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2006年10月30日 (月)

暖かい陽だまりの中

Img_0123  日曜日にようやく帰ってきた。

総走行距離、900km余、以前なら毎日200km程年間4万km以上走っていたので、どうってことない距離だが、最近は月1,000kmに満たないので、さすがに疲れ、今日はグダグダと一日過ごすことにした。

「静岡に帰ってきた」と静岡県に入って言えるようになったのは、最近になってのこと、静岡の人にはなかなかなりきれない何かがある。年寄りのガンコさばかりではない。

やはり、先祖代々の地を離れ40歳まで過ごしてきた土地は懐かしい。娘たちや兄弟と話ししてみても、早々に飛騨を離れ、知り人も少ないせいか、自分ほどの思い入れはないみたいだ。

さて、帰ってきて疲れている(気分的なものと思うが)が、最近欠かしたことの無い散歩の時間になると、自然と身体が行こうという。

あまり遠くまで行かずに近場で済ませようと出かけてみたら、畑で蓮根堀をしている人がいたので座り込んで話しかけた。

年を聞いたら、七十二歳。手を休めないで気さくに閑人につきあってくれる。

自分にしたら、話しに花が咲くいい鴨だ。

仕事を辞めてから、はじめて蓮根堀をしたそうだが、今では何回もテレビや新聞、コマーシャルに出たというから、このキャラクターがよかったのか、笑顔が可愛らしい、絵になる人だった。

「それじゃ、タレントだね」と言ったら「コマーシャルの時は3回もやり直したからな、大根だね」と切り返す。

結婚する時、「酒、煙草、女遊びはしたことありません」といったのでそのまま来たけど、ゴルフ、マージャンは言っていなかったので「エヘヘッとね」

話をしているすぐ側に、白鶺鴒が掘った土の中にいる虫を探して手が届くぐらい処までやってくる。小さな動物は危害を感じる能力に長けている、またそれで無ければ生きていけないのだろうが、人はその能力を失ってしまった。

暖かい陽だまりの中(もう、それを感じる季節になった)、他愛も無い話はまだまだつづく。

結局は、名前も聞かず言わずに小30分。

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2006年10月29日 (日)

三川公園で旧家を見る

Img_0101 木曽三川公園、西から揖斐川、長良川、木曽川がほんの薄い堤防を境にして接している場所にできている。

道を挟んで反対側にある治水神社は、この川を分ける堤防事業に携わった薩摩藩士の遺徳を偲んで立てられたもので、この三つの川が網の目のように入り乱れていた江戸時代半ばまで、この土地に住む人は毎年のように洪水にさらされていたという。

そのため、どの村も自分たちだけを守るため周りに高い堤防を作り、囲い込んだ物を”輪中堤”といい、自分さえ良ければほかは構わない”輪中根性”という言葉が生まれ、岐阜県の県民性だと書いた本まであったが、岐阜県の一番南端の人の行動を全県民に当てはめるには無理がある。

また、この当時小さな集落でこれ以外に方法が無かったはずだし、当時の支配者も収奪するだけで、治水に回す財力がなかったので、輪中堤だけでも大工事だったことは、想像できる。

そんなことを思い長良川の河川敷の駐車場から”木曽三川公園”には入る。

丁度、菊祭りが始まったばかりとのことで、ゲートをくぐって入ると、池の上にまるい球状のポットが立ててあり、その背景にこのあたりを代表する水屋(高屋)を持つ旧家も移築してあった。

これを見たいと思って、輪中の郷に行ってみたのだが無く、「こんな処にあったのか、こんなことなら、、、」というのが正直な感想だった。

立派な百姓屋は大地主の所有物だったのだろう。母屋の脇には笹舟が上げてあり、そばの輪中堤が切れる被害があっても、逃げ込んで水の退くのを待つ、高台つき水屋も持っている。

おなじ県でありながら”飛山濃水”言われるように災害も飛騨の寒冷豪雪と美濃の洪水氾濫。極端に違う土地柄は人の気性まで作る。

それを思い知らされる景色だある。

いまでも、自然を制御したとはいえないが、昔に比べれば住みよくなった。

入り口に戻ると、むかし話の紙芝居をフルートとエレクトーンの伴奏入りでやっていたが、大人の方が多いような感じだった。

多分懐かしがって集まっているようだが、自分から見ると上品過ぎて懐かしいという感じが無い、懐かしがらせるなら飴を買わない客はずっと後ろに下げてやってほしいものだ。

しかし、電気紙芝居にくらべれば、むかしの紙芝居は時間に余裕があったなァ~。

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2006年10月28日 (土)

ダリアとコスモス乱れ咲き

Img_0067 「なばなの里へ行ったことがある?」「ない 行ってみたいな」ということで、大人の遠足とあいなった。

なばなの里は、長島スパーランドの関連施設だとのことなので、隣り合ってあるのかと思っていたら、結構離れたところにあった。

今の目玉は、ダリア コスモスだと言うことで入場すると、まず高そうな食べ物屋があちこちに沢山あり、そこを右に見左に見て進むと、ベゴニアガーデンときた。

Img_0083  木立のもの、吊り下げのものそれぞれ綺麗に手入れがされ、変わったもの珍しいものが陳列してあるが、それを眺めてダラダラ歩きは疲れる。

ベゴニアに詳しくないものにとって、基本的には他でも見たことがあるような陳列がなされているため、同じ物にしか見えず次第に雑な観察になってしまった。

外に出て、つぎの展示場に移る、野球場2面くらいか、中をコスモスぐるっと周りをダリアが取り囲むように植えられていた。

Img_0089_2 どの花も手入れが行き届いていて、枯れたものやしおれたものが見えない。さすがにお金をとって見せる民間の公園だけあるなと感心した。

コスモスは、どこにでもあるものだけれど、ダリアの種類の多さに、、、、結局はベゴニア同様全然名前を覚えることは無かった。

だって、ひとつ憶えるとその前のを忘れてしまうので、、、、

園内で、食事の後、近辺の観光地図をみていたら、「輪中の郷」というのがあり、見てみたいという自分の希望で回ってみたが、これが大失敗。

見るべきものが無い。どうも、バブル期に何か造るものが無いか、といって作ったような代物で、会議場とも展示場ともつかぬ建物に職員が何人かいるだけの建物だった。

口直しに、”木曽三川公園”が良いだろうとのことだったのでそちらに向かう。

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2006年10月27日 (金)

霧と雪で立山敗退

Img_0053 昨夜来の雨も小降りになっては来たが、空は暗い。

天気予報は、富山でも午後から晴れと言うが、そんな気配は全然見られない。同級生で、立山の自然を説明、案内するナチュラリストをしている吉井くんにどうだろうと聞くと「上の方では晴れているかもしれない」とのことなので、8時過ぎに、別れの挨拶をして立山の登山口千寿ガ原に向かう。

一般の登山者はここで自動車を降り、あとは、ケーブルカーとバスを乗り継いで終点室堂まで行くしかないので、その通りに切符を買ったものの空は雨が降ってはいないだけで相変わらず暗い。

千寿ガ原からケーブルカーにのり標高977mの美女平は立ち込める霧の中を登る、小さな車内に中国人観光客がいっぱいいて、外さえもろくに見えない中「失敗だったかな」と思いながら室堂行きのバスに乗り、しばらくすると空が明るくなり視界が開けてきた。

「しめた、晴れそうだ」と思った途端、先ほどまでのどうしょうかなという気分もすっきりと晴れ上がる。弥陀ヶ原を過ぎるころは、窓の下に雲海を見、上のほうには懐かしい感じのする立山連山、剣御前山など雪をかぶった山がバスの方向によってあちこちの窓に広がるような秋晴れになった。

人でいっぱいの室堂駅到着は、10時ころ。喜び勇んで外に出れば、此方も人だらけ振り切るるようにして、遊歩道を室堂に向かう、降りたときに着た防寒着と急いで歩いたため、もうここで汗をかき息切れがしてしまった。

一休みの後、上りかけてみたがそれまで道の上には無かった雪が次第に圧雪状になってきたのと、濃い霧が強風と共に山を包んでしまった。

こうなると、あきらめやすい。一の越山荘2,700m(?)に近いところ思ったが急いで退却し、ミクリガ池周辺の散策に切り替えた。

Img_0039_1 もどって、ミクリガ池北側の通路に入ると、朝分かれた吉井くんが、一人で下を覗き込んでいるのに出会った

「おいッ こんなとこでなにしとる」

「うん 下のほうに雷鳥が3羽いるんで見とる」

「どこに」「あそこの木の下に一部黒い羽があるのが2羽とこっちの枝に真っ白いのがひとつ」

「どこかわからん」「ほれあそこ」と騒いでいるうちに、人だかりが、、、、

「ああ わかった」目で確認してカメラを向けると、背景の雪に溶け込んでどこにいるのか分からなくなる、「まったく保護色とはよく言ったものだ。」と文句を言いながら写したものが、上の写真。

