夏越の祓い
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パソコンのモニターの調子が悪い。使っている最中に突然画面が消えてしまう。
最初は慌てたね。あちこち弄ったり解説書を広げたりした結果、電源を切って、しばらくしてから再開するを繰り返して、ブログを作成していたがいよいよどうにもならなくなって、修理を依頼した。
一目見て、これは電圧系統が駄目でしょうね、大体5千時間ほどから故障が多くなります。修理代は多分1万円以上、技術料で1万円以上を見てもらわないと、、、、。
修理しても他が駄目になっていることが多いのでメーカー品ではないけど、新品が3万円かからないであるのですがそちらにしたほうが、、、とあまり修理に乗り気でない様子。
買う時、5千時間なんて聞いてないよ。
一度点検して、修理費の見積もりをしてもらうことにする。
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葉の上で恋を語らうヤマトシジミ。羽の先端の模様をハートがいっぱいと見るか、チュウリップと見るか。
いずれにしろ夢いっぱいと思われるが、そんなカッコいいもんじゃない。
天敵がいっぱいいて周りは危険。身動きできないこの時期が一番危険。しかし、子孫繁栄のためには仕方ないことか。
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「こんなに汚してきて洗濯が大変だって怒るけど、ここで畑をかまい、草刈をしていると気分がスッとしてね。薬代だと思えば安いもんだって言うとるよ」
「そうだね。今に寝込んで介護をされたり、病院で薬漬けになれば、あんときゃ いかったって言うだろね」
時々行くバイパス上で草刈をしている顔見知りになった人との話し。
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ぐるッと山道を歩いて帰ってくれば、タイミングよく(?)介護保険の通知書が届いていた。開いてみれば曰く。「次のとおり決定しましたので年金から特別徴収(年金からの天引き)することを通知します。 静岡市長」と書いてある。
こんなもの特別に徴収して欲しくも無いが、何故、人の年金から天引きするのに「お願いします」と書けないのだろうか。
こんな調子だから、集めた保険料や税金はまるで自分のお金みたいな気持ちで使っているんだろうなって気がする。「おろかな人民に施している自分は特別な人だ」なんてね。
この際やせ我慢をして言ってやろうか「ええい 持ってけ泥棒」ってね。
それにしても、追いはぎにあっているこっちの身にして見れば、先行き夢も希望も無い世の中になっていくような気がしてならない。
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今日の蝶。左、アスターの花の蜜を吸うアカシジミ蝶。右、ムラサキシジミ。折たたんだ羽の内側は金属光沢を持った青い羽模様。でもなかなか写させてくれない。
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韓詩外伝にある言葉だが、蟷螂(カマキリ)が鎌を振り上げ、車に立ち向かうようすから、”弱いものが己の弱さを省みず、強敵に立ち向かう”ことを言う。
案外日本人受けする、故事成語の一つではないだろうか。さしづめ「儀を見てせざるは勇なきなり」みたいなところがあって、、、、。
庭の草に全体で2㌢に満たない小さなカマキリがいたので、レンズを接写に切り替えて近づけていったら、けなげにも鎌を振り上げて立ち向かってきた。
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そのむかし、子どものころ「ドンキホーテ」という絵本を見て馬鹿だなぁと思った。その後、30代になって岩波新書(?)の文庫本を読んだときにはほろ苦い感じを持った。
日本では一般にドンキ ホーテと思っている人が多いようで、安売りの同名の店を略して”ドンキ”ともいうが、実際はDon Quijoteであり、ドンは敬称であり、英語で言えばミスターにあたるかな。
その、キホーテさんは騎士物語を読みすぎ、あこがれから仮想の世界に入り込みCaballero(カバジジョ英語のナイト)を目指した、さしづめ今の若者がゲームなどに熱中するあまり、、、と変わらないように、、、。
小説では散々に馬鹿にされからかわれながらも挫けることなく、最終的に従僕のサンチョパンサに諌めを振り切って大きな風車に向かって槍を突きつけ跳ね飛ばされてしまうというものであった。
ちょうど、そのころ組合運動にのめりこみ”若さゆえ”とも思われる正義感で、職制に刃向かっていた時期でもあり、将来はキホーテさん同様に跳ね飛ばされてしまう予感はあった。しかし、先祖ゆづりのへそ曲がり、生来の根性は「蟷螂の斧」は捨てることが出来なかった。
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今日の花。左、細葉の苦菜、苦菜の1/3ほどの大きさしかないが姿かたちはそっくり。右、泰山木(タイザンボク)名前からして雄大な名前を持つ花。葉の差渡し20㌢は雄に超える。香りも良く名前負けしていないが花弁に傷がつくとすぐ茶色く変色する。
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水路を挟んだ向こう側の畑に甘茶の木がある。見た目は日本紫陽花と区別がつかないくらい似ているが、その色合いの綺麗なこと、浴衣の模様に写しこんでも良いくらい味のある色合いをしていた。
甘茶は、花祭りの時お釈迦様の頭にかけるくらいで、ほとんど飲んだ記憶が無いが、葉を蒸して発酵させ出来たお茶の甘味はフィロズルチンだと言うことを最近知った。
ズルチンとは、化学合成をして作るものとばかり思っていたが、こんな方法で出来るのか。というのが正直な気持ち。
今の人は知らないだろうが、戦後砂糖が不足した際サッカリンというもので代行したことがあるが、それは、砂糖の400倍もあまいといわれ、耳掻きで少しづつ入れた。その後に出てきたズルチンはさらにその倍も甘いと言われた。
しかし、化学製品だという気持ちと、後味がなんだか違っていてあまり使用しないうちに本物の砂糖が出回りあまり長い時期使用しなかったような気がする。
この心配は当たったようで、毒性があるとかで化学物質から作るこれらの甘味料は製造禁止になり、我々の前に出てくることは無くなった。
パソコンのモニター画面が暗くなって何度も修正したが、今日は出来ない日と思いここで中止する。
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今日の花。左、百合、園芸種のため名前までは分からない。右、黄菅、これも園芸種だと思う。
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久し振りに出かけた城北公園は雨の合間を縫って来ることにしたのか、小学生のグループと保育園のグループが来ていて賑やかだった。
紫陽花のみが目だっている昨今、片隅でツクバネウツギが独特の花を開かせて匂っている。
この花は、追羽根で撞く羽根の形に似て長く突き出した花びらの付根に十文字の鍔のような額があることから名付けられている。ひとつひとつの香りは薄いのかもしれないが、数が多い。
蝶も蜂も吸い寄せられるようにして集まってくるので、しばらく待ってみた。
また、西側にある花時計の文字盤に不審な行動をする猫がいるので、そっと近寄ってみると鼻の頭から顔面中にかけて血が出ていた。たぶん、昨夜当たり恋の争いで喧嘩になり猫パンチを受けての傷だと思う。
ここは、猫を捨てに来る人と、その猫に餌を与えている人がいて市役所が注意の札を立てても一向に効き目の無く、捨て猫の多いところ。
この猫もそのうちの一匹なのだろうが、恋に破れ、傷の痛みはいや増していることと思う。文字盤の上で片手(前足)をくるくるとまわしていたが、私に気がつくと面目なさそう(感情移入のしすぎ)?な顔をしたあとソッポを向いてしまった。
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今日は、飛騨牛の偽装問題でワイドショーはもちっきり。
昨年のミートホープと同様。船場吉兆、谷本医院、そして丸明と全て内部告発によるもので発覚した。いずれも経営の仕方がワンマンで人の意見を聞くということをしなかったうえ、いざことが起きると責任を従業員に押し付けて逃れようとしたことまで似ている。
