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2010年9月19日 (日)

哀れなり塔頭の仏たち

011 教育委員会の案内板

そのむかし、多分武田信玄の金堀衆が見つけたものと思われるが、安倍川最上流部の梅が島地区に日影沢金山と言うものがあって、江戸時代ずっと掘り続けられ、明治になって新田のほうに移住するまで人がいたという記録がある。

その日影沢金山跡を梅が島温泉”黄金の湯”に行きたいと言う連れ合いの言葉を利用して見てきた。

自分が働いた飛騨の神岡鉱山もそうだが、稼動しているときは威勢が良いが、閉山になった後の鉱山ほど寂しいものは無い。

神岡鉱山も、坑内から金属を産出しなくなり、山の中の社宅群から人がいなくなった、いま、廃墟マニアが群れを成して歩き回っているようで、ネット上に廃墟の写真が結構出ている。自分らからするとそれらの建物に思い出があるだけに冒涜されたような感じがしてならない。

そう思いながら、この遺物を見て回るのは矛盾しているかもしれないが、、、、すでにこの地が廃墟になって百四十年、遺跡が自然に帰る前に目に納めておくのも、、、、と言う勝手な理屈をつけて回ることにした。

018q 左、長盛鋪のあった場所として作られた坑口

麓の”ととの里”から尾根伝いに登ること20分ほどで、”屋敷跡””長盛鋪”さらに五分ほど登って山神様。

そこから戻って、二十年ほど前に架けられた近代的なつり橋を渡って、どんどん山の中腹に登り、それから、急勾配の山の尾根道を下ったところにある鉱夫の墓の群れの間を降って河原に下りたところにある代官屋敷跡が終点で約一時間のハイキングコースになっていた。

金山跡巡りだけなら、山神様から真横に横断すれば鉱夫の墓へ行けるのに、何も無い杉林の間の山登りさせるのはどんな意味があるのだろうかと思ってしまった。

自分たちは、坑内のことを”鋪”(シキ)と呼んだが、いま残っている”長盛鋪”は最近作られたもので、ここにあったと言う標識にしか過ぎないものであり、感慨深かったのは、石垣だけになった屋敷跡と鉱夫の墓である。

あれだけ、ハイキングコースとして整備したのなら、屋敷跡に植えられた杉を伐採して除去して貰えれば資料として一級品になるのではないかと思う。

029 .

030w また、目で見ただけで30基以上あると見られる小さな墓石群が尾根道のあちこちに不規則に建っている。

この墓の下にどんな歴史が眠っているのだろうか。この頃は人がやっとくぐれるだけの穴を開けて採掘する”狸掘り”と言う方法がほとんどであり、落盤、生き埋め、硅肺などの災害があり、天寿を全うする人はまずなく、寿命と引き換えの仕事であった。

まさに、この墓石の群れは「夏草やつわものどもが 夢のあとではなかったろうか。遠く、故郷を離れいまは花も手向ける人とて無い山奥深くで眠る山師。、、、それでも、墓のある連中はまだしもであり、ほとんどは何も残ってはいないはず、、、    

          はかなくも哀れなり

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