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2006年12月31日 (日)

おおつごもり

Img_0062_1 おしょうがつは ええもんじゃ

ゆきのような あっぽくって

あぶらのような さけのんで

てっぽのような へをこいて、、、、と

こどものころは正月を待ち望んだ。普段食べられない御馳走(ごっつおう)が出てくる上、餅などを食べ放題に食べ、腹をパンパンに膨らまさせて炬燵にもぐっていても叱られることが無かった。

この当時の叱られるとは、即 ”げんこつ”だったから、それこそ、”はやくこいこい おしょうがつ”だった。

普段から飽食、美食を子供の頃から経験し「腹が減った」とか、「美味い物がこの期間だけたべられる」ということを知らない今の子どもはある面では不幸せとでも言うべきだろうか。

大晦日と書いて「おおつごもり」という。趣のある言葉ではないだろうか。

辞書によると”つごもり”とは”つきこもり”。月がこもる、と言う言葉の変化で新月の前の日だという。そして、おお、はもっとも大きいことから12月の月こもりを意味すると言われると、納得してしまう。

余談ではあるが、芝川町内房の山奥に大晦日と書いて”おおつもり”という所があるがどうしてこんな名前がついたのか、地元の人に聞いてもよく分からなかったが、ここでは一年中大晦日である。

そして、今年の”おおつごもり”は穏やかな一日で暮れて行った。

静岡の蓮根産地、”麻機蓮根”は美味い。と、地元の人は自慢する。今日も注文を受けてか、今年最後の収穫に励んでいる人をあちこちで見かけた。

先日話をした、蓮根おじさんも、「こんなのは趣味とボランテァでなければやってられないよ」と言っていたが、「自分は蓮根を好きじゃないんであまり食べないよ」と言ったら「実はオレも作っているんだけど、、、」と言って共に大笑いをしたことある。

風もなく、今の時期にしては暖かな日差しの中、鳥たちものんびりと時を過ごしているらしく、公園の水のみ場に椋鳥が何羽も集まって交替に水浴びをしたりしていたが、無粋な人が寄ってきたので早々に逃げ出してしまった。

今年最後の一日、「終わりよければ全てよし」というが、いろいろな問題を残して時は過ぎ去る。

いくら今日が良くても火種をくすぶらかしたままでは、何時発火しないでもない。

先日も、犬と振袖に見立てた赤い布を着けた瓜坊(猪の子)をならべて戌年から亥年への、引き継ぎ式なるものをやっているところをテレビで写していたが、おとなしく控えている犬に対して、瓜坊のほうはうるさく騒ぎ立てじっとしていない。

亥年は、災害が多いと何かで言っていたのを思い出したが、瓜坊の騒ぎ方を見て「さもあらん」と感じたが、災害は少しでもないほうがいい。

さて、早風呂ににはいって今年の垢を落とし、年取りの鰤も食べたし準備万端あいととのうたところで、今年はお終い

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2006年12月30日 (土)

花餅を作る

Img_0050_1 今年一番の寒気が入ってきたらしくて、静岡でも氷点下になり小さな水溜りが凍っていた。

静岡に来た当時、仕事場の仲間が大きな声で「今日はレイカ、今日はレイカ」と騒ぎ立てているのを聞いて、レイカとは何ぞやと考えたことを思い出した。

大人でも水溜りの氷を足で割っていたし、その後、子どもが雪見遠足に行くと聞いてまた驚いた。

「静岡の衆はぬくといとこにおるもんで、、、」という言葉をよく耳にしたが、三方を山に囲まれて南側を海に面している市街地は、よくある○○降ろしというような風もなく、夏場も名古屋や東京などのよりいくぶん気温が低く住みやすい。

これで、”東海地震”さえ来なければ、、、、といったところ。

Img_0072 今日は、我が家の餅つき。といったって大したことは無い、たかだか四升ほどが所。鏡餅三軒分と花餅で一升。つまみ餅(搗き立てを抓まんできな粉や餡にまぶして食べる)のに五合、残りは伸し餅にした。(写真は、とりあえず餅をつけた所まで、このあと飾りをつけて完成)

自分たちが子供の頃、親は、まずもち米を集めるのに苦労した。

ときどき、うるち米の入った米を買わされて、どんなに搗いても粒々が残り怒っていた年もあった。

白い餅のほか、粟餅、草餅、栃餅など、合計で一斗以上を毎年搗いたが、両親と子供5人で、たちまち食べてしまい、寒餅などといって1月末にはまた搗いた覚えがある。

そのくらいよく食べたものだが、いまでは、孫たちに持たせて返しても、青かび、赤かびを生えさせる年があるくらいになってしまった。

昨年、孫たちと花餅を作ったのが面白かったらしく、今年もリクエストされたので今年も遊水地からヤナギの小枝を少し剪定してきた。

これも以前は、子どもの仕事で雪山をかき分けて前から目をつけていた欅の切り株から5mmほどのヒゲ枝を何本も差し出した部分を株のところから切り取って帰ったものだが、同じ切り株を他の子が目に付けていたりすると先にとられてしまうので、何本も押さえておいて余った分は売り出して小遣いにした。

花餅は、七日から小正月に降ろし、固くなった餅を壊し、フライパンで炒ってアラレニして食べたが、左儀長のとき棒の先に突き刺して焼く鏡餅よりはよほど美味いものだった。

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2006年12月29日 (金)

翡翠は鳥? 石?

Img_0039_7 今日は大掃除。といっても、年寄り二人所帯では昔のように畳を上げたり、家具を動かしたりなんて大げさな掃除はしない。

せいぜいが、窓拭き、台所、風呂をいつもより丁寧にするだけである。

当然自分は、塵出しを手伝うくらいで、あとはトドのように箒の先を避けてあっちでごろり、こっちにごろりと転がる場所を見つけているだけ状態。

たまりかねたのか「散歩の時間でしょ!」と追い出されて、いつもの道へと向かう。

冬枯れの散歩道は風が少し強いもの空気が澄んでいるらしく、富士山の稜線がくっきりと見え、土手の下の水面をカワセミがコバルトブルーの塊のようになってすべるように飛んでいく。

行く先を確かめて写真にしようと思うが、曲がりくねった水路の先に行かれて見失ってしまう。

カワセミ、漢字で書くと翡翠と書き日本古来の宝石、勾玉などに使用されたヒスイと同じ字を共有している。ということは、昔から宝石同様に愛されてきたのだろうか。(上の写真は先月、麻機沼で、、)

カワセミは留鳥なのでいつもこの辺にいる鳥なのだが、夏場は草陰にいるらしくなかなか出会えない、でも、これからの時期見通しが利くようになるのと、餌の小魚がすくなるのとで御目にかかる機会も増えてくるはずである。

この鳥の色合いはすばらしいものがあり、見る角度によっては深い藍色が光って見えることがある。しかし、ケチをつけるつもりではないが、スタイルという面で見ると、頭とくちばしが身体のバランスから行ってチョット大きすぎるのではないか、そして、尻尾が小さい。

動物は、その環境、能力などで姿かたちを進化させてきたと言うが、この色と姿は小魚から見てどうなんだろう。くちばしで魚をくわえる際にも全身が水の中に入っているようには見えない。

しかし、なんのかのと言っても魅力的な鳥である。またこれからも機会を捉えてものにしようと狙っている。

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2006年12月28日 (木)

おもいだしてごらん

Img_0037_1 いつのことだか 思い出してごらん

あんなこと こんなことあったでしょう 

うれしかったこと たのしかったこと、、、、

子どもがまだ小さいときの歌で”おもいでのアルバム”という題の童謡だった。

年の瀬も迫り、新聞は、今年の10大ニュースとかいっていろいろな記事を載せている。

「あれ、それも今年のことだったの?」というのが幾つかあった。”有為転変”次から次へと事件事故やさまざまなことどもが現れては消えていく。

「なにが、お前さんの10大ニュースだった?」と聞かれると返事に困ってしまうが。印象的だったのは、村上フアンドの代表が逮捕される少し前に「お金儲けってそんなに悪いことですか?」と例の甲高いような声で言ったとき、どうなのかなと一瞬迷ってしまったことをいまでも覚えている。

だから、どうなんだと言うわけではないが、、、、

「人間物事を忘れていくから生きていられる」とのたもうた人がいたが、75日どころか一ヶ月もすれば次の話しに飲み込まれてしまい、いまになるとどっちが先でどっちが後か分からないことが多々ある。