ミクリガ池のビューポイントは一面の霧の中、地獄谷へ行くのも諦めてバスターミナル付近で同級会の続きをしながら待っていると僅かな時間ながら霧が吹き飛ばされて視界が開けてきた。

まったく、男雄山)心と秋の空は変わりやすいとはよく言ったもんだ。

「山に登れてたら富山のどこかでもう一泊しなければと思っていたけど、この時間なら豊田の弟の家に行けそうだ。それじゃ、ここで分かれるよ」とバスに乗り込む。

それから、6時間後、340km走って日本海から太平洋側に日本縦断した。

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2006年10月26日 (木)

気分転換に峠越え

Img_0006_1 朝8時過ぎに家を出た。

やはり、ウイークデイは仕事の車が多く、走行距離の割りに時間の経つのが早い、ようやく、渋滞を抜けたのは、清水八木間を抜けたあたりからだった。

時間を取り返すべく、普段は使わない南アルプス市で中部縦貫道に入り、中央道は松本まで、そして、国道158号線で梓川沿いに登ることにした。

この道路に入って、奈川渡あたりから道の両側の紅葉の色づきが鮮やかになり,沢渡あたりからは全山錦秋景色を楽しませてくれた。

しかし、そのあたりから4台ほど前の車が、走りながら紅葉見物をしているらしくスピードが極端に遅くなったりして、むらのある走行になった。

渋滞は長くなる、見物したいなら道を譲ってすればいいのだが、それもしない。

山の曲がりくねって道では追い越しも出来ないし、おかげでいらいら運転を強いられる。普段の倍以上の時間を消耗した後、上高地の入り口”釜トンネル”の少し先で安房峠に上っていく道に入った。

渋滞原因車の後についてトンネルに入れば、すぐに飛騨側に抜けられるのだが、その前にささくれだった気分を落ち着かせようと思い、あえて遠回りの旧道を選んだ。

この峠道は、若かりしころの懐かしの道である。

榛の木、白樺が丁度落葉の時期を迎え、道いっぱいにハラハラと舞い散る中をの右に左にとカーブを繰り返して、高度を稼ぐ。むかしは、この道を上り下りするバスがすれ違いで道を譲ったり、他所から来たバスがにっちもさっちも出来なくなって詰まってしまったりと、難所の連続であったが、いまはすれ違う車も稀。

中の湯温泉のあたりから、チラホラと穂高岳と焼岳が木の間ごしに見え隠れする、20分ほどで峠の茶屋に到着。

Img_0003_1 シーズンを過ぎたせいか店じまいをしている。ここからの穂高は奥穂を中心に両翼を前穂と西穂に支えられて立っているのが見える。

ここで、一休みの後平湯温泉に降り、高原川沿いに目的地の越中春日温泉に向かう。

生まれ故郷を横目で見ながら、さらに西北へ、高原川が神通川と名前を変え富山平野を目の前に開けるところに同級生が待つホテルがあった。

静岡から370km、時間にして8時間もかけてようやく到着した。

温泉に浸かった後、楽しみにしていた富山湾の魚で宴会は始まった。やはり、魚は美味い、同じ海に近い場所なのに東海地方とどうしてこんなに違うのか。

今回の同級会は、急に決まったこともあって、参加者はいつもより少なかったが、高校に入学して以来、会社を退職するまでの約40年間をともにした仲間で、時には競争し、喧嘩もし、協力した文字通り同じ釜の飯を食った仲であるだけに、その時のわだかまりも消えた今は、社会一般の同級会よりも濃厚な間柄で話は尽きない。

男子校のため、あけすけの話しに興じ、結局、皆が寝静まったのは、午前様になってからのこと。自分は1時が限界だったので、ほかは知らない。

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2006年10月25日 (水)

富士にはコスモスも

Img_0119 「富士には月見草が似合う」とのたもうたのは、かの有名な太宰治である。

山梨は河口湖の北側にある天下茶屋に滞在した時に出来た言葉というが。

この言葉に異論をとなえれば、桜の木との組み合わせ、紅葉との組み合わせ、山梨の桃林、伊豆あたりからの海を入れた富士、茶畑の上に浮かんだ富士とその組み合わせなど数限りなくある。

富士山は何を持ってきても似合ってしまう山である。

そして、今朝がた近所の小さなコスモス畑を通しても、似合っていた。

これからは、空気が澄んでくると意外な場所からも遠望できるので、その前景が良ければ日ごろ富士を見慣れているものにとっても、ハッとする光景に出会うことがある。

Img_0130 午後買物から帰ってくると、待っていたかのように、裏銀蜆(ウラギンシジミ)が小さな庭に表敬訪問をしてくれた。

(ごく最近まで、蝶には関心がなかったので、気にも留めていなかったから、初めて見る蝶であり、蜆蝶にしては大きすぎるので名前を探すのに苦労した)

最近は、蝶の数、種類ともにめっきり少なくなってきたと思っていた所なので、嬉しさのあまり家の中にドタドタとカメラを取りにいって、叱られた。

裏銀というだけあって、羽の下側が一面ねずみ色勝ちの銀色であり、外側にあたる部分は赤茶と黒の綺麗な色をしていて、飛んでいる姿は銀色と茶色が交互に見えるという演出があり、楽しませてくれる。

派手な表地と渋い裏地の組み合わせは、日本人好みの粋の逆だが、決して野暮ではない。

木の葉か、花にでも止まったところと願っていたが、のどが渇いていたようで少し前に水槽の水を撒いたところから動かず、満腹した後また大空に登っていった。

三度笠に合羽、振り分け荷物に脚半わらじ、旅の七つ道具も揃って、明日からの少しの間、旅の夜空を楽しむとするか。

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2006年10月24日 (火)

御苦労様は駄目?

Img_0112 ときどき小雨のぱらつく中、蓮根畑に入って蓮根堀をしている夫婦がいた。

やっと先日まで、猛々しいばかりに茂っていた蓮の葉も時期を見てか、茶色く枯れ果てている。

いくら、泥の中の作業とはいえ、小雨が降る中で掘りたくないことぐらい、傍目から見ていても分かる、それなのに夫婦で泥をかき回しているのは、特別な注文でもあったのか。

理由は分からないが見ていて「ほんとうに御苦労様です」と声をかけてあげたい気持ちになった。

自分らは知り合いの農家が少し離れた所で蓮を栽培しているものだから、此方のものは食べたことがないが、このあたりの蓮根も、麻機蓮根といって評判がいいらしい。

いつも通りすがりに蓮を見ていて感心するのは、その成長力の速さである、春先までに一部を残して掘り取られた沼田に芽を吹き出したかと思うと、水面いっぱいに葉が広がり、2ヶ月もすると葉の差渡し60センチ、高さは背丈をはるかに越して花を咲かせる。

まったくあれよあれよの半年である。

お釈迦様が、蓮の花のうてなに乗っているのは、花が綺麗なだけでなく、この生命力の強さも見てのことでないかと素人考えをするのだが。まるっきり見当違いなのかな。

さて、今日の新聞を見ていたら、文化審議会のなかで、敬語の使い方を来年にも文科相に答申するそうな。

見ていると日本語はつくづく難しい言語だと言うことを再認識する。言葉を知った上で、人を見て使い分けて行かなければならない。

ひとつのことを言うのに、敬語、丁寧語、謙譲語、そして、謙譲語の中に美化語と言うものまで区分けして使うと言うのだ。

たしかこの年になると、聞いていて変な使い方をされると気になる。

「私のお母さんがこういっていました」「千円から頂きます」や近頃病院に行くと「患者様」など丁寧(?)すぎて、馬鹿にされているのかと思える言葉が山ほどある。

このことについては、まだいろいろあるので後々の種にとっておくが、「御苦労様でした」は目上の人に対して駄目で「お疲れ様」を使いなさい、という。長い間、誰彼なしに「御苦労様でした」を使う会社で育ってきた身にとっては納得のいかない。

また、同僚にはどうなのか。此方が同僚と思っているのに、向うはそうでないと思っていたときは些細な言葉で摩擦の原因になる。

なにも、相手を見下して「うん、ご苦労 ご苦労、よくやった褒めて取らすぞ」とそっくり返っているわけではないのだ。

要はイントネーションによって、感じが良くも悪くもなる言葉ではないだろうか。どんなに敬語を使っても、話し方で良くも悪くもなる言葉がある。

お疲れ様と御苦労様、同じ意味を身分で分ける(?)には、すこし意味が違うと感じるのは、自分だけ?

