« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »

2007年2月28日 (水)

視れども見えず(確定申告)

Img_0051 いま、我が家のシンビジュームは黄色味がかった大柄の物が咲いている。

手入れ方法にもあまり関心がなく、庭先の半日陰にほったらかしておいて、秋も遅く蕾の付けそうなものだけを、冬になると屋内に入れてやるという信賞必罰式の栽培法を取っている。

このほかの蘭も同様に扱っているが、これらの花も以前は高くて眺めるだけの花だったが、最近では、栽培技術も発達してかなり安くなってきた。

それでも、国際蘭展に出品されるほどの品種は、見るだけの花である。

Img_0077_3 そして、シンビジュームを見ていると、蕾の時期であるが、付根に蜜を蓄えている。本を読んでもこの蜜について何も書いてないが、何故なのだろうか。

自分も始めは、水滴かと思っていた。指ですくって見ると粘り気があって「あま~い」 癖のない蜜そのものである。

蕾のうちだから、虫を誘っているわけではないように思うが、知っている方は教えて欲しいものだ。

.

漢文の授業で習った文章を50年以上たった今でも覚えている。そのひとつに、

心ここに在れば 視れども見えず 聴けども聞えず

    食らえども その味を知らず というのがある。

きょうは、なんだかだと延ばしていた確定申告に行ってきた。

もう、20年くらい(税理士に任せたのを含めて)やっているので慣れてもいいのだが、最近は毎年のように税制が変わってきて、固い頭には難しく、嫌なことからは出来るだけ避けたいと思う心と、どうせ何時かはしなければならないのなら早く済ませてホッとしようよ、という心の葛藤の末、ようやく重い腰を上げたのである。

大体のことはしてあるのだが、分からない部分が毎年のように出てくるので、申告会場で清書しようと、書類を持っていつもの会場に来て見ると、誰もいなくて「会場は2kmほど離れたところです」という張り紙と自分同様な人が二人いた。

急に変わったのではない。申告書の封筒には別の場所ですと赤字で書いてある。先日何時から何時までやっているのかと確認のため、見たところなので読んでいるはずだが、”視れども見えず”の状態だったのである。

ここ3日間、歯医者で口の中をかき回されているせいではない。春が来て頭がボーっとしているせいではない。年をとって呆けたせいではない。”心不在”だったんだと一所懸命に自分をなだめる。

さて、バスで、ここに来たものだから、歩いていくかタクシーしかない。静岡の一極集中型(バスセンターを中心に放射状なので、一旦戻らなければ他に行けない)の交通システムがうらめしい。他の人は帰って出直すというので、自分は歩くことにした。

高いアンテナのある傍なので目印にはなるが、交通の激しい南幹線沿いを歩いても目標は近づかない、ようやくの思い出到着し。赤い修正印をいっぱい打ってようやく提出。

ここで、気が付いたのは提出する場所が二つあることだった。一方は「葵区。駿河区」もうひとつは「清水。蒲原」となっていた。「そうか、いままでは旧静岡市だけだったのが、政令指定都市になったものだからこっちに来ることになったのか。と、すると蒲原町の人は自分たち以上に大変なんだ」

政令指定都市になっても、一般の人には何も良いことがない。をまたひとつ証明したようなもんだ。

Img_0053_2 外は晴れ渡って暖かい春の午後、会場の後ろには富士山がすっきりと映え、いまの気分と同じである。やはり、確定申告が重荷になっていたのかな。

東静岡駅からのバスを見ると一時間以上も待たなくてはならないので、再び家に向かって歩くことにした。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年2月27日 (火)

スズラン水仙

Img_0037_6 この花を遠くで見たときに、スズランだと思った。

「そんな馬鹿な、今どき咲く花ではないはず、、、そういえば、ついさっき虫取りスミレを見たものナ。暖かくなりすぎたか」と思った。

傍に近寄ってみて始めて、スズラン水仙であることに気が付いた。スズランより一回り花が大きく、花の先端がくびれていない。花弁の先端に、斑点がある。

これは、水仙の変種、園芸品種には違いないだろうが、山の畑の隅で育っているということは、将来的に、他の水仙同様日本中に咲き出すのも間近なことだろうと思う。

今日は、先日来歯の裏側が腫れて来ているので、歯医者に寄って治療してもらった所、歯と歯肉の間に針を刺され消毒の後軟膏を注入されたため、口の中は痛いは、注入された軟膏が一部戻ってきて口の中がニチャニチャとするはで気分が良くない。

そのため人の少ない場所に行こうと山を越えて安倍川沿いへ向かうことにした。

Img_0030 登りかけたら、かなり上になるが子どもの声が聞こえ、追いつくとどこかの保育園の年長さんらしい子どもが、引率されて登っている所だった。

一番最後から、付いて行くようになると最後の子どもは先生の目が届かないことをいいことにふざけ散らしている。

そんなのを見ていると、自然に頬が緩み、口の中の不快感もおさまる。幼子には癒し効果があることの証明だ。

登りきった所で、左右に別れまた一人旅。安倍街道に降りた後バイパストンネルを通って帰った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月26日 (月)

あとのまつり

                                  P1010026 木倍子が枝から暖簾を下げている。ここをかき分けて顔出すのは誰だろう。

木五倍子と書いてキブシと読む、丁度いまに時期山道を歩いていると、黄色みがかった明るい小さな花が枝を飾っている。この木は周りの木が芽吹き前でくらぼったい姿をしている早春に、、、、。

今の時期しか目立つことが無い。後は周りの木に溶け込んでしまいどこにあるかさえ分からない地味な木なのである。

この木、なぜ、こんな難しい名前を持っているかというと、むかし、お歯黒に使った五倍子の代わりに使われたことにあり、お歯黒の元になるタンニンを多く含んんでいるためらしい。

P1010036_4    最近では、ピンクの色をした園芸種もあるようだが、この時期だけが、この花にとって年に一度のお祭りなのであろうか、花暖簾を掻き分けてくれる人を待っているようにみえて面白い。

(なお、五倍子(ブシ)というのは、ヌルデの若芽にアブラムシが寄生して作るこぶ?を言うのである) 

昨日のことだが、朝早くから昼花火の音が喧しかった。

昼過ぎになって帰ってきても音がするので聞いてみたら、先日登った愛宕さんの祭りだという。これは野次馬を自認する自分としては”行かざあなるまい”とて、自転車を走らせた。

15分ほどして、上り口に到着すると上から人が続々と降りてくる。おまけに女性の神職まで降りてくるではないか。赤白の衣装は巫女さんとよく似ているが、額の飾りをつけ、恰幅の良い婦人は威厳がある。

これが、世に言う”あとのまつり”か。それでもここまで来たのだし、登る人も周りに何人かいるので登ってみようと一番上にあるお宮さんまで上がってみたが、途中でなった連発の花火が本当の打ち止めだったらしく、お宮さんの紅白の幕引きも済み、全ての人が帰り支度に精を出していた。

降る途中、前を3人の中高年の男性が道をふさぐように話しながら降りていく、別に急ぐわけでもないので、後ろから聞くでもなく付いていくと、一番年かさな人が、脇の倒れた木を指差して「これをもやせばよかったな。」なんていったら、先を歩いていた一人が、静岡に来て「もやす」といったら分からなかったという。

はて、もやすという言葉は全国どこでも通用する話しではなかったのか。と、後ろから”燃やす”が通じないならなんて言うの?と聞くと、いきなり知らない人から声かけられて驚いたのか返事が無かった。そのまま分らずじまい。

Img_0029_2 下では、露天商も最後の追い込みに入り、子どもは小銭を握り締めている。風天の寅さんではないが今頃この人たちもどこの空の下にいるのやら。

今日も、朝からワイドショーでは、アメリカ映画アカデミー賞の助演女優勝候補に日本人の菊池凛子さんが上がっていると報じ、朝からインタビューを繰り返していたが、あえなく硫黄島からの手紙と共に落選し、祭りは済んだ。

その後の、インタビューは聞いていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月25日 (日)

山葵の花咲く

Img_0012_1 暖かい日が続き山葵の花摘みに忙しいという知らせが入っていたので、有東木の知り合いを尋ねた。

朝から、山葵田に入っているというので、直接山に行って見ると、冷たい水に入って「今どきは花屋さんだよ」って言いながら片端から二人で茎を折っていた。

年末に見た山葵田とは、趣を変え若々しい葉っぱが10センチほどに広がりみずみずしく光っている。この後作業小屋へ運び込み花の頭を同じ高さの束にし、物差しに当てて包丁で切って出荷するとのこと。