今日の散歩コースは浅間神社。距離的には近いので大回りをして向かった。

神宮大麻としめ縄などを社務所であつらえる。それほど神仏に対して信心しているわけではないが、親の代からの習慣で揃えないとグッが悪い。

丁度大門では、しめ縄の取替えを始めていた。毎年ことなので知っていたのか、知らせたのかテレビ局も3社来てカメラで写している。

慣れたらしい人が二人に、学生らしきアルバイトが10人近くと神職が付け換え作業に当たっていたが、アルバイトの身、何をしていいのか分からずに下でうろうろとしていた。

しばらく立って眺めていたが、今年のしめ縄が下ろされ始めたのを機に帰る事にした。

今日は、仕事納めだと言う。

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2006年12月27日 (水)

サンタは自分で作る

Img_0027 頭上には雲ひとつ無い晴天。風もなくこの時期にしては珍しくポカポカと暖かくなり、静岡では20度をこしたという。

半そでの下着に、トレーニングウエアの上下だけで家をでた。自分の家から北の向かって、足の向くまま気の向くまま、子ども病院の脇を通り麻機東から団地に入り第2東名の橋脚まで約6km余。さすがにここまで来たら歩きすぎだなと帰り支度にかかる。

しかし、ここに来るまで、時期外れの花を幾つか見た、このあたりは自分たちの所よりいくぶん気温が低いと前から聞いていたのに、、、、、まず鉄砲百合、虫取りスミレ、タチツボスミレなど、おっと桜もあった。

そして、どうにも分からなかったのは、ブロッコリーの花。いままでブロッコリーの花といえば黄色い細かい花が春先に密集して咲くものと思っていたが、写真の通りだった。芯になる部分はとっくに摘み取られたようで、なくなって枝分れしたの部分の花であり、隣のまだ切り取られていないブロッコリーと葉っぱを比べてみたが同じだった。

昨日の話し、人はサンタクロースを何時まで信じているのか。

小学2年生の孫が最近売り出されたばかりのかなり高いゲーム機をサンタから貰ったと自慢気に持ってきた。

すこしまえに、サンタに希望を出していたものだそうだ。母親(娘)は「注文待ちのゲーム機だから、サンタさんもなかなか手に入らないかもしれないよ」というと「大丈夫、サンタさんは自分で作って持ってくるから、」といったという。

そして、24日の夜は、サンタが見たいと言うこともあって、なかなか寝付けず、遅くなって電気をつけるとガバッと起き上がって、キョロキョロと辺りを見回していたそうだ。

ゲーム機を操作する孫の傍で、母親はその半分の値段でもいいから欲しかったとこぼすが、孫はサンタが持ってきたのだから値段は無いと頑張る。

サンタさんを信じているのは、家庭環境や友達にもよると思うが、何時まで信じているのが良いのやら、、、。(いや、ひょっとしていたらどうしよう。)

ちなみに、このゲーム機の送り主は、年金生活のじいじにはとても無理な話である。

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2006年12月26日 (火)

かまとと

Img_0090 朝からしょぼふる雨にうたれて、木の枝や電線で鳥がじぃ~っと雨に打たれている。(写真はカラスのなる木、羽が濡れているためか、傍に行っても逃げなかった)

普段は、空高く自由自在に飛び回って、人を羨ませがらせている鳥もこんな時は哀れに感じる。

ただ、今日の雨は気温が高いので”氷雨”と言われるほど厳しさの無いのが救いである。

話は変わって、今では中高年以上しか知らない言葉と思うが「かまとと」というのがあった。

自分が聞いた語源は、上流階級のお嬢さんが「蒲鉾って板に乗って海を泳いでいるの?」と人に聞いたのが始まりだったそうだが、別に「知っているのに知らないふりをして上品ぶったり、おぼこぶったりしていることを言う」と広辞苑にある。

このついでにいうと,寿司なんかはどういうのだろう。酢でしめた御飯の上に生魚の切り身が乗っているやつ。

鮪、鮭、いくら、うに、穴子、海老、烏賊、鯛、平目の順で好まれるそうだ。いずれも高級魚(値段が)だが、鮪がなんと言ってもダントツの1位だそうだ。

その、まぐろが資源枯渇が理由で、高嶺の花になるらしい。世界の鮪漁獲高の3割以上を日本人が食べていると言う。

ちょっと食べ過ぎたものな。海老、蟹などもかなり日本が世界から金にあかせて集めているので、近いうちに鯨同様世界の非難を浴びそうだ。

かって、日本近海には鰊、鯨、鰯、鱈が沢山いて採り放題にとって来た。北海道の鰊御殿や南太平洋の鮪はえなわ漁、鯨は南氷洋にまで行き「捕鯨オリンピック」と称してニユース映画で放映し、沢山捕ればチャンピョンになったと自慢し、それに拍手喝さいを送ったのも、いまはむかし。

戦後の食糧難の時代なら、少しくらいの無茶も「泥棒にも三分の利」くらいの言い訳が立つかもしれないが、アフリカのある国でゴリラを銃で撃って食べたので、ゴリラが激減したなどと聞くとあからさまな非難は出来ないなと感じてしまう。

しかし、大型トロール船による根こそぎ漁獲など、資源も何も考えない、ただ”その時儲かれば良い式”の無茶はその後がつらい。

そのため、ここ50年ほどの間に、随分と海の幸を激減、荒廃させてきた。先日もロシア沿海で日本漁船が銃撃を受けたり、拿捕されたし、日本近海に韓国漁船が入り込んでいるいる映像が流れたが、何れも自分ん家(じぶんち)の庭で取りすぎた結果、魚がいなくなったので、他人ん家(ひとんち)へ行って調達してくる式のものである。

ここ2~3日、毎日鮪を捕る漁師の映像がテレビで放映されていたが、鮪規制となにか関係あったのだろうか。

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2006年12月25日 (月)

ふじのふじのみや

Img_0076_2 山に食べ物がすくなってか、庭先の蜜柑にヒヨドリが連日やってくる。

灰色の地味な衣装で警戒心の強いこの鳥は、蜜柑をつつきながらも、家の中にいる自分をいつも見ているらしく、少しでも動くと”ピピイッ”と甲高く鳴いて飛び去り憎たらしいこと限りなし。

おなじ、蜜柑を突付きに来てもメジロは、よほど危険を感じないとその場から離れないし、つがいで来るのも愛らしくてニコニコと笑って眺めている。

このメジロを体格の差で追っ払う、集団で来て甲高く鳴き騒ぐぎ、糞を撒き散らすなど、ヒヨドリはすっかり憎まれ役を買っているが、彼らだって恐い人間の側には来たくないのだろう、しかし、「背に腹は換えられない」といったところか。

しかし、よそ目ではメジロに対して「俺は強いぞ(偉い)」といっておきながら、それより強いものにはオドオドとした態度をとる人間臭い鳥に見えるのは、擬人化のしすぎか。

Img_0058 もう30年ほど前になるが、”テレビ静岡”という地元テレビ局が夕方?になるとよく流していた歌に「御殿ばあさんのうた」というのがあった。

ふじのふじのみや ごてんばあさんおって

富士(市)の富士宮(市)    御殿場(市)さんおって

ふじぐんぐんぐん  いはら うはら すそのにおりてきて

富士郡ぐんぐん       庵原(郡) うはら 裾野(市)に下りてきて

すんとうしてたら こりゃぼうず、、、、、、

駿東(郡)してたら   こりゃ坊主、、、

こんな調子で静岡県の市と郡を東西に分けて上手く歌いこんだ歌だった。

歌詞も面白かったが、曲も軽快で良かった。来たばかりなので地名などを覚えるにも都合がよく、よく聞いたものだった。

ところが、平成の合併により郡や町が無くなり「ここらを昔は富士郡といったようだ」などというようになって、この歌詩も、次の世代では研究者にしか分からない歌になってしまいそうだ。

町村が無くなり、小さな市も大きな市に呑み込まれなくては財政的に自立できなくなってしまう。そうした中で、小さな集落ではきめ細かな施策は望むべくもないし、ひょっとすると市長が「うちの市にそんなところがあったのか」と言い出しかねない事態になりかねない。

