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2006年10月29日 (日)

三川公園で旧家を見る

Img_0101 木曽三川公園、西から揖斐川、長良川、木曽川がほんの薄い堤防を境にして接している場所にできている。

道を挟んで反対側にある治水神社は、この川を分ける堤防事業に携わった薩摩藩士の遺徳を偲んで立てられたもので、この三つの川が網の目のように入り乱れていた江戸時代半ばまで、この土地に住む人は毎年のように洪水にさらされていたという。

そのため、どの村も自分たちだけを守るため周りに高い堤防を作り、囲い込んだ物を”輪中堤”といい、自分さえ良ければほかは構わない”輪中根性”という言葉が生まれ、岐阜県の県民性だと書いた本まであったが、岐阜県の一番南端の人の行動を全県民に当てはめるには無理がある。

また、この当時小さな集落でこれ以外に方法が無かったはずだし、当時の支配者も収奪するだけで、治水に回す財力がなかったので、輪中堤だけでも大工事だったことは、想像できる。

そんなことを思い長良川の河川敷の駐車場から”木曽三川公園”には入る。

丁度、菊祭りが始まったばかりとのことで、ゲートをくぐって入ると、池の上にまるい球状のポットが立ててあり、その背景にこのあたりを代表する水屋(高屋)を持つ旧家も移築してあった。

これを見たいと思って、輪中の郷に行ってみたのだが無く、「こんな処にあったのか、こんなことなら、、、」というのが正直な感想だった。

立派な百姓屋は大地主の所有物だったのだろう。母屋の脇には笹舟が上げてあり、そばの輪中堤が切れる被害があっても、逃げ込んで水の退くのを待つ、高台つき水屋も持っている。

おなじ県でありながら”飛山濃水”言われるように災害も飛騨の寒冷豪雪と美濃の洪水氾濫。極端に違う土地柄は人の気性まで作る。

それを思い知らされる景色だある。

いまでも、自然を制御したとはいえないが、昔に比べれば住みよくなった。

入り口に戻ると、むかし話の紙芝居をフルートとエレクトーンの伴奏入りでやっていたが、大人の方が多いような感じだった。

多分懐かしがって集まっているようだが、自分から見ると上品過ぎて懐かしいという感じが無い、懐かしがらせるなら飴を買わない客はずっと後ろに下げてやってほしいものだ。

しかし、電気紙芝居にくらべれば、むかしの紙芝居は時間に余裕があったなァ~。

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