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2006年10月23日 (月)

旅(人生)の恥はかき捨て

Img_0056_2 本日は暦の上では「霜降り」

昨夜来の雨と少し冷たい風が入ってきてはいるものの、此方ではまだズーッと先の話である。

同じ霜降りでも、肉の方だとまた違った感想があるるが、暦に、この言葉が出来たころは、高級肉に当てはめるなんて想像しなかったことだろう

いま、麻機遊水池には、水鳥の数が次第に増えている。北のほうからのもいるが、ほとんどはカルガモとヒドリガモで、いままで田んぼのなかに隠れ、稲穂を好きなように食べていたが、稲刈りで追い出されてきたもらしい。

そんななか、一段と小さいカイツブリがいくつかこの池にやってきて混じっていた。

親子ずれだと説明している人がいたが、鴨の仲間は2~3ヶ月で身体は親と同じおおきさになる、「種類が違う」といってやりたいが、そこはそれ、面子をつぶすようで言いにくい。

結局は、自分のその場から離れるし、カイツブリの方も聞こえたのか、深く潜行して行方をくらましてしまった。

ついでの話しになるが、ずっと昔、小さな学校で代用教員をしていたことのある老婦人(といってもその時は60歳前だったと思う)が「アキの宮島って言うのだから秋は綺麗なんだろうね」といった。

確かに宮島の紅葉は綺麗らしいんだけど(写真でしか見ていない)、生真面目だった青年(自分のこと)は「うううん」と返事に困ったことを覚えている。

なまじっか知識があったり、うろ覚えに覚えているからいけないんで、まったく知らなければ、「恥も恥ではない」また「旅の恥はかき捨て」というから、人生を芭蕉のように旅だと思えば、かき捨てにして良いんだよね。

自分の場合、いくつもあるがすぐに忘れることにして、尾を引きずらない。これが健康の秘訣と心得ているからだ。

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2006年10月22日 (日)

むかごの思いで

むかご、漢字で書くと零余子と書くそうだが、これはとても読めたものではない。

どこからこんな漢字になったのか、まさか漢字の発祥地、中国直伝ではあるまいな。

むかごは、山芋の蔓にできる種と言ったら良いのか、小芋といったら良いのか知らないが、子どもでも簡単に取れるところにある、

小さな袋にいっぱい詰めて意気揚々と振り回して家に帰ったものだが、その食べ方はフライパンに塩をひとつまみ入れて、炒って食べるのが常だった。

芋だけあって、生では少し苦いような粘りのあるところが口に合わなかったが、炒ると、ほくほくした芋に塩味が効いて、自分で取ってきたおやつという感じで子供心を満足させる食べ物だった。

後で聞くと、むかご御飯などと言う食べ方があるそうだが、まだ食した事が無い。なんだか皮を剥くのが面倒くさいような気がするので、、、、。

はたして、美味いのかね?。

Img_0082_1 今朝は、朝早くから花火が上がっていた。聞けばすぐそばの「流通センター」の祭りだと言うので、散歩がてらに歩いて行ってみた。

例年のことだが、今年も沢山人が来ていて車がいっぱい、駐車場を求めてそばの道路が渋滞していた。

やはり、少しでも食品が安いと言えばかなり遠方からでもやってくるんだろうな。

入ってみると、鮮魚コーナーは人だかり、とても、人を掻き分けて買う気がしない。ということで、野菜のコーナーへ行って見ると、10時前だと言うのにたたんだ段ボールしかなく人が閑散としている。(売り切れたらしい)

今年は、野菜が不作だったので、みんなが先を争って買ったのか、販売量が少なかったのか。昨年などと比べるとこんな所にも世相が反映している。

仕方がないので、鮮魚コーナーに戻ってはきたが、”帯に短し襷に長し”食欲のそそるものがあまり無く(腹が満腹の時は何を見ても駄目)、それ以上に財布の中味が離れたくないと言うので連れて帰ることにし、ほとんど来た時の状態で帰ることになった。

帰り際、別の場所でも花火が上がっていたが、あれはどこのなんだったか?

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2006年10月21日 (土)

沈黙が金?

連日の好天気が続いているが、いつまで続くのか少し心配している。

ほかでもない、来週半ばに同級会が富山で行なわれ、行ったついでに立山にも登りたいと思っているからだ。(雨晴らしから立山連峰)

立山を、登ったのは今から40年くらい前のこと、室堂経由で雄山を始め、剣岳、薬師岳あるいはザラ峠から黒部に降り針の木岳と何回も経巡って楽しんだことがあり、今回は年と時期を考えて雄山に行ってこられれば、充分と思っているのだが、、、、

何せ、こんなに良い天気が続くと次はいつ悪天に見舞われないかと気になって仕様がない。

下手に新聞種になる事だけは避けようと思っている、意気地なしだからだ。

天に心あれば、願いを叶えさせたまえ、と祈るのみ。

さて、北朝鮮の問題がテレビ画面で沸騰している。

「日本も核兵器の検討を議論しても良いのではないか」と元閣僚などが講演し、再度核実験を行なったらとか、船舶臨検などをどうすべきか、北朝鮮がミサイルを飛ばしてきたらという想定のもと、日本も対処する法律を作って立ち向かわなければ、、、という声が多かった。

なんだか、この機に乗じて「それいけどんどん」式の発想が気になる。そのことに批判的な意見が出ると、勢いの乗っている勢力は、週刊誌などで頭ごなしに”売国奴”とののしる、相手の意見を聞こうとしない態度は、昭和初期の世相を思わせる。

とくに、戦争を知らない世代の発言は威勢がよい。諌める者がいなくなったときどこへ行くのか。

戦争が終わって 僕らは生まれた

戦争が終わって 僕らは育った

大人になって 歩き始める

平和の歌をうたって、、、、、

と、歌った連中は、どこに行ったのか。

団塊の世代といわれ、近いうちに職を離れる人々は”沈黙が一番(金)特”と70年安保で知ったのだろうか。

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2006年10月20日 (金)

いよッ太っ腹

P1010053 静岡 横田町の西宮神社で恵比寿講の祭りがあり、昨夜は宵祭り、本祭りが今日だということで午前出かけてみたが、屋台もほとんど取り壊して”後の祭り”を見た。

恵比寿大黒福の神というが、恵比寿さんは商売繁盛の神として、商人から熱い支持を受けてきた。

自分の父親も、小間物屋をやっていた時期があった。手先は器用だったが、商売の方は才能がなかったらしく、自分が小学校に入るころ、徴用(戦争中軍需工場で働く)に取られ、以後、店をたたみ勤め人になった。

しかし、商売への未練があったのか、いつまでも恵比寿講の日には、灯明を上げ小さい鯛と普段は高くて食べられない魚が夕食に出てきたのを憶えている。

恵比寿さんは、七福神の中で唯一日本生まれの神さんだそうだ。しかし、語源をたどれば、中国で言う東の後進国の人、野蛮人という意味の東夷(エビス)からきているようなので、なんだか居直ってしまった神さんみたいな感じがしないでもない。

ところで、恵比寿さんといえば大きな鯛を小脇に、釣竿を高く掲げた像がトレードマークであるがその腹のでかいこと布袋さんと並んで「いよッ 太っ腹」と言ってあげたい。

かなり前になるが中国へ行くと、腹の出ている人は金持ちに見られるので注意してと、ガイドが冗談半分に言ったことがある。事実、物売りが太り気味の方に多くたかっていたようだ。

町中を見回しても、肥満体の人が少なく、理由として「辛いものなどを取ると肥らないんだ」など食生活をあげていたが、その中国も最近では子どものうちから肥満体が増え社会問題になっていると聞くと、食べるものが違ってきたのか、量が多くなってきたのか、、、、

ともあれ、「腹のでかい人が太っ腹」というのは、外見だけだが、神経質な人、胃腸の悪い人はなかなか肥れないし、注意が身体の方に向くためかしょっちゅうしかめっ面をしていては、見るからに太っ腹タイプではない。やはり、何を食べても肥れると言うのは何事にも動じない 寛大な人でないと、、、。

言い換えれば、無神経でずぼらな人となるか。

自分も、メタボリックシンドロームを脱却し、なんとかと正常に戻したいと思っているが、男性に多い太鼓腹は解放させてくれない。

そして、腹が大きいことすなわち”太っ腹”ではないことを、わが身で証明している。しかし、「いよッ 太っ腹」といわれるようなことをしてみたいと言う願望は無いこともないのだが、するだけの余裕がない。

ザンネン!