「このくらいでいいずら?」と未整理のものを無造作に両手でつかんで一山と、山葵漬け用に半端物の山葵と茎を貰う。今晩はまたこれでチクッと行くか、熱湯をさっとかけて辛味を出し花鰹をふんわりと載せて食べるのが酒にあう。三杯酢は花にはモッタイナイ。

Img_0018 発泡スチロールの箱に貰った山葵を詰め込んだ後、集落の一番上まであがると公園では蝋梅が今を盛りに咲いている。

近所ではもう見なくなっていたので、季節が逆戻り。やはり、此処の春はこれからなんだなと再確認。そして、来た時は、必ずといっていいくらいに立ち寄る、この辺りの主婦でやっている「うつろぎ」でいつものように”もり天そば”を注文する。春夏秋冬、時期も食べ物もを選ばない、この一品だけにしている。

帰り道、”真富士の里”に立ち寄るが、ここの三椏はまだ早い。いつも綺麗な花をごっそりと咲かせる木があるのだが、、、、、、

Img_0010_6 と、そこに一羽のカケスが降りてきて、草むらをつつきながらあちこちと移動する。よく見ると、木の根元や芝の中からドングリを拾い出している、前の年に隠しておいたものか、偶然に法のかは知らないが、、、。

いまはむかし、春日八郎の「別れの一本杉」にもでてくるくらい以前はふんだんに見られて鳥だったが、最近は見たこともなく久し振りの姿をまじかに見せた。

この鳥は利口な鳥で人なれしやすい上、普段はガーシガーシと騒がしくて汚い声で鳴くのに、他の動物の鳴き真似をしたり、人の声まで真似するのがいて、子供の頃この鳥をカシッパといっていたが、この鳥の巣を探して雛から育てたことがある。

ヒヨドリより一回り大きいか、折りたたんだ羽の下には深い青と白の綺麗な色を隠し、あまり人怖じをしないで餌探しに熱中している。

写すのに良い位置を探して足元もろくに見ずに歩いたものだから、帰ってきたらズボンの裾がひっつき虫、栴檀草の種だらけ「エライ目にあったわ」と種取に精を出して今日の巡り歩きはおしまい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月24日 (土)

お天気ね~さんに騙されて

Img_0187 昨夜の天気予報では今日はよく晴れるという予想だったはず、、、、しばらくぶりにどの山へ行こうかと、地図をひっくり返していたが、朝起きてみると一面の曇り空。

一番近い、竜爪山も雲がかかっているではないか、お天気おね~さんのペテンに引っかかった。

ということで、藁科川上流にある湯の島温泉へ行く先を変更。途中「日向」という集落で七草祭りをしているとのことなので、そちらに寄り道しながら行くことにした。

今日は、正式には旧暦の1月9日になり、七草には少し遅いのだが、勤め人が多くなったいま、暦通りにはなかなかことは進まない。で、道路わきの農協の駐車場に車を止めて紅白の幕を引いた場所へ、提灯に導かれて集落の一番上まで歩いて登る。

目的地が近づくと低い太鼓のどろどろという音が響いてくる、紅白の幕が絞られているところから入ると、三間視覚ほどのお堂の中で、”日の出の御祈祷”というものやっているという、「この時間に?」。

初めての場所なので、焚き火の番をしている地元の人らしい高年の人に聞くと丁寧に教えてくれる。県の民族文化財に指定されている舞(田遊び)は午後6時半過ぎということなので、今回は見合わせることにしたが、この辺まで来ると静岡の昔からの風習が残っている。

Img_0188 はじめてみたものとしては、境内を囲むように張られた紅白の幕の下、何箇所かの土を突付いたあと、赤飯と御幣のついた棒を立てていた。地の神に対する感謝なのだろうと思うが、数が多いので魔よけみたいなこともあるのだろうか。

また、昔の街道はここを通っていて、あそこの峠を行った。などと聞くと、その昔、安倍川の暴れぶりがよく分かる。うかつに川辺に降りて生活できなかったのだと、、、

行事は、続くようだが日帰り温泉にも入りたいので、「甘酒を一寸飲んでおいでよ」という言葉を丁重にことわって、上流に車を走らせる。

Img_0194 湯の島温泉は、普段だと家から約1時間。藁科川に面して建てられている。泉質は、ぬるぬる感のあるナトリウム炭酸水素塩泉で、この近所にある口坂本温泉や大井川上流の一連の温泉と同質ではないかと思う。

一度入って昼食を食べた後、付近に散歩に出かけ、今晩の酒の肴にした、ふきのとうを少し手に入れ、再度湯に浸かって暖まった後帰ってきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月23日 (金)

いつもより早めに回しております

Img_0170 もう、「耳にたこ」状態になった今年の暖冬。

いろいろな現象が、太神楽の海老一兄弟のキャッチフレーズならずとも「今年はいつもより早めに回しております。 ハイッ!」ってとこかな。

昨日来の雨、強くはならないもの降り続いている、その合間を縫ってそこらを廻って帰ってくるつもりが次第に調子が出てきて、城北公園まできてしまった。

そのころになって、降り方が激しくなり持参の折りたたみ傘では、チョッとという情勢になったので、近所の市立図書館に入って雨宿りをすることにした。

入ってみると全館暖房の温度が高いのか、歩いてきたせいかムッとするような暑さ。何にしようかと考えたあげく、本屋では見ることの出来ない中堪助の「銀の匙」にした。

中堪助の本は読んだことも見たことがないが、市内新間に市営の中堪助文学記念館があるくらいだから静岡とかなりの縁のある小説家に違いないので、一冊くらい読んで、いずれ記念館に行って見ようと思っていたところだったからである。

ところが、受付で本の所在を聞くと、まず、受付の人が「金のさじ」ではないかといい検索した、此方のうろ覚えかと思って「そうかもしれなですね」と相槌を打ってみたら、画面に「銀の匙」で3冊ある表示された。

そして、こちらにあるという紙を渡されていってみたがない。また受付に戻って文庫本の箇所を見たがない。貸し出しされていないとのことなので紛失らしい。

「そこで、ここで待っていてください」といわれ、腰掛けていたらようやくどこからか古いのを持ってきてくれた。

内容は、後ほどにするが、記念館まである当地ゆかりの作家にしては、粗末な扱いだなと思う。

あまり、厚い本ではないので一時間余で読み終え外に出ると幸いにして雨の中休み。

綺麗に葉を落として奇妙に明るくなったメタセコイヤに間を抜け、盛りをすぎ落花中の梅林を抜けると木戸があり、その先の公園内に葉を赤くした木があるので近寄って見ると葉桜が2本。今年は春が走っているのではないかと思ってしまった。

家の近所まで帰ってくると、ユキヤナギがこぼれだしていた。しかし、いつもの年より咲き方が少ない、木の上を小さな花で真っ白に覆うのを待っていたのだが、傍に近寄ってみると、これ以上花は咲かないようだ、スギ花粉同様昨年夏の気象が影響しているのか、この周りだけの現象なのか分からないが葉桜を見た後だけになんだか調子が狂ってきた。

午後になって、空晴れ渡り夕焼け空がもどってきた、一日雨の天気予報を信じて歩いた、雨の中の散歩はなんだったのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月22日 (木)

神々しく思える三椏

Img_0084 この花三椏(ミツマタ)という。

いくつもの花が固まっていて、外側から開いていくのだが、一寸見にはひとつの花のように見える。

この木は名前の通り枝分かれする時、三方に分かれていくためこんな名前が付いたが、強靭な皮を持っているため、折ってもなかなかちぎれない。

Img_0073_2 そして、日本では古来三椏、楮(コウゾ)、雁皮(ガンピ)を使用して世界的に変質しにくい、上等の和紙が作られてきた。

現在でも、これらを使って紙幣が作られていると聞くと将来高額な額面を印刷されるかと思うと、なんとなく神々しく感じて柏手のひとつも打ちたくなるのは、日ごろから、五欲豊富な不器量人のせいだろうか。

さて、先日来側溝の蓋、電線などを盗んでいくと新聞種になっていたら、関東北部を中心に火の見櫓から半鐘が、そして、トレーラーを積荷ごと、昨日は鉄板180トンと金属泥棒がだんだん大胆不敵になってきた。

