久能山 東照宮
昨夜の小雨、朝方のきれいな月にもかかわらず靄がかかってなんだかぼんやりとした一日になった。
ひさしぶりに久能山東照宮に行ってきた。途中で財布を持ってこなかったことに気付いたが下から登る分には、、、「ま いっか」
昨年は登っていないので足掛け3年ぶりとなる、前回は参道の工事などをしていたため、索道が張ってあったりでなんとなく騒がしく、また、邪魔になる木を切っていたりで落ち着かなかったが、今日はそのときの傷もいえて静かな山に戻っていた。
そして、今が丁度藪椿の見ごろである。山麓にある梅林は、少々食傷気味なのと木が若いので、満開ではあったが、ただ「咲いているな」という感触しかなかったのに比べて、すこし薄暗い中に真っ赤な花がポツポツと花開き、下には一重の血のような花びらを散らして、幽玄といったような世界を広げていた。
また、椿の蜜を吸いにメジロが集まり、その下では落ち葉のなかに虫でもいるのかシジュウカラ、ヤマガラ、そして暗くてはっきりしない藪の中を鳥が交互に来ていた。
この土地は、7世紀というから飛鳥時代になるか土地の豪族久能忠仁によって開かれた寺だったと伝承にあるそうだが、7世紀の日本といえば仏教伝来してまもなくのころであり、そんな時代にもうこの地で、と考えると不思議な気がする。
また、武田信玄によって城として改築したとあるが、参道の石垣はすべて切り石の石垣であり、チョックラチョイとは築けないものである以上、お寺の時代に積んだものか、東照宮になって積んだものか、そしてここにも、例によって実在した可能性の無い軍師”山本勘助の井戸”なるものがあり、東照宮以前はほとんど昔話なんだろうなと推察される。
しかし、三方崖に囲まれたこの位置で井戸を掘ったのは、あてずっぽうなのか、なにかの根拠に基づいていたのかは分からないが、井戸に関する仕事もやってきた身にとって考えさせられる所がある。(案外万一の時の抜け道のつもりだったかも、、)
古いむかしからの信仰の場所としてあったのなら、水は必要不可欠なもののはずだから、その当時はどうしていたのだろうか、天水だけで間に合わせたのだろうか。そして、お金を入れれば中が覗けるらしいのだが、今日は文無しそのままで社務所前まで来る。
見下ろせば、久能海岸沿いに灰色のビニールをかぶせた石垣イチゴの温室がいく筋も平行に伸び、波のない海は靄との境目もわからずにきえている。
観光客も4~5人しかいない。風もなく暖かい静かでのどかな散策を楽しんできた。
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コメント
takaさん
やはり、だれでも仕事がらみのところを注目するものなのですね。
それと、千社札。言われてみると確かに暴走族の落書き同様なところがありますよね。
「なんとか参上」っていうのと、勿論許可を受けていないのも同じ、後は手書きか印刷かだけですから。
投稿: オラケタル | 2007年2月10日 (土) 21時32分
こんばんは。
私も昨年11月だったと思いますが、『勘助の井戸』
周辺を徘徊してまいりました。
その時は子ども達も同伴だった為ゆっくりは出来ませんでしたが…
私もやはりあの立地条件での井戸に少し疑問を感じていました。
他に気になったところは、仕事柄でしょうか、足元が腐ったので修復されたのではないかと思われる、井戸の屋根を支える柱が金輪継ぎと言われる継ぎ手でたいへん丁寧に職人さんの手をかけて補修されていたことが印象深いです。
あと天井に千社札が所狭しと貼られていたこと(私としては不愉快)が気になったことを今思い出します。
変なコメントで申し訳ありません。
投稿: taka | 2007年2月10日 (土) 20時33分