梅雨の晴れ間に運動会
梅雨の晴れ間と言えば蒸しむしと暑い日のこというと書いてあったが、今日はまったくその通りの晴れ間であった。
グラウンドの照り返しもきつく、立っているだけでくたびれて仕舞う。孫の学校では今日が運動会。毎年恒例となっている行事だし、喜んで寄せてもらう。
この暑さで一日中日に照らされるのも大変かと思うが、父親曰く「運動会を早く終わらせてくれ」という要望があって、今年は今まで目玉だった最後の選手リレーがなくなったと嘆いていた。
どのくらいの人がそういう意見を学校に寄せたか知らないが、最近流行のモンスターピアレンツなのだろうか。「事なかれで主義」で、そうなったとしたら、いちいち言うことを聞いているとなんの行事も出来なくなってしまう。
もっと公開して、討論しなければますます学校の権威が落ちてしまうのではないだろうかと心配する。
また、例年のごとく万国旗はためくもとの運動会だったが、長年使用していると見え、旧ソ連の槌と草刈鎌の赤旗がぶら下がっていた。この旗、ソ連崩壊で廃止、ロシアになって新国旗を制定したものだが、それから15年になる。物持ちのよいのは分かるが国旗の識別も学習のうちだとすると少しは気を利かせる必要があるのではないだろうか。
とはいえ、孫を含めて囲む弁当の味はこれまた格別。来年と再来年が過ぎれば中学生。後 二回の楽しみかと思うとおにぎりの味も、山の頂上で食べるのとまた一味違うのを感じてしまう。
.天下為公
儒教の教えの中に「天下為公」という言葉があり、政治家などが好んで使う。
最近の解釈としては、天下は為政者、独裁者のためにあるのではなく、人民のためにある」という風に書かれているものが多い。
しかし、古来日本では、公とは国でなく法人、団体を言った言葉であり、良く時代劇などで公儀隠密という時の公儀は幕府を指すことでも分かる。決して、人民を言っているのではない。
歴史の上で、人民が主役になるのはぐっと下がって18世紀当たりが最初であろう。アテネやローマの市民といったって、ごく限られた人のことである。
日本では、戦後ようやく得られた権利であるが、まだ使い方に慣れてない。ただ語呂がよいので使っているだけでなかろうか。
そのよい例が、中央官庁の縄張り意識、国会議員の特権意識をはじめ、各県の段階、市町村のところにまで公社だ、特殊法人だのと甘い蜜を吸う利権構造を生み出している。
彼らの言う”公”は省庁であり、国会であり、県市町村であり、その公を守るため頑張っている。言いたくはないが決して、人民のためにやっているのではないことを知る必要があるだろう。
「キンチョウ」のコマーシャルに「その疑り深い目が好っき!」と言っているが、あまり性善説に囚われないで「本当かな」と疑い、監視の目を向けることが大切、、、、、。
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