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2006年10月19日 (木)

早く芽を出せ

早く目を出せ柿の種 

ならぬと鋏で チョン切るぞ

早く実がなれ柿の種

ならぬと鋏で チョン切るぞ

今日庭の片隅にあった柿の木を切った。

十数年前に植木市で母親が買ってきて植えたもので、いわば形見物の一つだったが、、、、、、

柿の木は、本来日当たりが好きな木であるが、日の当たらない場所に植えられたのがまず間違いの始まりだった。

十数年たった今も直径が根元で5センチほどしかなく、実もよくつけて5~6個という状態、(今年はようやく2個)だった。

昨年の暮れ、根元を少し掘って堆肥と化学肥料をいれ、「早く実がなれ柿の種 ならぬと鋏でチョン切るぞ」と猿蟹合戦のおまじないをかけたが駄目だった。

柿の木にしたら、いくらでも言い分があるだろうと思う。家と家の間には挟まれた日当たりの悪い場所、夏 カナブンがいっぱいついて葉を食べ散らかしているのに気がつかないで放っておいた、その他にもいくつも理由付けはあったに違いない。

しかし、この家の主人は理不尽にも結果主義で伐採をきめた。

”早く芽を出せ柿の種 出さぬと鋏でチョン切るぞ”と言う文句を我が身に当てはめると、会社でのリストラを含めて、内心ゾクゾクッとした震えを感じている人はいるだろう。

男も年をとると、”気持ちはあっても 芽が言うこと聞かない”の状態になるから、結果主義で行くと、、、この歌、意外と恐ろしい歌なんだよね。

猿蟹合戦は考えないことにしょう。

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2006年10月18日 (水)

つぼみ色ずく

Img_0055_2 庭の日当たりの悪い所に植えてある、さざんかの蕾が赤みを帯び、もうすぐしたら咲き出してきそうな気配。

娘で言うなら17~8歳の色気か、いや今どきはちがいまっせ、

七十二候に曰く、本日は「蟋蟀(コオロギ) 戸にあり」と、まことに時節にあった季語である。

土間の片隅、どこからともなく蟋蟀の鳴くこえがする、草も何もないこんな所で鳴いてみても果たして連れ合いが見つかるのか、しゃがんで探してみるが分からない。

むこうも人の気配を察して、近くに来ると鳴きやむ。とつこつ秋の夜長は更けていく。

いま、NHKの朝の連続ドラマで、作家田辺聖子をモデルにした「芋たこなんきん」というのをやっている。ここしばらく、朝のドラマなんて見ていなかったが、作者が好きでこの人の描いた小説、エッセイを何冊も持っている関係でちょいちょい気をつけてみている。

最近では、根気がなくなって長い小説は敬遠しているが、彼女のエッセイは文庫本2~3ページ程にまとめられたものが多いうえ、ユーモアにあふれていて読みやすいので、30冊くらいは読んでいるのではないだろうか。

好きで繰り返し見ているのは、”カモカシリーズ””姥桜”と百人一首、源氏物語などの解説がある。とくに”カモカシリーズに出てくるカモカのおっちゃんなる人が面白い発言をするので共感を持っていたが、どういう立場の人かわからなかった。

彼女の所にしょっちゅう「あそびーましょ」と酒を持って通ってくる、電話で病気になったと知った。などの文句があると初めは飲み友達で、彼女は独身なのかと思っていた。

ところが、このカモカのオッちゃんが連れ合いであると確認したのは大分後の解説に書かれていたことによる、半ば予想はしていたがこんな夫婦もあるんだなと、再認識するとともに、こんなおっちゃんになりたいとも思っていた。

それが、ドラマでも放送されているがこの先どうなるのか、少々気になるので見続けていくことになると思う。

さて、今日でウイルス退治の期限が切れるので、買っていたCDを入れ、更新を図ったが、説明書どおりに行かなくて手間取り、結局スキャンが完了したのは4時間後であった、そのあいだ外出も出来ず30分おきくらいにPCを見に行ったり来たりを繰り返しようやく完了。

ウイルスを検出されず良好でしたとの報告あり、一安心。

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2006年10月17日 (火)

ほろ苦い思い出

Pa260016 庭の片隅で不如帰(ホトトギス)が咲き出した。

もう、10年くらいになるか、相良町女神で咲いていたのを一株も採ってきたものだった。

不如帰(鳥)の胸の模様に似ているため付けられた名前と聞くが、多彩で目立つ花、生命力の強さは抜群らしく、種をあちこちにばら撒いて到るところで芽を吹き出し、一時は雑草扱いにして、若芽を摘んで捨てていた。

こんな所は、鶯など他の鳥の巣に卵を産みつけ育てさせる不如帰(鳥)の生命力とも一致するのかもしれない。

小学校1年に2回、2年生の時1回、転校の経験し他の同級生の仲間入りが難しかったせいでもないと思うが、小さいころの自分はしょっちゅうヒーヒーと泣く気弱な少年であった。

いつも、母親の後ろに隠れ、着物のすき間から世間を覗いている風があった、と後になって思っている。

こんな少年は、同級生から見てもからかい易かった、面白かったのだろうと思う。しょっちゅう”いじめ?”の対象になっていた。

しかし、中学になって、クラスの一番ボス、ドラえもんのジャイアンみたいな子に追っかけられ、逃げ場が無くなったあげく”窮鼠猫をかむ”状態になって取っ組み合ったら意外と簡単に勝ってしまった。

当時、学校から帰ると地区ごとに子どもが群れを成してあちこちを歩き回り、隣の地区の子どもたちと会おうものなら石合戦などざらであったが、そんな時でも仲間内から弱い者扱いをされていた。

そのため、集団で遊ぶのは出来るだけはずれ単独行動を好み(今でもそうだが)自尊心は強く、内弁慶だったため、陰で弟や弱い者いじめをする根くらな少年だった。

ところが、取っ組み合いの喧嘩で、「頑張れば俺が一番!」という変な自信がついてからは、態度が一変してしまい、いまでも、同級会に出ると「クラスで一番性格が変わった男」と、まるで二重人格者みたいな言われ方をする。

あの時、あのことがなかったら今でも同じ性格を持ち続けていたのかと思うと、「人間どこで災難にあうか分からない」という言葉の反対で、何がきっかけで性格が変わらないものでもない。(逆でなくて良かった)

いま、学校ではいじめで毎年何人もの生徒が自殺している。

その予防も難しいのだろうが、周りに苦悩を聞いてやる人がいないんのだろうね、いれば随分と違うと思うんだけれど。

そして、学校の管理者や教育委員会が事なかれ主義で事態を隠しさらに傷口を広げていることに大きな問題があるのでなかろうか。

”美しい日本”は臭い物には蓋をして、表面上をつくろうものではないはず、大人と言われる人が先生、教育者を名誉職でなく真剣に責任を感じてもらいたいものである。

一方で、親が先生たちをとっちめている映像が各局で流されていたが、マスコミを集めた上での予定の行動だったのか、よく分からないが、親にも打ち明けずに自殺に及んだということは、親の責任はどうなるのだろうと番外で考えてみた。

ちなみに、いじめられっ子だった自分は、小中学校を通して一日も休まないで皆勤賞を貰っているし、学校を休みたいと思った記憶がないのだが、、、、、自分の場合、大したことなかったんだね、

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2006年10月16日 (月)

どさん(土産)

Img_0005_4 友と語らん 鈴懸の径

通いなれてる 学びやの街

プラタナス。排気ガスなどにも強いらしく街路樹として使われいるのでよく見られる木であるが、日本名は鈴懸(すずかけ)なんて綺麗な名前が付けられ、自分はこの名前の方が好きである。

秋も深まって、径が3~4センチの実をぶら下げている。

風もないのにブーラブラ  とね

土産と書いて”みやげ”と呼ばれるようになったのは何時に頃だろうか。

むかし、土産土法という言葉を習った覚えがある、その土地で採れた物をその土地で食べるのが、一番身体によくて美味しいという意味だったようだ。

そして、その産物を「珍しいでしょう」と他所に持っていくのが”みやげ”というようになったとすれば随分と古い言葉になる。

この言葉をいまの日本の食卓にあてはめれば、”みやげ”だらけになっている。

海老、蟹、鮪は言うに及ばず、米以外は輸入品がかなりの部分を占めて、自給率40%も割りそうだとのこと。

先日行なわれた北朝鮮の核実験に対する制裁で蟹と蜆の輸入が完全ストップする見通しになった。そして、今日は鮪資源に関して、南鮪の漁獲制限が課せられて、日本は昨年の半分に削られたと言う。

そうなると、日本の食卓はどこに向かっていくのだろうか。

まえに、”蟹食べ放題”と言う企画の旅行につれられて行ったことがあるが、蟹の味を含めて、もう二度と行きたくない旅行のひとつでになった。

日本人ばかりではないだろうが、バイキング料理などを含めて食べ放題などと書かれた店で、食べきれないほど皿に盛り上げ、食卓を汚し放題にして帰る人を見ると、なんだか意地汚いを通り越して、浅ましい地獄図絵という感じを持ってしまったからである。

鮪についても、育ちが日本海側の富山産のキトキトの近海魚を食べていた関係で、こちらの人ほど鰹鮪には興味はない。

これらは、何れも遠い土地から、はるばると送られてきたものである。

最近まで沖縄県は長寿の人が多い県だと言われていたが、最近ではそうでもなくなったという記事を見た。

原因は、食生活の変化だという、若い人を中心に洋風の食べ物を好み旧来の食事をしなくなったためだと書いてあったが、この分で行くと、若い人の寿命が短くなり、人口が一気に減少しかねない。

そこで、おみやげをもって行く時の日本の慣用句「つまらないものですが、、、、」と言うが、本当に土産(どさん)をつまらないと感じる人ばかりになったらどうする?

