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2007年3月31日 (土)

地獄の釜の蓋

Img_0160 金襴草、金瘡小草とも書いてキランソウと呼ぶ。

典型的な雑草のひとつという人もいる。私もこの草はほとんど他の草の無い崖や畑で見ることが多いので先駆植物のひとつのように思える。

キランソウの「キ」は古語で紫を意味し。「ラン」は「藍」を表すと言う。草は鋸葉に小さな棘があり、地面を這って茎を伸ばすため土ぼこりが付き、埃まみれの中に名前の通り深い青の花を咲かす。その様から金襴と名付けたのだろうか。(これでも上の砂埃を払って見栄えをよくしてから写した)

また、この草は、薬草として利用されているため「金瘡」と書かれたのかもしれないが、別名を「地獄の釜の蓋」という恐ろしい名前を持ち、子供の頃はこっちの名前で知っていた。

土の上に、金襴を敷いたように、この草だけが広がって花を咲かせている。この草を持ち上げるとその下に大きな穴が開き、そこから地獄が見えるとしたら怖いものがある。

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ちかごろ、「やっぱりそうか」という新聞記事をよく目にする。

一連の、電力会社の事故隠しから、3月末までに総点検し、報告するように指示された結果、臨界事故隠し、検査妨害、をはじめ深刻な事例が数限りなく出され、超大型企業、地域独占企業と言われる電力会社の信頼は地に落ちた。そして、これで、全てが出きったかどうかさえ分からない状態であると、当事者は言う。

また、靖国神社に戦争犯罪者を合祀することに国が積極的に関与していたことが明るみに出、憲法で定めた政教分離に抵触するのではないか。というが、首相は問題ないという。問題がなければ何故初めから公開しなかったのか、、、、そもそもこれらのことは以前から噂話としてあり、胡散臭い面があった。

この調子では、非核三原則もいずれの日かそうでなかった事が、公開される日が来るだろうし、他にも国民に隠して事が進められていることがかなりあるのを予想される。

いまのところ、キランソウで蓋をしているが、いずれのそのうち蓋が開けられ、地獄の底を見る日が私の生きているうちに来ないことを祈る。

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2007年3月30日 (金)

イタンドリ

Img_0157 イタンドリが芽を出していた。

子供の頃、板取(イタドリ)をこう読んで、茎の太いのを選んでへし折って、皮をむき、おやつ代わりにそのまま食べたものである。

久し振りに、食べてみた。シャキシャキとした歯ごたえの後、口の中に顔が曲がるほどの酸っぱさが追いかけてきた。こんなに酸っぱかったかなと言うのが感想である。

この板取の太い、若い茎を採って来てつぶし、熱湯をかけてあくを抜き、煮付けにしたり、ごま油でいためたりして食べたものだった。蕨やあずきな、こごみ(クグミと言った)と共に春の山菜のひとつであり、簡単に大量に取れるところから、よく食べて戦後の食糧難の時代を支えたと思っている。

なお、ぜんまいはあく抜きをした後、灰にまぶし乾燥させながらよく揉んで冬に食べるが、高い値段で売れるところから、換金山菜として貴重なものでなにかの行事や葬儀の時以外、あまり食べる事は無かった。

また、若いころ聞いた話だが、板取やスギナは酸性土を好む所から、金気草(カナケ草)と呼ばれ、江戸時代の山師はこの草のあるところに地下資源が有ると言って山奥の谷筋をかき分けて歩いたいう。

そして、この板取が、スカンポというのを知ったのは、ごく最近。

Img_0063_1 唱歌に”土手のスカンポ ジャワ更紗 昼は蛍がねんねする、、、、”と歌ったころは酢葉(スイバ)のことだと思っていた。土手にスイバが密集して赤っぽい地味な花を咲かせている様を勝手に想像していたわけだが、思い込んでいると調べたり聞いたりということが無いので誤解はいつまでも続き、、、あとで恥をかく。

名前の出所は中空になっている茎を折るとき、スッポンと音を立てることに由来すると言う、ちなみに”板取”も痛み取りから来ているという説があるらしいが、漢字の当て字にしては随分と違うじゃん。

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追*  08年5月13日、由紀さおりが”笑っていいとも”で酸葉(スイバ)をスカンポだと長野の人に教えられたと言い、コップに入れたのを見せていたが、PCで調べてみてもスイバ説とイタドリ説がありどちらとも言えないようだ。

自分も当初はスイバとばかり思っていたので、この際特定しないほうがよいのかもしれない。 

       

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2007年3月29日 (木)

甘夏を貪るヒヨドリ

Img_0111_1 先日知り合いから貰った甘夏の食べ残し、一部に腐りが入り始めたため、半分に切って庭木に刺した。

最近メジロもヒヨドリも来ないし、どうかなと思っていたが早速ヒヨドリが来て啄ばんで、というより貪り食うようにして食べている。それにしても目で見たのか匂いを感じとったのかすばやい行動である。

よほど、腹が空いているのか、いままでなら人の気配を感じただけで、甲高い鳴き声で抗議をするようにして飛び去ったのに、夢中になって食べている。

メジロは、咲き出した花の蜜のほうが良いらしく、近所の満開の桜の花の中に20羽以上も群れているのを見たが、幾分酢っぱみのある甘夏のほうに寄り付く気配はなかった。

生き物はこれからの繁殖に備えて、栄養分を大量に取っておかなくてはならないので大変なことである。

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Img_0003_2 上の写真は、一つのタンポポに花虻と共に頭を深く差し込んで蜜を吸う蜜蜂、蜜を集めるのに集中しているためライバルを蹴散らす暇が無い。そして、花粉まみれのジガ蜂?、こんなに花粉を被ってお先真っ暗とでも言いそうな雰囲気が面白かった。

人間がこんな状態になったらなんと言って叱られるのか。

とにかく忙しい、いそがしい~

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2007年3月28日 (水)

熱海 MOA美術館

Img_0020 天気予報が言うまでも無く、今日のポカポカ陽気は朝から補償付だった。

渋滞の車の窓から見る富士の辺りは、頭上にさえぎるような雲も無いが、春霞が立ちこめ富士山がぼんやり見えるだけ、愛鷹山や箱根方面はもやの中に沈み込んで全然見えない。

ラジオは、昨夜亡くなった植木等さんの追悼番組みたいに、ずーっと彼の歌を流している。60年安保の虚脱感の後、深刻ぶっていた若者の頭をかち割るような明るい調子の歌声。”サラリーマンは気楽な家業ときたもんだ、、、”には少々驚いた。以下、次々と飛ばすヒット曲は世に受け入れられたが、決してそんな調子の良い会社員に「なれたらいいなあ」と思っても、なろうとした人は少なかったはずである(勿論仕事は出来ないくせに胡麻すり、お調子者はいたが、、)。

そんなラジオを聴きながら、渋滞にもまれながら熱海に向かう。

理由は、先日地元新聞社の静岡紹介ホームページ、at-s.com(アットエス)の「漆芸会の巨匠 人間国宝 村田権六の世界」の招待券進呈コーナーに応募して当選したためである。

くじ運の悪い私にしては稀有のことである。いろいろ調整して、出かけることにした。実は、村田権六という人がどんな人だかは知らなかった、ただ、MOA美術館に一度も行っていなかったので、見てみたいと言うのが本音。

二時間半かけてようやく美術館に到着。

早速入館し、エスカレーター三基をを乗り継いで上へと上がるのだが、照明の加減で、アーチ型の天井を持つトンネルが変化し、最上階のドーム型天井(写真上)を見ながら昇るのは幽玄の世界と言った感じだったし、熱海の海岸付近を見下ろす景色は絶景で、うまい所に用地を獲得できたものと感心した。

Img_0004 さて、展示室は照明を落とした中にいろいろと聞いたことのある人の名作が陳列されているが、教養の無さが邪魔をして憶えきれない。そして、どこの美術館でもそうだが次第に早足になってしまい、なにがなんだか分からないなくなって通過する。

なかでも、国宝と言われる光琳の「紅白梅図屏風」を是非見たいと思っていたが、この先か、この先かと思っているうちに出口に行ってしまい見ることが出来なかった。

また、松田権六の作品については、綺麗なそして繊細、精巧な漆細工なのだろうが、手にとって見られるわけも無く、ガラス越しの作品はプラスチックのの製品に見えて仕様がなかったし、蒔絵の箱の類は何に使うのを目的にしたのか想像してみたが分からなかった。これらは、全て下流階級の私には縁が無かったためなのだろうと思う。後は帰ってからパンフレットなどを読み返して理解するしかない。

Img_0042_1 Img_0039_4   帰りは、姫の沢公園により、カタクリ、三つ葉ツツジ、桜、辛夷などを見、函南のオラッチェによって遅い昼食を食べ、沼津魚市場で買物をして帰る。