よく、財政改革というと、議員の数を減らして、、、というがきめ細かな施策を施すには議員の数を減らすのではなく、歳費を減らすことで対処できないものだろうか。

「そんなことすると議員のなり手がいない」といった人がいたが、議員なんてものは地方の世話をしたい意欲の持った人がするべきで、地位や名誉や勲章、収入や議員年金のためにやるものではないはず。

そんな人が得てして人より偉いと思い込んで威張った行動をするもんだ。

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2006年12月24日 (日)

納めの○○

Img_0005_2 今日24日は、地蔵菩薩の納めの縁日なので、近くの厄除け地蔵へ朝早く行ってきた。

地蔵さんの縁日は毎月24日に行なわれている。どんな理由なのかは知らないが、この日お参りすれば普段よりご利益があると言われており、今日は今年最後の縁日になるので”納めの地蔵”というそうだ。

そして、ここ”厄除け地蔵”の縁日には近郷近在の人が野菜や餅、作業衣を含めた着物、漬物、しらすなど、いろんなものを持ち寄って朝市のような状態になるので、ときどきは出かけているが、物によっては早々に売切れてしまうので出来るだけ早く行くことにしている。

今日は正月用のわさび漬けを作るため、山葵の根と沢山の茎を買いたくて早出をした。

家から2km弱と思うが、散歩がてらに行くには丁度良い距離。八時前に到着したがすでに20軒ほどが店を出し、その後からも何人かが荷を運び込んでくる。

目的のものを買い揃えた後、出店をひやかして帰った。

午後、有馬記念の競馬をテレビで見た。ここ最近では最強の馬といわれる”ディープインパクト”が予想通りの走り方をして予想通りの勝ち方をした。

この馬は、このレースを最後に引退するそうだが、そうなるとこの馬も”納めの有馬”をしたことになる。

しかし、馬にとってこのレースが最終ランになることが自覚できていたのだろうか、なんだかこの調子ではもっとも脂が乗り切ってまだまだという時期の引退になってしまうようで、残念なような気がする。

人間のように、意志があれば「ボロボロになるまで、、、」とか「余裕を残して新庄しよう」とかいうのであろうが、全て人間の都合で人生ならぬ馬生を左右されてしまう。

年が押し詰まってくると、これから何をしてもしばらくは21日にあった納めの大師、御用納めを初め、納めのチンポコなどさまざまな”納めの○○”が続くことになるが、人生の納めはもう少し先にしたいと願っている。

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2006年12月23日 (土)

ごっちゃ混ぜでよいか

Img_0088_1 一番初めは一宮

二また日光 東照宮

三また佐倉の宗五郎

四また信濃の善光寺

いつつは出雲の大社

むっつ 村村 鎮守さま 七つ 成田の不動さま 

八つ 八幡の八幡宮    ここのつ 高野の弘法さま  

とおで 東京泉岳寺   これほど信心したけれど

子供の頃、女の子がこれなどを歌いながらいろいろな仕草をしてボール遊びをしていた、いわゆる鞠つき歌のでだしである。

八百万の神を信仰する日本人は、何かに願をかけるため、神仏分け隔てなくお参りをすることに、なんの抵抗も感じていないが、一神教の世界では「なんじゃ こりゃ~」ではないだろうか。

新しいものへの抵抗感は、大化の改新前の仏教渡来の騒動、江戸時代に入ってからのキリシタン弾圧などおおきなものがあるが、明治以降の廃仏毀釈も民間にまでは、完全に行きわたらず、神仏混交は守られてきた。

そのくらい日本人は、宗教に関しては寛大だったと言うか無関心であったらしく、いまのイラクのように宗派間の対立が暴力沙汰になることはめったにない。

とうぜん、明治以降に入り戦後になって流行ったキリスト教にも寛大だったというか、風習を面白がったため結婚式などには宗教抜きにして利用している。

そして、今日はクリスマスイブイブで街中のメインストリートを初め個人の家にまでイルミネーションや飾りをつけ(イブイブとしたのは前夜祭の前夜という意味)一週間ほどあとには、古来の仏教徒、神道に戻り、門松を立て、あちこちへお参りに行き賽銭をあげる。

一神教同士の不毛に近い争いの中、本当に悩める人を助ける教えにはならないが、案外これからの人類に適したシステムではないだろうかと思う。

インドのヒンドウ教が釈迦如来もヒンドウ教の神様のひとつにしたように、釈迦もキリストもムハンマドも孔子もみんなひとつの宗教の神さまのひとつにしてしまえば、、、、そんなこと無理かな~。

そう言えば、今日は天皇誕生日の祝日であったが、それらしい雰囲気を感じたのは、右翼の街宣車が”君が代”を鳴らしてバイパスを走って行ったくらいで、散歩の途中でも”日の丸"を出した家をついぞ目にすることはなかった。

こうなると、右翼の街宣車もたまたまでなかったかと思ってしまうほど、世事に埋没してしまっている。

そうそう、上記の歌は、徳富蘆花の「不如帰」からとったもので、つづきは

これほど信心したけれど 浪子の病気は治らない

武男が戦争に行く時は、白いし~ろいまっしろい

ハンカチふりふり「ねぇあなた早く帰ってちょうだいな」

、、、、、まだまだ続くが以下は略す。しかし、この歌があの厳しい統制化で歌われ続けていたことが今考えると不思議でならないが、廃仏毀釈とおなじ理屈だったのか。

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2006年12月22日 (金)

冬ここに至れり

Img_0105_1  今日は冬至である。当然のことながら自分のところではお日様が朝寝坊している。昨夜あんなに早く寝たのに、、、、年末も迫って疲れているんだろうな、雲の厚い布団にくるまって何時までも起きてこない。

「おおい、朝だよ。何時までもぐずぐずしてると眼が流れてしまうよ」って、そのうち「まだかい、早ようせんと遅れるがな、、」「なんに遅れる?」半分夢の中で聞いているんだろうな。

先日、早起き(といっても日の出が遅くなって七時近くでないと顔を出さない)して、旭日を拝もうと出かけてみた。

「朝日を拝もうなんて、年だね」と心につぶやいて、、、外は放射冷却で冷え込んでいる。まぶしい太陽が少し顔を出した所で振り返れば、道路上に足長おじさんが仰向けに寝そべっていた、長い長い道路の上に足の長い長いおじさんが、何も語らず、、、。

Img_0043 早いもので先日つけた朝鮮漬けが漬かり始めた。(写真は漬け込んだときのもの)

今年は、白菜が安く手に入ったので、少し多めに漬けてみたが暖かい静岡では、すぐに発酵して酢っぱ味が出てくるので、一月前半までに食べきらなければならないだろう。

雪国は冬になると農作業も屋内で出来るものしかなくなり、行動の自由を奪われるので囲炉裏やストーブ、炬燵を囲んで話しの花を咲かすのが日課となり、今日はあの家,明日はこの家と渡り歩いて酒の肴に漬物を賞味しながら語り合う。

女の人は当たり障りのない世間話や料理の話しが多いが、男同士になると政治や仕事の話から下ネタまで広範囲におよび、耳学問まで入り混じると口角泡を飛ばす状態になり、皆いっぱしの弁士になってしまう。

こうした付き合いを自分たちは”漬物文化”といっていたが、この漬物文化に一番遅く入ってきたのが朝鮮漬けだと思う。

これを始めて漬けだしたのは、昭和30年代朝鮮から戦争中に徴用されてきた人たちに習ったもので、いまのキムチのようにゴタゴタと何でも入れると言うものではなかった。そのため自分ではいまだに朝鮮漬けと呼んでいる。

日本は、先日も書いたが”葷酒山門に入らず”を守ってかニンニクの匂いを嫌う風習があったが、朝鮮ではニンニクを多用している。

仏教と儒教のちがいだけなんだろうか、気候風土の違いなのだろうか。いまだに分からない。

くどいようだが冬至の夜は、冬至かぼちゃに柚子の風呂!暖まった所で床に入れば風邪知らず。(ノロウイルスにも効くといっていた)

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2006年12月21日 (木)

ご無沙汰の安倍城址

Img_0070_1 年末になって、帳尻を合わせるかのように亡くなられた人の名が報道される。

昨日は青島幸雄さん、そのまえに岸田今日子さんが亡くなったという。どちらも少し年上であるが、いまの時代から言って年齢的には不足がある年であろう。

二人とも、自分たちの若いころから活躍した人であり、テレビ映画に露出していた人だけに、歌同様、若いころの写真や映画をちらちらと見せてくれると、あの時の自分はどうだった、思わせるものがある。