これほど大物になると、一人ですることは当然、出来心ではとても出来ない相談になってきた。180トンの荷物というと、大型車でも何台ものになってしまうからだ。

積むのも大変だが目立たないように運ぶのも大変なことだから、人が見ても不思議の思わないほどのやり方で機械を操作しているのだと思う。

これが、そのまま分からずに終わるとすると、どうなるんだろうと空恐ろしくなる、と同時になんか面白くなってしまうのは完全に傍観者になっているためだろう。

少し前までは、仕事で出た鉄くずにお金を添えて持っていったことが何度もある。おかげで、どれだけ余計なお金を使ったことか、、。それが、持って行けば銭になるんだって、子供の頃同様、金属の廃品を拾って小使い稼ぎをした時代がまたやって来た。

でも、今の子どもはそんな甲斐性を持っているのはほとんどいないだろうな。

また、それにしては、ナンバーをはずして道路の片脇に放置してある自動車が無くならないのは、やはり、銭にしにくいためなんだろうか。

あれを持って行く分にはみんなして拍手をしょうと思うのだが、世の中上手く行かないものだね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月21日 (水)

茶花女って

Img_0110_2 春の木と書いて椿と読む。日本ではこの木を春の代表木としてあてたのであろうか、漢字の国中国では別の木にこの名前が付いているそうだから、間違えて付けのだろうか。

昨夜NHKのクローズアップ現代でやっていたが、パソコン内のゲームに使う架空の通貨を売り買いする商売があると放送していた。すべて通して見ていたわけではないし、ゲームに関しての知識はうといのでよく分からないが、ゲームを通じて得られる点数を、手抜きして得るために、持っている人から買うようで、それを仲介する人や、それを得ることで生活している人、中国など他の国まで巻き込んで架空の通貨で実際のお金が動いていて、なんだか訳の分からない社会が構成されているようである。(書いてて分からなくなった)

まさに、インターネットは国境を越えて行き交いしていることが分かる。

先日、自分のブログに中国からアクセスがあり、分からないのでウイルスを心配して抹消したが、原因は自分が作っているもうひとつのブログ「別冊 オラケタル」http://hida.cocolog-tnc.com/szok の05年の9月30日に茶の花を載せたことにあったと分かった。

Img_0092_4 なんと、中国のgoogleに自分のお茶の花の写真が他の写真に混じって並んでいたのである。「わお~ 自分の写真が中国に行っててそこで見られていたんだ」そういうものだとは聞いてはていたが、自分ののものなんかは国内がせいぜいと思っていただけに、改めてインターネットのグローバル性を見せつけられ、うかつなことは書けないと感じた。

と、同時に最近横文字のメールやトラックバックが毎日のように入ってくるようになった。外国語にうとい自分は、辞書を引いてまで調べる気もしないので処分しているが、もし、真面目なものがあれば失礼な話かもしれない。しかし、自分のブログは国内だけで充分である。

その、画面は中国のいろいろな椿の写真を並べている中に自分の写した白いお茶の花が一枚入っている。中国では椿の花のことを「茶花」というらしい。サザンカを何故「山茶花」と書くのか、ようやく分かった気がした。

そして、ベルデイの歌劇に「椿姫」というのがあるが、中国では「茶花女」とあてているそうだ。たしかに、この歌劇の主人公はビオレッタという名の娼婦なのだから、お姫様ではない。そして、最初の題名は「道をあやまった女」というそうだから日本語訳のほうがおかしいことになる。

ちなみに、赤い花の椿の花言葉は、「高潔な理性」「控えめな愛」というが、あの濃い赤さからはちょっと首をかしげる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月20日 (火)

元には戻れない?

Img_0103_2 少し小高い砂地に浜大根が咲いていた。下田の吉佐美海岸。

薄紫の十文字の花は、大根の仲間の証拠。解説によれば大根が野生化したものだという。しかし、大根だってもともとは野草だったのを、採取してきて品種改良したのだから、野生化したものともともとの野草とは違うものなんだろうか。浜大根もよく見ると葉の形が畑の大根とは違う。

犬は、狼を家畜化したものだと聞くが、野犬と狼とは違うものだろうか。(ここで言うのは玩具化した、チワワとかマルチーズを言うのではない)シェパードやハスキー犬なんかはそのまま狼に元っても良さそうだし、本で見る日本狼は柴犬なんかを痩せさせれば区別が付かないのではないかと思うが、、、、犬が狼に戻ったとは聞いていない。

Img_0141 そして、少し内陸に入って赤土の上に朝顔系の花が咲いていた。いくら南向きの斜面とはいえ、自分の家の近所ではとっくに蔓が枯れて、花芽などつけそうもないのに写真のように質素ながら同じ模様の花をあちこちで咲かせていた。

Img_0139 蔓や葉は、寒さで痛めつけられているものの、花をつけるだけの力を残している。正確な名前が分からないだけに不思議な感じがした。

先日来、気になっているコマーシャルがある。その歌の文句正確には間違っているかもしれないが「いま一番光っているのは、3日前から来ている派遣社員のまりちゃん」と言った感じのもの。

リクルート会社の広告だが、自分に言わせると派遣されて来た女性社員が光っているような会社は、ろくでもない会社ではないだろうか。

派遣社員というといまでは特別な技能を持った人なのかもしれないが、自分の昔の記憶によると、景気が悪くなった会社が一時的に生産を落とし、他の事業所に、余剰人員派遣するというのを見てきたためである。勿論、それで派遣された人は甚く傷つくし、新しい会社でいきなり能力を発揮できるわけはない。

今朝の新聞によると、派遣労働者や契約社員募集に誇大広告が目立つとある。そうした場合、派遣された先で怒りや不満を溜め込み、労働意欲や作業能率が上がるわけがないと思う。

野生化した草花や、動物はどんなにもとの先祖に似ていても元には戻れない、というのによく似て、同じ制服を着たとしても派遣社員はいつか近いうちに去る人であり、その会社に同化する人ではない。

なんか、屁理屈見たいな記事になったが、、、

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月19日 (月)

富士の高嶺は雲の中

Img_0109 今日は雨水。春の訪れにより、雪や氷が解けて水になるという。(おのこをピンと衝きたてて朝日を待つ吉佐美海岸)

さしずめ、「おお牧場はみどり」の”雪が解けて川となって、谷を降り、、、”の情景でしょうね。もっとも今年は、雪の降らなかった所が多かったので、解ける氷もなかったに違いない。

昨夜泊まった宿は、仕事をしているときから使っていたなじみに宿。宿というより久し振りに帰った故郷の家といった雰囲気がある。そのため、食事の後一段落した所で”語り明かせば下宿屋の小母ちゃん酒持ってやって来る あぁあ~ 友よよきともよ、、”と歌にあったような雰囲気で久し振りに深酒をしてしまった。

あさ、小母ちゃんの「明日は朝から天気が良い」という宣言につられて、海岸に出てみる、伊豆七島の利島 三宅島などは見え、空は赤く染まってきたが、水平線の雲が切れない。それでも潮風に吹かれながら30分ほど待って空振りで帰る。

Img_0131_1 朝ご飯を食べたものの退屈し、9時に宿を出て、下賀茂温泉 青野川沿いの菜の花園と河津桜の見物に行く、どちらも満開を少し過ぎたかなという感じ。

遠くで見る分にはまたとないように見えるが、「近くば寄っては目にも見よ」というにはすこし苦しくなってきたように思う。しかし、ここまで来る間にあちこちで桃色の桜を見て来たが、こんなにあるようでは、つるし飾り同様いまに全国区となり、河津桜から「伊豆桜」とでも名前を変えそうなほどの勢いにみえる。

そのあと、石廊崎、雲見、松崎にきて、これもなじみの寿司屋に入って食事。

Img_0140 土肥からフエリーに清水へと帰った来た。フエリーからの富士山を肴にする予定だったがこれははずれ、富士市の煙突群の上にあるはずの文化遺産候補は所在がわからない。 (このフエリーの背景としてに富士山があっていいはずなんだけど、、、)

そこで出来たのが下の句。

田子のうらゆ うち出でてみれば 白妙の

    富士の高嶺は 雲の中

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月18日 (日)