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2007年3月27日 (火)

射干を探して

Img_0183 10日に一度、きょうも歯医者で口の中をかき回された。

治療の時間も早かったので、その後、どんどんと南下し、三松のお寺の脇を通って沓ヶ谷を上り、尾根を下って県護国神社に降りた。

護国神社には、年に何回か散歩コースの一つとして立ち寄るが、昭和17年軍国主義華やかなりしころ、ここに移転したと言うから、まだ65年くらいしか経っていないようだ。

広大な敷地とその後ろの森は、この時代だから取得することが出来たのか。椎の木、樫の木などを主体とした広葉樹の植樹で、もともとの自然林と見間違うばかりになっている。

Img_0176_1 Img_0177 本殿の両側、玉垣の後ろにに毎年、射干(シャガ)が綺麗に咲いているので、「もう、そろそろだろう」と言うのが目的の一つだった。

シャガは、種が出来ない一日花。地下茎で広がっていくしかないのに、全国に広がっていると言うことは、古い時代、中国から持ち込まれ、繁殖は人の手を借りていたのではないかと言う説がある花である。

また、別名を胡蝶花というそうだが、優雅な名前を与えられたものだと思う。

行ってみると、予想通りの状況だったが、この花薄暗い所を好むため、フラッシュを焚くとのっぺりし、使わないと画面が荒れるなど、なかなか写真にしにくい花である。アップにして一輪ならいいのだが、集団になると纏まりがつかない。

ということで、上の二枚がようやく出来た。そして、傍には一重だが山吹が大きな花を広げていた。これは早い、この時期に咲いたのを見たのはは記憶に無いぐらい早いと思う。Img_0169

境内には桜が数多くあり、染井吉野はまだまだという状況だが、名前が分からない桜、赤いの白いの、花びらの落ちたの、これからのものと統一が取れないで、てんでバラバラの状態で咲いていた。

また、帰る途中、数少ない開花した桜の下で、だみ声が聞こえ、恒例の花見が行なわれていた。ウイーデーの午前、高齢者の集団ときては、TPOから言っても「チョッとチョッと」というとこだろう。

これから、本格的に咲き出すと、木の根方にブルーシートを敷いて、一部の人が占領することになると思う。その輪の中にいるときは分からないが、傍で見ている分にはあまり見栄えのいいものではないし、迷惑の限りである。

”3月は花見で酒が飲めるぞ”とか”酒無くてなんの己が桜かな”なんていう御仁には、本来花見の資格が無いのではないかと思うが、、、、私もやってきたので強くはいえない。

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2007年3月26日 (月)

てんとう虫のサンバ

Img_0135_1 やはり、昨日の能登沖地震は大きかったようだ。

金沢、富山に何人か友人知人がいるので、連絡のつく人には電話やメールをしてみたが、地震の少なかったところだけに驚いていた人が多かった。

エネルギーは阪神地震並みということなので、そうなんだろうけど、人口密集地でなかったこと、火事が出なかったことから、阪神に比べると人的被害は随分と少なかったようだ。

この地震を見て思ったのは、外国でなら早速略奪行為があっても不思議でないのに、そんな話を聞いていないのは日本ならではの美徳なのか、老人が多いところだけに昔風の人情味、風習が残っていたのだろうか。汚職や金儲けに走る一部のエライさんを除けば、日本もまだ捨てたものではない。

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さて、今日は風も雲もないため気温が上がり、20度を越しいよいよ春本番が来たようだ。

今度の日曜日に行なう、孫の進学祝の賑やかしに、草餅を作ろうと言うことで、閑人は蓬摘みに出かけた。

春の野は、山桜が満開になっており、菜の花が濃い香りをただよわせ、紋白、紋黄蝶はもとよりキタテハチョウ、ツバメシジミ(写真上左、上右、下左、下右の順)などが飛び出してカメラで追い回すのに一生懸命になって、主目的の蓬摘みはどこへやら、、、、。Img_0114_3 Img_0140_1 Img_0128 Img_0131_2

おまけに、足元には何時の間にやらと思えるほど、てんとう虫出てきてうろちょろしている。それならば、昨日テレビで見た、てんとう虫のサンバが見られるのかと、あちこちを探してみたら2組を見つけることが出来た。

Img_0123_2 「てんとう虫のサンバ」とは、てんとう虫が交尾する時、雌の上に乗った雄が体全体を左右に細かくゆすることを言うそうで、見ているとそのゆすり方は、本当にサンバのリズムに乗っているようだった。

こんなことは昨日まで知らなかった。大体、てんとう虫をそんなに細かく観察するなんてこと無かったから驚きであったが、写真にして見てもそこが映し出せないのがザンネン。

時間を見たら帰る時間を過ぎている。急いでつじつま合わせの蓬摘みをして御帰館。

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2007年3月25日 (日)

おごる平家は久しかった

Img_0069_5 先日来、蝶の数も増えてきてあちこちで見かけるようになってきた。

これは、ベニシジミ。春のベニシジミは赤っぽいと言う話だが、かなりくどい色をしているように感じた。

羽を広げたときの大きさは2cmぐらいと思う。花に止まらず枯れ草の上で一休み、また飛び上がって枯れ草へと移動していたが、蜜よりミネラルのほうが美味いんだろうな、この季節は。

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日本には古来、家紋という素晴らしいデザイン画があり、シジミ蝶ではないがアゲハチョウを紋所にしている家系がある。

Img_0097 アゲハチョウは、平安時代末期には平家の紋所として有名で、歴史の本を見ていたら昨日3月24日は山口県の壇ノ浦で源平最後の戦いがあり、平家が滅亡した日だとあった。

勿論、旧暦のはずだからもっと暖かい時期だったのだろうが、「水の下にも都がございます」といって主だったものは沈んだ。

その後、平家一族は各地に散ったそうで、山深い土地に平家の落人伝説を作ってきたあまり信用できない話だが、、、ロマン ロマン)。私の先祖の家もそんなところの一つだという人もいたが、決してそんなことは無い。

江戸時代まで街道筋だったところのはずだが、人々の通行が山を直線的に踏破した時代から、駕籠や牛馬を連れて、水平に歩くようになって廃れた道脇の集落になっただけである。

しかし、鎌倉から戦国時代にかけて飛騨北部を治めた豪族は、江間氏といい、アゲハチョウの紋所を持つ、そして、出自は伊豆韮山の江間の出身ではなかったかと言うことなので、もしそうなら、北条平氏の流れではないかと思う。

さて、壇ノ浦で平氏を壊滅させたはずの源氏だが、内輪もめが激しくその後たった三代で消えうせ、替わって平氏である北条氏にのっとられた。また、平清盛の弟? 時忠の子孫は時国家として能登半島で今でも続いている名家となっている事を考えると、歴史の皮肉さを感じさせるものがある。

昨夜来、大雨注意報が出て激しく降っていた雨も収まったと思った矢先、地面が揺れた。震源は、能登半島沖で強い地震があったためだが、平家滅亡を悼んでか、なにかの前触れか、、、、。こじつけて見たが無理がある。

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2007年3月24日 (土)

春一番の黄色い花

Img_0054_2 Img_0053_4 一昨日のヤンブシ登りの途中で、油瀝青(アブラチャン)の花を見た。

油瀝青とは変わった名前であり、正式な名前はかなり最近まで知らなかった。

この木は、黄色い花小さな花を密集させてポンポンのように、また、正月に作る花餅のように咲かせ、いまに時期しか目立たない木なので、どんな実がつくのかも気にしていなかったが、黒文字(クロモンジ)の木同様クスノキ科に属するため、油分が多く、そこから名付けられたと言う。

油と瀝青(コールタールを言う)を足した名前から見てもよほど油っぽい名前だが、皮や木、花からはそんな感じがうかがえない。

下の、写真は、サンシュウユ(左)とクロモンジ(右)の花であるが、よくよく近寄って見ないと分からないが、私にとっては、子供の頃、雪が消えるか消えないころ、春一番に咲く嬉しい花であり、今でもこの花を見ると懐かしい気がする。

Img_0010_5

Img_0027_3 そして、春の花と言えば猩猩袴(ショウジョウバカマ)。

Img_0017 あまり、日当たりの良くないじめじめした場所に群生して咲く花であり、どんな意味があったのか「キンパラ」と呼んでいた。

猩猩というほど赤くは無いが、この花も春先雪の解けたのを追いかけるようにして咲くので目立つ花だが後はどうなっているか知らなかった。

とにかく雪の多い山奥で育った者としては、清浄な雪に対して春先のじめじめとした土はなんだか汚らしく思えても、マンサク、アブラチャン、クロモンジなど黄色い花が咲き出し、ポカポカした陽気が立ちだすと、清浄と思った雪はうっとうしくなって、畑に残った雪に灰を掛けスコップで突っついて溶かす作業に入ったものである。