しかし、二人とも持てる才能をフルに使いはたして?の往生だったのではないだろうか。ともあれ、この二人はただ黄色い声を上げて騒ぐタレントやアーチストではなく、本物のTalenntだったと思う。

Img_0072 ここしばらく気分も乗らず近所の山も登っていないし、近くの山では71歳の人が遭難しているようなので、どうしようかなと思っていたが、穏やかな天気も今日限りみたいな天気予報を信じて、安倍城址に登ってみることにした。(上の写真は山頂から市街地を望む、靄の中に伊豆半島が微かに)

市街地西外れに当たる”洞慶院”の駐車場に車を入れていつものように登り出す。

前回は、昨年の”おかんじゃけ”の時だから、1年半くらい前になるか、山道は夏と冬と言う違いはあるものの、ほとんど変わりなく月日の変遷をしめすものはない。

登り出しは、朝の青空も薄雲で消えてしまったいたが、頂上間近になるとふたたび日差しがでてきた。

頂上に着いたのは11時半。1時間チョットの散歩道といったところか。

出合った人は一人。ときたま聞こえたヒヨドリの鳴き声のほか虫の声もなく、シーンとして音も無く、杉木立で展望も開けない世界を登ってたどり着く。

頂上からの僅かな眺めは、静岡市街地と富士山を薄いもやで霞ませていた。

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2006年12月20日 (水)

擬人化してみる

Img_0002_2   小春日和というには少し時期がずれているが、ここ2~3日はすこし風が吹くものの、小春日和に近い陽気になってきた。

午後になって、踏み石代わりにしているブロックの上に二羽のキジバトがやってきた、いつもこの近所にいる鳩(多分)らしく自分を見ても落ち着いている。

この鳩、つがいなのか付かず離れずの距離にいたが、温まったブロックが気に入ったみたいで、一羽が片羽根だけ広げて横たわったら、もう一羽もおずおずと言った調子で寄ってきて同じポーズをとる。(こんなポーズははじめてみた)

キジバトの雌雄はどこが違うのか分からないが、人間に見立てて推測するに先に横たわったのが雌で、後から雄が「人間が見ているけどわしも暖まりたいので良いかね?」とご機嫌を伺っていたみたいで面白かった。

しかし、人間のやつあわててカメラを取り出してきて、周りをウロチョロするんでどうにも落ち着けなくて雌の方が先に飛び立ってしまった。

すこしして、雄のほうも、もう少し暖まって居たかったが、上の電線で雌が呼んでいるので仕方なさそうに飛び上がっていった。

          Img_0048_1  もうひとつ、麻機沼でのこと。一組のマガモの夫婦の会話。

雌「あんた、さっきからちらちらと隣のグラマーな雌を見てたでしょう」

雄「そんなことしていません」  雌「嘘!

Img_0049_2 雄「そんなことしてないってのに」  雌「本当に嘘が下手なんだから、目がキョロキョロと泳いでるよ」雄「ゴメンナサイ!これから決してしません」と頭を下げて顔を隠す。

想像とは全然違うことをしているんだろうが、漫画のように動物を擬人化してみるとこんな風になるんだろうか。

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2006年12月19日 (火)

この実なんの実(ぱーと二)

Img_0050 十四日、”この実なんの実 木になる実”と書いて見たが、その後やはり名前がわからない。

そこで、木のあるところへ行って、工場の人に聞いてみたが全然関心が無いようで、「そんな木がありますか?」でおしまい。

Img_0053_4 Img_0052_1  木の根方にはいくつも、しなびた状態で落ちていた。拾って割ってみるにあまりいい匂い(生臭いような)でなく、水気もない茶色い中身がぼさぼさと言った感じだった。

この匂いだけで、食べるのは無理と感じた。

試しに、木の枝から二個もぎ取ってみると、折った所から白い粘り気の強い樹液が見る見るうちに滴れるほど出てくる。なんだか無花果のような感じである。

家の持って帰って、写真のようにナイフで二つに割ってみると、中の空洞に向かって花が咲いている、「これは、完全に無花果の仲間だ」と思い、いろいろ調べてみたが万策尽きて名前はいまだに分からない。

工場の人も知らない木。「この実なんの実、、」転じて「この木なんの木、、」になってしまった。

もう何年前の事になるか、オーム心理教に強制捜査がはいった前後だった、教団の代表代理の上祐という人が新聞記者を相手に”ああだこうだ”と理屈を言ってはぐらかすため、手こずった記者連中が「ああ言いえば上祐」なんて造語で言い表したことがある。

いま、北京で開かれている六カ国会議で、北朝鮮の言い方はまさにこれを思わせるものがある。

「理屈と膏薬はどこにでもひっつく」とは昔から言われていたが、よくもこれだけ屁理屈が述べれることよ、と思いながらも大国を相手に交渉術の巧みさには感心させられるものがある。

それに比べて、日本人は昔から淡白と言うか、結論を急ぐせっかちさ、や「言わなくても分かるだろう」みたいなところがあって、交渉ごとは下手である。

同盟国と思っているアメリカに対して何にも言えないどころか「思いやり予算」なんてものまでつけているが、こんな国は他にはないし、当のアメリカも当たり前だ、ぐらいにしか思っていないので、何かあると「お願いします」ではなく「要求する」という。そして、そのつけは日本国民に押し付ける。

内弁慶もいいところ。

もっと上の木の実のように花を身の内に隠し、虫を誘うようなテクニックを外交プロ、国の指導者なら会得してもらいたいと願う。

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2006年12月18日 (月)

十両百両千両万両と

Img_0022_3 家の北側に連なっている麻機の山並みを北に向かって歩いた。

久し振りに快晴、少し肌寒い風が吹いているものの小春日和になりそうな予感がしたので、半そでの肌シャツの上にトレーナーの上下を着ただけで出かけてみた。

農道を登って、尾根まで25分ほど後は稜線を竜爪山のほうに向かって進むだけである。

途中、チョキンチョキンと鋏の音を何ヶ所かで聞きながら歩く、みかん採りも最盛期を過ぎたらしく、手をつけていない畑のほうが少なくなっている。

おかしなもので、普段は耳鳴りがして呼びかけられても分からないこともあるのに、鋏の音が分かる。(飛騨ではこれを称して「よてつんぼ」という、都合によって、聞こえたり聞こえなくなること)、、

静岡の山を歩いていていつも思うのは、山全体が私有地化されているせいか、山のいたるところに人手が入っている。みかん、茶、杉、檜などで、春夏秋冬全てが濃い緑になっている。

今の時期は、みかんの色で一部黄色く見えるが、後は常緑樹特有の緑。本当に昔の人はセッセと山に手を入れたのだなと思う。

しかし、その人たちも年を重ね、手を入れることが難しくなったため、いまや荒れ放題の土地が目立つようになった。

立ち木は、横枝を伸ばし放題にして日の光りも地に届かず、下草はおろか小石や岩がむき出しになり、地すべりをおこすは、野生動物の食べ物は出来ないはだし、茶の木も伸び放題で中を覗き見ることさえ出来ない。

孟宗竹は、植えられたところをはみ出し、先住の植林を食いつぶしていく。今年から徴収されている、森林税ではどれだけの改良が望められるのだろうか。

そんなことを思いながら歩いていくと、足元に目当てにしていた十両が幾本か見えてきた。高さが20センチに満たない小さな幹を他の草に埋もれさせ、なにに食べてもらいたいのか、赤い実を葉の下に隠している。

十両、別名を藪柑子(ヤブコウジ)といい、ヤブコウジ科に属する植物である。

この外、ヤブコウジ科に属する植物に万両、百両があり、何れもこの時期赤いまるい実をつける。実の形、葉の形は本当によく似ているが、木の大きさと実の数によってこの名前がつけられたのかと思える。

また、目出度い実として千両があるが、此方は科が違い、実は上のほうにつくので赤くなるとすぐに小鳥に食べられてしまう。ひょっとすると味もいいのかもしれないが、万両などは何時までも実をつけたままになっていて、花が咲く6月ころまで付いていることがある。

あと、百両がないかと思ったが、この辺ではもともと無理なので、今日は完全ではないが万両、千両、十両とお目出度く納めさせてもらう。ちなみに下の写真は上から十両、百両、千両、万両となる。

Img_0037_2 Img_0009 Img_0020_1 Img_0039_6

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2006年12月17日 (日)