春雨じゃ 濡れていこう

Img_0044_2 旧正月。いまだにこの日を重視している中国やベトナムでは新年を祝うため、大騒ぎしているに違いない。

とくに、もう古い事になる、1974年だったと思うがベトナム戦争当時、テト攻勢というのがあって、不意を付かれたアメリカ軍がかなり大きなダメージを受けた日である。

Img_0049 朝まだ少し残っていた雨も、小降りになり西の空が少し明るくなったころを見計らい沼津に向かって出発した。途中で雨雲に追いついたりして沼津御用邸に着いたのが10時ころ、駐車場に車を入れ、記念公園の西付属邸に入る、このときは雨も止んでいたので、傘も持たずに屋敷内に入り、あちこちの部屋を見て周り、最後につるし飾りや3月桃の節句のひな壇飾りなどを見たが、由緒ありそうな雛人形と共に最近はやりのつるし飾りの年の入った細工物を改めて見させてもらった。

約40分ほどの見学の後外に出ると、雨がまた激しく降りだし、売店に閉じ込められる。しばらく我慢していたが、止みそうもないので諦めて帰ろうとしたころあいを見て取ったのか小止みになる。

この程度なら、少しくらい濡れてもいいか「春雨じゃ 濡れていこう」なんて古い駄洒落を言いながら、弟と二人で外に出て梅園や海岸近くの芝生、東付属邸付近をぐるりと一周してかえる。

その後、伊豆半島を南下、海岸から長岡、修善寺で名代のそばを食べ、天城峠に向かう、途中道の駅に立ち寄って一休みをした後、天城峠を降り、湯ヶ島町の河津七滝を見る。

ここに来るまであちこちで河津桜を見て来たが、ループ橋の下あたりからその数が増え桃色の花を透かしてみる三階建ての橋は見慣れているせいか、よく調和が取れているように感じた。

ここでも、駐車場に車を止めて、そぞろ歩きで30分ほどか、踊子の緑色の像がある釜滝まで行ってくる。

Img_0078 降って、湯が野温泉からは旧下田街道にはいる。予測としては河津桜のある辺りから下田にかけて車が渋滞しているとふんでのこと、ところが、桜並木が見られるところから俯瞰してみると意外と流れている。「やあ失敗したかな、、、」とつぶやくもここまでくれば仕方がない、一路逆川を下り、”お吉ヶ淵”を横目で見て今日の宿がある吉佐美に付いたのは五時少し前であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月17日 (土)

踊子がそろうた

Img_0037_5  そろうた そろたよ 床搗きや そろうた

稲の 出穂より ヨー なおそろうた

かねが出る出る 鹿間の山のによ

銀と鉛と ヨー 亜鉛とが

アリャ ヨーイ ヨーイ ヨーイトナ

アリャリャン コリャリャン ヨーイトナ  

Img_0038_2 むかし、鉱山の精錬所で鉱石を溶かす溶鉱炉を作るとき、その底部の土を搗き固める際に歌われた歌だと聴く。もともとは東北地方の民謡だったものに歌詞を差し替えて、床搗き音頭と名付けられたが、この当時はこんな民謡に合わせながら一斉に木の棒で土を搗き固めるという方法がとられていた。

自分は、同じ鉱山でも採掘のほうなので、この作業は見たことがないが、以前は「よいとまけ」の歌などにもあるように、仕事のほとんどが人力で行なわれていたころは、歌を節目にして力をあわせていた、のんびりとした時代があった。

久し振りに弟夫婦がくるので、山菜をご馳走しようと、野蒜とからし菜、セリを摘みに行ってきた。

少し前までは、山菜ブームとかでからし菜も随分と摘み取られていいのが近くになかったが、最近はそのブームも去ったらしい。目出度いことである。

栴檀草の実を避けながら、野蒜を掘っていたら早いものでヒメオドリコソウ(姫踊子草)が花をつけていた。

仏の座に近い種類だけあって、色形は似ているが、花が葉っぱより高くなることはなく、葉っぱの先端が丸く帽子をかぶっているように見えるところが、名前の由来であると思う。

冒頭の歌が東北地方の民謡だとかいたが、その中で床搗きという言葉は、もともと踊子だったそうだ。

そのせいか、このオドリコソウが沢山かたまって、ドングリの背比べみたいに咲いていると、この古い歌を思い出し、口づさんでいることがある。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年2月16日 (金)

明鏡止水

Img_0069_4

明鏡止水 (この写真逆さまでは張りません)

朝起きてみれば、昨日までの風もやみ、満天の星。こんな日は山登りに絶好の日であるが、閑人にもたまには用事があって出かけられない日がある。

そんなわけで、街中に出たついでに駿府城の内堀にでてみた。

空明るく、風もないのでみずかがみは内堀と外掘の間の町をきれいに映し出している。まさに、四文字熟語を地で行っている風景だった。

このあたりは、土手に沢山植えられている桜が4月には咲くところだし、初夏の紫陽花、秋は彼岸花が咲くところだからその時期の水鏡も期待できそうな気がする。

今日は、西行忌。北面の武士 佐藤義清がある日突然、妻子を捨てて出家してしまい西行と名を変えて日本全国を行脚した。と聞く。

  願わくば 花のもとにて 春死なん

      そのきさらぎの 望月のころ  とうたったそうだ

その願いかなってか、当時のことだから旧暦であるだろうが二月十六日に亡くなったそうだ。(もう伝説の中の人、すべて伝聞なので「そうだ」を連発する)

旧暦の二月十六日は、今年だったら四月三日に当たるので、当然桜の時期になるのだろうが、この時代の花といえば、梅ではなかったのかと思ったりして悩ましい。

いずれにしろ、願いどおり花に埋もれて死を迎えられたのは羨ましいかぎりである。

自分も、できればそういう風になりたいものと思うが、その前に全ての煩悩を取り去り、”明鏡止水”の心境に達しなければならないので、その辺が、、、、、ムツカシイ~

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007年2月15日 (木)

ほれみたか

Img_0015_2 今日は夜が明けてから強い風が吹き出した。

昨日は、低気圧の中心に向かって吹きこむ南からの風(春一番)とかで、県内の袋井でかなりの被害が出たようだ。どうも、和歌山県の被害とともに竜巻ではないかとの報道もあるが、最近日本でも竜巻被害がよく出るようになったような気がする。

竜巻なんて、よくニュースにアメリカの大平原に発生するもののように、広い空間がないと出来ないので、日本みたいな国では出来ないのかと思っていたがそうでもないようだ。下手すると自分のところにも、、、、「くわばらくわばら」これは地震除けか、雷除けか、まあなんでもいいわ。

そして、今日は、昨日去って行った低気圧に引きずられる形の風が吹いている。昨日は南風、今日は西風と、、。おかげで早く咲いた梅散らしの風が二日続けて吹く。

P1010043_2春の嵐に散りゆく花か 風にまかせた 身は旅役者、、、”この歌を知っている人はよほど、、、

散歩道から見た富士山も雪煙をあげている。

また久し振りの雨に春が一段と進み、キブシ、ミツマタ、シキミ(香花)の花も開いてきた。

Img_0034_2 昨日、バレンタインに残り物のチョコしか貰えず、「わしゃ~ 先祖代々の曹洞宗じゃけんに、、」とふてくされていたら、のんびりやの孫娘が携帯につけるものと言って、写真のような手作りのビーズを持ってきてくれた。

結構難しかったので、間に合わなかったとのこと。「ほれ見たか!、わしにもきたぞ」機嫌もすっきり、あっけらかんのかん。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月14日 (水)

百舌はクリスチャン?