内部告発をする社員の気質もむかしとは違ってきたかもしれないが、お金さえ儲かればという経営者の目先しか見ない姿勢が一番問題を大きくしている。
いずれこの会社もミートホープや船場吉兆と同じ道を歩むことになると思うが、他のワンマン経営者の参考にはならなくて、この轍を踏む経営者はこれからも出てくることだろうなぁ、、、、。
今回は「飛騨牛」というブランドそのものにも疑問点がある。(大垣の生産者のコメントというのがあったが、あそこは美濃の国であり飛騨ではない)買う人もブランド頼りの買い方をしないで、もっと自分の目や舌を鋭くする必要がありそうだ。
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今日の花。左、白山吹の実。四っつの実が艶々と光って並んでいたので、、、白山吹は花が似ているだけでまったくの別種 右、山吹の狂い咲き。何が原因か知らないが二つ三つと、、、。
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九時過ぎ、雷の音とともにさらに激しく降り出した雨。この上はどうなっているんだろう。
ひょっとしたら青空の下もくもくと湧き上がっている雲の間を、一本角の女鬼と二本角の雷公がどすどすと雲を踏みしめ、入道雲の突端をむしって投げ合うなどふざけ散らしている。なんて子どもみたいなことを考えていると、”雨もまた楽しい”ような気がする。
日本人は一体に”雨が降ります 雨が降る 遊びに行きたし 傘はなし、、、”的に雨を暗く捉える傾向があり、流行歌でも雨は重要なテーマのひとつになっている。
その雨も、午後3時を過ぎて上がってきた。昨日今日の雨に閉じ込められていため、足が遊びに行きたがってウズウズしていたので出かけてみたが、早速青条揚羽蝶(アオスジアゲハ)の御出迎えをうけた。
青条揚羽は、南方系のアゲハチョウで名前の通り、前趐と後趐に青い帯がつながり非常に特徴があるうえ、街中に良く出てくるので実際の数以上に認識されている。
まだ花の咲ききらない藪枯らしに蜜でもあるのかあちこちと飛び回って、撮影をせがんでいるかのように遠くには行かないでいた。
そういえば、雨の降っているさなかにも揚羽蝶が飛んでいるのを見たが、彼らは雨が降ると草の葉陰で雨宿りをするとばっかり思っていたのは、此方の思い込みだったようだ。
空を飛ぶ生物は身体を少しでも軽くするため、体内に栄養を溜め込まないで、食べるとすぐに排出を繰り返すという宿命を持っている。そのため、「雨が降ります 雨が降る、、、」なんて言ってはいられない。当然、我々のようなメタボはいないと聞いた。
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昨日で、当ブログのアクセス数が10万件を突破した。長いような短いような、自分でもここまで続いたのが不思議な気がする。
気持ちばかりの反骨と、その日思い立ったことを吟味もしないで次から次へと書いて来た割には、嫌がらせの投稿もなく、、、、
前にも書いたかと思うが、このブログを始めたことにより、無趣味、群れることが嫌いなど、自分でも老後がどうなるかと思っていた頑固親父だが、カメラを毎日携帯し、何か写すものは無いかと目を皿のようにして歩いた結果、足が丈夫になり、今まで見逃してき美しいものに出会え、山登りでも余裕を持った登りが出来るなど、心身ともによい結果を生んだことと思っている。
先日の秋葉原の事件を起こした青年は、「誰にも読んでもらえない」と孤独感に陥った挙句の犯行だ、といっているようだが、パソコンの場合は声なき人の反応がいくらかでも分かる所に価値がある。また、こんな拙文にわざわざ、コメントを入れてくださる人には感謝して余りあるものがある。
もっとも、私としてはこのブログをコピーし、いずれ何も出来なくなった時、畳の下の古新聞のように見てみたいというのも大事な要素と思って、できるうちは続けたいと思っている。
どうも皆さん有難うございます。
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その雨の中、長野から貰ってきた玄米の精白に行くと、片隅にユキノシタが咲き残っていた。上の花びら3枚は赤い麩のような点々を撒き散らし、下の二枚は長く白い花びらを垂れ流している。
湿気の多いところを好むこの草は、薬としても昔から家の周りに植えられており、その白い花が無数に咲きそろうことから雪に見立てて付けられたとも言うが、雪の下でも青さを失わないところから付けられたともいう。
私の子供の時の印象から後者を取りたい。だって、雪のように白く咲く花は他にもあるじゃない。
そして、この花の思い出として、私の”ばあば”の家の裏に生えていて、囲炉裏で火傷をしたとき、腰の曲がった”ばあば”が驚くような速さで雪の下を取ってきて火にあぶり、しんなりした葉で火傷を覆ってくれた覚えがある。
その葉の効用は、ばあばの素早さと火傷をつつむ時の謝りと慰めで瞬く間に痛みが取れたので、言うまでもない。(実際はそんな大した火傷ではなかったと思う)
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常識とは
家に帰ると「これ 父ちゃん、今日、水道代ってものを取りに来たんやけど、、、」という話しがあったと、仲間内で語られたことがある。
”父ちゃん”といったのは、子どもでなくその人の連れ合いである。夫婦何十年も勤めると飛騨ではこういう呼び方になるのが常であった。
鉱山の社宅は通勤に便利なように、坑口に程近い山奥の中腹に張り付いたように造られ、その不便さをつぐなうように水道代はもちろん、電気、越冬燃料などはただで支給されたうえ、役場まで行くのに時間がかかるので人事係が全てを代行してくれていた。
結婚の届出、子どもの出生届け、死亡届など文字通り生まれてから死ぬまで社宅にいる限り全てを会社に任かせっきりでことが済んだし、飲み仲間、話し相手も会社内の人がほとんど。長く住めば(勤続が長ければ)世の中そんなものと世間知らずになっていく。
もちろん、今のように個人情報がどうだらこうだらというという時代でもなかったし、社宅しかない場所では、企業城下町以上の独立社会(良く言えば家族社会)のような雰囲気があった。
そんな中で、何十年もいるとそれが当然の事になるため、定年や本社勤務などで東京近辺に移住、転勤するとこんな悲喜劇みたいな話しがいっぱい出ていたそうだ。
”常識” 辞書によると「健全な一般人が共通にもっている、普通の知識や配慮、分別」とある。健全な一般人とはなんだろう。普通とはなんだろうと考えるとややこしくなるが、、、、。
「世界に常識 日本の非常識」なんて言葉があるように住む環境で常識はそれぞれに違う。
最近ワイドショーを騒がしているものの中に、官僚のタクシー接待がある。特定のタクシーに深夜乗車する官僚が家に帰るのに何万円もするタクシー券を使い、その見返りにビール おつまみ、御中元はもとより割戻しまで。受けていたと言う。
身内の調査だけでかなり多数の人が分かっているので、外部の調査が入ればもっと大きくなるだろう。しかし、これを受け取っていた人々は、公務員の倫理規定のことには考えが及ばなかったのだろうな。
役所のエリート官僚として、チヤホヤされ続けた結果との常識とすれば、、、、、「これ 父ちゃん、、、」と変わりない話しになる。
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このことわざ、人によっては、、「千に一つの仇もない」という人がいるが、私は前の句で覚えたので、、、
庭の隅に貰ってきていい加減に植えた茄子に花が咲き、実を付け出した。野菜の中で一番簡単に収穫できる茄子は花さえ咲かせればまず間違いなく実をつけることから言われたものだが、親の意見同様、中には実をつけずに散る花もある。
親が子どもに意見をするのは、自分の経験から推してする場合が多く、時流に合わず子どもにとっては煩いだけの場合が多い。
子どものほうも、失敗を重ねて会得することのほうが為になり、親がシャカリキになるほど聞き入れない傾向がある。
自分も自信を持って子どもに意見をした覚えがないが、最近の馬鹿親(モンスターピアレンツ)の話を聞くと千に一つではなく、”千三つ”(千の内三つしか本当のことがない)に直して作ったほうが良い、的なところが多く、上のことわざも地に落ちてしまった。
たとえば、こんな風に「親の意見と山吹の花は 千に三ッの仇もない」と
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今日は夏至。太陽が南中し晴れていれば、紫外線が降り注いで暑い一日になることだろうが、朝から雨の降りようが次第に多くなってきた。
