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2007年9月24日 (月)

静けさに沈む東海道

Img_0100 諏訪原城へ久し振りに行ってきた。

金谷に住む友人宅で話しているうち、腹ごなしをかねて行って見るかということになり、どうせ行くなら石畳を歩いていこうと言うことになった。

Img_0110 道路から少し上がったところにある、石畳茶屋の駐車場に車を入れ、そこから約500mほど、全面丸石を敷き詰めた幅3m弱の坂道を登る。

東海道五十三次と言われた頃もこんなのだったか分からないが、隙間なくぎっしりと敷き詰めてあるのは、いまから15年ほど前町民”一人一石運動”とかで作り上げたものだと書いてあった。

友人曰くには「看板に書いてあるような奇麗事ばかりでなく、家に病人がいるので、、、、と断れる雰囲気もなく、半ば強制的な面もあって出来たもの」という。小さな町ではよくあることだと思い心して登った。

やく15分ほど、ほとんど行き交う人もないまま中山峠に着き、東海道は引き続いて小夜の中山に進むのだが、道路伝い右に折れて諏訪原城の方に向かう、10分足らずで案内板があり、茶畑に入れば、武田方の城主が戦死したと言う碑があり、すでに、この城の城内に入ったことが分かると言うくらい元の地形がはっきりしない。

Img_0105 しかし、信州 諏訪神社の分社が祭ってある辺りから、深い空掘りが目立つようになると意外と大きい城であったことが分かる。(石垣を作らないのは甲州流だとか)

三の丸、二の丸、本丸跡と順路をたどれば本丸跡は人けが無いがいま発掘調査中だとかで、ブルーシートで覆われていた。(前に来た時は天守台跡のような四角い台地があったように思う)

その先の切れ落ちた崖の下には、旧国道1号線が走りにその先には金谷の町が木の間がくれに見える。城の構造としては、小諸城や上田城のように背後に切り立った崖をもつ、”背水の陣”見たいな構えを持った堅固な城だったことが分かる。

しかしここで、戦いが行なわれたときは、設楽が原の戦いで武田軍が織田徳川連合軍に惨敗してから2ヶ月後であったことをみると、両軍の士気にかなり差があったと思われるが、さすが勇猛で鳴る武田軍団、徳川の猛攻を2ヶ月間しのいだとある。本国からの後詰も無く城主が敗戦死し落城したと聞くと哀れに思えた。

帰りは、旧国道1号伝いに降ったが、ここもかっては車の行き来が激しいところであり荷物を積みすぎた車が黒煙を吹き上げながら登っていった場所である。

いまは、道も別ルートになり、旧東海道とともに静けさの中に沈んでいる。

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今日の花。左、石畳の縁に一輪秋海棠(シュウカイドウ)。 右、牧の原のお茶、椿の仲間だけあって、花びらがバラバラにならずに落ち、蜘蛛の糸に絡まって宙に浮いていた。

Img_0101 Img_0081

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コメント

ナベショー様

あれだけ大きいと、完全に城ですね。どのくらい兵力を留め置いたものでしょうか。
あの時代、高天神城をとるため、徳川、武田が碁盤に石を置くようにいろいろと工夫をし、知恵を絞ったのが分り、想像をたくましくさせます。

投稿: オラケタル | 2007年9月26日 (水) 07時15分

私もいきましたが、諏訪の原城、、幾重にも堀で囲まれた城、、その規模の大きさに驚きました。

投稿: ナベショー | 2007年9月26日 (水) 00時00分

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