Img_0008_2 朝からシトシトと降っていた雨も、午後に入って風も交え次第に強くなってきた。

気象庁は「春一番」ですと、言っていたが、この風は春という優雅で温かみのある言葉とは相当異なった感じのものである。

先日来、開きかけたままになっていたクリスマスローズもこの雨風にうたれて、揺らぎながらまた開いてきた。

いま家にあるのは、写真のように白いものだけ、これは、この鉢で10年以上住み続けているが、去年根ぐされを起こして駄目になったのは紫色をした3年ほどのものだった。同じ所において同じ扱いをしていたつもりだったが、、、、相性が悪かったのだろう。

Img_0004_1 クリスマスローズ。割合と日本人好みの花らしくて、この時期になると本屋に何冊もこの花を主体にした本が並べられている。

この時期に咲くのに、なぜクリスマスという名が付くのかなと思っていたら、ヨーロッパのほうでは実際にクリスマス咲く種類があるそうで、この時期に咲くのはレンテンローズというそうで、キリスト教の受難の日からイースターまでに咲く花だとのこと。(キリスト教についてうとい自分には書いていて分からない)

さて、今日はバレンタインデー。連れが職場で貰って、すこし食べてきた残り物を差し出してくれただけで、他にはなんにもなし。

腹立ちまぎれで言うのではないが、「わしゃ 先祖代々曹洞宗だけん、バレンタインよりバランタインの17年物の方がいい」とほざいておこう。

P1010038 バレンタインデーの別の意味として、西洋では”鳥がつがいはじめる時期”としているところがあるそうで、「愛を捧げる季節」を祝うという所から発していると書いたクリスチャンのブログを見た。

そして、復活祭のころ愛が実って巣を作り卵を産むそうだ。そうか、それで復活祭には卵を使うのかと、異教徒の自分は勝手に想像している。

そういえば、先日百舌が求愛のダンスをしていたのはその予行練習だったのかと納得したが、まさか、あの百舌はクリスチャンではあるまいな。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月13日 (火)

富と栄光の福寿草

P1010041 福寿草がようやく花開いた。

古来、幸せと長寿を合わせ持った花として、日本人に愛され園芸品種としても植えられてきた。黄金色に輝く花は日が陰ると花を閉じ、翌日また開くを繰り返しながら虫を待つ。花言葉は富と栄光だそうだ。

前にも何回か長野は立科町の田んぼの土手から採取して、植木鉢に土ごと入れてみたが、翌年は咲いても次第に勢いがなくなり2~3年で跡形も無くなった。

Img_0073_1 よほど、気候があわないのか、鉢の中という囚われの身がつらいのかと思うが、この草は五月ころには全ての仕事を終え休眠に入ってしまい、どこに在ったか分からなくなるのでそこいらに放って置くわけにも行かない。広い庭ならまだしも、猫の額に沢山の草花があっては何時掘り返さないでもない。

一方、今、田んぼの縁にタガラシという貧弱な花を持つ草が生えている。おなじ、金鳳花科に属するだけあって、花の真ん中に丸い玉のようなメシベを持つことや、一重の福寿草とは大きさを別にすれば似ているところが多々ある。

Img_0067_4 タガラシ。”田枯らし”とも”田辛子”とも書くそうだ。用水路など水気の多いところに生えているので、田んぼにどんな影響があるか知らないが、あまり歓迎されていない草。また、少々毒もあり多分苦味か辛味があるらしいのだが、、、よく知らない。

同じ金鳳花科に属する福寿草も、毒があるので食べないようにという注意書きがついている。タガラシからすれば見た目が悪いだけ、、、、氏も(所属)も素性(田んぼの縁に生える)も一緒なのに、どうして自分だけが不当な扱いを受けていると思っていることだろう。

「人間見た目が一番」なんて言葉もあるが、なかなか「人間 外見じゃないよ中味だよ」ということに気が付くのは、大分人生を見てきてからのこと、、、

あすは、キリスト教の聖人バレンタインの日だということで、外見のいい若者は抱えきれないほどの求愛を受け、ここにも○○格差が発生する。

若い娘さん「色男 金と力はなかりけり」ってむかしから言われていますよ。

えッ ”私の本命の彼は三高(さいこう)の勝ち組なのでぇ~" 上手くしとめて富と栄光を勝ち取るんですか、なるほどね、ガンバンナサイ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月12日 (月)

おされて梅見物

Img_0065_1 朝から天気もよく、どうしようかなと考えた挙句「そうだ、テレビでやっていた枝垂れ梅を見に行こう」とのこと「梅には食傷気味」といってきたが、枝垂れ主体という放送を信じて出かけた。

午前八時、今朝は此方も寒い、寒暖計は4度までしか上がっていない。これは平年並みなのだろうが、昨日は朝から10度だったので落差が大きいため感じる寒さなのだと思う。

道路は空いていて、40分と少しで掛川の龍尾神社に到着、駐車場には1番乗りだった。それでも駐車場のおじさんに指定された場所に車を止める。

インターネットでは、料金が500円だと書いてあったが、受け取るそぶりはさらさらない。「しめた、今日はロハなんだな」と都合よく解釈し、お愛想に「昨日は人が押しかけて大変だったでしょう。テレビで放送してたもんね、、」「うん、入りきれなくてずーっと向う、どこまでつながっていたか分からなかったよ」という返事。

そして、入り口の所に行くと「お一人様 500円」の立て札。えーッやっぱり、そうは烏賊のきんたまだ。

入ってすぐは、谷間で朝日がようやく入り始めたところ、花に日が当たっているところと日陰のところが写真にするには不都合なカンジ、おまけに、木も若くて小さい。テレビの写真と大分違うな、と思いながら斜面を登るとそこは赤、桃、白の枝垂れが見通せないほどまわりに花を咲かせていた。

Img_0064_1 Img_0070_3   木は、桜と違い苔の付いた古木らしいものもあるが、4m程の高さまでのものしかない、ほとんどが枝垂れている。その枝にいろんなグループが短冊をぶら下げているが、なかなか読みきれない。

と、いうのは、自分たちの後から入場してきた人が次第に多くなって、何とはなしに押されるような気分で歩かされ始めたからである。おかげで、先導者のように1時間ほどの滞在で入り口から、ところてんのように押し出されて退出。

来たついでということで、駐車場側から石段を登ってお宮さんに登って一巡りして降ってきたが、意外と参道は風が強かった。

Img_0074_3 他に見る予定も無いので、帰ることにしたがすこし時間が早いので、岡部町の”大旅籠 柏屋”が大きな雛人形を並べているというのを思い出して寄り道してみた。

ここは、江戸時代に建てられた旅籠(はたご)を今に残している資料館で、前に行ったときは人もほとんどいなかったので、座敷に座り込んで旅籠といわれた時のことを想像してみる余裕があったが、今回は、その中に等身大の雛人形があちこちに置いてあるうえ、常設の江戸時代の旅人を模したこれも等身大の人形がありで、そのバランス感覚というのに疑問を持つと同時にそのせいで、なんだか旅籠の中が狭く感じられた。

雛人形というものは、小さくて可愛らしいという先入観や思い込みがあるためか、これほど大きくなると不気味さが先にたつ。

「人形は、顔が命」というコマーシャルがあったが、その顔が「どうもいけません!」というしかない。説明する人が「この人形の芯は桐で出来ているので、虫や鼠にやられることが無いのです」と言っていたが、あまり身近に見るせいか、顔に艶、表情がなく、、、、やはり、大きいものは大きいところでという感を深くして早々に帰路についた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月11日 (日)

ミモザが咲いた

P1010060 近所の家の庭に、銀葉アカシアが咲きだしたので、毎年見に行っている巴川沿いの同じ木を見に行った。

畑の縁にかなり大きな木になっていて、小さなポンポンのような花をそれこそ無量大数に咲かせ、木全体が黄色い花の塊のようになってしまう。

P1010063  行ってみるとこの木、今日はまだ少し早かった。歩いて10分ほどしか離れていないのに気温か何かが違うのだろうか。

銀葉アカシヤ、名前の通り葉っぱだけの時は、深緑がかった銀色をしているところからつけられた名前だが、一般には房アカシアとあわせて「ミモザ」と呼ばれている。

もうすこしすると、写真に写っている蜜蜂が仲間と連れ立った大挙して押しかけるに違いないだろう。

そのむかし、NHKの大河ドラマに「天と地と」というのがあった。主役は上杉謙信役に石坂浩二、武田信玄役に高橋幸治他に沢山の錚々たる役者が出たドラマであった。

このドラマの原作者は海音寺潮五郎といって、知っている人は今ではし少ないかもしれないが重厚な作家であった。

この人が、「天と地と」の連載が終わった後に「筆後敬白」というので延べている言葉の中で、「小説とはウソばなしなのであります。小説の目的は、史実の追求ではありません。書くほうも読むほうも、ウソと知って現実にはありえないもの話の面白さを楽しむものであります。」いかにも本当らしく書いたり、いない人を作り出したり、史実にでてくる人を省略することもすくなくありません。などと書いている。

これは、当時でもドラマと史実をごっちゃにして考える人がいたためであろう。

今年は、この大河ドラマでは常連の「武田信玄」を扱っている、原作者は井上靖とのことであるが、今までのところ原作とは一寸違う流れのようである。

先日も他の人のブログを覗いていたら、山本勘助が実在の人として信じきっているような書き方をしていた。しかし、この人物は史実の中では見られなくて、始めて出て来たのが江戸時代になって作られた「甲陽軍鑑」であったこと、その後講釈師や軍学者によって、軍師だったと広められたということが分かっていないみたいだった。