脅しが効いた万年青

Img_0017 庭の端っこの方に捨て置きしていた万年青が赤い実をつけた、もちろん、捨て置きだから貧弱なもので、これ見よがしに披露するほどのものではない。

万年青と書いて、なぜオモトと言うのかはっきりしたことが分からないと言うが、好きな人の間では、かなり魅力があるらしく高価で取引されているという。

この万年青は、娘が近所の人から上手くするとかなりの高い物になると言ってもらったものを、「置く所がない」と置いていった物である。

貰った当初はそれなりに上薬のかかったきれいな鉢に入っていたので、2~3年そのままにしておいたが株が増えただけで何の変化もない。

株分けなどしてみたが、思わしくないので痺れを切らして、梅桃の根方へ放り投げて捨て置いた。

ところが今秋になって、実をつけ、最近は赤くなってきた。先日、柿に「早く実をつけ柿の種、生らぬと鋏でチョン切るぞ」と脅したあと、本当に切ってしまったのを見てていたのかもしれない。と思うと可笑しかった。

今日、この娘がNHKの「認知症、、、そのときあなたは①」というのを見ると言っていたので少し見ていた。

レーガンアメリカ元大統領もこの病気にかかったと、自ら告白したことで自分も知った病気だったが、治療薬がないとかで先年亡くなった。

ところが、番組では最近、元に戻すことは出来ないが、かなり進行を遅らせる薬が出てきたと言っていた。しかし、アメリカを始め香港シンガポールなどに比べて認定されている治療薬の種類が少なくて、日本は治療薬の後進国になっているといっていた。

新薬には、副作用など未知の部分があり安心できないものであるが、いまを助けて欲しい人にはまだるっこしいこと限りないだろう。

非加熱血液製剤によるエイズを初め、サリドマイド、スモン病などに見られるように、日本では薬の認定が遅い上、薬害があると分かっていても止めるのが遅くて、みすみす被害を拡大してしまう。

看護師を職業にしている娘にこの放送をどう受け止めたか、いずれ聴いてみるつもりである。

アルツハイマーかそうでないか分からないが、いずれ認知症になりかねない身としては、はやく、治療薬を作ってもらいこの方面の病気になって迷惑をかけないように終えたいと願っている。

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2006年12月16日 (土)

酒は駄目だが煙草は、、、

Img_0015 先日来、目をつけていた野蒜(ノビル)を採ってきた。

田んぼの脇に肥料が効いてか、太いのがでていたのでシャベル持参の散歩道。

慎重に掘ったつもりだが、石があったり、意外と根が深かったりで、膨らんだ根が上手く掘り出せなかったので、安物のシャベルに当たる「もう少ししっかりしてたら良いんだけど、すぐ曲がってしまう」と、、、

野蒜とは、野にある蒜という意味だが、さすがに野生の猛々しさというか、強い匂いと刺激のある辛味を持っていて、味噌で和えて口にすると、最近酒量が減ってきている自分でも「いつもより余計に飲んでいます」状態になってしまう。

蒜とは葱(ネギ)の仲間を言いネギ、ニラ、ニンニク、ラッキョを含めて五葷というそうだ。

禅寺の山門の脇によく「葷酒山門入不許」と石柱が立っているが、ネギ類はその匂いゆえに修行の邪魔になるとして避けられた。

しかし、ネギの類は身体を芯から暖めるので、これからの時期ぜひ取りたい食品なのだが、それを匂いだけで禁止したとするとお釈迦様はなにを見ていたのだろうか。(暑い国の人だから身体を温める必要はなかった)

先日、長野の法事で会った和尚さんが言っていたが、天台宗でもそうだという。もっとも、此方の方が本家だったのだが、、、。

しかし、酒は駄目だが、タバコは禁止されていないので、修行を積んだ坊さんの中にもヘビースモーカーがいたという。

最近の情勢から言って、タバコのほうが身体に対して害が大きいので、おかしいような気もするが、その和尚さん曰く、「御釈迦さんが生きていたころは酒はあったが、タバコは無かったためでしょう」ということだった。

今世界的に、煙草をたしなむ人が減ってきている中で、JT(旧日本たばこ産業(株))がイギリスの煙草会社を2兆円もかけて買収するという。

ただ、大きくなればいいのだろうか、自分から見ると将来煙草関連は発展する可能性の少ない分野である上、アメリカに見られるように訴訟の対象にされかねない分野ではないだろうか。となると、手放しこそすれ買収すればリスクを大変なものになる可能性がある。

今日は、野蒜からだんだん横道に行き、どこに行ってしまうのか分からないのでここで止めることにしよう。

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2006年12月15日 (金)

かぶら寿司

Img_0006_2 金沢から例年通り「かぶら寿司」がとどいた。

お歳暮というわけでもないのだが、この時期からが美味くなる。

塩で漬けたかぶらに鰤か鯖を挟み込んで米と共に発酵させた”なれ寿司”でこれから寒くなってくると味が一段と濃厚になって旨みが増す、まさに北陸の美味のひとつであり、子供の頃から食べて育った懐かしの味でもある。

しかし、向うにいたときは、いろいろ聞いてやって見たが、まだかまだかと味見をしているうちになくなって成功したことがなかったし、気温の高い静岡では無理な話と思い、もっぱら送って貰っている。

Img_0080 もう、50数年も昔のことだが、すぐ側の中学校の体育館を建てるため大勢のとび職が来て仕事をしていた。

屋根に当たる部分の鉄骨にいる人に向かって、下のほうから真っ赤に焼けたリベットをコントロールよく投げ上げると、上のほうでお玉のようなひしゃくで見事に受け取り、失敗は見たことがなかった。その後削岩機のような機械でダダダッとリベットををかしめていたのを思い出す。

ゆうがたになると、赤い火の玉が大きく弧を書いて放り上げられるのはなんとも印象的で、よく見に行っていた。

その、鉄骨組みも、その後溶接に変わり、こんな光景はみることがなくなった。さらに最近ではボルト締めで済むようになっている。

いま、麻機地区で第二東名の取り付け道路の工事が着々と進められている。

このあたり地盤が悪く、40数mも下でなければ支持層といって、安定した地層が無く、橋の橋脚の下に直径1mの鋼管杭を何本か打ち込んでいる。

当然、40数mの杭を運搬できないので、アーク溶接でつぎ足して一本の杭にしている。

自分も、地すべり防止工事で鋼管杭の溶接に立ち会ったことがあったが、プロの溶接屋さんは、継いだところは他の部分より強いという絶対の自信を持っていた。

当然、溶接が完全かどうかの検査があり、何本かに一本は全周をレントゲン撮影し、30cm区間でいくつの傷があるかで等級が決められて、合否が判定された。

勿論、清水の造船工場からプロの溶接屋さんに来てもらっての溶接だから、間違いは無かったが、そのうち何枚かは無傷の溶接であった。

それを持って行ったとき、役所担当者のズーッと上のお偉いさんが、「野外での溶接にそんないい成績が出せるはずが無い」と耳学問で頑張った。

あまり言うので、つい「誤魔化すのならこんな良い写真を持ってきません」と言ったものだから、あとで天下りをした会社の営業にお叱りを受けたことがある。

勉強不足のガンコ頭では、これから談合なしの叩き合いで受注させた仕事の成果、品質管理を役所がどう見抜いていけるのか、NHKの「ナビゲーション現代」だったかでも心配していたが、、、。

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2006年12月14日 (木)

この実なんの実 木になる実

Img_0053_3 この実なんの実 木(気)になる実

見たこともない 実ですけど

見たこともない 花が咲いていたでしょう

変な木の実を見つけた。まるで、イチジクのような色をして、釣鐘のような格好をしている。

大きさは、キウイフルーツくらいのもの、工場の防音壁を兼ねてうえられているらしく、何本も他の常緑樹と共に立っている。

高さは7mくらいか、沢山ぶら下がっているのに、鳥に食べられた後もないところを見るとまだ熟していないのか、それとも、鳥も食べてことがないので警戒しているのか。

とにかく変な実である。(何か美味そうに見えるところが悔しい)調べてみたが急場なので名前は分からなかった。

今日は、元禄15年に赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日だという。もっとも旧暦の十二月十五日だから、実際にはもっと遅く寒さの真っ最中の出来事だったようである。