これも日本の多彩な季節の一つの現象であり恵みの雨でもあろうが、振ってもらいたくないところも随分あることと思う。
水浸しになった田んぼには、カルガモが入って浮き草を食べている、自然のカルガモ農法と言ったところか。
時は今、雨が滴る雲のもと、サルスベリも花開き、梅雨明けを待ち望んでいる。
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今日の花。左、夏を代表する花の一つサルスベリ、右、紫苑の花と見間違えることの多い姫女苑(ヒメジョオン)。名前まで間違えそう。
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道路際に植えてある皐月の上に架けたくもの巣に水滴がガラス玉のように綺麗にぶら下がっていた。
こんな所にこんな風に網を張って、どんな虫が引っかかるというのだろうか、しかし、周りにはいくつもあるところを見ると、引っかかるのだろうな。
まえに、糸を編んだり捻ったりして編み、婦人下着の縁を飾るなどに使う”レース”はラテン語から来た言葉で、魚や鳥を取る網に似ているところから付けられ、罠という意味もあると聞いたことがある。
たしかに、チラッと見えるレースの下着にクラッと来て罠にかかってしまった男もいるかもしれないが、写真のよな”くもの巣”も”レース”という言葉が何の違和感もなしに当てはまるような気がする。
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捕鯨調査船の船員が自宅に送った鯨肉を運送会社から無断持ち出しをしたとして、環境保護団体のメンバー二人が逮捕された。
「証拠を手に入れるため」にしたことと団体側が言うが、日本の法律では警察でも令状か、任意の承諾が無ければ出来ないはずのことをするのは、首をかしげる言い分である。
しかし、一方で国ぐるみの証拠隠滅のようにとられても仕様のない行動は、今後、世界の批判を招くのではないかと思う。
いわく、乗組員に土産の鯨肉を会社が買って与えた。そのほかにも欲しい人には別途買ってもらった。と船会社は言い、警察も認めたが、最高級の部位を只で、それも20キロ余もとなると他の人はどうして譲ったのだろうか。
乗組員が、もし、グリンピースの言うようなことをしたとしたら、国内でも問題になりかねないし、今後の調査捕鯨に影響が出るので、国ぐるみで「臭いものに蓋」をしたととられても仕様のないような気もする。
グリンピースと言えば、五十年ほど前から原爆に反対し抗議船を実験場近くにいれて実権阻止をしたり、自然環境問題などで活動して来たが、アメリカやフランスなどの政府としては目の上のたんこぶ的存在である。
そして、鯨に関しては日本政府も同様の立場であろう。しかし、違法行為をして付け込まれるような事をしていては、政府によい口実与えるだけになり、長年の実績に傷が付き一般の人は支持できなくなる。
鯨肉。と言えば筋だらけ、咬んでも咬んでも、、、、というところを戦後食べた記憶しかなかったが、先年、飲み屋で久し振りに食べたら肉質といい、色といい、同じ肉とは思えないほど違った物が出てきた。
あの時分でもそんなところがあったはずなんだけど、あれは何処に行っていたんだろうな。
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今日の花。左、合歓(ネム) 右、南天。小糠雨を受けて水滴が膨らんでいる。何れも、完全なものが少なく写しにくい花である。
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山の上なら幾分涼しいかと麻機山の農道へ上げって見たが風もなく、蒸し暑さは変わらない。
こうなると、先日の菅平の冷え切った空気が懐かしい。良く響くカッコウの声。どこか眠げな牛の声が思い出される。
かわって、農道沿いの蜜柑畑は消毒も済みその後の新芽を狙ってか、あちこちで揚羽蝶が乱舞している。掴まっては飛び上がりして卵を産みつけられる葉を探しているのだろう。
写真の蝶は、ナミアゲハとも言うが普通はただの”揚羽蝶”と呼ばれている。良く似た種類に黄揚羽がいるが、羽の付根が写真のように黒い線が走っているか、全体に薄黒いかで区別するそうだ。
ともあれ、大きな羽を広げて優雅に飛んでいるように見えるが、蜜柑の葉を食べられては困る農家と、子孫を残したい揚羽蝶との駆け引きは部外者には面白い。
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アメリカ政府は北朝鮮が核の申告すれば「テロ支援国家」指定解除をする意向を示した。多分イラク戦争の失敗、イランとの軋轢、そして国内のサブプライム問題などどれ一つとっても上手く行かないブッシュ大統領が、このままで行くと史上最低の大統領と烙印を押されるのを嫌って、何とか解決したいと言う焦りから始めたことと思う。
そのため、意のままになる日本にも圧力をかけ、実質何も無い「拉致被害者を調査する」という項目で制裁を緩めるよう指示した。と受け取られる交渉をさせたが、なんだか裏の狙いが見え見えで下手な素人芝居に見えるのは下司の勘ぐりなのだろうか。
早く交渉を成立させたいと願うアメリカの姿勢からは、交渉術では何枚も上手の北朝鮮に翻弄されることと思うが、この調子では、日本も虻蜂取らずで終わるのか、裏でアメリカと何か約束しているのではないかと思うが、どうだろう。
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今日の蝶。左、黄斑セセリ 右、黄立羽
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昨日六月十七日。農家の朝は早い。東の空、浅間の右肩が明るくなる五時少し前から林檎畑の中で音がする。
なんと言う名前の機械かは知らないが、消毒液を噴霧する四輪車で林檎の木間を走り回って、林檎の木よりよほど高く吹き上げ、遠くから見ると白い煙のように見える。
当然、消毒というのだから有害物質なので、運転する人は合羽を着込み、マスクをするという厳重武装をして赤いポンプ車(?)にまたがっている。
この車もう一工夫して、運転席を覆うことが出来なかったものかと思うが、何か理由があるのだろうか。義弟に聞くと朝早いのは風が少なく、消毒液が余計なところに飛散させないためだと言う。
林檎摘みの時期だけが仕事ではないと思ってはいたが、年中何がしかの手入れをしなければならない。なんでもそうかも知れないが手間のかかる作物で「大変なんだ~」。
今日は、静岡に帰る日なので、若干のみやげ、(農産物がほとんど、、、、)を買い揃えたついでに近所の津金寺に何か花が無いかと寄ってみると、ツツジは盛りを過ぎ、九輪草はすでに済んで丸い実をつけており、一区切りついた様子。
奉仕の婦人に混じって和尚もエンジン付きの草刈機を操作していたので、挨拶はしたものの、こんな大きな寺の和尚が、、、、、と思うと「大変だぁ」と言う感想しかでてこない想像力の貧困さ。
午後になって出発。大門峠を越え女神湖周りの蓮華ツツジを車窓から眺めて白樺湖、茅野に下って中央道回り、約五時間の運転で帰って来たが、かなり疲れ気味だったので、うつらうつらと18日は過ごした。
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今日の花。津金寺横の池に咲く 左、コウホネ 右、ヒツジグサ
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根子岳から十ヶ原の鞍部までは低い笹原で快適な降りになる。足元はイワカガミが道の縁だけでなく笹の中にも沢山あるのが透かして見える。
そして、四阿山の登りにかかると状況は一転する。樅の樹を主体にした原生林の中は光も届かず薄暗い上、1㍍を越す笹が道を覆い隠している。目印はところどころにつけてある赤いテープであり、それに従って行く先を判断するといった状況の場所が何箇所かある。
急な斜面のところどころに残雪がある。北向斜面というだけでなく、日の差し込まないせいもあるかと思う。そして、途中2ヶ所開けたところがあり、今降ってきた根子岳の斜面がこちら側とは対照的に明るく映え、その奥の北アルプスを引き立てている。
ようやく開けた場所に出てくれば、山頂はすぐそば、菅平牧場から直登して来た二人連れがすぐ前を歩いていて、山頂で追いつくとカメラのシャッター押しを頼まれた。
山頂は、下から見た感じとは違い細長い尾根上の地形で、信仰の山らしく祠が三つ並んでいる。いずれの神様か確認しなかったが、「さぞ窮屈なことだろうな」と思ったのは私だけ?
