日八月八日は暦の上とは言いながら早いもので立秋であり、七十二候では”涼風到る”という。

しかし天気図は、涼風でなく台風なので、湿った梅雨空の様相を示している。

さて、今日は富士山について。

日本人で富士山を知らない人はまずいない。その端麗な姿は、子供の頃台形を書いて、上3分の1くらいにギザギザいれ白く塗れば、それは富士山であった。

ちょうど象形文字のように、誰も他の山だとか、違うとは言わないで認めてくれた。

かく言う自分が始めて本当の富士の山を見たのは、かなり遅く20代になって北アルプスの槍ヶ岳から、ご来光を見るため、東の空を見ていたときだったと思う。

真っ赤な朝焼けの彼方に小さな黒い台形を見つけ、隣の友達に確認をとらなければならないほどのものだったが、なぜか、感激したことを覚えている。

ひるがえって、いまでは天気さえ良ければ、すぐに見えるところに住んでいる。国道1号のバイパスが出来る前は、家のベランダから、むかし書いたギザギザ部分から上が見え、母親を喜ばせたものだが、いまでは、どう背伸びしても見えなくなった。

この富士山を、今度は世界文化遺産にしようと一部では騒いでいる。

以前に世界自然遺産にしようと申請したが、塵やし尿の管理不備などで却下されので、目先を変えてのことらしい。

この時のことを、世界遺産推進室長だった伊藤という人が言っているが”塵の山”以外に①富士山は利用されすぎている②多様な特徴含んだ火山ではない、などから、「富士山はそもそも自然遺産の案件を充たしていなかった」と後から言っている。

となると、そのときの騒ぎはなんだったのか。

そして今度は文化遺産だというが、いまの富士山は信仰の山だといえるのか。きれいになったと言うが裾野の産業廃棄物は相変わらず、さらに文化遺産は放っておくと崩れたり、なくなってしまうものや、しきたり、文化が主体だと聞いている。

となると、踊らされた後に「やっぱりだめでした」という報告を聞く可能性が強い。

さらに、何故、文化遺産の指定を受けたいのか、その後どうなるのか、どんな効果や制限があるのか、などの説明を聞いたことがない。最近の大学入試と一緒で、合格したらそこで燃え尽き目的がなくなった青年のようになりはしないのか。

富士山はいまのままで充分にきれい(遠望は)だし、有名でもあり、日本の象徴でもある。

塵やし尿処理などは、文化遺産とは関係のない視点で施工し、裾野の自然回帰を含めて人工林、工作物など私権の制限などは、日本の宝と認めるなら、文化遺産のあるなしに係わらずするのが当然である。「声高に叫ぶのは裏になにかある」のでは、と勘ぐるのは下司のせいだかね。

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2006年8月 7日 (月)

選ばれなかった幸せ

イギリスの心理学者が、「幸福マップ」なるものを発表し、静岡市のごく一部(自分の周りだけ)では話題になっている。

それによると、日本は世界で90番目になり、アメリカは23位、中国は82位、韓国は102位だという。

日本の順位について、いろいろ意見もあるようだが、幸せと言うものは個人の気持ちの持ちようもかなりあって、他人が決めるものではないような気もするが、国の場合も同様なのかもしれない。

しかし、最近の所得格差拡大社会にあって、医療制度は高齢者に負担を押し付け、教育も塾へ通って学力を付けないと、と言われると貧乏人にはつらい所があって、調査結果を否定する気はしない。

若いうちは、「人生、前に向かって進め、後ろを振り返っても何の得にもならない」なんていわれたが、もうこの年になるとアルバムを繰りながら「あのころぼ~くは 若かった~」なんて鼻歌を歌うしかない。

そして、これまでの人生に幾つかあった転機を振り返って見ることも多々ある。

「人間万事 塞翁が馬」「人生はあざなえる縄の如し」とか、考えてみると「選ばれなかった幸せ」というものがあるような気がしてしようがない。

入学試験に失敗して、志望校に行けなかったと落ち込んでいた同級生が、凄い肩書きを持って同級会に顔を見せ。家が金持ちでよい大学に行った奴が仕事を選びすぎてか、定職にも就けず行方不明になっていたり。会社を倒産させてひところの羽振りのよさが見る影もなくしていたりなど、少ない同級生の中にもいろいろといる。