今風に言えば、雪降る中の公然テロ行為だったのであるが、後日、講談師や歌舞伎などで賛美した結果、日本の歳末に欠かせない話題(美談)のひとつになり、「日本人の精神文化の一つだ」とまで言われている。

しかし、実際にはどうだったのだろうか。

愛知県吉良町では、いまだに打たれた敵役の上野介があがめられ慕われていると言う。

上野介は、朝廷からの使者に対する礼儀作法の師範であり、それを浅野内匠守らを教え指導していたのだ。

多分、上野介から見ると今どきの若い奴の物覚えの悪さに舌打ちぐらいで済まされないものがあったに違いない。チヤホヤされて育ったお坊ちゃん大名は口ばかり一人前のことを言っても、何にも出来なかったのではなかったのではなかろうか。

それが何度やっても上手く出来ない、痛いところを突かれてついにプチンと切れたのが身の破滅。

会社で言えば、営業の仕方を注意され、逆切れして刃物を振り回してしまった社員、というところか。そうした場合、今でも会社は幕府と同じ処置をするのではないだろうか。

そこで、喧嘩両成敗をしなかったとて家族のもの、たとえば、些細なことで学校へ怒鳴り込んでくる教育ママみたいな人が大石内蔵之助だったら、あなたはどちらを応援する?。

歴史なんて感情論で作っていたらこんなもんさ

ハイお終い チャン チャン!

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2006年12月13日 (水)

葉っぱに刻む半生

Img_0147 葉っぱに刻まれた一筋の曲がりくねった道。

名前は、一度聞いたが、この年になる右の耳から入って左へでてしまい脳みそにとどまらないため、忘れてしまった。(知っていたら教えてください)

なんでも、小さな蛾の幼虫とかで細い方が卵を産みつけられた位置、だんだん大きくなって最後のところで飛び立つのだそうだが、小さな虫の半生を見るようで面白い。

紋白蝶のような、普通の青虫は野菜の葉っぱを片端から食い荒らし気が付いたときには、葉っぱの芯だけ残っていたなんてのと違い、葉っぱのなかの葉緑体だけをたべるため、スキーのシュープレルのように描いて行く。

これだけの餌で、成虫になるとしたらよほど小さな虫だろうし、成長スピードも極めて速いのだろうか。ということは、一生もごく短い命に違いないと推察してしまう。

さて、今年の世相を表すひと文字の漢字が清水寺でいつものように管主により揮毫された。

「命だという。

応募した人それぞれが違った意味を含めて「命」としたのだろうが、考えさせられるものがある。

いっぽうで、静岡新聞の「ひろば」という読者投稿欄に「命がけ」ということに対して以下のように投書あったので、無断であるが一部抜粋してみた。

「与党の幹事長が就任の挨拶で「命がけで職務をまっとういたします」そして、都知事が三選出馬会見でもやはり「命がけを、、、」を口にしていた。あまりに命という言葉を軽々しく使ってはいませんか?、、、」31歳の会社員。

その通りだと思う。イラクやパレスチナの政治家ならイザ知らず、最近の日本の政治家が”命がけ”の政治を、と言うほど危険を感じているはずがない。そして、いままで何に命を懸けたのか?。

自分たちの、利益や再選、子どもに地盤を引き継ぐことにしか、努力してこなかったことを我々は知っている。

さらに付け加えて、自分が気になる言葉に、「必死」とか「一所(生)懸命」がある。よく災害の救助や遭難で使われる。

自分は「必死」という言葉は先の大戦で敵陣に突っ込んでいった特攻隊などしか使ってはいけない言葉だと思うし、「一所懸命」は戦国時代で終わっているはずである。

救助活動だって、二次災害、巻き添え災害のならないようにやっているいま、”必死”や懸命”はあてはまらない。何か代わる言葉で表現できないものだろうか。

「命」をTIMのゴルゴ松本らみたいに軽く扱っちゃいけないよ。

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2006年12月12日 (火)

名残りの磯菊

Img_0136  磯菊が店じまいにかかっている。

先月の半ばに花芽を出して、たちまち黄色い小さな花を密集させて咲いていたのだが、ほかのものに変わられてブログに登場する機会がなかった。

しかし、黄色い花の部分が残り少なくなってきたので、名残りの一枚として登場してもらうことにする。この花、何かに似ていると思って眺めていたが、ようやく「ふきのとう」だと気が付いたのはごく最近、あまり、黄色い色のほうに関心が行っていたため分からなかったみたい。

そしてもうひとつの特徴は葉っぱの縁を彩る白いふち模様。丁度今頃だったか、南伊豆の海ぎわの現場を囲むように咲いていたのを思い出させる。

話は変わって、西洋漫画に見る日本人と言えば、背が低くて出っ歯、眼鏡をかけてカメラを首からぶら下げている。図を見たことが何回かあった。

どちらかと言わなくてもマイナスイメージが強く、白人種の優越感を表しているものである。

そうしたなかで、日本人も最近では食糧事情のためもあってか、背も高くなり顔つきも従来の日本人離れをした顔が増えてきたように思う、しかし、眼鏡人口は、相変わらずのようで眼鏡屋さんは大繁盛している様子だ。

日本人の目はそんなに悪いのだろうか。

先日、テレビで”のすり”と言う鷹の仲間を写していたが、この鳥は、150m先のモグラが自分の巣穴の土を押し上げる僅かな動きを見て、捉まえるといっていた。

”鵜の目 鷹の目”というくらいだから鳥の目は特別なものがあり、哺乳類は色の判別が出来ない色盲がほとんどで、目は全体的に良くないという。

しかし、アンデスの山中で働いていた現地の人は、10kmくらい先にいる人がニーニャ(チキチーター)かセニョリータかで懸け、よくとおる口笛を吹きたてていたことがあった。

自分は当時視力1,2の平均的日本人だったが双眼鏡で覗いても羊の群れと羊飼いが一人いるらしいくらいにしか見えなかった。

結果として午後になって羊飼いは近くまで来たが、小学生クラスのニーニャーだったためガッカリしていた。多分そこまで見通せる彼らの視力は6とか7クラスだったのだが、おなじ黄色人種の子孫でありながらこの差はなんだったのか。

この付近では、当時(今でもそうだと思う)電気もなく日が暮れると寝てしまう生活だったことから、日本人の目は電気が悪くしたのだろうか。

文明とは、かくも人間の能力をだめにしてしまうものなのだ。というのは言いすぎか。

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2006年12月11日 (月)

掃き溜めに鶴

Img_0040 ”掃き溜めに鶴”といえば、塵捨て場のように汚い所に際立って美しいもの、優れたものが存在することをいう。

そして、その言葉から想像するとすれば、むさくるしい貧乏長屋に、住んでいる清純で綺麗な乙女(古臭いなぁ)でなければならない。今どき何不自由なく育った連中にはいない女性なのだある(思い込みが激しい)。

そして、これに当てはまる人といえば、自分たちの世代前後では、「吉永小百合」しかいないような気がする。自分はこの世代の人たちほど”サユリスト”ではないが、「キューポラのある街」や「愛と死をみつめて」などに出演していたころの彼女の役どころは、まさに”掃き溜めに鶴”的な存在だったと思う。

最近は、しっとりとした女をを演じて存在感を感じさせるが、もともとは、清純な美少女だった。

一方、目立たないがいまを盛りに咲いている花に、”掃き溜め菊”というのがある。

明治のころ、日本に入ってきたらしいのだが、不幸なことには見つかった場所が悪かった。また、名前をつけた人が植物学の権威牧野富太郎博士ときては。誰も修正できず気の毒な名前となってしまった。

ごく軽い気持ちでつけたのか、とりあえず仮のつもりだったのか、掃き溜めで見つかったため付けられた名前だと言う。

花の径は、5~8mmくらい小さな花だが白い花弁の先が三つに分かれ、種になるとさらに小さい花のように、空をむいて花開くような格好をしている。

窒素分が好きとかで、田んぼのあぜ道で稲に撒いた肥料のおこぼれを与かりすくすくと育っている。もちろん、農家では雑草だ。

Img_0044 さて今日は、久し振りにすっきりと晴れた、さっそく近所の市場に行って漬物用の白菜を買ってきた。

自分の家では越冬用漬物は親以前の時代から所帯主が漬けることになっている。

飛騨にいたころは、酒の肴に漬物は欠かせない物だから、四斗樽で5~10樽漬けるのが普通だった。浅漬け、切漬け、古漬け、かぶら漬け(赤)、品漬け(茸、蕪、茗荷などが入る)、朝鮮漬け(キムチではない)など様々な漬物を作る。そのため、冬を前にすると大根や白菜の買い付けは、鉱山購買部の大仕事だった。

静岡では、気候が暖かすぎて大量に漬けるわけには行かないが、それでも、正月の朝鮮漬け用に八玉購入、四つに割って干した。

明日は、漬け込みをしなければ、、、、

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2006年12月10日 (日)

天まで飛ぶ?