去るものは日々に疎し、の自然版。

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2007年3月23日 (金)

サクラも気を使ったか

Img_0061  母子草がやっと咲いた。春の七草の一つ、御形(ゴギョウ)として知られているが、めったに食べられることは無い草の一つである。

”やっと咲いた”というのは、これも暖冬のためか昨年末の古株が枯れないで残っていて、春に先駆けてとうを立て花らしきものをつけるのだが、先端は枯れたような茶灰色のものしかつけなかったので、本来の黄色く密集した花がようやく咲いてきだしたと言う意味である。

Img_0062_2 老いても尚 なつかしき名の 母子草   

                 高浜虚子

母親と言うのは、子どもにとってやはり特別なものが何時までもあるもの、それに比べると父親はさびしい。

草にも、父子草というのがあるが、此方の花も何時咲いたか分からないほど地味でさびしいものがある。

今朝は、九時から市役所前の青葉公園で井川の朝市があると言うことなので、山葵の花を買いに自転車で行ってきた。

その途中、城跡の駿府公園を突き切って行ったのだが、もう静岡祭りの準備らしくテントの設営などをあちこちで始めていた。

サクラの蕾も赤くなり膨らんでは来ているが、まだ、開いたのは通りすがりでは見えなかった。この調子では丁度祭りにあわせて、満開になるのかなという感じ、、、、。

「3月13日、全国に先駆けて開花します。」と言った、静岡気象台のチョンボは今後しばらく語り継がれることと思うが、修正したはずの開花宣言もまた遅れるのは、サクラのほうが祭りに気を使ったのか。

どちらでもいいが、いちいち開花宣言や梅雨入り宣言などしなくてはならない気象台、またそれを煽り立てるマスコミ、そしてかく言う私と、、、

今日は、もう一つ花を載せる。

Img_0070_2 この花は、雉筵(キジムシロ)という。今日のようにポカポカと暖かくなり出すと咲き出す花で、平たく横に広がって黄色く明るい花を咲かす。

夏になるとかなり高い所にまで花を咲かせ、浅間山の2千メートルくらいの所でも見た。

Img_0065_2 ここ麻機沼近辺でも、鶯に続き雉の声も聞こえだしたが、こんな花を胸の下に敷いて啼いているとしたら、、、、、、、、、、いっぺん見てみたいものだね。

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2007年3月22日 (木)

富士はやきもちやき(山伏岳2,014m)

Img_0030_1 三時間もかけて頂上に着いたのに、「まず最初に見てくれなかった」と富士山は御簾の陰に身を隠したまま、40分待っても出てこなかった。(雲の形が怒っているようにも見える)

朝6時過ぎに家を出て、西日影沢の駐車場に車を入れたのが、7時少し過ぎだった。先客は他県ナンバーの車が1台あるのみ。(結局この車の主と会うことは無かったので気味悪かった)

昨年秋に登ろうとしたら、駐車場のすぐ傍で自殺騒動があり。以来、近寄っていなかったが、雪のあるうちに登りたくて、やっと来たと言う感じの山登りになってしまった。

駐車場から、中間点と思える”蓬峠”まで一時間一寸。ここから山の様子が少し変わり、山道沿いに人に踏み固められた圧雪や凍ってしまったところがあちこちにあり、靴蹴飛ばしても壊れないので、足の置き場が無く困った。

Img_0023_2 さらに上、1,700mくらいから雪の量も多くなり、山全体が全て雪の上状態になると、斜面はゆるやかになり百畳峠からの道と合わさる。

その後、10分あまりで山頂につくのだが、ここまで木の間越しに富士山は機嫌よく裾に少し雲をまとった状態で見え、大谷嶺も崩れを正面にして垣間見えた。しかし、写真にするにはどこも前の木が邪魔をしてうまくいかない。

Img_0034_3 ようようにして、頂上間近、”ヤンブシ”(山伏をこの辺りではこう言う)名物の枯れた樅の木越しの写真となるが、あまり天気が良いので、最初に頂上へ行ってからゆっくりと写そうと思い、横目で富士を見ながら登る。

頂上に着くと、南アルプスがあまり綺麗に見えるので、少し眺めてから振り返ったら、冒頭に書いたように富士の周りは雲だらけ、びっくりしたね。

「まあ 時間もあるしそのうち晴れるさ」と早飯に入って、おにぎりを頬ばりながら富士のほうを見ていたが、雲が動かない。

30分を過ぎたころから、機嫌を取ってみたが相変わらず、風も出てきて汗をかいた下着が冷たく感じ始めたころあいを見て降ることにした。

富士山の神は古来、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)だといわれている。そのため、先に格下の南アルプスに気を移したのが、感に触ったのだろうか。

Img_0014_5 5分ほど下ったところで一時機嫌を直したかのように見えたが、その後はすっかり雲の布団を被ってしまった。一度壊した機嫌はなかなか戻すのは大変だと言うことは、経験上よく知っている。(写真は兎の足跡)

午後一時過ぎ、駐車場に戻り「黄金の湯」入って帰ったが、気になったのは、山頂で見た山伏岳の”岳”という字を全て壊したり、黒く塗りつぶしてあったが、誰の仕業なんだろうということだった。

「ヤンブシ」にこだわった者と思うが、壊してしまわなければならないほどのものだろうか、、、、、、情けない人がいるものだ。

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2007年3月21日 (水)

すみれの花 咲くころ

Img_0052_1 涙の数だけ 強くなれるよ

アスファルトに咲く 花のように

、、、、明日は来るよ 君のために

歌詞のように、舗装道路の上にすみれが咲いていた。

よく見るとほんの小さな亀裂に根を差し込んでいるらしい。昨年より前に種がこの亀裂に雨で流されてたどり着いたに違いないが、車に踏まれながら花を付けるまでにこぎつけたのは、千に一つ、万に一つの偶然に違いないことだと思う。

このすみれ、何とかすみれでなく、純粋にただ”すみれ”と言われ、下の写真のタチツボスミレと共に日本では一番見られる種類である。

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昨日、車の運転中に水俣病の1号認定患者になった。杉本栄子さんの対談を聞いた。認定のために起こした裁判の中で周りの人たちとの葛藤、そして、所有の蜜柑畑に農薬を撒けなかったために、無農薬蜜柑として売り出そうとしておきた周りとの摩擦を語っていた。いろいろと闘いの中で勝ち得た信念は、彼女の父の言葉と共に凄いものがあると感じた。

この年になると、一方で周りの人のことも想像でき、まるっきりのめり込めない自分も片一方にあるのだが、大企業と闘うにはこのくらいのバイタリティがないと50年にも及ぶ戦いが出来ないのだと思わされるものがあった。

そして、再放送だったが今日は、映画「サウンド オブ ミュゥジック」で有名になったトラップ一家の次女マリアさんの語りで一家の様子が語られていた。映画ではナチスドイツをを逃れてスイスに逃げ込み、全てハッピィエンドで終わっていたが、その後の生活がまた大変だったようだ。

ドイツ語しか話せない一家が、ドイツと戦争を始めたアメリカに渡って、生活習慣の違い、音楽に対する感じ方の違いのほか、周りから疑念(スパイ)の目で見られ、結局は日系人と同じように男兄弟をアメリカの軍隊に参加させなければならなかった。

しかし、キャサリン ヘップバーンが扮した育ての親マリアは、これもバイタリテイでいろんな苦難を乗り切ったことが紹介し語られていた。

この2日間いろいろ人生に対する話を聞かされたが、なまくらで軟弱な私にはいまさら、出来ないと言う思いと、彼女らが年齢には関係が無いことだというメッセージとが入り混じり、結局は安きに流れてしまう自分がいる。

Img_0069_3 最後に、日当たりの良い草地でぬくぬくと日差しを浴びているタチツボスミレを載せて幕にしよう。

「花の違いですか? 一番大きいのは葉っぱがハート型か細長いところです、、、、、」

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2007年3月20日 (火)

環境無視の整地 だいらぼう

Img_0008_1 むかし だいらぼうという男がおりました

富士山を作ると言って びわ湖の土を大きなもっこに入れてはこびました

大男は冨厚里のうえから 水見色の高山へ一またぎして歩きました

その時の足あとがあるので「だいらぼう」と名づけられました

木枯らしの森と下流の舟山は そのときもっこからこぼれ落ちてできたものだといわれています

(古びた休憩小屋に貼り付けてあった、だいらぼうの説明文から)

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地団駄を踏みながら冨厚里峠に向かっている。

今朝方の空は、標高千㍍少しの竜爪山が見えているので雲はそれより上の高曇りである。おまけに、天気予報も曇りときどき晴れとくれば、遠望は利かず山登りにはちょっとと言う雰囲気だったので止めて、近場の「だいらぼう」へ行って見ようと予定を変更した。

