寒い朝 初地蔵
という歌があったが、昨日の雨空から一転青空の広がった朝を迎えた。
今日は、”初地蔵”ということで、近所の厄除け地蔵まで歩いて出かけた。ここの地蔵さんは縁日の日は、香具師はいないが、近郷から野菜や餅などの食料品、衣類に靴にと結構いろいろな品物が並んでいるので良く出かける。
季節によって店の開く時間は違うと思うが、朝早くから品物を並べているため、少し遅いと品切れするものが出て来る。
私どもも、朝の八時に向かったがお目当ての山葵は一把を残すのみだった。
.寿桂尼は何とかママか
日本全国に愛宕山と名の付く山はどのくらいあるのか分からないが、何れもそんなに高い山はない。
静岡市内にもそんな名前の山があり高さは100mはないようだ。ここも今日は、初縁日と言うので午後になって出かけてみたが、人っ子一人いない山登りになってしまった。
この山は、もともとは駿府の城の鬼門に当たる位置にあり、今川のころは小さいながら城の形を取っていたらしく、いまもそのころの堀や櫓址が地形として残っている。
その麓に、龍雲寺というお寺があり、その背後100m足らずのところに寿桂尼の墓と伝えられている五輪の塔が二基ある。
寿桂尼は駿河の国主だった今川氏親に嫁いできてその子 氏輝 その弟 義元を生み、義元が桶狭間で戦死した後、孫の氏真と亡くなるまで今川家を支え死後はその鬼門に当たる愛宕山の麓に埋葬して今川家を守ろうとした女性である。
しかし、戦国大名としての今川家は寿桂尼を失うと翌年、氏真の人望のなさから事実上滅んでしまったが、取りようによると和泉流宗家の何とかママや吉兆のささやきママみたいなところも有ったのかと思わせるところが多分にあるような気がする。
その一方で私の推測であるが、貧窮した公家が援助してもらうため姫を地方の裕福な大名に降嫁させた時代でもあり、彼女も多分そのうちの一人ではないだろうか。それが、縁のない国に来て、主人なきあと子ども二人と孫の代まで後見役のように支え、守ったことは女傑というしかない。
一体に、東男に京女と言われるが、公家の女性に後年政治上のことで名を成した人が多いのはどうしてなのだろうか。
徳川の時代になってからも、5代家宣の天英院 13代家定の天障院や皇女和宮、など歴史の本などに拠ると当時の女性で名前が分かっているのは稀な中で、、、、、
そしていま、寿桂尼の墓だといわれる二基の五輪の塔のうち、どれが彼女のものか分からないと言う。とすれば、もう一基はだれなのか、その後ろに小さな五輪の石塔は侍女か、はたまた、、、小説家なら面白い筋書きが出来ると思うが、、、
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