ようやく出会えた万治の石仏
それは怪奇とユーモラスを混交したような顔をしていた。日本では見たことのない石の顔であった。、、、、、、、(中略)
顔の面積の三分の一を占有するほど大きな鼻の下に一文字に掘り込んだ小さな口があった。両眼は深く刻みこまれた凹部としてのみ存在していた。素朴といえばそれほど素朴な石の顔は見たことがなかった。
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上の文章は、昭和51年に発表された、新田次郎の”万治の石仏”の一節であり、新田次郎が万治の石仏をはじめてみたときの印象であると思われる。
この石仏を、イースター島のモアイ像に結びつけ”万治の石仏”とした物語を初めて読んで以来、一度見たくて探したが、いつも道に迷い、なかなか出会えなかった。
普段、長野への行き来は野辺山が多く、そのほかとしては茅野のインターを使うため、諏訪神社 下社春宮のほうには行く機会も少なかったが、今回は暑さを思って午前中に立科町を出たため時間もあり、よい機会と思い尋ねた。
”万治の石仏”は写真や先日の首伸ばし事件で見ているが、実物はまた違った印象であり、顔とその下の自然石に掘られた僧衣とは明らかに釣り合いは取れないものであることは確かであり、新田次郎が想像したのも順当なことかもしれない。
万治年間といえば1,660年だというから、江戸時代初期のうちに入る。それ以前の首はどんな祭られ方をしていたのだろうか、どう見ても仏の顔と言うより鬼の顔に近いのではないかと思う。
とにかく印象的な顔をしてござった。しばらく、眺めたが何時までも飽きることのない姿かたち、、、、。そのうちにせっつかれてしぶしぶ春宮へ参り、駐車場に戻る。
駐車場には、じゃが芋と玉蜀黍を積み込んだ上、あちこちで暇乞いをするたびにお土産としてもらった、野菜や鮎などで自動車の中の後半分は荷物の山。
いつもの事ながらありがたいことこの上もなし、、、と思いつつ、自動車は後荷の重みに耐えかねてそっくり返ってのご帰宅。
”万治の石仏”佐久市望月にもあるとのこと、知らなかったので次の機会に見に行こうと思っています。それにしても、万治という時代と石仏は何か意味があるのでしょうか、その辺もあわせて分かれば幸いです。 (八月十四日)
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今日の花。立科町に咲く花
左、川原撫子、日本女性に見立てられるはなの一つだが、こうしてみるとしとやかさより、華やかさが目立つ。 右、南蛮繁縷(ナンバンハコベ)帰化植物ではなくれっきとした在来種。花の派手さから名付けられたとも言うが、、、
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