ところが、ところが雲がなくなってきたではないか。いまさらの感もあって変更地に行くことにしたが、、、、

Img_0009_6 久し振りの「だいらぼう」に来てまたびっくり、前に来た時には杉木立の中 見通しは出来なかったが、大きな足型のじめじめした窪みがあり、いかにも伝説の巨人の足を思わせたが、すっかり周りの木を切り払い、ツツジや梅、桜を植樹している上、切り払った杉を運び出すのに作ったのだろう足型の窪みに砂利を入れて埋め立てて、味わいも趣きもあっけらかんとなくしている。

将来、この地をどんな場所にする積もりかしらないが、高さ60センチ程度の小さな植木がもともとの椎や樫、クヌギでない以上、元の山に戻ることは無い。これは、植生をかなり無視したやり方であり、ただ、山頂を公園化したに過ぎないのではないだろうか。     地団駄踏んで悔しく思う。

もちろん、足弱な人にここを見せたいと、自動車道路を開設する心は分からないではないが、あまり手を入れすぎてありえないものにしてしまうのは考えものではなかろうか。

いろんな人の意見を聞いての計画ならまだしも、役所の担当者だけの思い付きだとしたら、、、、、そんな気のする工事に見えた。

Img_0019_4 かてて加えて、「小さな親切運動静岡県本部」が銘石とともに、土佐ミズキを植樹していたが、これこそ”小さな親切 大きなお世話”を代表しているように見えたのは眇めか。

反対側に、長田南小4年の小さな立て札は桜の根方の陰にひっそりと置かれているのも妙に象徴的だった。

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2007年3月19日 (月)

揚羽蝶も追い出され

Img_0052 今日も今日とて麻機山の農道を歩く。

いたるところで、蜜柑山の消毒をしているようで農薬のにおいが鼻をつく、私には杉花粉よりつらい。と言ってまだスギ花粉には不感症なのだが、、、、、

その農薬に追い出されたか、今年の初のアゲハが姫踊子草を渡り歩いていた。さながら、農薬の霧にむせながら「あぁ~、酷い目にあった、ちょっと新鮮な蜜で喉を湿そう」とでも言ってるように、、、、、。

この蝶はアゲハ蝶の中の基本になるのか、頭に何とかはつかず、ただ「揚羽蝶」という。

蛹で冬を越すそうだから、新米の蝶なんだと思うがこれからどんどん出てきて蜜柑の葉に卵を産みつけ、農家とひと夏の合戦をするにちがいない。

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北陸電力志賀発電所の臨界事故のどさくさにまぎれるかのように、浜岡原発でも制御棒を取り落とした事故を発表した。中部電力は志賀発電所みたいな状態ではなかったと言うが、それをどこまで信用できるのだろうか。

Img_0123_1 富士山の周り、富士五湖の北側と西側にかけてグルッと外輪山のように山が取り囲んでいる。(写真、パノラマ台からみた、富士五湖北側の山)

これらの山に登った人は気がついていると思うがいずれも水成岩で出来ており、外輪山ではないことがわかる。また、それらの山には富士山の溶岩は来ていないし火山灰もほとんど見つからない。

替わって、東側の御殿場辺りは、宝永の噴火の際には2m余も積もり、江戸まで火山灰が飛んだと記録されているように噴火口の向きもあるが、西からの風の影響がおおきい。

前にも書いたが、もし、浜岡の原発が事故を起こしたら、チエルノブイリーを見るまでも無く、西風に吹かれて静岡市をはじめ、神奈川東京まで死の灰が飛んでくることになる。浜岡を中心に花火のように満遍なく散るものではないだろう。

死の灰を浴びてから「あぁ~ 酷い目にあった。一寸喫茶店に寄って、コーヒーで口直しを、、」なんていう余裕はあるのだろうか。

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2007年3月18日 (日)

きれいな花には毒がある

Img_0040_1 久々にきれいな馬酔木を見た。

きのう、蒲原町善福寺によく放送される、地元の小母ちゃんで運営されている蕎麦処があり、どんなものかと行った途中の山に見かけた。

遠目には別な花を想像していたが、近寄って馬酔木であることを知った。馬酔木は馬が食べると酔っ払ったようになることから付けられたと言うことだが、元来不味い木なので馬はおろか山羊、羊、鹿なども食べないので、馬酔木が群生している所は他の植物が食い荒らされている所、食害の結果だと言う説もある。

それにしても、この花は綺麗だった。庭先の馬酔木といえば肥料が効いているのかびっしりと白っぽい花が乗っているが、こんなに綺麗ではない。やはり、なんでも適度と言うことがある。

しかし「綺麗な花には毒がある」という言葉があるが、この馬酔木もそんなところがある、気をつけてかからねばならない。

そうそう、善福寺の蕎麦。天もり蕎麦を注文した。蕎麦は腰があって美味かったが、天ぷらはいまひとつと言った所か。天ぷらがもう少しぱりっと揚がっていてほしかったことと塩なり、醤油がないので聞いたところ蕎麦の漬け汁につけて食べるとのことだった。

たしか、喉元を過ぎれば一緒かもしれないが、天ぷら蕎麦でなく、天ぷらと盛り蕎麦を注文したのだから、その辺の配慮が足りない感じだった。

ということで、評判ほどのこともないというのが実感。

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さて今日は彼岸の入り、暑さ寒さも彼岸までとよく言われるが、春の彼岸は秋の彼岸に比べれば気温も低く、霜の害がこれから心配の種になる。

そして、今年は、雪が少なくて故郷の父母が入っている墓の周りも雪がないそうだが、自動車で6時間ほど離れているとなかなかおいそれとは行けないので、従兄弟たちに墓守を依頼して、仏壇の周りの整理だけで済ませてもらう。

南無 帰命頂礼。 いずれの時まで赦したまえ。

本日は連れもあって麻機沼の周りを花鳥をさがして逍遥する、これは此岸のたのしみ。

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2007年3月17日 (土)

ツバメも帰って春が来た

Img_0081_2 踊子草(オドリコソウ)白い花を茎の周りにグルッと付け、階段状に花房を咲かせている。

Img_0080_3 Img_0116_2 いまを盛りに、咲いている姫踊子草(写真右)に比べると背丈が大きく花のつけ方も違うので別種に見えるが、同じ紫蘇科に属している。

印象としては踊子草は祭りの踊子がかぶっている花笠に似ているが、姫踊子草は、集団の踊子が簪を挿しているように見える。

九時ころまで、シトシトと降っていた雨も止んだので流通センター北側の遊水地をグルッと一周して来た。

雨はあがったものの、空は暗くて低いし、道には水溜りがあって足元に注意をして歩かねばならない。

池に居る水鳥は、まだ、雨の余韻に浸っているのか、水に浮かんだまま動きは鈍い、と思っていたら、目の前を猛スピードで横切った小鳥がいた。

最近の鳥になく、直線的に舞う。見ると燕だ。「ツバメが帰ってきた」また、春がひとつ増えた。

ランニングの選手がゴールについた後もしばらくその辺りを走っているように、海を渡るというをこなしてきたツバメはこの時期、羽根を休めると言うことが少ない

よく見ると、五羽 十羽と見えてきた。子供の頃、こんな歌があったのを思い出した。

みなみから みなみから 

飛んできた来た来た渡り鳥

うれしそに たのしそに

富士のお山を ながめてる、、、、

あいにくと、今日は富士のお山を見ることが出来なかったが、いずれ富士のお山に対面して、その感想を”ちょっときかせてよ”でしめくくろう

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2007年3月16日 (金)

亀首会談

Img_0010 10日ぶりにまた口の中をかき回され幾分不快。また10日後にきてくださいと歯医者に言われて外に出たが中途半端な時間なので、城北公園まで出かけてきた。

染井吉野さんは、気象台の変更開花予想を忠実に守っているようで、蕾やや膨らむの状態を守っていたが、枝垂れ桜2本と大島桜は、俺たちは関係ないとばかりに咲いて、何れもメジロのつがいを食事に招いていた。

そんななか、池の中の岩にあがって三匹の亀が鳩首会談ならぬ亀首会談をしていた。

「おい、西部球団の裏金問題がばれたそうだぜ」「うん、北陸電力の原発臨界問題も隠していたのが分かったそうだね」

「お前さんもそろそろこの池のお偉いさんになるんだろ、記者会見で頭の下げ方を練習しておいたほうが良さそうだよ」「こうか、こんな具合でどうだろ、、」

そんなことでも話しているのではないかとつい想像してしまう光景だ。

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2007年3月15日 (木)