Img_0027 「もう中学の子はとんでいっただか?」「まだらしいよ」

今日は、竜爪学区?のマラソン大会。孫が行っている小学校と近くの中学合同のマラソン大会が行なわれるので、「ヒマなら来て見ない?」という電話が朝娘からあったので、取るものもとりあえず出かけてみた。

とんでいく、今でこそ慣れたが、静岡に来た当時は何事ならんと思った言葉のひとつだった。

「あそこの子は、とぶもんで県(大会)まで行ったよ」と浜松の北で聞いた時には思わず「けんまでとぶ?」”天まで飛ぶ”の聞き違いかと聞き返したものだった。

天狗じゃあるまいし、、、、。その時は”走る”の方言とは思わなかったので理解するには次の言葉が必要だった。

で、孫のマラソンは、コースを間違えて別の場所で待ち構えていたため、他の学年の生徒だけを応援するはめになり、出走予定の時間を大分過ぎてから場所を間違えたことに気が付いた。

そうなると、薄情なもので興味がなくなり、先ほどから川面を舐めるように飛んでいた”カワセミ”のほうに興味が移っていった。このあたりを縄張りにしているのか、子どもが走ってくると応援の親たちの励ましと歓声に驚いてか水辺を上に下にと三度飛んでいるのを見た。

Img_0029 早速川に下りて遊歩道沿いに降ってくると、鶺鴒のほかにも木からこぼれ落ちるように上下するものがあるので、用心しながら近づいてみた。(写真は蝶ネクタイを締めたダンデイ、四十雀)

ヤマガラとシジュウカラの混成群だった。静かにしていると側までやってきて、枯葉の間の餌を探している。そして、この群れにメジロまでが一緒していることに驚いた。

ヤマガラ、シジュウカラ、コガラ、ヒガラなどが混成しているのは、冬になるとよく見るが、メジロまで一緒と言うには初めてだ。

闘いすんで日が暮れて、、、小学校2年の孫が帰ってきた。

戦績は学年41位だったとのこと、150人だったかの内だからまあいいのだろうけど、本人は昨年は20位以内だったことから、よほど悔しかったらしい。

「この間、熱を出して休んだばかりだから、頑張ったけど仕様がないね。来年また頑張れば、、、、」と励ましたが、

このころの1年間はとてつもなく長いことを、じいじは知っている。

ちなみに、こんな言葉がありました。どうよみますか?

To be To be ten made to be

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2006年12月 9日 (土)

雨がシトシト サターデイ

Img_0014_1 朝から激しくは無いが雨が連続して降っているため、家の中に閉じ込められている。(自宅軟禁)

天気が良いのに出られないといった焦燥感はないが、こんな日はな~んにもする気がなくて本さえ読んでいない。

そろそろ年賀状の用意でもと思ったが、訃報を見ただけで中止。とかく切羽詰るまで無理なんだろうな。   

「まぁ仕様がないか」で土曜日の一日が暮れた。

Img_0016_1 庭のもみじが、今頃になって色づいてきた。風も当たらない代わり日も当たらず、寒さには強かったのか。そういえば、熱海の梅園も谷あいだったが紅葉は遅かったような気がする。

その紅葉や万両に露が付いてしっとりと趣があったので、カメラを向けてみたのが、この写真。(左 万両)

そして、今日はボーナス後の休日だ。ボーナスというものから縁がなくなって約20年、「いいなあ」と指をくわえているしかない。

(もっとも、ボーナスを用意した時期に比べれば気楽なんだが)

今朝も、新聞以上に重い広告がドサッと付いていた、みんながみんは沢山のボーナスをもらえるわけでもないのに、、、。イジスルナ!

出す方も下手な鉄砲数撃ちや当たると思っているのか、それとも、商売敵が出しているので此方も出さなきゃと思ってのことか、、、。

こんな日は、街中に出てもおいてけぼり感が強くなる。新聞には「緩む財布、海外旅行好調」などの見出しがこれ見よがしにでている。

世間の景気が悪いのでなく自分の景気が悪いだけだとあざ笑っているように感じるのはひがみ根性か。

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2006年12月 8日 (金)

早咲き?狂い咲き?返り咲き?

Img_0002_1  Img_0010_1 例によって散歩の道すがら草花を見ている。

最近目立っているのは、前に書いた”仏の座”それに、"菜の花””蓮華”と続く、春の花がいま咲きだした、ということは、返り咲き?狂い咲き?遅咲き?早咲き?の内どれなのかな?

まず、遅咲きではないことはたしかだろう。春に近い温度と日照時間のせいなのかと思うが、スーパーの胡瓜やトマト同様季節感がなくなってきたようで恐い。

今日は、65年前真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入した日である。自分は僅か2歳だったので知る由もないが、当時の軍令部発表のニュース写真は何度も見ている。

まったく、世界情勢も何も判らない一部の人(国民を煽ったマスコミを含めて)に引きずられて、蟷螂の斧を振り上げてしまい破滅に突き進んでしまった。

西洋の童話にあるハーメルンの笛吹き男を地で行ってしまった感がある。

自分としては、大きな犠牲を払ったが、負けてよかった。その後の戦争なき時代、自由にものが言える時を過ごせたのは幸せであったと思っている。しかし、あの時代を指導した人たちは帝国主義の遅咲きだったのだろうか。それとも、周りの状況が判断できない狂い咲きだったのか考えさせられる。

いま南の島フィジーで、クーデターが起きていると言う。事情はよく知らないが軍司令官の意向に沿わない首相を追放し議会を解散したとある。

武器を与えられた者が、その武力を盾に国を意のままにする。丁度昭和の初めに5,15事件、2,26事件と軍の力を増大させた日本のように、、、

そしていま、防衛庁を防衛省に昇格させるという。つぎは自衛軍、いや、陸、海、空軍かな。

ただ名前を変えるだけでないはず、それに伴った強化策があり、むかしの軍に戻った時には、フィジー同様なことが起きるのは歴史が証明している。

いわば、鬼っ子を育てているようなものではないだろうか。そういうことは、自分の目が白くなってからにして欲しいものだ。

そういえば、昨日書いた”どんでん”の記事によく似た歌があるとメールがあった。

歌っているのは、小林旭。その名も「どんでん」という。

何時ごろの歌か、全然聞いたこともないので知らなかったが、内容を一部書くと下のようになる。これって著作権侵害になるのかな?宣伝しているので良いのかな。

「どんでん」

、、、、前略、、、、、

どんでん どんでん 哂って踊ってろ しっぺを食うのさ 見てみろあんた

、、、、、中略、、、、、

てめえひとりだけ 楽ができれば 他人の痛みはお構いなしか

どんでん どんでん おかしいぜ 日本中

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2006年12月 7日 (木)

どんでんがえし

Img_0140_1 今日は大雪、「冬将軍が襲来し、北からの寒風が激しくなります」とある。

暦の上とは少し違って、今日は曇り空ながら昨日までの風は納まっていた。

そんな中、川の改修が終わって、墜落防止の柵が作られたが、一部分だけであるがテープ状の物で花の図柄がかかれている、柵に対して30度くらいが一番綺麗に見えるが、近寄ってみれば意味不明のダンダラ模様、視覚を上手に利用したものである。

ところで、昨日の新聞によると、マーガリンにトランス脂肪酸と言うものが多くて、ニューヨークでは外食産業で使用が禁止されるとあった。

マーガリンと言えば、植物油を主体として、バターよりコクや味が落ちるものの安いし健康にも良いという風に思っていた。

ところが、製造過程で悪玉コレステロールが増え、動脈硬化をおこし、肥満や心臓病になるという。知らなかった。知らなかった。どんでん返しを食らったような気がする。

アメリカの中東政策。

テロとの闘いを名目にアフガンを攻め、イラクに侵攻し、イスラエルを無条件で支援した結果、中東でどれだけの人が死傷したことか。その結果出口の見えない状態に陥ったアメリカは選挙結果もあって、何とか手を引こうとしている。まるで、子どもが積み木を崩してそのまま外に飛び出していくように、、、、。