自分の性格もあるのだが、幼いときから自尊心が強く、反抗的な性格だったので、お世辞を言ったり、ペコペコ頭を下げることが人並み以上に苦痛だった。

そのため、友達から「頭ぐらい下げたってどうってことないよ、もう少し得を取れ」などと言われたことあったができなかった。

その結果、上司の憶え目出度からず引き上げもなく、最初の会社は20年余いて、希望退職を募った時に応じたが、そのまま残っていればどうなっていたんだろう?。

静岡に来てから二度、会社を変えたのもこの性格が大分影響していたと思う。しかし、このいずれも、我慢して会社に残っていたとすると、人生がまた違った形で今を迎えているのだが、「幸せ」という面から見ると、どうなっていたんだろうか。

幸いなことに、技術職だったので独立でき、好きなようにしてきたが、いま振り返ってみるに、なにかいい方に、いい方に転んできたようにも思える。

こんな風に言えるのは「選ばれなかった、しあわせ」なのか、それとも、ただの”ノーテンキ”というべきか

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2006年8月 6日 (日)

汗ダクダクとびく石(526m)へ

Img_0087 本日も暑い一日だった。”心頭滅却すれば火もまた涼し”の心境にはとても達しない。修行不足の身にとっては、「暑い暑い」の連発でその日その日をしのぐしかない。

折から、広島に原爆が落とされてから61年目になるということで、広報は8時過ぎに「黙祷をしてください」と言う放送をしていたが、あのとき、もう少し判断を早くしていたら、長崎を含めて何十万人という人が命を落とすこともなかったし、その後の原爆症に苦しめられることもなかったのに、と思う。

その判断を誤った人たちには、それなりの責任があったはずだが、天の網から逃れたか、のうのうと余生を過ごした指導者が多い。

一応、放送にしたがって黙祷(形ばかりだが)をした後、今日は暑さ逃れを兼ねて藤枝は瀬戸川の”びく石”を見に行くことにした。

”びく石”この辺の人は、お茶摘みの時摘んだ茶葉をいれる竹製の籠だと言うが、自分の解釈では、釣った魚を入れる籠。そう、浦島太郎が腰に下げているやつ。あれだと思っている。

まあ、細かいことはさておいて、526mの山頂に大きな岩がいくつもあり、その中の最大級の岩にその名をつけているところから、”びく石”という。どうも、山という字は付いていないようだ。

この山、6年前に朝比奈側から登ったきりなので、今回は瀬戸川から登ることにした。

理由としては、瀬戸川側から登ったことがないのと、こんな時期の山登りは汗だくだくが目に見えているから、登り終わった後3km下流に市営の日帰り温泉で汗を流そうと言う寸法からである。

4年ほど前まで、「びく石牧場」と言っていたころは、駐車場も混み合って大変だったが、今回はスムースに駐車することが出来た。ここを9時半に出発する。

Img_0076 案内板では、1時間の登りだというので、スニーカーと水筒、手ぬぐいくらいの支度で登りだす、自動車が入れそうな幅広い道を10分ほどで、岩の上に”波切不動”という銅像(?)があり、光背の真っ赤な火炎が薄暗い木立の中で目立っていた。

この脇を抜けて、木の階段で整備された山道を黙々と歩く。木立は続き日をさえぎり、谷風が涼しく吹く。しかし、気温が高いので予想通りの汗がにじみでる。

この時期花は少なく、下では玉紫陽花がまだ少し早く、藪茗荷は遅く、岩煙草がほんの少し咲いている程度だった。

40分後、頂上のすぐ下で、ガードレールを見る、いつ見てもこの瞬間は嫌なものだ。{今までの汗はなんなのだ}

舗装道路の上で一休みの後、山の名を冠した”びく石”の下を巻き、頂上の東屋にはいる。出発から50分だった。

ここに、荷物を置いて、山頂一帯の巨石(岩)を見て歩く、展望は麓の朝比奈側の集落が少し見えるだけ、冬場なら見える富士山は勿論周りの山々や伊豆方面も、すべてかすみか雲のかなたに沈んでいる。