春はあけぼの

Img_0113_1 春は曙 やうやう白くなりゆく 

山際はすこしあかりてむらさき 

ただえる雲 細くたなびきたる、、、、、

徒然草の出だしのような朝を迎えた。ここしばらくスカッと晴れ渡った冬型の天気が続いていただけに、薄雲の広がった空は、二十六日下弦の月をおぼろに霞ませている。

P1010090 気温もそんなに高くはないが、いかにも”春~”という感じ、菜の花畑の向うも薄く霞んでいた。

毎年、今頃になると思い出すのは、卒業式に続く別れである。

私が、中学を卒業したのは昭和30年(1,955年)の春だった。同級生24人の小さな学校。鉱山の従業員の子どもばかりという、いま、考えればかなり特殊な学校だった。

当然、地元にはその上の学校もなく、働き口もないので卒業の少しあとには全員が親元を離れるしかなかった。その当時は、高校へ進学する者は半分も居ただろうか、半分は井沢八郎の"ああ上野駅”ではないが集団就職をした。あちこちの学校から集まった子どもたちは、その日から見知らぬほかの学校の卒業生と共に就職し自活し、親への仕送りまでした子もいた。

私は、幸い奨学金つきの高校には入れたので、親への負担が少なくなったことを単純に喜んだが、それでも4月からは見知らぬ人と相部屋の寮生活は辛かった。個人の財産は柳行李と布団だけ、机はなかったが、置くところもなかった。

それでも、こんなものかなという感じで不満はなかった。ただいまで言う五月病というかホームシックは前倒しできたのを覚えている。

就職した同級生も言っていたが、当時は、どんな仕事をしたいとか、自分に合った仕事なんて考えもしなかった。ただ、幾つかの就職口の中で条件が良い所というだけで、それも、どんな職種になるかなんて考えもせず、ただ言われるままに働いた。

中には、脱落したのか行方不明、音信不通の人もいるが、大半はその会社で腕を磨き、与えられた仕事に誇りを持ち、やりがいも見つけてきたことをたまに行なう同級会で聞く。

私が、就職した鉱山での仕事は、地面の下 真っ暗闇のなかで、削岩機で孔を掘り、火薬を使い坑道を掘削する過酷で危険な仕事だったが、生活のため辞めようなどとは思わなかった。それどころか、資格を取り、孔の掘りかたを自分なりに研究し、他の人と成果を競争することによって、やりがいを見つけていた。

どんな仕事でも、面白くなるのは3年5年以上たってからのこと、何事も辛抱せざるを得ない時代に生きてきたことが、いまになると幸せだったと思う。

自分に合った仕事、そんなもの初めからあるわけがないし、これと思った仕事もいざ生活の糧にしようとすれば生半なことでは勤まらない。こんなことを言うと「また古臭いこと言って、時代は変わっているんよ」って言われることは分かっている、、、、、、わかっているが、、なんだよ。

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2007年3月14日 (水)

辺りを照らすトウダイグサ

Img_0100

灯台草(トウダイグサ)、港の入り口などにある灯台をいうのかと思ったら、もっと前、部屋の照明に使った、蝋燭立てあるいは油を入れた灯明皿から来たものだと言う。

その名前の通り、陽の光りを奇妙に反射して、そこだけが縁から浮かび上がっているような感じは、まさに、燈台である。

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いま国会は、議員の事務所経費の問題でゆれている。質問をされている党も、している党もかなり杜撰なお金を使い方をしているようだ。

まさに、”守るも攻めるも鉄(黒金)の 浮かべる城(議事堂、首相)ぞ 頼みなる(どこが)、、、”であろう。(軍艦マーチから)

大体領収書が要らないお金ということ事態間違っていたのだ、これは、国会議員のみならず小さな自治体にも同様なお手盛り経費が認められている。自分の都合が良いように法律を作って、いい加減に使ってきたというのが実態であろうが、書き放題の基礎控除と言った感じがする。

おりしも明日で、確定申告の申請が終了する。それぞれが忙しい中時間を割いてすし詰めの会場に行き、なれない申告を済ませている。

毎年のように変わる弱い者いじめの「猫の目税制」の中、国にお金を取られるというような感覚で納税額を申告している。

年をとって、医療費もかさむが10万円を越えなければ、控除の対象にならない。会場でも、「タクシー代はいいけれど、自家用車で病院へ行ったのは駄目!」「社会保険所のから来た明細では駄目、領収書は薬局と医者の領収書以外は認められない」「どこかに無くしたのは一切認めないのでもう一回探して出直してください」と言われて、折角バスを使ってきたのにとオロオロしている年よりも居て、てんやわんやだった。

こんな人に比べて、なんと優雅な事務所経費なんだろうか。何かが間違っている、それが分からない特権意識を持った人が政治をやっている国は不幸だ。

国会議員などは人より見識があると認められているはず、何事においても辺りを照らす灯台のような存在でなければならないはず、それが、なんともはやあきれた存在、、、、

中国の政治家、故孫文は”天下為公”をモットーに大書したと言うが、そんな精神を先生と言われる”先生?”たちは、持ち合わせていない様子、、、、、、

あぁ~

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2007年3月13日 (火)

霜柱の竜爪山(1,051m)

Img_0014_4 朝7時半に則沢林道の駐車場に居た。

家から30分とはかからない竜爪山の麓は自動車積載の温度計は一℃を示す。今日も、気温は低いらしい。

静岡市内から見て、竜爪の山に三度雪が降ると春になる。と昔から言われて来たが、今年はまだ一度も見ていないうちに春になるらしい。

駐車場で支度するが、裏道、ウイークデイなどの条件のせいか誰もいない、前回はもう少し季節が遅かったので、着いた途端ミソサザイの美声で気分がよくなったものだが、今回は沢を流れる水音のみ、、、、。

則沢川源流の水を飲んだりしながら黙々と高度を稼ぐが花は、三椏が咲いているだけでなんにもない。かわって、霜柱の長いのが各所で見られる。

暗い土の上に白い霜柱もこんなにあると余計に寒さを感じる、たまに木の間越しに陽の光り差し込むとキラキラ輝き、中にはプリズムみたいに小さな七色を呈しているのもあるが写真にするにはなかなか難しい、近寄れば自分かかカメラが陰を作り、離れれば見えない。

Img_0017_2 約一時間で竜爪の頂上のひとつ文殊岳(1,041m)に到着する。頂上へあがって驚いたのは南東方向の杉の木が伐採されていたことである。前回も清水港の方向が伐られていていたが、さらに上乗せする形で綺麗さっぱりとした風景になっている。

確かに、眺めということから言えば良くなっているのだが、切り倒した杉の木がそのままになっていることが気になる。樹齢百年にはなっているような太い杉の木が、安い外材のため用無しになっているようだ。思わずモッタイナイ!。

この木を植えた人は、こんな風になるとは想像もしていなかったに違いない。私の思い違いならいいのだが、上り口にもかなりの間伐材があったので合わせて利用されることを祈る。

Img_0029_4 富士山と南アルプス、蕎麦粒山はすっきりと晴れていたが、伊豆半島は雲の下、照り輝く駿河湾に土肥方向に向かう船の航跡がうっすらと見え、愛鷹山は薄墨の彼方にある。(写真、雲の向うは愛鷹山、左のピークが越前岳、中央が位牌岳、右端が愛鷹山)

一休みの後、もうひとつのピーク、薬師岳(1,051m)から穂積神社からの三叉路までを往復し、九時半に文殊岳を降りだす。

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2007年3月12日 (月)

菜の花にとまれ

Img_0057 今日も今日とて風の強い日が続く。富士山周りの山も検討したが、一寸腰が重い(痛いのではなく気分が、、)こんな日は無理をすることはない、と裏の山めぐりに上がる。

富士山は今日も綺麗に見え、雪煙を上げているのが分かる。

この山の農道はどういうわけか風がいつも少ない、下の町並みで吹いていた風も収まりポカポカ陽気の中を北に向かって歩く。

Img_0077 今頃の、山は三日見ぬ間の桜ではないが次々と変化し、狂い咲きとしか思えぬツツジをはじめ、春の花が次々に咲き、ビワと梅は小生意気な実を付け出した。

また蝶も紋白蝶、紋黄蝶、紅シジミなどが飛び出してきたが、今年最初の卵を産みつけるためか、なかなか花には止まらず、柔らかい葉を探してとまるが、歌の文句のように、”菜の花に止まれ、、”とはならない。

四月になると選挙が始まるようで、私の住んでいる所では、県会議員と市長と市議会の補欠選挙と三つ重なるようで、ポスター掲示板が最近、三種類建てられた。

また、しばらく名前だけをがなりたてる喧しい期間がやってきて、一部新しい顔ぶれになるのだろうが、本人が選挙戦の中で言うほど仕事をしているように見えないことが、若い人の投票率を下げているようでテレビのインタビューにもそんな答えが多かった。

しかし、五十代以上の投票率もしがらみ(頼まれたから)で行くとしたら、それも、あまり評価出来ることではないように思う。どうか信頼できる人、次善の人を自分で判断して投票してもらいたいものだが、、、、。