イラクのフセイン大統領にアメリカ人裁判官も入って死刑を求刑しているが、もし、これが逆ならブッシュ大統領は間違いなく三度ほど死刑になるはずだし、その協力者イギリスや日本の首相も有罪は間違いないだろう。

蜂の巣をつついたような状態にして一挙に手を引くとしたら、現地で命を懸けて任務についていた人はなんだったのだろう。

自民党の復党問題。

優勢民営化に反対し、追放されたはずの人が1年経たずして戻ってきた。受け入れるほうもそうだが、復党組が記者会見で「私は選挙中に民営化反対などは一言も言っていません」には笑ってしまった。

まるで、60年ほど前の戦争に負けた途端「民主主義」を説いた先生(教師ばかりではない)を髣髴とさせた。

次の参議院選挙対策として復党した人にも汗をかいてもらうのが理由らしいが、吉とでるか凶とでるか。いまの所、凶なんだけど、、、

投票する国民の質も問われているのだが、、物忘れの激しい国民性から、、、どうなるんだろう。

「そんなに勝ち組に寄り添いたいのか」と、、、

どんでん! どんでん!ひっくり返るのが世の常

恥とか外聞とか名誉では飯を食えない、いま当たり前と思っていることも明日には分からない。

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2006年12月 5日 (火)

うぬぼれ 我欲

Img_0132 ようやく庭の水仙が咲きだした。

水仙。地中海が原産地とのこと、流れ流れて日本には平安末期に到着していたとあるが、その姿、かおりで人に愛されていたらしく古くから歌に読み込まれていた。

初雪や 水仙の葉 たわむまで

水仙や 白き障子の とも映り

何れも芭蕉の句であるが、よく状況が分かる。

一方で、花言葉は、”うぬぼれ””我欲””自己愛”などあまり芳しくないのは、ギリシャ神話のナルキッサスに源を発しているためらしい。

自分の美しさに、恋をした少年の化身と伝えられているせいだろうが、これから花の少なくなる季節に貴重な存在である。

伊豆半島の先端、下田の爪木崎の水仙群落も有名であるが、近年人出が激しく、最近では4年ほど前近くを通りかかったついでに寄って見ようということになったが、あまりの自動車にびっくりして引き返したことがあった。

人のいない観光地も味気ないものだが、あまり多すぎて待ち時間の長いものも気の短いものにとっては我慢がならない。

うぬぼれ、我欲の強い自分を見ていれば、水仙なんか見る必要なし。

ということで、きょうから2日間メンテナンスで更新できないそうです。

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2006年12月 4日 (月)

野辺山は氷点

Img_0112_1 この木の実、多分錦木(ニシキギ)と思うのだが、ニシキギの特徴である枝にエラが出来ていない。

切られ切られても花を咲かせ、実をつけている様は修身の教科書にでも出てきかねない風情である。

多分先日までは、赤い葉を名前のとおり錦で飾っていたに違いないだろうが、長野の寒い霜にあって散らしたものと見える。

3日、法事はこの土地の古刹”津金寺”の若い(多分)和尚によって行なわれた。天台宗は自分の周りではない宗派なので、葬儀以来めずらしく見させてもらっている。

この和尚は、天台宗の本山延暦寺で修行されてきたとか。いまだ、学僧的な雰囲気が漂っていて、ほとんどが年上の人であろう参会者に熱っぽい口調で話していた。

自分の気持ちの中では、延暦寺と言えば真言密教、呪術的なお経で国家護持を主体とし、世間とはかけ離れている宗派という印象が強いだけに、いろいろと聞いてみたが、やはり、近代では世界情勢や他派の宗教についても研究はされているようだった。

また、葬式など法事の執り行い方も、自派の宗教一辺倒の所はなく、その土地ごとのやり方に合わせるため、神道、仏教、古来の習慣が交じり合ったものになっているなどとも、、、。

一切の法事が終わり、挨拶や買物を済ませて長野を出発したのが、三時半を過ぎていた。

陽は山の端に傾き、眩しかった夕日が沈むと日脚は早い、峠の手前海ノ口辺りから道路脇に白いものが見え出した。

「急いで、野辺山を越えなければ」の思いが強く気がせく、去年はスタッドレスタイヤだったが今回はまだ普通タイヤである。

野辺山の峠にようやく着いたときはかなり暗く、道路脇の温度計は氷点下をさしている。

小説の氷点とは違うけれど、重苦しさは共通する。若いころ飛騨で氷結道路の恐さはなんども経験し身に染みている。こんなときは、恐さを知らない方がかえって良いのかもしれない。

幸いにして道路は氷結した様子もなく通過し、ホッとしたのは、清里の急坂を降り切ったあたりから、暗い夜道がなんだか明るく感じたから不思議だった。

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2006年12月 3日 (日)

星空を眺めて身震い

Img_0110_1 「県北部と高い山ではこれから雪になり、3~40cmの積雪が予想されます」日帰り温泉「権現の湯」の休憩室にあるテレビは放送していた。

ここは、長野県立科町。連れ合いの親戚の法事に来ている。

2日の夜の悪天候は、前から予想されていたので、朝早く千メートルを越える野辺山を通るより前日の午後通った方が良かろうと出かけては来たが、この放送の通りになったら大変だ。

夕方、月が出ていたのに急に曇り始め、八時過ぎから降りだした。そして、日付が変わるころには止んだようで、小用で起きた三時ころは星の瞬く夜空に戻っていた。

トイレは、玄関を出て10mほど離れた所にあるので、身体が冷える前に床に戻らなければと思う気持ちと、久し振りにすっきりとした星を見ていたいという気持ちがあり、結局後者を選んだ。

あまりというよりほとんど星座は知らないが、冬の星座は親しみがある。南西にオリオンその右っかわにスバル、そして北側に北斗七星(小熊座)が煌めいている。

そしてこんな歌もあった。

ほのぼの明かりて 流るる銀河

オリオン舞い立ち 昴はさざめく

無窮を指差す 北斗の彼方

煌めきゆれつつ 星座はめぐる

子供の頃、こんな夜空があったこと、アンデスの4千メートルから名前も知らない星を見上げたことを思い出しながら、空を見上げていると夜空に吸い込まれるような不思議な浮揚感がある。

ひしひしとした寒気が身震いで、我に返りあわてて床に戻り、炬燵の中にずぼり込んで体温を取り戻した。

明くれば、頭上は快晴。蓼科山は雲の綿帽子を目深にかぶってどんな顔をしているか分からないものの、6月に登った浅間山、8月の籠の塔三山に菅平と続く群馬県との国境の山々はさらに白く化粧をし、雲を中腹にまとっている。(上の写真は浅間山)

寒気もそれほど深刻でなかったみたいで、霜がうっすら程度登り出した朝日にたちまち消えうせてしまう。

Img_0116_2 先日まであわただしく取入れが行なわれていた、リンゴ畑もいまは、葉を落とし、野鳥の取り分を残して、綺麗さっぱりとしている。

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2006年12月 1日 (金)

もどき

Img_0097_1 梅もどき、梅に似ているが違うぞ。という意味なのだろう。

”もどき”という以上、花が似ているか、葉っぱが似ているのか、何か似ているところがあるのだろうが、実(じつではない)が似ているとは言いがたい。

初冬の木の実は赤いものが多い。それにしても3mmほどの実がびっしりとついているのは、壮観である。

きょうで、孫のお相手も解放らしい。熱慣れしているらしく38度を超えていても割合と平気なようで手間もかからないのだが、ごろごろとしている病人といるとなんとなく此方まで気がめいってきて、「チョット散歩に行って来るよ」と、抜け出してしまう。

もしこれが、ボケ老人だったりして目が離せない人なんかだと、ごく短時間で参ってしまうのではないだろうか。と先の心配をする。

「病気は、菌だけでなく気分までうつる」と言った人がいたが、その通りだと実感させられる。

なるべくピンシャンコロリで人生を終えたいものだが、希望通りに行くかどうか。

さて本日、自分は戸籍上の誕生日である。そして、年が明ければ昔流に言う”古希”ということになるが、先日の同級会を見ても古来稀なリと言う割には大半が元気に生き残っている。

いつまで、老人もどきをやっていられるだろうか。

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