山頂の岩の岩質は、円礫凝灰岩を主体とし、泥岩、砂岩といったところか、多分隆起した後、柔らかい部分が侵食されて残ったものであるが、周りの木立は杉と桜であるところを見ると、ごく新しい時期に植林したものだが、それ以前はどうだったのか想像外である。

頂上で30分ほど過ごして下山する。すれ違った人は三組5人。

予定通り、”瀬戸谷温泉 ゆらく”で風呂に入り、食事は焼肉定食でスタミナ(体重減)を取り返して帰る。

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2006年8月 5日 (土)

田の草取り

Img_0053 夏の土用は、土の気が盛んな時なので土を掘ったり、犯すような仕事をしてはならない、と聞いたことがある。

もっとも、土用前からかかっているのは別、という抜け道もあるが、むかしの人は何をするにも神さまにお伺いを立てて始めたたようだ。

今日も朝からどんよりとした空からお日様が顔を出してきた。

むし暑い熱帯夜のため熟睡した感じのない当方同様に、薄ぼんやりとした顔であがってきた。

寝冷えのせいか、腰椎のほうがなんとなく思わしくないのと、来週の長野行きのため、山行きは自粛することにし、早めの散歩に切り替えた。

散歩道は、ここしばらくの暑さで、急成長した雑草が背丈を延ばし、道の両側で頭より高くなっている所があちこちにある。

田の草も、場所によっては稲の背丈を越え、伸び放題、生え放題、というところがかなりあるなかで、根気に草取りに精を出している人に出会った。

子供の頃、おじさんの田んぼの草取りを手伝ったことがあるが、子どもでも炎天下の仕事はつらい、中かがみの姿勢は草をとる際に稲の葉先が、顔を(特に目を)ねらってチクチクと刺す、たちまち集中力は落ち、いい加減な仕事になり、半分真顔で叱られてのを思い出した。

草取りと言えば、近くに迫った?参院選挙などのため、国会議員の”田の草取り”がはじまったという。

豊葦原瑞穂の国だけあって、国民を田んぼにたとえるのか、いまだに「民草」という皇族がいたり、選挙民のいる所をを票田などと表現する。

田の草取りは、他陣営のシンパを雑草にたとえてのことらしいが、一寸の虫にも五分の魂とか、目に物を見せなくては”草魂”がすたる。

与野党拮抗するように、草の根運動をくりひろげようぜ。

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2006年8月 4日 (金)

土用三日は梅を干す

Img_0035 今日も一日暑かった。

やはり、夏はこうでなければ。という人もいるだろうが、たまらんね。

ことしは、土用丑の日が二回あるということで、うなぎにとってもたまらん夏であるが、世間は二度目ともなるとあまり騒がないようで、犠牲はいくぶん少な目というところか。

いずれにしろ、あの世へ行ったら平賀源内さんを、とっちめることですな。

さて、うなぎといえば、食べ合わせの悪いものの代表が梅干であると言われているが(実際には何の根拠もないとのこと)、丁度この時期、梅干が日光浴する時期でもある。

梅干というくらいだから、干さなくては梅干にならない、それも、一年で一番暑い土用に三ッ日間、裏表焼いてようやく長期保存が効き、色具合もよくなってほんものになるという。

我が家のベランダでも、今年は梅が良かったのか、紫蘇がよかったのか色鮮やかに夏の日を浴びている。

梅干は、日本独特の食べ物だと聞いた。となると”うめぼし”と言うだけで、口の中に唾液がたまるのは日本人だと言う証拠になり、これを見ているだけで、さっきから何度も唾を飲み込んだ、人は間違いなく日本人である。

日光を浴びて真っ黒けになる。やっとこの間まで健康の象徴みたいに言われていたし、夏休みが済むと黒ン坊大会などがあって自慢しあったものだった。

ところが、今朝も散歩で麻機山に登ろうとしたら、日傘を差して、長手袋をし、さらに帽子をかぶったおばさんが、暑い中重装備で先を歩いていた。よほどなにか事情があるのだろうな、と、声をかけるのをためらってしまったね。

最近では紫外線が身体に良くないとかで、肌をさらさない人も増えてきたが、こんなにまでして運動をしなければならないのか。

たまには、太陽に身をさらして身体中殺菌してもらった方が、世の中の嫌なことをたくらむばい菌を退治してくれて、いいのではないかと思うが、、、。

えッ お門違いだ?。そうでしょううな。

「老兵は黙って去るのみ」

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2006年8月 3日 (木)