今日のブログも少々理屈っぽくてつまらんかったよね。なにせ”どさん”だから

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2006年10月15日 (日)

稲刈り手伝いがなくなった

Img_0022 心地よい青空が広がっている。

例年なら、今日あたりが稲刈りの時期であるが、今年から稲刈りの手伝いが無くなった。

そのわけは、田んぼをこれまで取り仕切ってきたお爺さんの高齢化に伴って、息子に任せた結果、小型のコンバインで刈り取りをすることになったためである。

稲刈りは、普段使わない筋肉を急に使うため、心地よい全身の疲れと上半身の筋肉痛が2~3日続くのがここ何年間かの慣習であり、これが途絶えたのは、何か寂しいような気がする。

ざっくばらんに話し、集団でワイワイとやる農作業を半分楽しみにもしてきたが、農家の方ではただ働きを含めて気にしていたのかなとか、これからの農業はこうでなくてはと、息子が思っていたのかななど考えさせられる秋になった。

古来日本の農業は、人力を主としお互い助け合うことで、隣近所兄弟と仲良くしてきたが、最近此方の農家を見ていると、隣の田んぼの持ち主とさえあまり話しもしていないらしく、あの辺に住んでいる人、程度しか知らないこともあるそうだ。

高齢化し、農業を出来なくなった人が手放し、いい田んぼならずっと離れた所の人が買ってトラックで農業機械を運搬し、耕しているのでめったに会わない人もいるという。

先日も、話していたら、静岡~清水の国道1号バイパスの用地を取得するのに20年ほどかかったのに、第二東名取り付け道路は1年で済んだと言っていた。

つまり、後継者がいないためが原因らしい。食料自給率40%と言われる日本で農業はさらに先細りである。

Img_0039 ということで、安倍奥の山伏岳を登ろうかと出かけてみたが、別荘地の下から分岐して駐車場に向かう道で救急車とすれ違った。

「はて、こっちにはもう人家がないはずなのだが、、、ひょっとすると誰か山で遭難でもしていたのかな、それにしてもサイレンを鳴らしていなかったな」なんて思いながら200mも行くと、パトカーを含めて3台の車。

「これは、何か事件があったのかな」とすれ違いざま横目にガムテープでを貼り付けた小型車が一台見えた。

「排気ガス事故」とっさに気がついたもの引き続き駐車場に向かって車を走らせた、300mほど先の駐車場にはすでに6台の車が止まり、その少し下流では工事の人と機械が動いている。

これらのうちの誰かが通報したのだろうか、さぞ驚いただろう。

自分は駐車場に着いたものの、チラッと見た車内の人影が気になって支度する気になれない。多分縁もゆかりもない人なんだろうけど、どうしてこんな処を選んだのだろう。どんな理由がそうさせたのだろうか、などと考えながらしばらくいたが、今日の山登りは止めることにした。

帰りに再び脇を通ったが,山中のせいか遮蔽物もなく丸見え状態であり、気持ちだけの会釈で下山をした。

このまま家に帰ってもと思い、近くの「黄金の湯」で気持ちを落ち着かせて帰ることにしたが、そこまでは、聞こえていないらしく不断どおりののんびりとした雰囲気のなか、体温ほどの湯に長浸かりし、うたた寝状で過ごしてきた。

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2006年10月14日 (土)

月下美人も店じまい

朝からヘリコプターが頭の上をひっきりなしに飛び交っている。

昼のニュースによれば、麻機でヘリポート祭りをやっているとのこと、「それで煩かったのか」と納得した後、いつもの野次馬根性で出かけてみた。

入り口で「お楽しみ抽選券」なるものを貰い中に入ってみたが、意外と寂しい。

それもそのはず、午後になって行ったのに番号の数字が2,000とチョットしかない、地元農家が協賛してバザーをやっているが、ほとんど何もなかった。

それでも、抽選で”遊覧飛行ご招待”というのに惹かれて待っていたが、結局は日ごろのくじ運悪さがここでも出て大ハズレ。

夜は、今年最後になると思われる月下美人を、孫たちと楽しむため食事に招待した。

今年の月下美人は少し変わっていた。

例年なら4~6輪ほどが一度に咲き、ひと夏に3~4回咲くのだが、今年は2~3輪ほどがだらだらと咲くのである。

花の数は、正確にはわからないが総数は50に近いはず、一度に咲いた数としては9輪というのが1回あるものの他は2~3輪づつ。

そして、昨夜は2輪咲いて、今日も2輪である。

しかし、この花一夜花。

夕方6時ころから開き始めて8時過ぎに満開、以後明け方の何時に萎むのか見ていないが、人寄せ花でもある。

今年、この花を愛でるため、8家族20人くらいが集まってくれた。

酒を飲みながら、「あれ、また開いた」だの「花が開く時、ゆれるんだね」「嗅いだことのない匂いだけど、いい匂いだね」なんて言い「見事見事」と褒める。

持ち主の自分も嬉しいが、花も嬉しくて次々咲かしているのではないかと想像してしまう。

大騒ぎしていた子どもたちも帰り、涼しくなった夜空を見上げながら月下美人はプロ野球の選手同様、「やれやれ 今年も疲れたね」といいながら店じまいにかかっているように見えるが、本当のところはどうなんだろう。

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2006年10月13日 (金)

歳々年々同じからず

Img_0001_2 今日、我が家の小狭い庭を訪れたのは”蛍蛾”である。

真っ黒い羽の中ほどに白い筋の入った蛾で、飛んでいる時の姿は白い羽がまるで回転しているようにくるくると円をかいていた。

飛んでいる姿は、なかなかデジカメに捉えられないので、一休みに入ったとき「チョット~ スミマセ~ン」と声をかけて、写真に撮らせてもらった。

この蛾は、身体が黒く、頭の部分が赤いところから名付けられたと思うが、光りはしないし、触覚が一本の棒状でなく、鳥の羽のようになっているところが面白い。

「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは”という歌は、親鸞聖人の作だといわれている。(本当かどうかはどうでもいい)

季節は、何時とはなしに廻っていく。やっと先日まで煩く鳴いていた蝉も気がつけば全然聞こえない。

「はて、最後に聞いたのは何時だったかしら」と考えても分からない。何時とはなしに消え去っていく自然、自分もこんなんだろうなと仏心を目覚めさせてくれる。

”年年歳歳花相似たり”というが、もしここに百年前の人が甦ったとしたらどんなに驚くことだろう。

背高泡立ち草を初め帰化植物がいっぱい、野山は見慣れない草木で一変しているに違いない。”歳々年々同じからず”は何も人間の専売特許でなくなり、この漢詩はいずれ消え去るもになるだろう。

さて、最近のテレビで世の中はいま好景気が続き、昭和40年代の”イザナギ景気”を更新しているそうだ。

思わず何処の国の話しかとおもったね。

自分の身にとって見れば、年金は減れされるのに、税金の控除がなくなって高くなり、健康保険、介護保険は増えてきた。

空前の利益を上げているのは大企業や銀行だと言うが、事業税を納めている銀行はほとんどないそうだ。ある経済担当大臣は企業は国際化しているので税金を上げると海外に逃げていってしまうので、、、、といっていたが、国民は逃げないとでも思っているのだろうか。

これで、消費税を上げて、とまた弱者いじめにかかったら選挙でお返ししなければならないのだが、政治家とアイドルと混同している国民には無理な話しか。

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2006年10月12日 (木)

蓼食う虫も好き好き

Img_0087_1 ”蓼食う虫も好き好き”よく知られた文句である。

俗に蓼八百と言われるくらい、蓼の仲間は身近に多くある。(写真左は柳蓼)