その間にいかにもわが領土といった感じで群馬県嬬恋村の木柱が立っていたが長野県のは無い。一体に長野の山にはこういった柱や標識が無いが、静岡や山梨の県境の山では両方が立ち、中には気に入らないのか、刃物で削ってあるものまである。これも県民性なのか。登山者のマナーなのか、、、、、。
食事を兼ねた一休みをすれば、雲が急速に周囲の展望をふさぐようにかかってきた。まるで、舞台の幕を引くようにして、、、、、、、それを機に腰を上げ降りに入る。階段状の木道に沿って降ると、鳥居峠方面との分岐に入り、そちらに降れば大回りになるので、四阿山高原のほうに道をとり、低い石原の斜面を下るとイワカガミと三つ葉ツチグリ、三つ葉オウレンが縞状の群落をなしており、それらを見ているうちに、中四阿山への道を見失ってしまった。
「まあ、少し大回りだけど四阿山高原に降るか」と軽い気持ちで他の花の写真を撮りながら高度を下げていき、牧場の柵伝いに1,500m付近まで降ると三方柵で道が突然ふさがれてしまった。
あちこち探ってみたが、行く先が無いので柵を乗り越え牧場を水平に西方向に歩くことにした。蓮華ツツジの開き具合から言ってこれ以上下に降っては駐車場より下に行ってしまうと判断したためで、ひと気の全然感じられず、一面牧草で先の見えない草原をこの判断でよかったのだろうかと思いながらただひたすら歩いた。
約1kmほど歩いたところで、ようやく荒れた道路に出たが、その道路をさらに3km歩いてようやく駐車場に到着した。全工程七時間。回り道が無ければもっと短かったのだろうけど、いろんな花を見せてもらったと思えばこれもまたよい結果であった。
帰ったところで、葱苗を譲ってくれるとという話があったので、また畑に出て二畝葱用の深い溝を掘ったがこれが意外に堪え、手のひらに水膨れを作り汗だらけの身体をシャワーで流すころには「もう、どうにでもして、、、」という無気力状態。
夕食前まで一眠りをしてしまった。
この山での写真は”根子 四阿の花”としてマイフォトで紹介します。
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今日の花。左、鈴蘭 右、ライラック 何れも菅平牧場の池のほとりに咲いていた。
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朝四時、起きてみると浅間山から連なる籠ノ塔山、菅平方面の山は雲の中、反対側の蓼科山も全然見えない。
すこし様子を見ようとまた布団に入ったものの、じっとしていられなくなって五時前に車に乗り込んで、菅平に向かった。
昨年、根子岳から四阿山をぐるッと廻ってこようとしたものの雨風に阻まれて根子岳だけで断念してきたのでそのりべンジを果たしたいと狙っていた。そしてもし駄目なら湯の丸山の蓮華ツツジでという両面作戦で向かってみたのだが、次第に空は晴れ上がり六時に菅平牧場の駐車場に入れたときは上空は雲一つない快晴になった。
根子岳は花の百名山に数えられるくらい花の多いところと聞く。今回はどんな花が顔を揃えてくれるのか楽しみにして支度にかかっていると、郭公がすぐ傍でのどかな声で泣き出した。
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まず、1,250mの菅平に入ったときからあちこちに濃いダイダイ色の蓮華ツツジが咲き乱れていた。この花は毒があるとかで、牛も食べないそうで、牧場の中にあっても大きな群落を作っていた。
牧場の最上部1,700mを越えるくらいまでは蓮華ツツジががメインフラワー、そこから上は蕾になり変わって、深山ツツジがイワカガミが、そして、峰桜が彩りの主役になる。
この当たりまでは白樺が多くとその上に行くと低い潅木になり、山全体が明るく登るには気持ちの良い山である。
あちこちと写真を写しながらの、山登りだが、足の調子も良く快適に高度を稼ぎ思ったより早く七時半に山頂に着く。頂上からの眺めは北アルプス全体が良く見えるものの、南側の山々は雲に埋もれている、その時になって、「此方はまだ梅雨入りしていない」ことに気がついた。
ガラガラとした山頂。去年の強い雨混じりの風もなく、印象はずいぶんと違って感じた。頂上で一休みの後、狭い岩稜の突端屏風岩に向かう。
この山から直線で2kmくらいか、次に目指す四阿山は200m下ったほど十ヶ原を挟んだ向うに聳えているが、標高差以上に高く威圧感を与えるのは樅の木などが繁り暗く感じるところにあるためかもしれない。
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今日の花。左、ズミの花。正式名は小梨といい蕾のうちは淡い桃色をしている。上高地河童橋の近くを昔は小梨平といったが、この樹は今では少なくなってしまった。右、猩猩袴(ショウジョウバカマ)、春を象徴するはなのひとつ。そばの小さい花はミツバオウレン。
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先日来、長野で植えたじゃが芋がいい具合に育ってきたから、「土寄せに何時来るんだ」と電話があった。
そして、一昨日「日曜日に来るんだろ。手伝うよ」とまた別な友達からの電話で、「天気がよければ、、」と返事した手前、清水で肴を仕入れるともに、今年始めて一輪だけ咲く月下美人を葉の付根で切り長野に向かう。
ふるさと飛騨でもそうだが、長野でもじゃが芋は茎が枯れてからの取り入れになるので、お盆の前後になると思うが、ホクホクとした美味しい味が忘れられず昨年に引き続いての収穫が楽しみである。
費用対効果からいうと、買って食べて方がよほど安いものであるが、そこはそれ、じゃが芋を口実に、、、が一番の目的。
こんなことは、あと何年続けられるか、と思う年頃になると「出来るうちに。出来るうちに」が口癖になりかけてきた。
着いた所で早速土寄せをはじめ、大汗をかく。「この調子ではビールが美味いだろうな」「生ビールで乾杯!なんてのはどうだい」ということになった。
そうなると、今晩咲く月下美人を愛でる人がいない。やむなく、毎年林檎を分けてもらっている農家に持参し、「今晩咲くはずだから」と置き、夕方になるのを待ちかねて繰り出した。
九時過ぎに帰って来たが、疲れとほろ酔い以上~泥酔未満で普段より早いとは思ったが、バタンキュウ状態で眠ってしまった。
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今日の花。左、じゃが芋の花、めったに実を結ぶことのない花だが、トマトの仲間だけあって良く似た実がなることがある。右、白花九輪草(クリンソウ)もう花に時期が終わり先端の一段だけがかろうじて咲いていた。
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小さな谷川だが轟々と流れ降る音は凄ましいものがある。傾斜が急なので滝に近いところがあるためだろう。
今日は、蒸し暑い天気を避けるのを兼ねて有東木の「うつろぎ」へ行ってみた。前回下十枚山に登った時は丁度お茶摘みの時期だったので、休業の札がかかっていた。
いつもの通りの天蕎麦を食べるには時間も早かったので、集落の中をあちこち見て歩いた後立ち寄ったのだが、標高が600mほどのこの集落は平地より半月ほど季節が遅く、栴檀の花が盛りを迎え、ウツギの花もようやく矛を収めようとしている時期だった。
しかし、ウツギの蜜か香りか、はたまた花粉がいいのか紋白蝶をはじめ姫赤タテハ蝶、一文字蝶と何種類もの蝶が群がっていた。その少し先では、虫取りスミレに紋白蝶と黒アゲハがきていたが、アゲハチョウとタテハ蝶は一緒の花にたかることが無かった。
我々が自分の舌に合った特定の店に何度も通うように、蝶蝶も決まった花に向かうようで面白かった。
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今日は、宮城県と岩手県で大きな地震あり、かなり被害が出ているようだ。
大きな地すべりで、一瞬にしてむき出しになった地肌が揺れの大きさを照明している。しかし、幸いなこと言っては悪いのかもしれないが、震度6強という激しい揺れの中、犠牲になった人が今のところ死者三人という少なさで報告されていることである。最終的にはもっと増えるだろうが、中国での地震や阪神大震災のようなことにはならないだろう。
これは、通勤、通学時間に重なっていたが、土曜休み、山間部で人が少なかったことや火事にならなかったことによる。
最近日本での地震は、こんな幸運に助けられているが、三十年来何時きてもおかしくないと言われ続けている東海地震はこんな幸運に恵まれるだろうか。少なくても人口密度はかなり大きいことだけは間違いない。
そのときは、たまたま、いる場所によって生死が決まるのだが、何処にいることやら「クワバラ クワバラ」と唱えておくしかないのだが、、、、、。