三面六臂で好き勝手

Img_0033_1 シェイクスピアの作品で「ベニスの商人」という作品がある。

ユダヤ人のシャイロックから、お金を借りたベニスの商人アントニオがお金を返せなくなり、その裁判で、肉1ポンドで代替するが血も毛も一切だめと言われ、窮してしまうという物語であった。

古くから祖国をなくしたユダヤ人は、信用できるのはお金だ、と早くから見極めをつけて、世界各国で金融業に精を出した。

そのあこぎさからどこの国でもよい感情はもたれていなかったようで、16世紀になると、すでに、こういう物語が出来上がってしまった。

本来なら、約束どおり借りたものを返してさえいれば、こういう筋書きにならないのだが、ユダヤ人嫌いがこうさせたものであろう。

その後、20世紀に入ってヨーロッパは、ナチスドイツのホロコースト、イスラエルの建国など別な見方をすれば体よくユダヤ人を追い出したかに見えたが、どっこい敵も去るもの、金融と言う根幹(金の○)を上手ににぎって船出をした。

しかし、アラブの社会にとって見れば、尻のでっかい金持ちのおばさんが挨拶もなしに、むりやり狭い座席にねじこんで先に座っていた人を弾き飛ばしたような感じではなかっただろうか。

いま、中東の情勢を見ると、イスラエルという国を仏教にたとえると申し訳ないが三面六臂の金剛夜叉明王のように武器を手にして、当たる幸いに暴れ周って人を殺している。後ろにひかえてるアメリカと言う仏様みたいな独善の国の御威光で好き勝手に振舞っている。

というのも、後ろの仏様の根幹を握っているから出来ることで、仏様も怒るに怒これない状態に陥っている様子、この先どう始末がつくのか、幕引きまでは何百年もかかりそうで、おそらく最終幕を見ることができない。

昨日は、「オラケタル」本来の目的であった、親しいもの同士の気軽な挨拶的なブログから最近は外れて、怒りのブログになってしまった、という反省にたって書いて見たが、シンクロナイズドスイミングや北朝鮮の子どもの踊りのように、作り笑いが引きつってしまい、シッチャカメッチャカになってしまい、とても、載せられる状態のもにはならなかったので中止をした。

やはり、その日思ったことを少し着色した程度のもしかかけないようだ。

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2006年8月 1日 (火)

おんだ子も抱いた子も

Img_0333 写真の花の名前をママコノシリヌグイという。

漢字で書くと、「継子の尻拭い」と書く。この草、ピンクの小さくて可愛い花を持っているが、いざ採ろうとすると下向きに小さな棘を持っていて手のひらを刺す。

この棘、小さい割には硬くて意外と痛い。こんなもので尻を拭かれた日にはたまったものではない、尻中引っかき傷でミミズ腫れになってしまうこと請け合いである。

もっとも拭いたほうも、おつりを貰っていつまでも臭うことになりそう。

シンデレラ姫の例をとるまでもなく、むかしから継子いじめはよく聞いた話であるが、最近では、継子の限らず本当の親子の間でいじめ合いが頻発している。

先日、福島県で発覚した子どもに対する虐待事件の報道は、聞くに忍びなくて放送のたびにチャンネルを他局に回していた。

白髭姓を名乗るこの夫婦、何ゆえを持って自分の子を虐待したのか?、子どもを作るだけの能力しかない、大人になりきれない男女だったのだろう。

世界は自分を中心に回っている、近頃こんな人が随分と増えたようだ。

”しつけ”の一環だった、と言っているそうだが、しつけなんてそんなに簡単にいくわけがないし、大体しつける本人がしつけられておらず、単に自分好みにしたかっただけといわれても仕方がない。

人だろうが、白髭神社の祭神は猿田彦の命であり、延命長寿をつかさどる神と聞くと、幼くして虐待され殺された子どもが哀れでたまらない。

飛騨の民謡の囃子言葉に、こんな文句がある。

おんだ子も 抱いた子も

おまえさんの 子じゃないか

可愛がって やらんせ~

  セット  セット セット

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