その中でよく知られているのは、大きなものでは板取、御蓼、小さいものは犬蓼、大毛蓼、桜蓼、溝蓼、柳蓼などがあるが、浅学の身、板取と御蓼の区別がまだ出来ない。

Img_0085 (左は御蓼 富士太郎坊)その中で、食べられると言うのは、板取と柳蓼くらいのものであるが、最初に書いた”蓼食う、、、”は柳蓼ことを言う。このほかの蓼は、それこそ味も素っ気も無くただ草~と言うだけの味だ。(最も全部の味を見たわけでないから断定は出来ないが)

そして、柳蓼も生葉の苦味はよく知っているが、上品に蓼酢にしたものは聞いただけで使ったことは無い、とすると、唯一蓼の仲間で食べてと言うのは板取くらいのものか。

板取は、春先地面から出で30センチくらいの太くて柔らかいものを採ってきて、葉を取り指で茎をつぶしてさっと湯がいた後、一度上げ冷水でしめる。

そのあと、煮しめにするわけだが、いまでも山で出がけを見つけると、つい手が出てしまう春の味である。

Img_0085_1Img_0075_1溝蓼とチャバネセセリ

右;桜蓼

今日の午後は、古いむかしの西部劇「荒野の決闘」をみた。

アメリカ人にとっては、ワイアットアープとカスター将軍、デビークロケットは、日本で言う鞍馬天狗、大石内蔵助らに匹敵するスターのようで、とっかえひっかえ映画などに登場するようだ。

「荒野の決闘」は後に”OK牧場”や”トウームストーン(見ていない)”などで見方を変えて映画化されているが、この映画を日本で有名にしたのは、オー マイ ダーリン クレメンタインであろう。

史実に無いクレメンタインというヒロインを作り上げ、映画の最後に「クレメンタイン、いい名だな」といって、荒野の彼方に馬を走らせて去っていく姿は後の映画「シエーン」さながらである。

もともとこの歌は金鉱探しの労働者の娘が川に落ちて亡くなったことをいたむ歌だったので、歌の文句は映画になじまないはずだったが、日本で有名になったのは「雪山賛歌」として広まったためであろう。

そのころ英文の歌詞も無かったので、耳で聞いたままイナケービン イナケーニョン エクスベーション ホーテナイン、、、と歌ったものだった

ジョンフオード監督、ヘンリーフオンダー、ビクターマーチュアーの豪華メンバーが昭和22年に作ったと言う時代背景を考慮に入れながら観賞し、自分はそのとき小学何年生だったなどと思うと一入の感があった。

鉱山町だったので唯一の娯楽である映画はときたま学校が禁止する以外は無料で自由に見ることが出来た。また、あのころの映画スターは外国人でもよく名前を憶えたものである。

そこで、マイダーリンクレメンタインのリフレイン部分を

oh my darling     oh my darling   

oh my darling  clemenntaine

thou art  losto  and gone  forever

dead  ful sorry  clemenntaine

これも耳につく曲である。

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2006年10月11日 (水)

認知された秋の花

Img_0102 今頃の野原は背高泡立ち草でマッキキッ~である。

いつの頃、日本に入って来たのか知らないが、そんなに古くは無いと思う。

ひとっころは豚草と混同されて、花粉症の元だからと刈り取られていたが、これだけ増えてしまうと手に負えなくなって、最近ではほったらかし状態になった。

その勢いはとどまることを知らず次から次えと分布を拡大していくことから、一部では、野原の新興宗教ともいわれている。

また、よく言われたが、中年のおばさんが尻を上手に使って座席を確保してしまうように、背高泡立ち草は日本に入り込み秋の花として認知されてしまった。

人は、どうしようもない状態が長く続くと、以前からあったものように思い込んでしまうものか、今朝のテレビでは、北朝鮮もそれと同様のことを狙って核爆発を強行したのではないかと言っていた。

ともあれ、虫たちも今年最後のご馳走と思ってか群がっていたが、やはり季節を表しているのか、虻や蝿、蜜蜂が主体であり蝶々の仲間は一段と数を減らしている。

そんななか、頭の中は”た~らこ た~らこ たっぷりた~らこ”のメロディが鳴り響く。

コマーシャルソングで見ていたときにはそうでもなかったが、可愛い女の子が二人、たらこを模したと思われる帽子かぶって歌ってから洗脳されたようにでてくる。

単純な節のせいだろうか、前にも"サカナ サカナ サカナ 魚を食べると、、、”ってやつがあったし、キノコもあった。

単純なひとつことをズーッと続けているとこんな風に耳に残るというが、宗教にもこれに似た用法を使っているのがある。

今世界は、、、、、、ブルルルッ 寒波はもすぐ押し寄せてくる。

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2006年10月10日 (火)

コスモスとカオス

Img_0110 いまコスモスの花が、日本中あちこちで花開かせている。

種さえまけば手入れをしなくても、どこにでも花を咲かせる手軽な花である

コスモス、その名のもとは”万物を秩序だって統一する世界をいい、宇宙をさすともいう”であり、小さな花にしては壮大な名前を贈られて花である。

コスモスが統一した世界を意味するが、その反対がカオス(混沌とした世界)という言葉である。しかし、その名前を献上された花はない。

北朝鮮が核爆発の実験をした、ということでテレビは終日その話題を繰り返し放送している。

北朝鮮、先軍政治とかで何事も軍が優先する独裁国家であり、麻薬、偽ドル、拉致など国家ぐるみで犯罪を遂行している国といわれている。

(まるっきり信用できないのは、イラクの大量破壊兵器などに見られるように、一部の国によって、情報操作がされていないでもないから、、、、)

この国を見ていると、昭和初期の日本を写しているように見える。

勿論やっていることは違うが、中国に干渉する日本の軍部の行動を押さえられなかったこと、それを批判され国際連盟脱退、ABCD包囲網の制裁となり、結果的に日本、ドイツ、イタリアの三国同盟から、無謀な戦いを始めて転落したときと同じことをなぞっているのではないかと。

6カ国協議も解決できず、国連も制裁決議をしたとしたら、北朝鮮はどこかに突破口を求める、そこはどこか?

まづは、韓国か日本に向けてだろう。すると、日本国内に強硬論が起き日本もどこかへ突っ走る可能性がでてくるだろう。

いずれにしろ、一部の人の思惑で世界がカオスに向かわせてはならないだろうし、それの乗っかって利を得ようとする輩が闇の世界で跳梁跋扈しないように目を光らしておこうと思うが、、、、、。

なにしろ、ちょっとしたことで極端に走り、「彼がこっちなら俺もこっち」と主体性が無く、付和雷同する国民性は直っていないから、自分みたいなものは直ちに「非国民」と指弾されること間違いなし、また暗い闇のそこを垣間見たような気がする。

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2006年10月 9日 (月)

ルールの知らないゲーム

Img_0026 天気も良し、そろそろ近場の山へ登ってみようと思ったが、まだ痛めた足が本物ではないのと、昨日の沼津の魚市場のように人でごった返している所へ閑人が行くことも無かろうと見送りにし、例によって麻機廻りですますことにした。

空気は乾燥し、肌に心地よい。

咲き残ったひまわりに鶸(ヒワ)が一羽きていた、少し距離がある上のではっきりしないが真鶸の雌か川原鶸と見た。

マヒワだとすれば冬近しということで、北国から戻ってきたのかなどと思いながらシャッターを切った。

Img_0116_1 今日は、体育の日。

流通センター側の普段は人気の無い広場で人声がするので近寄ってみると、肌色の違う青年が12~3人でゲームをしていた。

見たことのないゲームであったが、バットを見てこれが音に聞くクリケットであることを知った。

ルールを全然知らないので、ただ黙ってみていたが、野球の元になったゲームだといいながら、あまりにも似ていない。

まづピッチャーのような人が、10mほど走ってきてバッターに向けてワンバウンドの球を投げる。初めは投げそこねかと思ったがこれもルールのようだ。

すると、板っぺらのようなバットを持ったバッターは球を打ち返し、バットを持ったまま30mほど先の杭に向かって走る、と、杭の所にいたもう一人のバッターが打席まで走って戻ると言うのを繰り返していた。

アンパイヤーみたいな人もいないし、人数が足りないせいか打者側は二人しかいないように見えたが、みんな嬉々としてゲームをやっているのは感じ取れた。

どこの国からきたのか(アフリカ系らしい)、どこで仕事をしているのか(一緒なんだろうか、別々なんだろうか)などとゲームを見ながら、頭の中で想像している自分が別にいた。

遊水地の片隅で人目を避けるようにして楽しんでいるのがなんとも奇妙でまた微笑ましく、30分ほど立ち止まって観戦した。

今夜も月が中天に輝く、暦を見たら昨日が満月だったそうだ、旧暦の15日は必ず満月かと思っていたのに此方は肩を透かされたような気がする。

今夜が本当の十六夜(いざよい)の月たしかに、円の一部が欠けている。

月にむらくも 花には嵐 窓の外に虫すだく

  秋の夜長に なにをする   山人

         なんちゃってネ

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2006年10月 8日 (日)