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2007年3月11日 (日)

柳やそよそよ風しだい

Img_0045 紫華曼(ムラサキケマン)が咲いていた。

子供の頃は、その独特の匂いもあって好きではなかったし、袈曼とは仏具の名前だと聞いていたのでそれも、好きでない理由のひとつであった。(お寺関係というとすぐ葬式を連想して怖かった)

柔らかな、草の上に紫の花を載せ揺らいでいる姿は決して悪いものではないのだが、、、、、

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Img_0036 今朝方、はげしく降り続いていた雨も、西からの強い風に追いまくられるように東に去り、午後になると雲を東の空に押し付けたような感じの青空が戻ってきた。

久し振りに行った麻機沼には、北帰行で減ったのか、風を避けようと草むらに逃げ込んでいるのか水鳥の数が少なくなっている、そして、枝垂れ柳も強い風に吹かれて、横殴りのような状態になっていた。

毎日聞くニュースのように、春は次から次へと咲き出す花により、主役がつぎつぎと入れ替わり、ついこの間まで我が世の春を歌っていた梅は散り、ミモザも薄汚れた黄色になって、目立たなくなり消えていく。

次の主役、染井吉野桜を前にして柳が芽を吹き枝先に青みが増して風に流されている。まさに、”柳やそよそよ風しだい”と言ったところ。

折から首相は、任期中に憲法を改正(?)したいと意気込み。国民投票法案を与党単独でも採決し可決したいとまで言っている。

任期が短いのを見越して強行しようとしているのかもしれないが、憲法をどのように変えたいのか、そのことについてはっきりしたことが分からない。

憲法9条だけではあるまいと思う。あの人たちが言う「美しい日本」は、あの人たちが理想とする社会にするため、全てを作り直したいと願っているに相違ないのだが、はっきりした説明がないまま、北朝鮮の脅威などを理由に、ムードで憲法を変えたいとしているように見える。

いまの憲法のどこが悪い。実情に合わない、占領軍に押し付けられたというが、とにかく国の基本になる法律をそんなに急いで急いで作り変える切羽詰った事情が今あるのか。

憲法を変えてどこに行こうとしているのか、なにか裏があると勘ぐってしまうのだが、さて、何かあるのだろうか。

もっと分かりやすく、「ここはこうでしょう、あそこはああでしょう」という言葉の説明、検討が何故ないのか、私たちは、ただムードに流され”風しだい”で賛成することない様にしなければならない。後で悔しがっても追いつかないのだから、、、、。

書いているうち次第に興奮してしまうが、これも何なんだろうか、、、、、、。

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2007年3月10日 (土)

勝利宣言出してもいいか

P1010002 昨年改修工事を行なっていた巴川の支流にチュウサギが降り立った。

普段なら、池など比較的水の流れのゆるい場所で獲物を狙うのに、このときは瀬の半ばに立っていて、見事に獲物を仕留める所を見せてくれた。

最近では魚釣りもしていないが、岩魚やアマゴを釣った子どもの時の経験からすると、あわ立つ瀬のあたりに餌を振り込み瀞に流すと釣れたように思っていた。

したがって、川魚は水がゆるやかなところで流れてくる餌を待っていると思ったが、このくらいの流れなら瀬にも居るのだろうか。

それにしても、瀬の中にいる魚をどうやって見つけ、どうやって狙いをつけたのか、さすがに生活がかかっているプロは違うものだと感心した。

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さて、近頃流感の発生状況がどうなっているのか知らないが、私は風邪を含めて今年もかからずに済んだ。

そろそろ、連続30回目くらいの勝利宣言を出しても良い時期かと思う。それも、予防注射なしにである。

昨年秋に、「じいじ 65歳以上は予防注射も安くなっているなだから、打ったほうが良いよ」といわれていたが「今まで打って来なくても罹らなかったのだから、引いたら来年から打つよ。下手に打つと余計に罹りそうで、、、」と誤魔化してきたため、また来年も打たないで過ごすことになりそうだ。

静岡に来るまでは、両方ともちょいちょい引いていたはずなんだけど、ピタッと止まった。しかし、若いときに聞いた「年をとるとハ、メ、チン○の順で駄目になる」は当たっていて、ここ五年ほどの間に奥歯を中心に何本か抜き、いま何本かがぐらついてきたし、他も同様に低下している。

どこかで、予防注射に妥協しないと「年をとると流感に罹っても熱が出ないうちに重症化してしまうのだから、いい加減にしないとね、、」と引導を渡されている。

さて、今度の秋はどうするか。流感に罹ってタミフルうって妄動するか、熱が出るほど体力が残っていないのか。

そこが問題だ。

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2007年3月 9日 (金)

銀の匙

Img_0026_1 いま私の手元に黒くなった一本の銀の匙がある。

ペルーのリマで知り合いから友情の証にといって貰ったもので、1,923年のUN SOL 、つまり、1ソーレス銀貨を細工したものだという。

お椀状に丸められているのではっきりは分からないが、表には多分ペルーの国の紋章らしき刻印と裏には男の神さまみたいな刻印が打たれ、銀細工などが得意のかの国らしく、柄の部分にも複雑な模様が入ったものだ。

銀貨の大きさは、直径3,5cm、厚さ2mm程の物に12cmの柄がつけられている。

本物かどうかは分からないが、大事な記念品としてとってある。この人とは、その後しばらく拙いスペイン語で手紙をやり取りしていたが、いまでは、音信不通になり、消息は分からなくなっている。

そうして、時おり出して見ては、当時を思い出そうとするが記憶は次第にあいまいになり、写真まで引っ張りださないと顔まで忘れかねない。

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Img_0021_4 今日、羽鳥にある「中堪助文学記念館」へ行ってみてきた。当初の予定は、藁科川の真ん中にある「木枯らしの森」を見て来たいというのが、目的であったが、水かさが多く、右岸からも左岸からも近寄ることが出来ないため変更した。

中堪助という作家は、綺麗な文章を書くということで、知られた人らしいが、私が知ったのは静岡に来てからであり、その処女作であり代表作でもある「銀の匙」を読んだのは、ついこの間だった。

銀の匙は、この人の幼年時代を全編に少年時代を後編に持ってきたもので、夏目漱石らから高い評価を受けたという、昭和18年から5年ほどこの地で療養生活をしたことが縁で記念館が作られたと、管理人が説明してくれた。

入場者は少ないらしく、記帳してくれというので名前を記入したが、今日は私一人だけ、一応記念館の中を案内してくれたが、その中に、「銀の匙」の本と桐の箱に入った小さな銀お匙が並べられていた。

銀の食器は毒物に反応してすぐ黒くなると古くから信じられ、とくに、西洋の王侯貴族は銀のスプーン、フオーク、皿、コップなどを愛用したと言われている。この匙もそんな流れを汲んだかのように、全長で10cmに満たない可愛らしいものであったが、こんな風にしまわれていると有り難味が増してくる。

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2007年3月 8日 (木)

旅の衣は鈴懸の~

Img_0162 先日の強風で落ちてしまったかと思っていた、鈴懸の実が一部は丸いまま地面に落ちていたが、ほとんどはまだしっかりと枝先にぶら下がっていた。

落ちている実を割ってみると、栗を小さくしたようなイガイガは、ひとつの実ではなく、沢山の実を中心に纏めた尻尾のような所だと分かる。

こんなにぶら下がっているようでは、鳥が突っつくような餌でもないし、また、餌になるほどの実も付いていないうえ、丸いまま落ちているようなので繁殖方法はどんな風にするのかわからない。

歌舞伎の勧進帳安宅関の最初に”旅の衣は鈴懸の~、、、”と始まるので、弁慶らが扮する所の山伏姿の胸にある、ポンポンのような房を”鈴懸”というのかと思っていたが、実際は、山伏が着ている服装全体を言うのだと最近になって知った。

Img_0161_2 しかし、結袈裟のポンポンがよほど印象深かったのか、ここから取ったのはほぼ間違いない。

頭に頭巾をのせ、ポンポンの付いた結袈裟を胸に、立付袴に法螺貝を持った山伏は、江戸時代の山歩きにはうってつけの服装だったようだ。

その名残りからか、自分たち若いころ名登山家と言われた連中は、尻に引敷といわれる獣の皮をぶら下げ、そのころ数を減らしていたカモシカの皮を誇らしげにぶら下げていたのを見たが、こんなものをぶらぶらと下げて歩くのは日本だけだったのではないかと思う。

ちなみに、英語ではプラタナスと呼び、排気ガスに強いことなどから街路樹に使用されているが、あちらではこのポンポンのような実より、葉っぱが広くて、大きいことのほうが印象的だったようで、プラタナスの語源はそちらのほうから来ているそうだ。