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今日の蝶。一文字蝶、名前の由来になった一文字の白線を羽に描いているが、裏側はタテハ蝶の仲間だけにうえの蝶に似た色使いをしている。右、黒アゲハは虫取りスミレがお気に入りのようで二匹(頭)が離れれず交互に蜜吸いにきていた。
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花桃の木に5mほどの間隔を置いて二匹(頭)の小紫が争っていた。タテハ蝶の仲間である小紫は写真でもわかるように日の光の反射加減で茶色の羽が青紫の色に変わる特徴を持っている。
小紫の名前は、国蝶大紫(オオムラサキ)の向うを張って付けられたものだが、その綺麗さは引けをとらないと私は思う。
もっともこれは、雄にかぎっていて、雌は他の生物同様豹紋蝶ののように茶色いまま変わらない。活発に飛び回っている割合に遠くまで飛んでいかないそうだから、この二匹(頭)の蝶も兄弟なのかもしれないが、結構懸命に縄張り争いをし、何時までも争っていた。
~姉さの小袖は濃紫 こむらさき~はちょっと違うけど、、、
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「じいじ。13日の金曜日って怖い日なの?」と孫が聞いてきた。どうせ学校で誰かが言っていたんだろうと思いながら「キリストを信じている人にはそうかもしれないけど、じいじは仏教だから関係ないよ」「ふ~ん、怖くない人もいるんだ。それじゃ僕はどっちなの」
「う~んと、キリスト教徒じゃないから関係ないんじゃない」「関係ないんだね、分かった」
何事にも寛容なのか、いい加減なのか。なんでも取り込む日本人は日本古来の忌みごとは勿論、遣隋使以来中国の、、、文明開化してからヨーロッパの忌みごと習慣など全てを受け入れそれだも足りなくて、血液型など何の根拠もない占いや関係ののない行事をごっちゃ混ぜに受け入れて訳の分からない国にしてしまった。
いままで、何回も13日の金曜日を何事も無く過ごしてきた”じいじ”は今日幸運にも小紫を見てきた。
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今日の花。左、萩の花、右、額紫陽花の額。どちらも園芸種色鮮やかに花びらを綺麗にと遺伝子操作を繰り返した結果。
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こんなことなら昼からゆっくりと出かければよかったが、なんとなく気が急いて、小降りから止みはせぬまでも濡れない程度になったのを見計らって出かけて見る。
すると、二~三日前、ひょっとすると今朝巣立ちしたばかりではないかと思われるような雛を連れたカルガモに出会った。
小さな小川に入って逃げ場がないところだったので、親は口を半開きで警戒音を発し、私から見て雛を隠すような位置につけようとするのだが、怖いもの知らずの雛たちは、バラバラになりたがる様子。
昨日見た大きな雛に比べればかなりの差があるが、人間でも小学校の入学式をランドセルに押しつぶされるような子もいたりして、同級生でもかなりの差があるように、カルガモの雛もこれから大小の競演が見られることになると思う。
考えてみれば、親子と言えど顔を見合わせてからほんの僅かしか経っていない、どんな識別の仕方をしているのだろうか。以前に聞いた話では雛が卵から出て最初に目にしたものを親と認識するそうだが、そうなると親のほうが認識するのに時間がかかるのではないか、なんて余計なことを考えたりしてみるが、玩具みたいな雛の可愛いこと、親の心配を他所にまた見とれてしまった。
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今日も秋葉原の殺傷事件をゴシップまがいにワイドショーが取り上げていた。
確かに人殺しは悪い、それも関係のない人を無差別にするのは、、、。しかし、犯人は25歳という成人した大人だよ。なのに、日本では親を引っ張り出して謝罪させなければ気が済まないのだろうか。
もうひとつ、派遣会社だか関東自動車だか知らないが、事件が発覚してから、「作業服は無くなっていなかった」「人員整理の対象ではなかった」と言っていたが、どうもその辺に胡散臭さが残って仕様が無い。
一方が、発言できないことをいいことに言っているような気がする。
静岡に来て、出会い帳場、下請け、孫受けの仕事も数多くしたが、大きな会社の若造社員にどれだけ腹を立てたことがあったか知れないので、そんな環境にもあったのかもしれないなどと考えてしまう。
書き出せばきりが無いのでこの辺で止めておこう。
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今日の花。左、赤芽柏、春先赤い葉を出して目立つ木も花はごく地味に咲かせる。しかし、小さな花を密集させて良い匂いを放っているのは人間ばかりでなく虫にも評判は良い。 右、溝蕎麦、湿り気のある場所に旺盛な繁殖力で埋め尽くしている様は花の可愛らしさを隠して猛々しい。
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いまにも雨が降り出すと言う天気予報だったので、朝七時ころ歩に出かけてみた。
近所の学校の中学生が早くも、自転車でむかっている。狭い通学路を道いっぱいに併行して走ってくるのにすれ違う。触れたらどうしようか、突き飛ばしたら新聞種にされかねないし、と身構えながら歩く。
水の張った田んぼには、今年はじめてみるカルガモの親子を見るまで気分がささくれ立っていたが、こんなことで気分を害するようではまだ修行が出来ていないことを再認識されられる。
先日チラッと見かけた、幼い雛は伸びかけた蓮の葉の下に入って見失った、良く見るとすぐ傍で親鳥がひたすらじっと身を低くして此方の様子を窺がっていたが、今日のはかなり大きくなっている、ここまで大きくなればかくれる所のない早苗の田んぼでもよいと判断したのだろうか。(同じ親鳥ではなかろうが、、、)
鴨の仲間は、生まれてすぐに親と同じ物を食べるため、危険な巣まで餌を持ってくるということは無く、直ちに巣を離れて食べ物になる水草、昆虫の区別、天敵から身を守る術を親に付き添われながら憶えていく。
そして、見ていると雛の世話は母親だけが見ているのか、この時期オスらしき親鳥は田んぼのあぜ道に行列をして座り込んでいる。
雛の目から見ると、自分を守り育ててくれるのは母親だけで、父親は眼中に無いことだろう。ご同輩の男の立場から見ると羨ましいような、情けないような。
それにしても、半年ほど親から養育、教育で自立させてしまう本能の素晴らしさ。一方で大学や会社にまで付いていく子離れ、親離れができない人間、、、、、。考えされられてしまうね。
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本日参議院で問責決議案が可決された。平たく言うと福田内閣は参議院から不信任を突きつけられたことになるのだが、誰も慌てるそぶりがない。
内閣、与党はもとより、出したほうの野党も、「こんなもんだろう」ぐらいにしか感じていないようである。ここで、福田首相が「解散して信を問う」ということにならないのを織り込んでいるせいである。
とんだ茶番劇であるが、この先どうなるのか見てみたい。
お隣韓国では、牛肉輸入の問題で100万人規模のデモが行なわれ揺れているが、日本ではこういう手の集会はしばらく聞いたことがない。後期高齢者保険にしても不満を言うが行動に出たのはごく僅か、労働組合もストライキを打つ方法を忘れてしまった、という。
全てに緊張感を失って日本の行く先はどっちつかず、、、、、。
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今日の花。左、インド浜木綿、葉の形は浜木綿、花の形は百合、してその実態は?、アメリカ浜木綿という説もあるそうで、、、 右、悪茄子、幹や葉に棘があることから名付けられたが、この花にしてみれば自衛策であり、人間なんか当てにしていないので、、、、
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春先の霞がかった空は、いかにも「春が来た~」というポカポカした感じが心地よいものだが、梅雨の晴れ間の霞空は「蒸し暑い!」を予感させるものがあり、同じ現象でもずいぶんと印象が違う。
それでもと思って、近場の帆掛山、通称一本松へ例のごとく霊山寺経由で行ってみた。予想通り花は少ない、頂上付近でようやく花茗荷があっただけ、そして頂上には私同様むさい爺さんが六~七人も東屋で屯していた。