美味しい魚を食べたくて

昨日に続いて絶好の好天気。

昨日確認できなかった富士の初冠雪も頂上の一部ではあるが剣が峰をを含んで白く見える。

16,17号の台風と秋雨前線が呼び込んだ寒気のせいだろうが、この時期にさんま漁船の遭難と北アルプスの遭難が気になる。

「人を呪わば穴二つ」と言う譬えもある、自分も何時どんな失敗をしないでもないが、どうして天気が荒れると分かっているのに、山や海に出かけなければならないのだろうか。

同じ時遭難した貨物船の場合とちがって、さんま漁船の場合、どうして出漁しなければならなかったのか、紀伊国屋文左衛門が嵐を衝いて江戸にみかんを運び大儲けしたのと同じ考えだったのだろうか。そうだとすれば冷凍技術の発達した現在に当てはまらないことなので、何か他の理由があったはず。

山の場合、日程が取れなかったというより、この嵐の中を登山したという自慢話がしたかったのか、悪天候の後の景色を見たかったのか、どちらにしろ命がけでやることではないと思う。

Img_0037 そんなことを思いながら、今日は沼津は小瀬崎にまで行ってみた。

もともとは、涼しくなったので魚も美味くなっただろうから、久し振りにいつも行く店を目指して向かったのだが、あまり張り切りすぎて早くに到着、開店にしばらく時間があったことから、足を延ばしたしだいである。

小瀬、海の中が綺麗で波も少ないところから、最近ではスキューバーダイビングを教えるところの代表格みたいになっていて、今日も数多くの初心者らしい人であふれていた。その先端に小瀬崎がある。

小瀬崎(オセザキ)は、海流が伊豆半島沿いに礫を移動させて小さな湾をふさぐように伸びた砂礫州で、普通に考えればその先端にある池が真水である、というのは理屈では分からないことだったので、昔から伊豆七不思議のひとつに数えられていた。

この池と一番古い柏槇(ビャクシン)が近くの神社のご神体とかで、入り口で拝観料を取るものだからいままで入ったことが無かったので、今回は覗いてみた。

池は、直径200mもあろうか、確かに淡水らしく鯉、鮒が餌をもとめて人が来ると寄ってくる。その数の多いこと、多いこと。

Img_0035 そのほかに、幹の径が2m以上もある古い柏槇が幹の一部を白く枯れさせている木肌に貫禄を感じさせられたりして、約一時間余散策した。

時間も12時を回ったため、店の方に周り刺身定食を楽しんだ後、沼津魚市場に戻って、目当てのミギスの一夜干しを買い、昨年出来た大きな水門「びゅうお」に登って景色を堪能して帰ってきた。

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2006年10月 7日 (土)

女郎蜘蛛の愛

昨夜来の台風崩れの低気圧のせいで、天気予報は朝から晴れると言っているのに細かいものが落ちていて出ばなを挫じかれてしまった。

外に出ると、強烈な臭いにつつまれた、金木犀である。

我が家と隣のが一斉に花開いたらしい、咲きかけが一番匂うらしいが、匂いもここまで強くなると臭いになってしまう。

まるで、エレベーターの安香水のようでいただけない。

先日来、すぐ側の木に女郎蜘蛛が巣をかけている。

蜘蛛仲間のうちでは、よほどの美人なのか大きな雌にたいして一時は雄3匹が周りを取り巻いていた。

今朝ほど見ると、雄が1匹になっている、競争に敗れて他に移って行ったか、雌に見つかって食べられてしまったか、、、。

女郎蜘蛛、雄は雌の作った巣に入り込み、雌に気付かれないようにして、プレゼントを渡す機会をねらっている居そうろうのような存在だ。

もちろん、恋愛感情なんてものは無い。他の虫たちは鳴き声で競ったり、色、大きさをアッピールして雌の気を引くのだが、蜘蛛には一切そんな様子が見えない。

ただひたすら、雌が食べ物などに気が行っている隙をねらって、精子を雌にねじ込んで逃げる。

初心な少年が下駄箱の近辺でまちかまえ、好きな女の子に手紙を無理やり持たせて、逃げていくように、(今どきそんなことしないか)ただ失敗すれば人間と違って、、、、、、死あるのみ

愛とは、見返りを期待しない無償の行為だと聞いたことがあるが、蜘蛛の雄はただ子孫を残すため、雌と同居しながら気付かれまいと身動きさえ用心しながら生きている。

これぞ、最高の愛なのだろうか?

この先、雄の悲恋が成就するのかどうか、しばらく見守って行きたいが、だれかさんが竹箒で払い落とせる高さなので、はたしてどうなるのやら、前編のおわりとする。

Img_0019_2 今夜は十六夜(いざよい)日本にはいい言葉がある、そこで一句。

十六夜といえば どこか欠けたるに

               こうこうと照る 円満の月     山人

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2006年10月 6日 (金)

あめふりおつきさん雲の陰

台風16号と秋雨前線が重なって梅雨時を思わせるような雨が降り続いている。

こんな日に外で仕事をしなくてはならない人に本当に「御苦労様です」と心から言いたい。

余談になるが、「御苦労様」という言葉は目下の人にかける言葉でいやだと言う人がいた、どう言えばいいのかというと「お疲れ様でした」がいいそうだ。

自分としては、声音(こわね)で分かると思うが優しく「ごくろうさまでした」と言われた方が好きである、特に女の人から言われると肩の力がスーッと抜けるようで心地よいのだが、、、、「まァどちゃでもよろし、本人さえ良ければ」そう言ってあげよう。

自分も仕事柄、雨、風、水に打たれての仕事がよくあった。工期が少ない仕事、特に年度末にかかっている場合は、雨だからと言って現場を止めることが出来ない、また、鉱山で出水帯での作業などでも、合羽を着て身体の芯からブルルッと来る震えを抑えながら続けたことがある。

経験が無くても分かると思うが、肩から上に上げた手首から冷たい水が入り脇を通って腹に達した時、想像しただけで思わず身震い。また、パンツまで濡れるととたんに気力がなくなるのはどうしてなんだろう

それに比べて、今の身分は天国さながらの状況でありがたいことだと思っている。

雨に関しては、お国柄があり日本のじめじめや鬱陶しいと言う印象から、歌謡曲などに出てくる雨はつらく悲しいイメージばかり。

一方、筋書きは憶えていないがミュージカル「雨にうたえば」の中で色とりどりのレインコートと雨傘をもったジーンケリー?がタップを踏んでいたシーンや、「雨に歩けば」がアメリカ的な雨なのかと思っている。

もちろん、「雨の朝パリーに死す」「西部戦線異状なし」なんて暗い雨(白黒映像だったか?)もあったけど、雨のシーンは日本映画ではほとんどが傘で演出するのに対して、外国映画はずぶぬれになったりレインコートでかっこよく濡れていくシーンなど雨をものともしない場面が多いように思うのは自分の思い込みだろうか。

そうそう、雨の歌で一番印象に残っているのは、八代亜紀の「雨の慕情」のである。昭和55年(写真)、春の長雨の中、工期に間に合わない仕事をしていて昼にかじかんだ手でラジオのスイッチをいれたら”あめあめふれふれ もっと降れ 私のいい人連れて来い、、、”だったもんな~

今日は、旧暦八月十五日、中秋の名月を愛でる日だが生憎の天気

あめふり おつきさん くものか~げ とくら~

見えない月を想像し酒をたべてそうろう

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2006年10月 5日 (木)

エロカッコいい

秋雨前線が居座っている所へ持ってきて台風が近づき、はっきりしない天気が続いている。

おかげであまり遠出が出来なくて近場をうろついているが、最近は盗人萩につづいて栴檀草(センダングサ)が悩みの種になってきた。

栴檀草、ひっつき虫の代表格のひとつである。

種の先端に、ヤスのような返しの付いた棘を持ち触るものみな、無差別に突き刺しくっ付いてしまう。

葉っぱの形が栴檀の木の葉に似ている(?)ところから付けられたものと思われるが、本家は「栴檀は双葉より香ばしい」と言われるのに対して、この草はひっつき虫ゆえにきらわれている。

栴檀草にはいくつかの種類があるが、写真の花は小栴檀草というらしい、しかし、背丈が1mを越すのもいるから決して(小)をつけるようなものではない。

この花、を見ていて面白いのは、徹底した合理主義者なのか、単なるズボラなのか分からない処である。

その訳は、花びらをつけているのがほとんど無いせいである。

Img_0089 「あんなものは種をつける上で何の役にも立たない、草花は黙って勝負する」と言ったかどうか知らないが、オシベとメシベを剥きだしにして、虫たちを「エロカッコいい」姿で悩殺しているように見える。