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今日、静岡の気象台は今年の桜(染井吉野)は、一週間後の13日に開花すると予想を発表した。

この日の開花は記録的なことだそうで、日本で一番早い。また、日本全国桜の下で恒例の、落花狼藉花祭りが行なわれる事になると思うが、桜の下で入学記念の写真は一寸無理な感じである。  カワイソー

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2007年3月 7日 (水)

失敗作

Img_0009_4  サンシュウユが咲いていた。遠目には黒文字(クロモンジ)か油瀝青(アブラチャン)かと思った。でも、「どうしてこんな低い所に咲いているの?」と不思議だった。

近くによって、木の肌からようやく確認したのだが、サンシュウユは、園芸種で江戸時代に中国から入ってきた植物だというから、日本には本来なかった木である、それが山道に咲いているということは誰かがここに植えたのだろうか。それとも、こぼれ実なのか。

去年つけた実をひとつ。鳥にも食べられずに残して花を咲かせている。

昨日、空の雲のかかり具合から、夕焼け雲に映えた赤富士が写せるのではないかと、バイパス上の山道に登った。

いい写真が撮れたと思ったが結局は失敗に終わった。いや、予想が悪かったのではない、腕が悪かったのだ。

富士山だけを写していればよかったのだけど、手前に棕櫚の木を入れたり、白木蓮を入れたのが悪く、カメラのほうがどちらに露出を合わせていいのか迷った挙句の失敗だった。露出も手動にすればよかったなだが、カメラ任せにしたものだからカメラのほうが両方に気を使って結局失敗作になってしまった。

日本製のカメラ(一応Canon)なので、日本人みたいな所があるのだろうか。

その失敗作を二枚掲載するが、恥ずかしいので拡大できないようにしておく。

サンシュウユを見たのは、富士の写真を写そうと山を登っていた途中のことだった。

Img_0203 Img_0207

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今朝方は久々といった感じで寒さが戻ってきた。と、言っても例年と変わりないのだろうけど、、、、、、、

この寒さの中、自転車で遠出をしようと、少し厚めに着込み、バイパスのトンネルをくぐり安倍川筋にでたところで、「バイパス沿いは工事中のため自転車、歩行者は通行できません」という看板があった。それを見た途端、出発前の計画全てを断念して戻ってきた。じつに意志薄弱な計画であった。

帰ってきたものの風がかなり強いし、時間も中途半端だったので、もう、凍みるところへ行くこともないと思いスタッドレスタイヤの交換をすることにした。

考えてみれば、今冬必要だったのは二回しかなかった。モッタイナイ。

しかし、このタイヤ使わなくてもゴムが劣化して未使用でも長い年数は持たないとのことなので仕様がないか。ジャッキーが備え付けのチャチなものなので手間取ったがそれでも30分ほどで終わり昼。

追*先ほどテレビを見ていたら、北陸地方(金沢)で今年最大の雪降りになったとか、もう降らないだろうと普通タイヤに換えた人が大慌てをしている様子が写されていた。         油断大敵!

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2007年3月 6日 (火)

PETとはなんぞや

Img_0168_1 本日は啓蟄。土の中に冬眠していた虫たちが穴から這い出てくる頃だ。とのことであるが、今年はとっくの昔に出てきて睡眠不足のまま、寝ぼけまなこで飛び回り、紋白蝶は早速、野菜に卵をうみつけていた。

たぶん、例年よりかなり早い活動になるのではないかと思う。

昨日の雨も結構季節の変わり目になったらしく、予想通り梅は花びらを吹き飛ばされ枝先を黒くさせ、変わって今日は木通が咲いているのを見た。

Img_0170_1 ”木通”と書いてアケビと読ませるが、これまた難しい読み方のひとつであろう。どうも、漢方薬のほうで使う名前なのではないかと思うが、アケビという言葉は実が熟すと皮が一直線に開いて中味を見せるところ、つまり、”開ける実”から付けられたと聞いたことがあるが、定かではない。

小さな提灯をつるしたような淡い薄みどりか、薄紫の花は可愛い。園芸品種だともっと濃い色のものがあるが自分は自然の淡い色が好きである。花言葉は「才能」「唯一の恋」というそうだが、どうもしっくりと来ない。

そのわけは、見た目、香りは目立つ花ではないが虫が良く来る、ということは、虫に対するフェロモンはかなりありそうだし、花の数に比べて実が少ないことであるが、虫が良く来るということは才能のひとつなのだろうか。

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あまりの暖かさに、春用の薄い服を買ってきた、襟の所に「この服はペットボトルの再生品です」と書いてある、聞いてはいたが買うときそんなところまで見ていなかったので驚いた。

ペットボトルの再生品とは、作業服みたいにゴワゴワとした生地をを想像していたが、肌触りは柔らかい。それもそのはず、カッコつきでポリエステレ混紡だといえば、いままでも着ていたものと同じではないか。

そこで、検索してみたら、ペットボトルのPETはポリエチレンテレフタレートという長い名前の略だという。化学に疎い自分としては、そこらに簡単に持っていける小さな入れ物であることから、動物のペット(愛玩)に似せて作った和製英語かと思っていた。

このポリエチレンテレフタレートからポリエステルの糸にするのは簡単なことだそうだ。

そして、県立総合病院裏側にPETイメージセンターと書いた建物があるが、これはペットボトルとは何の関係もなく、なんだかガンに関連するらしいのだが、これもなんだか分からない。とにかく、漢字で書けるものまで横文字にし、さらに頭文字で略語を書かれた日にや、おじんの頭はこんぐらがってしまう。   まったくぅ~

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2007年3月 5日 (月)

春の小川

Img_0133_2 春の小川は さらさら流

岸のすみれや れんげの花に

にほひめでたく 色うつくしく

咲けよ咲けよと ささやくごとく

昨夜来の雨が朝方になって一休みをした隙を狙っていつも通りの散歩に出かけた。

天気予報も、激しい風雨が近づいているというので、近場を一巡りと出かけたが、歩くうちにもう少しもう少しと継ぎ足し、流通センター脇の巴川沿いに足が伸びていった。

いま、この辺りの土手は、辛子菜ではあるが菜の花が満開を迎えていて、歩いている自分の鼻先に甘い香りを漂わせてくる。

天気がよければ、蜜蜂なんかも寄ってくるのだが、今日は雨模様。どうも、有給休暇を使って巣の中でごろ~んと寝ッ転がっているみたいで、姿は見えない。

昨年だったか、テレビでこの近所にいる養蜂家が土手に種を撒いたので余計に咲くようになったらしいと報じていたが、これってどうなのよ。ただ、美しければ何をしてもいいのだろうか、ナベショーさんのブログを見ていたら養蜂家も縄張りがあって他の人はその傍に巣箱を置けないように書いてあったが、そうなると土手は河川敷という公共のものになるのだから、もし、そうなら公共のものを私物化してしまうことになるのだが、、、。

その辺がよく分からない。

ところで、冒頭の春の小川は一番最初の歌詞であると言うが、この歌詞で習った人は居るだろうか。春を代表するこの唱歌は、いままでに三回変わったという。

二度目に替わったのは、1,942年、3度目が1,947年だというので、自分はどちらで習ったのかはっきりしない世代であるが、42年は戦争中だし47年は戦後2年目、どこか変えなきゃならない理由があったのだろうか。

冒頭の歌詞を口語に直したとき(1942年)は、”春の小川はさらさら行くよ、、、、で始まり、咲いているよとささやきながら”で終わるように変更された。

3度目は、最後が”咲けよ咲けよとささやきながら”となるそうで、いまになると、子どもが歌ったこともあって自分はどっちで習ったのか分からない。

なにはともあれ、この当時は作詞者の許可もなしに勝手に変えたことになるのだが、いまなら、「勝手に自分の歌詞を変えられたのは心外だ。今後、学校では歌わせない」と息をまくのだろうな。

午後になって、此方も大荒れの天気になり、注意報がいっぱい出たが、九時ころになってようやくおさまった。

春の嵐は恐い。この嵐で散り際を求めていた梅はガクだけになったに違いないだろう。

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2007年3月 4日 (日)

早春賦はいずくに

Img_0136_2 気温が20度を超え、四月半ばより後の陽気が続いているそうで、所によっては夏日を記録したそうだ。この調子では、初春という言葉はどこかに行ってしまいそうである。

実際「早春賦」の歌の世界はどこかに飛んで行き、今朝方、もう鶯の初音を聞いてしまった。

田んぼ周りの道にも、赤黄青紫と小さいがとりどりの花も咲き、蝶も飛び出して花の上でもつれていた。

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古来、日本人は繊細な神経を持ち合わせていたのであろうか、落椿といって、地面に落ちた後の椿の花に「落椿」という季語まで与えるほど風情を感じ、数々の俳人による歌も残されている。