頂上での眺めは、相変わらずの靄がかかっているもの、富士山がかろうじて識別できる程度の見える。この季節仕方のないことである。
そこでの話も、一昨日の秋葉原に事件が主題。その中で「おとましい」という言葉が出てきて自分の使い方と違うので、興味を持って帰ってから調べてみたら、「おとましい」とはもともとの語源が「疎ましい」から変化したものらしく、飛騨、富山、愛知、三重県当たりでは「モッタイナイ、惜しい」というような意味で使われ、静岡、長野、山梨当たりでは「恐ろしい」香川県では「疎ましい、いとわしい」というような使い方がされているそうで、同じ言葉でも土地によってずいぶん変化が違うのを認識させられた。
そんなこんなで、話を聞いていたら昼近くなり、弁当も持っていない人ばかりなので自然解散の後、清水側の道は使ったことがないので、登ってきた道ではなく標識に従って尾根道を降ってみたが、これがまた大変、下り坂が一本だとばかり思っていたが、たこの足のように末広がりに分かれている。
この道の途中では、ドラム缶の水溜めの上にモリアオガエルが卵を産み、落ちたオタマジャクシとぼうふらが共棲していたが、餌になるのではなかったのか、、、と考えてしまうとともに、トンボエダシャク(下の写真)が大量に発生していたのも気にかかった。
そんな風景を見ているうちに、押切の登り口に降りてきたが、それから車を停めた駐車場までの道の遠いこと、暑さもと空腹で方法の態で戻ってきたのは午後一時だった。
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今日の虫。左、姫蛇の目のラブコール。右、トンボエダシャク、昼の間活発に飛び回る蛾。胴体が太くトンボに似ているとして付けられた名前という。
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赤とんぼの代表格はアキアカネという種類だが、このトンボは暑さに弱いのか、大金持ちなのか、夏場は涼しい高原や山で過ごし秋になって帰ってくる頃から、ようやく名前どおりの赤とんぼになる。
その留守の間を守るように、いま、真っ赤な色をして飛んでいるトンボはナツアカネという種類であり、麻機沼の水面をコシアキトンボとともに、水面から50㌢ほどの高さで遊弋し、なかなかとまってくれない。
子どものころ、夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先。と歌って「フフフッ」と笑う子がいたが、何のことか分からなかった覚えがある。
そういえば、赤とんぼの歌の意味が分かる人は、今では、少なくなってしまったことと思う。
赤ん坊の子守は、子どもの仕事だったし、背中にくくりつけて遊び歩いたのは中島潔の絵の中だけの世界になったし、子守奉公の”ねえや”が15歳で嫁に行くことなど、今なら児童福祉法に引っかかってしまいかねない。
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競泳ジャパンオープンで、日本記録が続出したそうだ。北島選手にいたっては世界記録を一秒も短縮する快記録であったが、記録を出した原因はイギリスの水着メーカーの製品だとか、、、。
すでに、他の国の選手も快記録を出しているとなれば、日本人選手も着用しないわけには行かないだろうと言うのが大方の論評であった。
最初この話を聞いた時、オリンピック委員会が認可したと言う記事だったので、水着で記録が出せるのは邪道かと思ったが、考えてみれば、陸上競技のスパイクつきの靴だって、スキーの板やワックスなど各国で莫大な金をつぎ込んで研究したものを使わせての勝負なのだから、「スポーツ精神がどうだこうだっていうことそのものが可笑しいんじゃない」という気分になってきた。
本当に、スポーツマン精神にのっとって、、、というなら、古代ギリシャの絵にあるようにみんな”スッポンポン”になってやればいいじゃないか。そうすれば選手の本当の力が分かるし、国家の介入する余地も減ってくるうえ、契約がどうたらこうたら言う問題もなくなる。
それよりも何よりも、”風もないのにブーラブラ”してたら見ているほうが数倍楽しくなると思うが、、、、?如何?
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今日のトンボ。左、コシアキトンボ、腰にあたる部分が白くなっているので、右、シオヤトンボ、シオカラトンボに似ているが尻尾全体が鼠色なので。
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諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
有名な平家物語の出だしである。世の中の無常観を基調とし、源氏物語とは違って共感を持てる部分がある。
ここに出てくる”沙羅双樹の花”はお釈迦様が亡くなったとき、その遺体を包み隠すように散ったと言われている。
この木は、日本では育たない木と言われていたが、仏法が日本に広まった以上この木があるはずと坊さんが山に入って見つけ出した、と言われるのが、上の写真の沙羅の木であるが、もとより本家の沙羅の木とは似ても似つかないものである。
古い時代、写真もなく見たこともない花を探すと言うのも変な話だが、以前に愛鷹山の位牌岳に登った際、霧紛れの中、高い梢の上でうすらぼんやりと見えた近い種類の”姫沙羅”(左の写真07年6月)の花は、神秘的な雰囲気を持っていたような気がする。
かなり前の話だが、檀那寺の前の住職がインドの仏跡めぐりのあと、沙羅双樹の木の葉だといって一枚貰ったが、今何処に行ったのか分からない。
椿の仲間である写真の木の花は縁のギザギザが特徴だが、白い椿に雰囲気が良く似ていて、「夏つばき」という名がぴったりであろう。
もっとも、日本に将来”沙羅の木”が根付くようなことになると、インド並みの暑い気候になることであり、地球は温暖化で末世になるので、これもまた心配である。
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ところで、今日はどういう事情だったのか知らないが、NHKが長時間のエコを主体にした番組を組み、朝日テレビもなんだか良く似た長時間番組を放送していたため、ニュースの時間に秋葉原の無差別殺人というか通り魔事件というのか知らないが、此方の報道がかなりおろそかになって、BSの放送でニュースを見るしかなかった。
詳しい事情は、これからだろうが、25歳の青年が「生活に疲れてやってしまった」というのが逮捕後の自供だと報じられていた。東北出身でワンルームマンションに一人住まい。地域との接触も無かったようだし、孤独だったであろうことは分かる、、、?。それにしても、この年で「生活に疲れてしまった」とは、、、、
自分だけの感情で通り魔的な大量殺人は決して許されるものではない。この事件も長い裁判にの末、記憶も薄れたころになって判決が出るのだろうが、こんな人でも死刑廃止論者は駄目というのだろうか。
精神鑑定をして、当時心神喪失と認められれば、無罪になるのだろうか。それでは訳もなく殺された人、その家族はどうなるのだろう。おりしも、大阪の池田小学校に乱入し、手当たりしだい児童20人以上を殺傷した日と同じとは、嫌なことの重なる日である。、、これらを考えるとき、死刑になったとしても生き返るわけでもなく癒される訳でもないが、、、、、。
先日のテレビで、日本は世界で五番目に安全な国であるいう調査があると説明されていたが、毎日毎日どこかで殺人事件の記事がない日がないのに、と思うと世界ではどれほど人の命がなくなっているのか、、、、、。
「人の命は地球よりも重い」といった言葉は、誰が言ったのか、、、、
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梅雨の晴れ間と言えば蒸しむしと暑い日のこというと書いてあったが、今日はまったくその通りの晴れ間であった。
グラウンドの照り返しもきつく、立っているだけでくたびれて仕舞う。孫の学校では今日が運動会。毎年恒例となっている行事だし、喜んで寄せてもらう。
この暑さで一日中日に照らされるのも大変かと思うが、父親曰く「運動会を早く終わらせてくれ」という要望があって、今年は今まで目玉だった最後の選手リレーがなくなったと嘆いていた。
どのくらいの人がそういう意見を学校に寄せたか知らないが、最近流行のモンスターピアレンツなのだろうか。「事なかれで主義」で、そうなったとしたら、いちいち言うことを聞いているとなんの行事も出来なくなってしまう。
もっと公開して、討論しなければますます学校の権威が落ちてしまうのではないだろうかと心配する。