Img_0082_2 ときたま、花びらをつけているのを見ても、全周ぐるりと花びらをつけないで疎らにしか付いていない、ヅボラな人が神さまから「花なら花らしく付けろ」と言われたので「まあこんなとこかな」って寝そべりながらつけたようにも見える。(ご指摘がありました、花をつけているのはコノシロ栴檀草というそうです。浅学のみぎり恥ずかしいことで、、)

見ているといろんなことが想像できて面白いのだが、これからの野道は道の真ん中を歩かないと、足元が持ててもてて仕様がない。

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2006年10月 4日 (水)

虫たちのさんりんぼう

Img_0001 きょう10月4日は三隣亡(さんりんぼう)だそうだ。

三隣亡は江戸時代まで三輪宝と書き吉日だったとのことだが、どこでどう間違ったか今では大凶日になってしまった。

つまり、まったく根拠のない忌み日なのに、なにかと言うと今日は”さんりんぼう”みたいなどと言われてしまう。

しかし、麻機沼の昆虫にとっては、暦どおりの悪夢の”さんりんぼう”だったことだろう。

どこの学校かは知らないが、ざっと150人ほどの学童が遠足に来ていた。

サッカー場にも使用しているグラウンドに、リュックを初め衣類などと見られる多彩な彩の山がふたつみつ。

そして、いくつかのグループに分かれて捕虫網が旗印のように林立して”いざ 合戦!”を目前にしている。また、ある組はもう網を振り回して、「とった~とった~」と騒いでいる。

この調子では、バッタも蝶、カマキリも追っかけられて、根絶やしに捕られるか。そんなこと無いけど、子どもの嬉しそうで甲高い声が響き渡っている。

さて、午後になってまた芸術ごころが湧いてきた。

前から気になっていた、駿府博物館の「中島潔 童画展」を見に行くことにした。

中島潔は、昨年だったか、NHKで彼の絵と生い立ちを放送したことがあり、そこで、炭鉱町に育ち、下田で温泉掘りの手伝いに来ていたとき絵を描き始めたと紹介され、いまは、熱海に住むという。

自分も鉱山で育ち鉱山に就職し、ボーリングを前半生の仕事としてきただけに、親近感を持った絵描きである。

絵そのものは、柔らかいタッチの童画風に書かれた物が多く、誰が見ても分かる作品であり、とくに自分たちが幼いころの風景を思い出させる場面が多い。

素足に草履、継ぎ接ぎの当たっただぶだぶなお下がり衣服、弟妹を背負って遊び加わったなどが主体だが、どれも苦しさ切なさを感じさせずホンワカと描かれている。

素人がおこがましいこと言ってはなんだろうけど、百点余の作品を見ていて感じたのは、1989年ころから今の作風になったようだが、いくぶん人物像がマンネリ化しているのではないだろうかと感じた。

もちろん、浅間山などひとつの題材に数多くの作品を残している人もいるのだから、それはそれでよいのだろうけど、いずれ、近いうちにまた違った種類の人物がでてくるのを楽しみに、芸術観賞を終えた。

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2006年10月 3日 (火)

オラッ 近寄るんじゃない!

Img_0063 「オラッ 近寄るんじゃない!それ以上くると酷い目に合わすぞ、やったろうじゃないか」

昨夜の雨で、道端に上がってきたもの、帰りそびれて水溜りに潜りこんでたザリガニが一匹。

背中をつまんで道路に置いたら、写真のようにはさみを振り上げ、顔どころか全身を真っ赤にして(もともとだけど)威嚇している。

”ファイト!”と、小さい棒で鋏をツンツンと突っつくとますます反り返ったあげく、仰向けにひっくり返ってしまった。

恥ずかしそうに起き上がり、とてもかなわない相手だけんどまた威嚇して難を逃れようと気張る。

Img_0069 まわりには、人っ子一人いないので、お年よりは童心にかえって気まぐれのいたずらを繰り広げる、次は水のたまった蓮の葉にのせられるなどしばらく、相手をさせられた挙句、ようやく背中をつままれて今度は安全な池に返された。

このザリガニは、もともとは食用蛙の餌としてにとアメリカから輸入されたものらしいが、目的を達する前に食用蛙ともども逃げ出し、いまではあちこちの沼池やどぶで大繁殖してしまった生き物である。

ヨーロッパ、特に北欧では高級食材として人気があり、日本でもどこか(千葉?宮城?)で塩茹でにして食べるところがあり、先日もテレビでもくもくとタレントが、ふるさとの味と言って食べている場面があった。

しかし、全国的な食材にならなかったのは、住んでいる場所が泥臭かったせいなのだろうか。

アメリカザリガニ、ジャンボタニシ、マングースなど、その生物のことをろくに調べもしないで輸入し、結果的に害が出て、気付いた時にはどうしょうもない状態になった生物は数知れない。

Img_0071 もう少しすると、麻機沼は一面黄色になる、背高泡立ち草が蕾を持ち開花を待っている。根に毒があるとかで他の植物を駆逐しながら版図を広げ、最終的には自分自身がその毒に侵されて減るらしいのだが、その猛威で好かれていない。

この草もどんな理由によって日本に来たかは知らないが、来たくて来たものでないことは確かだ。

それにしてもアメリカ産の生き物のグローバリズムは人だけではない様だな。

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2006年10月 2日 (月)

ちいさい秋 見つけた

明日葉、今日摘んでも明日になれば新しい芽が吹くといわれ、その生命力、力強さからなんにでも効くといわれている思われている?)草である。

青汁の原料にもなるらしく、その効能は抗がん性があるを初め、胃腸、高血圧、痴呆、不眠等々これでもかというほど書かれ、むかしの”熊の胆””朝鮮人参”並みの効果がうたわれているが、あまり多岐にわたると「薬九層倍」よろしく、効能まで「ほんまかいな」と疑いのまなこを向けたくなる。

以前は伊豆七島か南伊豆の海岸でしか生育しない草といわれていたが、最近は自分の周りでもあちこちに見られるようになった。

我が家でも、八年ほど前に下田で貰ってきた一株が花を咲かせ、種をあちこちに飛ばしたらしく現在10株程度が庭木の間でこじんまりと生えている。

そして、いま上の写真のように花の時期を迎え、猪独活のような白い花を咲かせている。(そういえば葉の形もよく似ているので親類筋かもしれない)

この葉は、成長力が強いのでいつでも新芽が出てくるが、春先がやはり一番よく伸びる、さっと茹でてお浸しや胡麻和えにするもよし、そのまま天ぷらにするも良いが、自分としては、少しあくが残っているおひたしが一番である。

山菜の天ぷらは、形を愛でるにはよいが、味の点では香りやあくが吹っ飛んで今一といったところ。

明日葉の花、これも秋の風情だろうが、道すがら南京櫨が紅葉しているのを見た、まだ寒さも来ていないのに、この気の早さはどうしたことか。

だれかさんが だれかさんが 

  だれかさんが 見つけた 

     小さい秋 小さい秋

             小さい秋 見つけた

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2006年10月 1日 (日)

蕎麦とお化けはこわいもの

Img_0046 ”尾羽打ち枯らす”といえば時流に乗って威勢の良かった人が、何かで失敗してみじめな格好で歩くことを言うが、秋も深まってくると昆虫も満身創痍。やっとのようにしているが、次第に数を減らし消えていく。

写真の蝶もそうなのかと思った、羽の縁がまるでむしられたようににギザギザになっている、しかし、割合元気に飛び回っているので、図鑑で見たら黄立羽(キタテハ)とのこと、このまま年を越すのもいるとのことなので、元気で当たり前なのである。

まるで、年輪ピックの選手みたいな蝶ということになるか。

朝から細かい雨が降ったりやんだりの一日となった。

何もすることもないまま、有東木まで天蕎麦を食べに、クレソン採りなどをしに行ったが、その帰り、途中の中学の運動会が中止になったようで、弁当やバザーの食べ物らしいものを持った父兄らしい人の群れとすれ違った、行く時校庭から響いていたスピーカーの音も静かになっていた。

今日は衣替えと、同時に最近他所の国がやっているからと二学期制となった学校もあり、後半に入ることになった。猫の目のように変わる文部行政の中でいつまで続くのか、はたまた定着するのか、まだしばらくの経過を見なくてはならない。

さらにアメリカさんの真似師は、秋を学年の初めにしようと提案しているそうだが、明治以来の桜の花の下で新学年を迎えてきた社会に、汗拭き拭きの入学式はなじまないのではと思う。

蕎麦とお化けはこわいもの

新蕎麦は、また格別な風味と歯ごたえがあるものだが、いまだ食せずにいる。

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