あんたと一緒にしないで
日中は暖かくなって十二度を越えたが、日の出時の気温は一度だった。
麻機の沼も一部が結氷し、さすがの青鷺たちも水の中は冷たかったと見えてそれぞれに水面から盛り上がった小さな島にあがり、二度寝をしていた。
多分、夜中に沼の面を吹き渡る風によってしんしんと冷え込むここいらでは寝ることもままならなかったようで、朝の光を受け、つい眠気が戻ってきたに違いない。
二度寝は、目を覚ましたとき疲労感が強く、さわやかな寝覚めとは行かないものだが、それを承知の上でのことだろうか。
きっと「あんたと一緒にしないで」と、言うのかもしれないが、、、、そんなこと思うのは、あまりにも擬人化しすぎた想像だろうか。
それにしても、青鷺だけの朝寝も珍しいと思って写してみた。
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往年の大横綱大鵬幸喜が亡くなった。
21歳で横綱になり72歳で亡くなったそうだから、自分より一~二歳若かったということになる。
優勝回数も32回と史上最多の記録をもっているほか、同じときに昇進した柏戸と熱戦を繰り返し、柏鵬時代時代と言う相撲全盛期を作り上げたものだった。
当時「巨人 大鵬 卵焼き」なんて言葉が出来たのは、子供たちに愛されていたことを示しているが、大鵬自身はこの言葉が好きでなかったらしく、「巨人と一緒にされても困る。自分は16歳でこの世界に入り裸一貫で横綱に上り詰めたが、巨人は完成された人間を金で集めたのだから、強くて当たり前なんだ」というのを聞いた。
その大鵬に、巨人の長島茂雄氏がコメントを寄せたというが、大鵬にしてみれば「あんたとは違う」といいたいのではないだろうか。
それにしても、樺太からの引揚者の子供が、「腹いっぱい飯を食べさせる」と言う言葉に誘われて相撲界に飛び込んだのは、同じ世代の自分にはよくわかる。
昭和三十年に入ったばかりの頃は、幾分よくなったとはいえ、それまでずっと腹をすかしていて、秤にかけて貰う寮のご飯では足らず、毎日、10円ほどのコッペパンを買い食いしなければ腹が持たなかった。
月々、手取り千七百円ほどしかない給料のうち、300円がパン代であり、卵なんて月にいくつ食べられたことだったか、、、、、、
そんな時代の腹いっぱいはとても魅力があったことだろう。
ひるがえって、いまの子供たちを相撲取りにするには、どんなくどき文句があるのだろうか。
食事はおろか、欲しいものは全て手に入る時代に、、、、兄弟子は「無理偏にゲンコツ」とは行かないまでも、ハングリー精神がなくなり、身体の痛い職業は日本にはもう育たない競技ではないだろうか。
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コメント
ピカッとサリーさん
大鵬を直接見たことがあるんですか。うらやましい限りです。
当方、ついにテレビの箱を通してしか相撲を見たことありません。
それにしても、あの当時は人気がありましたね。仕事から帰ると毎日見ていましたし、翌日もその決まり手を話し合ったものでした。
とうぜん、年に2回ほどは職場対抗の相撲大会もあり、何度か出たことがありましたので相撲は身近なものでした。
ブログにも書いていますが、これからの相撲というものはハングリー精神のない若い人ばかりになってしまい、日本では衰退するしかない競技になるでしょうね。
投稿: オラケタル | 2013年1月21日 (月) 22時32分
こんばんわ
「巨人と一緒にされても困る。自分は16歳でこの世界に入り裸一貫で横綱に上り詰めたが、巨人は完成された人間を金で集めたのだから、強くて当たり前なんだ」最もだって思います♪
大鵬大好きでした。
まだ小学生の頃愛知の岡崎というところの刑務所の跡地に巡業に来ていました♪
その頃10円がおこずかい(笑)たこせん一枚5円それに5厘の飴玉10こが変えました。
巡業に小学校から100円持ってゆくと土曜日に歩いてですが教頭先生が引率で10日分のおこずかい貯めて連れて行ってもらいました。
真っ白い大きな大鵬関でした。
でも最後に玉乃島(後の横綱)に張り手で負けてしまいました!!
白い顔が真っ赤になった光景今でも思い出します♪
後ろのおじさんがあれは巡業だから蒲郡の出身の玉乃島に勝たせてやったんだって言っていましたが・・・
今でも素敵な横綱大鵬偉大です♪
投稿: ピカッとサリー | 2013年1月21日 (月) 21時18分