かろうじて、上杉軍に使者として山本官助という名前が出ていて、この人かも知れないという人もいるが、そうでないかも知れない、そのくらいの人なのである。

海音寺潮五郎も最後に、史実も多いがフイクションが入っています。しかし、そんなことは小説には何の関係も無いことで、ただ面白く読んでいただければ、、、と結んでいる。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年2月10日 (土)

春の伊豆路はかすみ立つ

Img_0034_1 今日は語呂合わせで”ふきのとうの日””ニットの日”というそうだ。

こんな語呂合わせで記念日を作るのは他の国でもあるのだろうか、ついでに、"ニートの日”も追加してみんなで朝からごろごろと無気力にしてればいい、講師には自分がなるか。

そんなわけで、ゴロゴロと過ごそうと思っていたが、たまには遠出をしようという要望もあって、伊豆を中途半端に回ってきた。

沼津市役所から狩野側沿いに長岡、そして韮山反射炉、蔵屋鳴澤の吊るし雛を見て、修善寺の梅園、戸田峠を越えて戸田で魚を食べ、海岸沿いに沼津に入った後、魚市場で買物して帰った。距離的には200Kmほど八時間余の行程。

Img_0028_1 韮山反射炉と蔵屋鳴澤の関係はどうなっているか知らないが隣り合っている。江川太郎左衛門が幕末に築いた反射炉は教科書にも載っているので静岡に来た当時この近くの現場から来て見たときがあったが、その時はかなり寂れていたが、今では整備も行き届き見違えるばかり、入場するとすぐに案内係の人が交代に飛び出してきて人数にかまわず説明してくれる。(当時作られたものを複製した大砲、24ポンドカノン砲という)

溶鉱炉は鉱山にいたとき何回か見ているが、近代的な溶鉱炉に比べて四基あるとはいえチャチなものである。しかし、幕末の風雲急を告げる時見よう見まねだったのか洋書を見ただけで作ったのか、数百門の大砲を作り江戸はお台場に据え付けたと聞くと、当時の人の苦労、偉大さが偲ばれる。

Img_0010_2 隣接する、土産物屋の2階で「つるし飾り展」をやっていたので覗いてみた。

つるし飾りは、最初伊豆稲取温泉のものが有名だったが、近年あちこちで見られるようになったもので、この会場では、「桃の節句飾り」が700、「端午の節句飾り」が500とかなりの数になっていた。

いちいち数えたわけではないので、その他なのか、その内なのか分からないが、椿の花を模した物、柿や梟を模した物などもあり、それは見ごたえがあった。

このように、多岐にわたるつるし飾りはそれぞれに型紙が違うと思うので新しい物は、折り紙同様、かなりの工夫と根気が必要なことを想像させられ、会場で飾りを作っていた数人の小母ちゃんは、世間話をしながら器用に細工をしていた。Img_0005_3 Img_0006_4 Img_0020 Img_0004

ついで、修善寺梅園へ向かったが、やはり、最近の暖かさで満開になっているものの、梅には最近食傷気味の感があって早々に戸田峠へ、そして、富士山は海を隔てて七合目付近から上を出して綺麗ではあったが霞んでいて薄ぼんやり。

春の伊豆路は月おぼろ、、って歌があったよな。そう思いながら海に向かって降る。戸田は漁協近くのなじみの店に入ると、「手長海老のいいのが入っています」の声に踊らされ、思わず注文した。

身がしっかりして歯ざわりもよく、噛めば独特の甘味も出てうま~い~。

気温は、20度。腹いっぱいになると瞼が重い、波音ひとつ無い海岸に出て仮眠する。極楽極楽の一日であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 9日 (金)

久能山 東照宮

Img_0096_1 昨夜の小雨、朝方のきれいな月にもかかわらず靄がかかってなんだかぼんやりとした一日になった。

ひさしぶりに久能山東照宮に行ってきた。途中で財布を持ってこなかったことに気付いたが下から登る分には、、、「ま いっか」

昨年は登っていないので足掛け3年ぶりとなる、前回は参道の工事などをしていたため、索道が張ってあったりでなんとなく騒がしく、また、邪魔になる木を切っていたりで落ち着かなかったが、今日はそのときの傷もいえて静かな山に戻っていた。

Img_0111_2 そして、今が丁度藪椿の見ごろである。山麓にある梅林は、少々食傷気味なのと木が若いので、満開ではあったが、ただ「咲いているな」という感触しかなかったのに比べて、すこし薄暗い中に真っ赤な花がポツポツと花開き、下には一重の血のような花びらを散らして、幽玄といったような世界を広げていた。

Img_0101_2 また、椿の蜜を吸いにメジロが集まり、その下では落ち葉のなかに虫でもいるのかシジュウカラ、ヤマガラ、そして暗くてはっきりしない藪の中を鳥が交互に来ていた。

この土地は、7世紀というから飛鳥時代になるか土地の豪族久能忠仁によって開かれた寺だったと伝承にあるそうだが、7世紀の日本といえば仏教伝来してまもなくのころであり、そんな時代にもうこの地で、と考えると不思議な気がする。

Img_0115 また、武田信玄によって城として改築したとあるが、参道の石垣はすべて切り石の石垣であり、チョックラチョイとは築けないものである以上、お寺の時代に積んだものか、東照宮になって積んだものか、そしてここにも、例によって実在した可能性の無い軍師”山本勘助の井戸”なるものがあり、東照宮以前はほとんど昔話なんだろうなと推察される。

しかし、三方崖に囲まれたこの位置で井戸を掘ったのは、あてずっぽうなのか、なにかの根拠に基づいていたのかは分からないが、井戸に関する仕事もやってきた身にとって考えさせられる所がある。(案外万一の時の抜け道のつもりだったかも、、)

Img_0124 古いむかしからの信仰の場所としてあったのなら、水は必要不可欠なもののはずだから、その当時はどうしていたのだろうか、天水だけで間に合わせたのだろうか。そして、お金を入れれば中が覗けるらしいのだが、今日は文無しそのままで社務所前まで来る。

見下ろせば、久能海岸沿いに灰色のビニールをかぶせた石垣イチゴの温室がいく筋も平行に伸び、波のない海は靄との境目もわからずにきえている。

観光客も4~5人しかいない。風もなく暖かい静かでのどかな散策を楽しんできた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月 8日 (木)

サクラサク

Img_0086_2  梅は咲いたか さくらはまだかいな

  柳や なよなよ 風しだい、、、、

ここしばらくの暖かさで梅は満開し、ついで、早咲きの桜も咲きだした。

上が八重の梅であり、下河津桜なのだが、こうして両方が一度に咲くと「いずれがあやめかかきつばた」「両手に花」なんて言葉が浮かび、頬がゆるんでくる。  (また別なこと考えてんでしょ、、いやらしい)

                 早咲きで有名な、Img_0088_1 伊豆の河津桜も最近では各地に移植され、あちこちでそのあわいピンクの花を咲かせ、早くから春本番を予感させている。

静岡の私立高校の一次合格発表があり、一番上の孫から喜びの電話が入ってきた。

まずこれで、心配をしていたさくらが一輪咲いた。

自分の孫の中では、総領に当たるのだが、学校の成績はどちらかというと芳しくない。しかし、先祖譲り(自分の、、?)健康体で陸上競技やサッカーで走り回っていたので体力はありそうにみえる、、。(ただし、背丈は自分を追い越したものの、相撲や腕相撲はもうすこし先らしい。

あとは、辛抱というものをどう身につけるかであろう。

母親の、苦労しているのを目の当たりにしているため、学生のうちに資格を取り就職に有利なように、手に職をつけてなんてと健気なことを言っているので、大学などと高望みはしていないらしい。

また、三年先がどうなるか、じいじとしては心配でもあり楽しみでもあり、「こりゃなかなか早死には出来ないな」なんて、爺ばかチャンリンのたわごとを言ってしまった。

今日は、気分的に浮かれている。この辺で止めとかないと止めどがなくなってしまい、○○大臣みたいになってしまうので、、、、。チャンチャン!

