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2011年5月29日 (日)

炭坑画が記憶遺産に

018 .約30分の激しい降りで、、、

001 普段はこんな水路だが

台風二号の影響で午後になって激しく降りだした雨は、裏を流れる水路の水位を瞬く間に押し上げた。

以前は、このくらいの降りだと一気に路上まで上がってきたのだが、大谷川放水路というのができて、巴川の水が河口になっている清水まで行く前に一部を途中から駿河湾に抜けるよう改修がされたお陰で、それ以来の水害はなくなった。

この雨も、ありがたいことには五時過ぎには小止みになり、同報無線ではその後にも警報が出たが、、、、水位は下がった。

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002 .昭和30年代始めまで使われた鑿岩機、手回しのハンドルと被っているヘルメット、カンテラが当時を思い起こさせる。

先日、ユネスコの世界記憶遺産に故 山本作兵衛さんの炭坑の様子を画いた絵が指定されたと報じられていた。

同じ鉱山労働者だった自分はこの人の絵は何回か本などでみて知っていた。昭和初期頃まで労働基準法がなかった時代の採炭夫や坑内で働く女性、子供たちの様子を描いたものである。

多分、絵を勉強したことがないであろう人のもので無いだけに平板に書かれているが、それだけに迫力があり、当時の様子をうかがい知れるものである。

そのほかに、上野英信という人が、やはり、筑豊の炭坑を書いた「追われ行く坑夫」というものがあり、こちらは戦後から30年代まで炭坑で働く人を主題に扱った本であった。

005_2 昭和40年代、レッグ式鑿岩機で坑道掘進をする様子。

鉱山とは大きく分けて金属などを掘る鉱山と石炭を掘る炭山とに分けられるが、主に硬い火成岩の中にある鉱石を掘る鉱山のほうが金銀や宝石を求め地下深くもぐる孔は古代から掘られていたが、石炭は産業革命が起きてから採掘されたため、歴史は浅い。

しかし、環境ということでは炭鉱のほうが過酷だったのか、有能な人が多かったのか山本作兵衛さんや上野英信さんがでている。

いま、日本には鉱山労働者と言われる人はごく僅かになってしまい、いずれ僅かな記憶の中に消えてしまうことになるだろう。

自分も、17歳から39歳まで坑内で仕事してきたものとして、いくらかでも書ければと思うが、情けないことに、あれから三十年余記憶がかなり薄れてきてしまった。

当時は狭い特殊な社会だけに、いろいろと思い悩むこと、苦しいこと楽しいこと、、、、これから、少しづつどこかに貯めてみようととは思うのだけど、、、

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コメント

TOMOKOさん
”わが谷は緑なりき”を見られたのですか。古い白黒映画でした。
私の家も親子二代、いや、親戚を含めれば10人以上がその鉱山に勤めていました。
しかし、一族揃って反抗心が強く(ネジベエぞろい)映画のように親子で会社に対する思いが違うということがありませんでしたが、あの頃の親は映画のように家族に対する責任感と、強圧的と思えるほど家族を支配していました。
懐かしい映画です。
鉱山での生活は、一つのへまが自分以外にも他人の命にかかわるだけに、毎朝今日が、、、今日がと思ったこともあります。
好きで入った坑内の仕事ではありませんでしたが、次第にやりがいも出来て、、、、
少しづつ書いてみようとは思っていますが、何処から手をつけてよいやら、、、です。

投稿: オラケタル | 2011年5月31日 (火) 22時08分

山本作兵衛さんのこと、ユネスコ世界記憶遺産というものも初めて知りました。絵もテレビと新聞に載ったものしか見ておりませんが、素人のようではあっても上手に、想いが籠った画だと感じました。伝え残したい思いが描かせたものなのでしょうね。
オラ・ケタルさんも是非お書きになって、残していただきたいです。
映画「わが谷は緑なりき」が頭をよぎりました。

投稿: tomoko | 2011年5月31日 (火) 08時02分

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