女城主の城に登る
昨日の朝、霧雨に沈んだ草津の宿で、長野の聖火リレーの映像を見ていた。
どんな服装をしていても警察官に護衛されてのリレーには白けさせるものがある。世界各地で報道された聖火リレーの中では比較的平穏に行われたものだろうが、中国政府の思惑と逆に、世界中にチベット問題をばら撒いたようで、最初、内政問題で片付けようとしていたものを、やっとダライラマ側との交渉すると発表し鎮静化を図ることにしたらしい。
あとは、口先だけ、上辺だけで終わらせないように願う。
.歴史に悲しい岩村城のこと
22日。(写真上。岩村城のシンボル六段の石垣。本来は一枚の壁だったものを江戸時代に入って法楽予防に重ねて補強してあるとのこと)
豊田市外から北におよそ70km。岐阜県岩村町に13年ぶりの再会となる従兄弟を弟夫婦とともに尋ねた。
岩村町は、古くから東濃の中心地として重要な場所だったらしく戦国時代、武田信玄と織田信長の争いに巻き込まれた際に、信長の伯母に当たる人が城主になり、哀れな最後を遂げたことから有名で別名を”女城主の城”とも言われている、そのほかにも小牧長久手の戦いの際もここで戦いがあるなど、小さな町ながら歴史に名高い城である。
江戸時代には、松平氏の領地ともなり何人か老中まで出している家柄と、佐藤一斎や明治期の下田歌子など学問での有名人を出しているところで、街中は重要伝統的建造物に指定されている通りもあり、古い時代をしのばせる街である。
古い建物の多い中、紺屋を営んでいた”土佐屋”の内部を見せてもらった時はなんだか懐かしいような気分にさせるものが展示してあったりなど、、、、
従兄弟の案内であちこちを巡ってもらったが、食事のあと日本有数の山城で標高720mの本丸跡までゆっくりと登ることにした。
この城の建物は、明治の初め全国の城同様取り壊され、売りに出されたため石垣しか残っていない上、土地も民間に売却されたため植林されて、面影を大分失っている。
再現された太鼓櫓の脇から下田歌子の勉学所、そして石畳の坂(これは最近新たに敷いた)を登り、一の門、土岐門、霧ヶ井戸そして本丸の六段の石垣の謂われなど次から次えと説明を受けての登城となった。
本丸跡には桜の花が満開を迎えており、時々ハラハラと舞い散るなかに、低い音で”古城”の曲を流していたが、普段なら演出がどうのこうのという私でも静かに聞けるところがあった。
そうこうする内に午後も四時をまわった。まだ見るところも随分と残しているようなので「また次の時に、、、」と約束してこの町に別れを告げた。
帰る途中、明智光秀の生誕の地として知られる明智町に”大正村”というのがあり、これも寄って見ようと駐車場に車を入れたが時間も開館時間を僅か残すだけのため早足で見て、豊田市に戻ったのは夕日が沈んだ後だった。
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