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年2月 7日 (水)

雀の学校

Img_0089_5 Img_0086                 チイチイパッパ チイパッパ

雀の学校の先生は 鞭をふりふり

チイパッパ

雀、古来より人の身近に住んでいるため、いろいろと観察されてきたし、その生態もかなり知られているため、雀にちなんだ諺なんかもかなりある。

たとえば、”雀百まで踊り忘れず(幼いころ覚えたものは忘れない)だの”雀の涙ほど(ほんのちょっぴり)””雀の足跡、雀の踊り足(自分のように字が下手なこと)”など、、、、

また、小鳥の中では基準になっている鳥で、雀を分類学上で区分けすると、「スズメ目 スズメ亜目 スズメ小目 スズメ上科 スズメ科 スズメ亜科」と上から下まで全てスズメである。

このスズメが、薄の枯れ野原から一斉に飛び上がった。数にして百羽はいたのではないだろうか、余ほど美味い餌でもあったのか一部が飛去ったものの、残りは少し離れた所のススキに群がり止ったまま自分の様子をうかがっている。

もし何かの拍子に一羽が飛び立てばみんな盲目的についていこうと身構えている。何かの拍子が何であれ、先生の鞭の一振りを待っている、、、、、、こんな所はマスコミに踊ろされている人間によく似ている。

長年、人のそばで生活していて、苛められたのが遺伝子となって残っているのか警戒心は強い。ヨーロッパで見た雀、日本の雀と違ってほっぺたの後ろに「ノ」の字に似た模様がないので、少し種類が違うかもしれないが、ベンチに座っていると餌をねだって手のひらにまで来るのとは大違いである。

スズメは雑食性で、米なども食べるところから害鳥としてつかまえた所、虫や雑草が増えて逆に収穫が落ちたという話も聞いたことがある。

そのほかに、廃墟となった村にはスズメが居なくなるということもあわせると、スズメのほうでも人がいないとやっていけないということなのだろうか。

昔中国で「燕雀いずくんぞ 鴻鵠(大きな鳥)の志を知らんや」とのたもうた陳勝なる人が居た、また「雀の千声 鶴の一声」など小さいだけ、ふんだんに見れるだけで馬鹿にされてきたが、大きい鳥はそんなに物事を考えているのだろうか。

アメリカのイラク政策にそんな思量があったのだろうか、ただ顔色をうかがって盲目的に従ってきた日本の鶴(日本のマーク)は、千の雀の声に対してそんなに偉かったのだろうか。    なんちゃって。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月 6日 (火)

とにかくあったかい

Img_0059_2 あったかくなるとは言っていたが、本当にあったかくなった。

普段なら、「春とは名のみにて、、、」なんて書き出しで手紙を書かなきゃならないはずなのに、4月並みの気温だって、おかげで、梅は一斉に開いてしまって、山辺に咲く花は桜と見間違うばかりに艶やかに色づいている。

上の写真は、毛虫ではない柳の花なのである。銀色のネコネコオンボから黄色い小さな花を開かせている。

もうすぐは~るですね。なんて言っていると置いていかれそうなので慌てて咲き出したというカンジ~(このごろ物事をはっきりさせずに語尾にカンジ~というのを付けるのがはやり)

Img_0074_2 そして、家に帰ってくると、桜草に蜜蜂が蜜を集めにきていた。しかし、桜草という奴は色が綺麗だが蜜も花粉も少ないらしく、せっせとあちこちを訪問しているが足に花粉も付かないし、蜜も無いと見えてすぐに他の花に移っていく。

なんか、豪邸の立ち並ぶ所へ集金に来たのに、どこも手持ちの金が無いからと言って門前払いを食わされている、営業の人に見立ててしまった。

第一生命が今年もサラリーマン川柳の応募から百句を発表した。

これも、今では20回となり、その時その時の世相を反映した風物のひとつとして定着した感がある。

いずれも、そうそうとうなずいたり、くすっと笑わせたりしたものがあるなかで、一番共感できたのは「おれだって 診断結果は チョイ悪だ」であろうか。

しかし、サラリーマンとしたことに原因があるかと思われるが、家族や、社内のことばかりで世間に対する風刺が無いように思う。

そのため、その時かぎりの句が多く、さて去年のはどんなのだっけと印象が薄いものになる。

古川柳に「役人の子は にぎにぎを よく憶え」「泣き泣きも よい方を取る 形見分け」なんてのはいまだに使われているが、こんなのは何万にひとつなんだろうな。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年2月 5日 (月)

四葉のクローバ

Img_0058_3 道端の青草の中足を踏み入れた年配の女の人が何か探していた。「なにしてるの?おとしものでも、、、」と聞くと「いえね、孫が昨日、四葉のクローバーを見つけると幸せになるって探したけど見つからなかったので、見つけてやろうと探してるだよ」とのこと。

「あったかね」「いやまんだひとつだけ、けんど探してるとあるもんだに、幸せもこんなに簡単に見つかるといいんだけんどさ」といって笑っていた。

今日は、気温も高くなるという予想だったが、午前中は雲が多く日が差さないためそれほど暖かい感じは無かった。やはり、太陽から直接来る輻射熱に勝るもの無い、気分まであったかくなる。

Img_0029_1 そこから少し行った先で、今度はジョウビタキが此方の様子をうかがっている、経済的排他空間に侵入させないように見張っている。

茎だけになったセイタカアワダチソウに両足を踏ん張り、そのいでたちは頭に銀色のしゃぐまを被り、胸から腹にかけてはオレンジ色、目から首背中へと黒く染め、羽に白い紋所をうってこちらを見ている。

なかなかダンデイな姿で、鳥の貴公子だという人もいるが、自分には鎧武者を想像する。

この鳥、縄張り意識が強いため、群れを作るということは無い、以前、山でトラックを駐車させ昼弁当を食べてていたら、サイドミラーに映る自分を侵入者と間違え何回も攻撃を加えていた。

小さな声でヒッ ヒッ ヒッと威嚇しながら、飛び来たっては突付くが、鏡の中のジョウビタキも同じ行動を繰り返すので、困惑している様子が見えて面白かった。

しかし、つぐみ科のこの鳥もあと少しで、北の国に帰り繁殖するそうで見かけることが出来るのもあと少し、送別会でもしてやろうかと言ったら飛び去った

孤高の貴公子は、そんな招待を受け付けんもんだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 4日 (日)

中遠一巡り

Img_0010_3 本日は立春、海岸地方では波浪警報が出ているものの、空はきれいに澄み渡っている。

季語では”東風凍を解く”というが少し違って西風荒れるといったところか。

ということで、中遠をぐるっと回ってくることにし、国一バイパスを西に、金谷で下りて知り合いの家に病気見舞いをした後、牧の原台地に上がり、倉沢から菊川沿いに降っていった。

P1010053_1 倉沢では、まだ早いふきのとうを少しばかり採取し、東名インターを横目に見て国指定の重要文化財「黒田家住宅」によってみた。ここはインターネットによると今日から梅園の公開と、豆まきをするということだったが、豆撒きはすでに終了したとのこと、文化財の建物と周りの梅園を見て、浜岡砂丘にむかう。

Img_0013_2 浜岡砂丘の駐車場に車を止め、細かくて固まっていない砂に足をめり込ませ滑らせながら高さ7~8mの砂丘の上に立てば、天気予報が言っていたように荒い波が海岸に向かって次々に足寄せている。

足元の砂を踏んで見とれていたが、風と共に吹きつける砂粒に閉口して退き返して来たが、足元の崩れる砂と風に飛ばされる砂を見ていると、映画「砂の女」が思い出される。そういえばこの近辺で撮影したようだが、、、、

Img_0023 それから近所の日帰り温泉を考えた。近いには大東町の風呂だが帰り道としては今は牧の原市となった「子生まれ温泉」なのでそちらに向かう。 (子生まれ石の発生する斜面、地質的にはなんの不思議もないけれど、、、)

子生まれ石に挨拶をした後、温泉の駐車場に入れたが、ほぼ満車。

この温泉は、源泉のみで加熱も水足しもしないことが自慢であちこちにそのことが張り出されてあった。午後3時近くまでここで過ごし帰ってきた。

今日4時半から、NHKで「熱血オヤジバトル」と言うのを放送していた。平均年齢40歳以上のオヤジがバンドを組んでの演奏大会というので見ていたが、かなり面白い番組だった。

いろんな事情で、いまオヤジといわれる40歳くらいから60歳くらいまでの人が演奏していたが、本当にみんな上手だった。技術的には自分には分からないが、いろいろな事情で中断していた人が集まってつくったようだ。