また、例年のごとく万国旗はためくもとの運動会だったが、長年使用していると見え、旧ソ連の槌と草刈鎌の赤旗がぶら下がっていた。この旗、ソ連崩壊で廃止、ロシアになって新国旗を制定したものだが、それから15年になる。物持ちのよいのは分かるが国旗の識別も学習のうちだとすると少しは気を利かせる必要があるのではないだろうか。
とはいえ、孫を含めて囲む弁当の味はこれまた格別。来年と再来年が過ぎれば中学生。後 二回の楽しみかと思うとおにぎりの味も、山の頂上で食べるのとまた一味違うのを感じてしまう。
.天下為公
儒教の教えの中に「天下為公」という言葉があり、政治家などが好んで使う。
最近の解釈としては、天下は為政者、独裁者のためにあるのではなく、人民のためにある」という風に書かれているものが多い。
しかし、古来日本では、公とは国でなく法人、団体を言った言葉であり、良く時代劇などで公儀隠密という時の公儀は幕府を指すことでも分かる。決して、人民を言っているのではない。
歴史の上で、人民が主役になるのはぐっと下がって18世紀当たりが最初であろう。アテネやローマの市民といったって、ごく限られた人のことである。
日本では、戦後ようやく得られた権利であるが、まだ使い方に慣れてない。ただ語呂がよいので使っているだけでなかろうか。
そのよい例が、中央官庁の縄張り意識、国会議員の特権意識をはじめ、各県の段階、市町村のところにまで公社だ、特殊法人だのと甘い蜜を吸う利権構造を生み出している。
彼らの言う”公”は省庁であり、国会であり、県市町村であり、その公を守るため頑張っている。言いたくはないが決して、人民のためにやっているのではないことを知る必要があるだろう。
「キンチョウ」のコマーシャルに「その疑り深い目が好っき!」と言っているが、あまり性善説に囚われないで「本当かな」と疑い、監視の目を向けることが大切、、、、、。
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これはどこかに行かなきゃと思ったが、肝心の燃料と財布が心細いので一番近場の山、ということで竜爪山(1,026m)に登ってみる事にし、則沢(ソクサワ)の林道を登っていった。
昨夜来の雨の影響があって、下から見た竜爪は山肌に霧を巻きつかせている。「そのうち上がるさ」と心うちで思いながら、駐車場に着いたのが八時、周りは淡い霧の中。
支度して、少し増水気味の沢をまたぎ、山道に取り掛かる。上りだしてすぐ沢蟹を見つけたのでからかいながら写真を写していたら、後から追い越していった人がいた。
この人、初めからなのか半ズボンにランニング一丁という格好。聞けば、一番下に車を停めて、ここまで一時間かけて来たとのことで、私より年上の七十七歳だ、とのことだった。
歩く早さは私より少し遅いくらいだが、此方が写真を写しながら歩くと丁度同じ速さになり後先になりながら文殊岳頂上に着いたのが九時を少し廻ってからだった。
頂上は晴れていたが、富士は勿論、周りの山々は全て低い雲の中。今朝考えた蕎麦粒山辺りもきっと雲の中だろう。と思わせる空模様だったし、春の花も終わって写すものも少なく、さびしい山行きになった。
偶然にも前後して登ることになった人とは、頂上に着くころはすっかり話しがあって、テーブルを囲んで山談議、長談義。話しでは、何回もブータンに行ってヒマラヤの下でトレッキングしているとのこと、近いうちにまた行きたいのだが、直行便が少なく、成都を経由するので地震とブータンの政情が、、、、。とのこと。
その後穂積神社を廻って帰る、とのことなので、薬師岳を越え穂積神社からの出合いまで一緒して別れた。
その後、再び文殊岳に戻るとしばらくして同年輩の人が薬師岳のほうから来てろくに休みもせず、あたふたと戻る。
こんな日は、どんなに天気が良くても我々のような者しか来れないんだな、ということを認識しながらの下山となった。
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今日の花。左、二人静(フタリシズカ)中には四~五本並び立っているのがあるが、多分カシマシ草と名を変えなければ成らないだろうと思う。 右、宝鐸草(ホウチャクソウ)お寺の軒先などに下がっているベルのような形をしているところから名付けられた、ユリ科の植物。この花ももう遅くほとんどは丸い実をになっていた。
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今日は芒種。暦の上ではこのころに田植えをすることを勧めている。
”五月雨のそそぐ山田に 早乙女が藻裾濡らして
早苗植えわたす 夏は来ぬ" とあるように、田植えは初夏の行事だった。
しかし、農業もこの歌のころからかなり変化し、田起しから稲刈り、脱穀精米まで人力ばかり、せいぜいが牛馬のころとは違って、機械化され、機械の入らない田んぼは放棄され、季節感や風情は無くなった。
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今日の散歩は麻機の山。ところどころに派手な色の花が目に付く、野菅草(ノカンゾウ)だ。この花は一日花で咲いた翌日には萎んでしまうが、次から次へと新しい花が咲き続ける。
カンゾウという名は此方に来てから知った名前で、飛騨では甘菜(アマナ)と言っていたので甘いと言う字から、甘草と書くのかと思っていたら甘草(カンゾウ)は別な薬草をいい、この草は菅草と書くということだった。
甘菜(アマナ)とは若芽の時、摘んできて酢味噌和えなどにすると幾分甘く感じるところからきているようで、山菜の一つだった。
平地に生えている菅草には、野菅草と藪菅草があり、一重のものを野菅草、八重のものを藪菅草というが山菜として使うには区別をしなかった。というか葉っぱは分からないほど似ている。
ただ、同じ仲間でもニッコウキスゲは食べたことがない。
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アメリカの大統領予備選も民主党はオバマ候補の勝利で序盤戦の決着が付いたようだが、対立候補だったクリントンさんが最後まで粘り、敗北宣言を明確に出さず、副大統領候補を目指しているそうだが、自分だったら、あの人を副大統領になんかにしたくない。
お国柄なのか、女性特有の心情なのか、ネバーギブアップも時によりけりで、、、、、見苦しく写るのは、これまた日本人というか自分の信条なのだろうな。
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散歩道では比較的近場になるところに、下水処理場がありこの時期になると場内に植えてあるタチアオイと花菖蒲を公開している。
街中からそんなに遠くなくて駐車場もあるところから、周りのケア施設や保育園児と見られる集団がいつも来ている。
今日は、他の用事もあって通りかかったので立ち寄ってみたが、何れも満開の時期で綺麗に咲きそろっている。ただ、園芸品種には弱いので、花菖蒲やタチアオイの品種をパネルで説明し、係員がこの花は珍しい種類で、、、と説明したくれるが、どれがどれやら、何がなんだか、、、、、やっぱり興味の無いものは覚えられないね。
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昨日は今井正監督の「青い山脈」今日はヒッチコックの「裏窓」とBSの映画を見た。何れもずいぶん昔に見た映画だったので、こんな場面があったかなというところもあったが、筋書きは大体覚えていた。
前にも書いたが、鉱山町で生まれ育ったせいで、当時の福祉娯楽対策などから各地区ごとに映画館があり、映画は小さいときから良く見ていた。しかし、「青い山脈」は五度も映画化されたそうだが、覚えているのは一番最初の今井監督のものだけで、後は不思議と記憶に無い。(見ていないのかも、、、)
主役の島崎先生は原節子~雪村いずみ~吉永小百合~中野良子~柏原芳恵と毎回その時の人気者をそろえていたはずなのだが、、、
また、懐かしのメロデイでは決まって出てくるのが、この映画の主題歌で、この歌は勿論、当時の歌の幾つかは、長い前奏から覚えているし、名曲に付き物の替え歌も、また、、、、、、(恥ずかしいものだが、、、)
作られたのは、昭和24年だったとか、、、、、当時敗戦のすぐ後だったので、性を不潔なものと考え、規制した戦争中までの考えを引きずっている学校理事の考えと、新しく入ってきた民主主義という言葉の扱い方があの当時のことを思い浮かばせた。
そして、映画館の客席では引き揚げてきたとき着ていたよれよれの軍服やどてら姿の観客席から見ると、当時としては夢のような服(スーツ)を着た島崎先生(原節子)や、背広を着た沼田先生やセーラー服の女生徒との格差を思い出し、最後に出てきた自転車で海岸にむかって走るシーンが、坂ばかりの鉱山町には珍しい自転車であり、それも新品も”光”のエンブレムもまばゆい新品の自転車だったことを改めて確認した。
