越前竹人形と一乗谷
永平寺から来た道を戻り、少し小高い岡の上に登ったところに越前竹人形館があった。
そのむかし、水上勉の小説、”越前竹人形”で有名になった竹だけを使った人形を製作しているところだが、館内の案内をも見て大昔からあったものではないことを知って驚いた。
なんでも、昭和27年になって、竹の切れ端を使って何かできないかと言うことから始まったようで、小説が38年に書かれたそうだから、、、、、
ともあれ、人形を製作している過程が見られるというので、工房のほうを見せてもらった。
写真の人形はかぐや姫であるが、この髪の毛を鉈で細かく割っていき何千本もの細かい竹ひごを小さな人形の頭の挿すそうで、、その一本一本は髪の毛と同じくらいまで裂いていくと実演つきで説明を受けた。
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その後、南に下って、戦国時代初期に栄華を誇った大名朝倉氏の館があった一乗谷の遺跡を見に行く。
織田信長によって、焼き尽くされた史跡は、戦後になって発掘、一部復元工事がなされた場所を見学したが、当時の武家や職人の住まいを見て意外と粗末な建物に住んでいたことに気が付いた。
もっとも、この建て方は、戦後まで古い田舎の民家や鉱山の社宅と同じ、屋根に川原石を乗せる”刳れ板葺き”なので懐かしい。と言う感じもあり、本当にこんな建て方だったのかと気にもなった。
そして、中級の武士の家には畳が敷いてあったので、戦国時代には板敷きに円座と言う先入観から案内の人に聞いてみたら「焼け焦げた畳が出土しましたので、、」とのこと
朝倉氏は、応仁の乱を利用して守護大名になった一族らしいが、結局のところ、京都の文化に染められて時の情勢を見誤ったことが滅亡の原因だあり、駿河の今川氏や武田勝頼とよく似た滅び方をしているところに哀れを感じてしまった。
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