しかし、見ていて気付いたのは、この年代はロカビリーやその後のフォーク世代で楽器が普及し始めたとき青年だった世代であることだった。

自分らは、その10年ほど前の世代だから、楽器は高嶺の花、声だけがしかなく、アコーディオンを中心に歌う「うたごえ」世代なのである。

今日の静岡新聞の日曜特集「集団的自衛権を考える」を見ても、七十台の男の2人は自分の体験などをもとにあいまいにされてきている憲法解釈を慎重に検討し理解したうえでと言っている、そして、五十代の2人は戦わずに国際貢献は出来るとし、二十台から43歳までの3人は当然と綺麗に色分けされた答えを出している。

オヤジバンドと自衛権問題。この二つを見ても人は育った時代に大きく左右されれると言う感を再認識した。

一方各地に散らばり日ごろの行き来も無くなった同級生が、遠方を厭わずせっせと集まってくるのは、同じ環境で育ち同じような考えを持ったもの同士が心置きなく話せる場所が、楽しいと感じるせいなのだ、ということを気付かせてくれた

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年2月 3日 (土)

おには~そと

Img_0071_2 ふくは~うち おには~そと

どこか近くの家で子どもの甲高い声が聞こえる。我が家では、つぶやきに近い小さな声で自分が鬼は外 鬼は外と玄関から外に向かって二度言って、パラパラと小さく撒いた。

写真の鬼の土偶は、10年以上前になるか、浅間山の向う”鬼の押し出し”に行ったとき買ってきたものだった。

この、お面が恐いといっていたころ孫は、豆まきを大きな声でしてくれたが、順次、恐くなくなってから頼んでもに来なくなり、家の豆まきは自分がするしかなくなった。

昨年は、浅間神社、その前は平沢寺などと出かけ、今年はどこにしょうかと思っていたが、つい億劫になって一番近くの厄除け地蔵を久し振りへ行ってきた。

豆まきの後、年の数だけ食べるものと、小さいころから言われて来たが、顎に負担がかかって店売りの柔らかい豆でも数が多すぎて大変に思うようになった。

子供の頃は、父親がフライパンで豆を炒り、豆に少し焦げ目がついたところで砂糖を少し入れて表面を甘くしたのを分けてくれたが、そのころは年の数ではとても足りなくて倍も三倍も欲しくて、親の目を盗んでは(親は当然承知の助だった)手を出したことを憶えている。

Img_0074_1 夕方になって、少し外に出かけてみた。何か妙な色合いの物があるので近寄って見ると、鳥脅しためらしい古いデイスクが太陽に反射し七色に分けた光りを放っている。

「ふーん こんな反射の仕方をするんだ、溝のせいなのだろうか、、、」一寸考えてみたが分からない「まッいいか」

人間には可視光線といって色が見える範囲があり、それ以上に波長が長かったり、短かったりすると赤外線、紫外線といって見えなくなると聞いた。

しかし、動物や昆虫によっては可視光線の範囲が違っていて、人が見えない色を見分ける能力のあるものがいるという。

とすれば、自分が古デイスクの反射を見て始めて気付いた現象を、普段から鳥などは見分けていて、脅しが効いていたのだろうか、こんな色でキラキラしていたらやはり驚くだろうか、花と間違えて寄って来るんだろうか。

農作物を食べられないように、とりは~そと むしは~そと、となっているのかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 2日 (金)

緋寒桜と夕焼け富士

Img_0065 朝の気温は、静岡でも氷点下になったようだが、風もなく体感温度はそんなに低くなかった。

午前中は、知り合いの家の引越し準備と少しばかりのものを運搬したが、少し運んでいるうちに汗ばむくらいの陽気になり、着ている上着を一枚脱がなければならいほどの陽気になった。

午後は女衆だけでよいとのことだったので、毎年の例になっている由比~興津の花見をかねた散策に行ってきた。

由比駅から4kmほど街中を歩いて、倉沢からダラダラの登りに入る。このあたりも地すべり工事で毎年のように来ていたところなので懐かしさ半分の散歩道。蜜柑を一袋買い求め、ジュース代わりに食べ歩き、、、、

1時間弱で、峠近くの駐車場に来て見ると駐車場は満杯、毎日サンデーらしい人でいっぱい、さらにかき分けて進むと、観光会社が連れてきたらしい、カメラおじさんが身支度もハイカー姿に上から下までバッチリと決めて約30人が展望台付近でカメラの方列を敷いていた。

みんな、一眼レフのデジカメを高い三脚に据付け、「どうだ 高いぞ~よく写るぞ~」とばかり見せびらかして(ひがみ根性丸出し)いて、自分のカメラなんか出しにくい雰囲気が漂っている。

眼下の駿河湾は風もなく波ひとつ立っておらず、青黒く静まり返っている。富士の周辺には、わずかな雲があるだけ、その雲が丁度いいアクセントになっている。日没は五時十七分と聞いているので30分ほど時間はある。

Img_0049_3 緋寒桜の咲き具合を見に行くと八分以上の開花。桃色に染まっている中で、目白が人なれしているらしく群れを成して花蜜を吸い、花びらを地上に落とし始めている。

昨年に比べて、かなり早いのではないかと思う、そしてここでも十数人が展望台同様にいた。

Img_0016 Img_0067_3 日没はやがて山を染め、清水港と上空の雲を赤く染め始めた。約10分ほどか、次第にねずみ色が強くなったので興津駅に向かうことにした。

今日は、満月。もう少しするとダイヤモンド富士のように富士山頂から月が昇るのだと、胸や帽子にワッペンをつけて人が話し合っていたが、懐中電灯も用意していない身としては、早々に薄暗くなりかけた細道を降ることにした。

興津駅には、6時過ぎに到着。すでに町は灯火の渦になっていた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月 1日 (木)

ヤマカンで

Img_0008 今日は、一日冷たい風が吹きまくった。冷たいといってもせいぜいが例年並だろうけど、、、。

しかし、陽だまりの中花全体が真っ白なナルシスが、少し顔を上げて自慢げな顔をし、花虻に愛撫させていたので写真にしてあげた。

子供の頃、周りに犬や猫が不思議といなかった。

戦後の食糧難の時代で、飼うだけの余裕が無かったためかもしれない、ひょっとしたら捉まえて食べてたかもしれない。(実際に闇汁で食べた肉が猫だった、と後で聞いたことがある、闇汁については何時の日か、、)

そのため、高校受験のとき泊まった宿の塀の上で、猫の恋歌を聴いたときは「なんだこりゃ~」だった。

Img_0014_2 猫がこんな大きな声で長鳴きすると知らないものだから何が鳴いているか分からないし、不気味だった。

近くに魅力的な雌猫がいたらしく何匹かで交互に鳴き、ある時間がたつとギャォッ!と喧嘩して屋根を走り回る騒々しさはかなりのものであった。

しかし、宿の人は勿論、近所の人も何の反応も示さないまま一夜が開け、寝つけなかった自分は、眠い気持ちのまま受験会場に向かった。

いまでも、猫の恋歌を聞くと当時を思い出す。

今日は、静岡の私立高校の受験日だとのことだが、まだ、近所の猫は小さな声でしか鳴いていない。

受験といえば、今ではかなり加熱し、複雑になり、一に勉強、二に願掛け、三にヤマをかけ、四に鉛筆ころがしとなるのは昔から変わりない相場であろう。

ただ、自分のころは学習塾(塾はそろばんだけ)なんて無い時代だし、早寝早起きの時代だったから、家族が九時ころ寝た後まで勉強はしたことがなかった。そのため、三、四が本命だった。

そうして、三が外れたら、四しかなかったが、皆がそうだったので(周りだけかもしれないが、、)そんなに苦にならなかったし、学校が身体が丈夫そうなのを主体に選んでくれたおかげで、なんとか形が付いた、、、。

ところで、「山を賭ける」というのは、江戸時代以前に金や銀、鉛など地下資源を探す、いわゆる山師が経験と感に頼って「一か八か」の投機的な冒険をすることからきている。そのため、山師のことを「千三ッつ屋」(千のうち三ッつしか本当のことが無い)という仇名さえあるくらいである。

現在のように、科学が発達した世の中でも鉱山開発は、「ヤマカン」を元に頼り、試験のたびにこの言葉は使われている。

自分も、ヤマカンが当たったせいで鉱山に入り、アンデスの山まで出かけ鉱物資源の調査をし、こちらに来ても、山の中に入っての仕事が多く”山を賭ける”の一端を荷なったのは、全ての出だしが山に関係していたことにあるのだろうか。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2007年1月 | トップページ | 2007年3月 »