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2007年6月17日 (日)

父の日だった

Img_0029_3 朝方のあまり良い天気につられて、富士山近辺に行こうと出かけるうちに、雲が厚くなり途中で気力が無くなった。(樹海の上に聳える富士山、この時期にしてはよく見えた)

しかし、白糸の滝から富士ケ嶺を通り鳴澤に入ると幾分空は晴れ山頂が見えてきた。ここで温泉に浸かり帰り頼まれていたとうもろこしを買って帰る。西湖、精進湖を廻って走行距離173kmなり。

今日は”父の日”だった(過去形にした意味がわかるかな?)。父日は母の日に比べて扱いが随分と小さい、いわばつけたしであろう。せめて、カーネーションに変わる何かが欲しいが、紫陽花やタチアオイでは一寸大振りすぎて御免蒙るか。

私自身も、父を離れ”じいじ”という立場に立ってもう十五年。したがって、なんのお祝いもないまま一日が過ぎた。

我が家は、代々曹洞宗できているが、なにかの折に寺の和尚と話していたとき、「死んだ人を思い出して語るのが何よりの供養である」といわれたので、今日は私の父を思い出すことで「父の日」としたい。

私の父(おやじのほうが言いやすい)私が30歳になる前に死んだ。私の長い反抗期があったりしてあまり話をしていなかったので、どんな生涯だったのか、どんなことを考えていたのかは死んだ後周りの人から断片的に知るような状態であった。

いまの父親は子どもと友達感覚で付き合いたいと願っているのとは違って、昔の父親の大半はあまり家庭内で話はしなかったし、「男は黙って、、、」と、それが親父の権威とでも思っていたところがあったのだろうか。

今風に言うと親の背中ばっかり見せていたように思う

そのため、父親の存在は一歩はなれた偉い人で、何か用事があっても母親を通じて聞くという感じであったが、我が家でもそんなところがあった。

おかげで、64歳で亡くなった時には、親類(田舎だから多い)との関係がよく分からなかった。

明治生まれの両親は、子どもが腹をすかして(何時もかもだったが、、)いても晩酌が済むまで待たせ、年に一回だったが一週間ほど一人で湯治に行くは、米のない時代にどぶろくを作るなどそのほかにも随分とすき勝手なことをしていたところがあった。

また手先が器用で、職業にしていたこともある時計の修理をはじめ、鮎釣竿や投網、刺し網を自分で作り、戸棚などの家具や木の臼、杵とも上手に仕上げたが、私にはその器用さが遺伝しなかった。

そのほかにも幾つかあるが、あまり思い出しすぎると供養のし過ぎでおぼれるのと夜も更けて帰りそびれて出て来られても困るのでこの辺にしておこう。

今日の花。左、ハルシャギク 右、カボチャ

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