はなびらの 肉柔らかに 落つばき  飯田蛇笏

遅れ咲き いまの落花に 加わらず 山口誓子など 

欧米の人には、虫の鳴く声は雑音としか思わない人がかなりいるそうだし、自分がやはり花を指差して、これの名前は?と聞いた時も全てフロールでかたずけられたことある。

同様に、明日の天気を日本人ほど気にする国民はいないそうで、雨が降ると蛇の目や番傘などをさすのは日本人ぐらいで、映画を見ていても雨の中を濡れて歩くシーンが多いし、イギリス人はステッキ代わりにしか使わないのに気が付く。

仕事で行ってた南アメリカも雨季と乾季に大別され、一度晴れだすとしばらくは晴れの陽気だったので、天気予報は必要なかった。

そういえば、世界の天気予報なんて番組を朝やっているが、ハワイの気温は年中ほとんど変化がないようだが、今言われている地球温暖化が続けば、日本も一年中、気温の変化が少なくなり、気象予報士は失業しかねない事態にのなるんではないだろうか。

今夜は満月、こうこうと輝く月を見ていると、明日は前線が通過するため雨風が激しくなるといっているが、この月を見る限りでは想像できない。

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2007年3月 3日 (土)

今日はたのしい雛祭り

Img_0136_1 きょう3月3日は”上巳の節句””桃の節句”とかで、女の子がいる家では雛人形を飾って、華やかにお祝いをする。

今年は、例年より暖かい日が続いたため、赤やピンクの桃の花があちこちで開いている。

桃は、その昔中国では不老長寿の薬にもなると言われ珍重された果物であり、その色、その香りは花も実も上品なおもむきがある。

雛人形の歴史は、はっきりとしたことは分からないらしいが、もともとは、人形(ヒトガタ)に穢れを写して流し、厄のがれをしたことに発するという。そのためか節句が過ぎてからいつまでも飾っていると嫁にいけなくなるなんて話しさえある。

Img_0046_4 そして、最近では伊豆の稲取が発祥の地とも言われるつるし雛が流行し、自分もあちこちで食傷するくらい見て来たが、その値段の高いのには驚く。

聞けば、古着で作るらしいのだが、その古着が高いのだそうだ。くたびれた銘仙などではすぐに破れてしまうので、質のいいは端布などになると手に入りにくいとか、、、

しかし、ひな壇の周りにあまりごちゃごちゃとぶら下がっているのも、なんだな~という感じ、それぞれがどんなに立派であっても、、、、

また、変わり雛もあるとはいえ主流は内裏雛であるのが、不思議といえば不思議な話しではなかろうか。庶民の憧れがそうさせたのか、穢れを移して流すということとの関係はどこでどうなったのか、調べてみたい気もする。

また、穢れを流してチャラにするというのは、日本独自の考えだというが、、、

ま、いいっか。今日は楽しい雛祭りなんだから。と飾る雛がない我は酒を飲む。

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2007年3月 2日 (金)

父の膝にいだかれて(三方分山)

Img_0094 山梨県は精進湖の後ろに三方分山(1,422m)という山がある。(朝 精進湖に写る富士と大室山)

当方、始めて5万分の1の地図を見たとき、「ミカタワケヤマ」とでもよぶのかと思っていたら「サンポウブンザン」と読むのだと案内書に書いてあった。理由は古い昔、この山の山頂に続く尾根で三つの村境があったためと言う簡単な理由でつけられたそうな。

朝八時すぎ、県営の駐車場に車を入れると、空一面に薄雲が広がり、精進湖には波ひとつない。気温は1度。薄暗い感じながら身を切るような寒さは感じない。

Img_0096_2 登りは、”精進居”と書いた集落側から上ることにした。この集落も空き家らしい家が沢山あり、昔は峠越えの拠点として賑ったこともあるのをしのばせるだけに、うら悲しさを感じさせる。

谷沿いにある防災堰堤を越えると、昔の街道を偲ばせる古い野面積みの石垣のある道が九十九折につづき、駐車場から50分ほどで女坂峠に到着する。

ここに、古い首から上の無い石仏と墓がひとつあるが、時代は苔の下になり分からない、そして、案内板に3,000mとか4,000m、きっちりした距離が書いてあった。普通3km、4kmなど余裕のある数字を書いておくものなのに、、、珍しい書き方をしていた

峠で一休みした後、左の山道に入る。緩急を繰り返しながら高度を稼ぐと、急にゆるやかなブナ、楢の木の多い明るい道になり、そのまま、しばらく行くと何時の間にか頂上にいた。

Img_0112_4 標高1,422mの案内板あり、富士山側切り開いた場所からは、この山を歩く目玉になっている「子抱き富士」が丁度良い角度から見ることが出来た。

正面の富士のふところに抱かれるように寄生火山「大室山 1,468m」が見える。今日の天気もあって大室山には薄い霧が取り巻いている所は、父親の膝におくるみを着せられた赤ん坊が座っているようにも見える。

この場合、どう見ても母親ではない力強さを、富士に感じてしまう。

このあと、精進山を過ぎると道は急な降りに入り精進峠、根子峠でパノラマ台へ向かう道と合流し10分ほどでパノラマ台(1,328m)に約1年ぶりに到着した。

Img_0124_1 前回は本栖湖側から上がってきたのでだが、天気は今日と違っているのでまた趣が違う。登りだして3時間半、ここで景色を眺めながら昼ご飯にする。曇り空で地味な富士山ではあるが全景が見えるし、東の御坂山塊は墨絵のように奥に行くほどねずみ色にくすんでいる。西の南アルプスはまだ日が当たっているようで、雪が光り輝き、竜ヶ岳、雨ヶ岳、毛無山と雪の量が多くなっているようで次第に白味が強くなっている。

充分に疲れも取れたと判断して、観光シーズンにはごった返すらしい、幅が広くてゆるい傾斜の道を駐車場に向かって下り、午後2時すぎ、駐車場に無事戻る。今日も山は一人旅、人の気配は一切感じなかった。

Img_0126 降ってきてこの山全体で、感じたのは、この山はブナ、楢など落葉樹が多く、道にブナの実の殻や、団栗の帽子がが沢山落ちていたことである。ということは動物の餌がかなりある山であり、ヤマガラなどの小鳥もよく見受けられた。

また、杉の木が駐車場を除くと見当たらなかったこととあわせると、花粉症の人が登るにはいい山なのではなかろうか。

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2007年3月 1日 (木)

オキザリスはカタバミ

Img_0199 二月があわただしく走り去って、今日から三月。

天気も穏やかに晴れ、気温も上がる。これからの時期、というよりしばらく前から気温の上昇により杉花粉が飛び散っているようだ。

こんな写真を載せて、花粉症の人には、気の毒である。戦後、日本人の体質が変わったのか、杉を植えることを、奨励した付けが来たのか分からないが、花粉症が問題になっているのは若い世代に多い。特に静岡は何とか美林などといって杉の植林が多い。

この花粉症なるもの、先日の放送では年を取ると体内に異物が入っても過剰に反応しないので花粉症になどならないと言っていた。さいわい、自分も古い人間のほうに入ってしまったので今のところ無事である。

Img_0046_2 オキザリス、外来の園芸品種であるがいま、街中のあちこちに群れを成して咲いている。

黄色い花、薄紫を中心にいろんな種類を見る。その繁殖力には園芸種の中でもかなり上位になり、もうすぐ、雑草扱いにされかねない勢いだ。

この花の生命力の強さは、日本では片食(カタバミ、本当は食でなく口偏がつく)で知られる雑草を祖先に持ち、それをを改良?したものなので、葉の先端が食いちぎられているとみなしてつけられた特徴をしっかりと残している。

Img_0047_1 カタバミは、オオバコなどと共に人に踏まれても気にしないほど丈夫で、抜いても抜いてもなかなか絶やせない草で、その根は人参のような形をしている。

黄色くて小さな花の後、槍状に尖った鞘からそれこそ小さな種を弾き飛ばす、丁度”ゲンノショウコ”と同じようにして、、、

この草の葉っぱは蓚酸を含んでいるため、酢っぱみがあり子供頃少しづつだが何度も食べたことがある。

Img_0074_5 その花が巨大化して、オキザリスなんて上品な偽名を使っているが、野山に飛び散って野生化(置き去り)にした時には末恐ろしい雑草が、またひとつ増えかねない。

今日も、この花に甘い蜜があると見えて、蜜蜂がまとわりついてはなれない、丁度頭かくして尻隠さずを地で行っているような格好で潜り込み、戻るのに苦労しているように見えた。

蜂の世界も、次から次と新しい花が出来その蜜の採取方法や蜜の良し悪しなど日進月歩の世界に身をおいているのかも知れない。と思うとなんだか可笑しくなるが、これも、擬人化のしすぎであろう。

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