この辺が、あとの”青い山脈”では感じなくなった実世間と映画のギャップが強烈で印象的だったんだろうなと思う。
そして、今日見た”裏窓”は昭和29年の作品だったと言うが、後にモナコ公国の妃になった、グレイースケリーの清楚な美しさと、ニューヨークの当時の住宅事情が本当にこんなだったけな、という疑問を抱かせる画面が印象的で、ストーリーの貧しさをどこかに吹っ飛ばしていた。
いやぁ~映画って昔を思いさせるもんですな。と、最近の映画を全然見たことのない爺は言う。
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今日の花。左、梔子(クチナシ) 春の沈丁花、秋の金木犀と並んで香りの高い花の代表。 右、夾竹桃。白い花をまじかで見れば良く似ている。排気ガスや日照りに強く街路樹に良く使われている。
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雨の合間を縫って散歩に出かけれると、最近立ち並んだマンションの間に田植えのすんだばかりの田んぼが一枚。水を湛え、周りの建物を写しこんでいた。
旧静岡市が旧清水市合併してお情けの(人口が70万と少ししかない)政令指定都市にしてもらったとき、市街化区域内の農地は宅地並みに課税されるか、生産緑化地区に申請して30年だか農地として使い続けるかを選ばなければならなくなって、農家は大変迷ったらしい。
それも合併前はそんな話しも無く、決まってからの話だったので、、、知らなかったと言えばそれまでだが、都合が悪いので隠していたと取られても仕様のないやり方だった。
そのため、宅地並みの課税に耐えるには農業をやっていくわけにも行かず、住宅街の中の土地は、売り払うか駐車場などに転用し収入を得るしかなくなった。
食料自給率が下がっている現在この法律はど。うしたことだろう。もっとも、そんな土地を全然持たない自分たちから見ると、安い税金を払いながら、機を見て売り払うなり、マンションを建てるなりして大金を得る今までの農家にも反感を持っていた。
多分先祖代々の資産もあるかもしれないが、かなりの部分戦後の農地解放で手に入れた儲け物の土地が多いはずだから、、、
しかし、農業を続けることを選んだ人にとっても、この先30年は長い試練になるだろう。先日も自民党の幹部が、農業の自給率を上げるため減反政策を止めようという発言をしていたが、足らないのは米でなくほかの作物であることを御存知無い様で自民党のなからも非難されていた。
福田首相も今度のサミットで世界の食糧問題を取り上げようと気張っているようだが、足元の幹事長がこんな認識では、世界にどうせよというのだろうか。
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今日の花。左、犬サフラン 右、コスモス、どちらも淡いピンクを呈している。
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午後になって音も無く降り出した雨は次第に強くなり、テレビは去年より十二日も早い梅雨入りだと報じていたが、早い分梅雨明けが早いと言うことは無いようなので、先が思いやられる。
天気予報を見ると、一週間先まで曇りや傘マークのない日はすくなく、孫の運動会のある土曜日が何とか晴れてくれるのを祈っている。
梅の実も色づき、紫陽花も一団と元気が出てきたような気がする。
梅雨は日本など東南アジアの季節を象徴する気象で、梅が熟するとき一致するからというのが一般的であるが、じめじめとした気候は食べものを黴させる所から付けられたとも言われ、また、普段に倍する雨が降るからとも言うが、そんなことはどっちでも良いじめじめとした長雨や大降り天気はあまり好きになれない。
しかし、これがあるから日本の風土が保たれていると思えば仕様のないことか、そして、気候は人間までウエットにしてしまうのか、日本では一神教はごく少数にしか通用してこなかった。
雨が少なく砂漠化した土地の宗教は生きるための厳しさが伴い、人を愛すると言いながら、自分の言い分を聞かない人や他の宗教には徹底した対立関係を作ってきた。
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今月に入ってガソリンがまた急騰した。これで年初からの引き上げが4~50円も上がってしまった事になる。それに伴って遠洋漁業の船が出港すれば赤字になるということで港に泊まったままになり、静岡の人たちが大好きな鰹鮪の入荷が減り価格高騰の兆しが出てきた。
しかし、一番困るのは、穀物を燃料にしたりなどもあって、食べ物から衣料など身近な商品が軒並み値柄上がりし家計を圧迫していることにある。
こうなると、気晴らしのドライブなど財布と相談しながらのことになり、遊びに金をかけることに後ろめたい思いをする。
石油の、実勢価格は今でも百円少しだという人もいる。残りは先物投資マネーが釣り上げていると聞くと腹が立つ。
先日も、石油産出国の一つ、ドバイに関するテレビを見ていたがあきれる思いがするばかり、アフリカ諸国では一日1ドル未満の収入しかない人が多く、食うや食わずの生活をしている人がいるというのに、、、、、ただ石油が出ると言うだけで贅沢以上の暮らしが出来る矛盾。
なんだか、天の神様も不公平な配分をすることよ。
ただ、あの国は将来石油が枯渇したり代替燃料が出てきたときには、維持費が確保できず巨大な廃墟ができてしまうだけという気がするが、人間の欲望は次には何処へ行くのか、南極の氷が溶けてから考えよう。
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「お~い 暑いね。そんなところでしかっめつらしい顔して何考えてんだよ」とでも言いたげに下のほうから雨蛙が寄ってきた。
上の蛙はそれでもどこかを向いたまま一点をにらみつけている。背中を傍の葉に合わせたのか、それとも日焼けしたのか、変色させている。
昨日までの二~三日、四月上旬かとも言われたほど冷え込んでいたが、一転今日は快晴、27度まで上がった気温の中 Tシャツ一枚になって過ごした。
まさに、暦通りの衣替え。
島田の梅産地、伊太の農家から昨夜「梅を取りを始めたから、取りにおいで」と電話を貰ったので少しばかり分けてもらうため出かけた。
以前は、毎日の昼ごはんに梅干を一つづつ食べていたので使う量も多かったが、最近では食べる量がグッと減ってしまったので、近所のスーパーでもいいかと、思っていたが「物が違うよ」と言われればついついと出かけてしまう。
ついでに、淡竹(静岡ではハチコーという)のタケノコも少々とってきた。この筍は孟宗竹と違い、地面に出てきたところをへし折って食べるもので採取は簡単。ただ少しえぐい所が残るが、これも好き好きであり、梅狩りと淡竹取りのセットはは例年の行事となってしまった。
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今政府は、子どもに携帯電話を持たせないように指導しようとしているそうだ。教育再生懇談会なる前政権の肝いりで作られた懇談会の提言で、持たせてもGPSと通話機能だけに、、、、という骨子だそうだ。
最近、携帯電話がらみの事件やいじめが多くなったことの寄るものだが、こんなことは親が対処するもので、わざわざ政府が口出しすることでもないと思っていたが、今日のNHKの番組を見ていたら、携帯電話にのめりこんだ子どもの電話代請求額が十数万円になる明細書を写していた。
ビックリしたね。私の携帯みたいに全然使わないのも問題だが、こんなに払っていたら我が家では生活が成り立たない。
さらに見ていたら、この子どもは、御飯の合間というより携帯の画面を見ている合間に御飯を口に入れるような状態。注意をすると「いやだ」といって続けている。
もし、これが自分の子だったら、ビンタの一つもくれて携帯電話を取り上げてしまうところだが、今の親はそれが出来ず(児童虐待で告発される?)ただ黙って電話代を支払ってしまっているらしい。(まったく舐められてしまっている)
これは一種の薬物中毒に似ていて、誰かと連絡を取り合っていないと不安なのだろうか。最近では毎日のようにキーを打ちながら自転車通学をしている学生を見る。ひところ流行った女の子のルーズソックスみたいにいつか下火になる時が来るのだろうか。
国が、「携帯電話を持たせるな」と決めても、こんな親たちではどうしようもないのだろうな。
「甘やかすにも程ほどにして子どものしつけ方を衣替えするように脱皮して欲しい」でないと、この子達が成人してから社会の荒波におぼれてしまうひ弱い子になり、苦労するのは目に見えている。
と、昔人間は思うのだが、、、、如何。
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