清見寺にいく
清水に買いもがてらに出かけたのだが、久しぶりに榊屋の刺身が食べたくなって、そちらに向かって車を走らせた。
しかし、昼にはまだ少し早すぎたので、もう少し先の清見寺に寄ってみることにした。
朝から曇り空ながら肌にべったりと湿気がまとわり付くような蒸し暑い天気は、高台にある清見寺の境内に上がっても同じだった。
いままで何回かこのお寺には来ていたので目新しい物は期待していなかったのだが、山門に内部の見学が出来ると書いてあったのを見て、中に入り玄関の小さな釣鐘を叩いて案内を請うた。
見学者は誰もいない様子で、応対に出てきた僧侶は「方丈にいるボランテイアが案内してくれるのでごゆっくり」とひきさがる。
方丈に居た案内者は一方的に説明するのではなく、こちらが興味を持ったものに対して、説明すると言う方法を取ってくれた。
清見寺は、古くは蝦夷に備えて作られた清見関として関所が造られた折、その脇に造られた仏堂が初めだそうで、今から1,300年余の昔になるそうだ。
そのご、東海道の要所にあったことから源平の合戦や南北朝の争い、戦国時代には今川、北条、武田の軍勢が、そして秀吉の北条攻めをふくめ関が原の戦い。そして近代になって明治維新、日清日露の戦争と世界大戦までおびただしい大軍がこの下の東海道を行ったり来たりをしたのを眺めてきたはずである。
その戦いで権力者が入れ替わる中、今川、徳川と庇護されて生き延びてきたが、変わり目にはたびたび戦禍にあったそうだ。
方丈の朝鮮通信使の扁額や山水の庭園、明治天皇の御座所になった居間、そして、最後は潮音閣の広間から海のほうを一望したが、明治のころまでは、旧東海道のすぐそばまで清見潟と呼ばれ、岩がところどころにある海岸だったそうで、今の時代ならここを埋め立てて道路や工場を建てるなんてことは景観保護の観点から赦されなかったことであろう。
まあ、それを言えば、境内に国鉄の線路を通すことももちろんであったが、すべて、その時代の開発第一主義がさせたことであり、後世残念がっても元にもどらない繰言として忘れさられようとしているように見えた。
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このほか、建物の木材質や、建てかたについていろいろ感じたこともあったが、冗長に流れてしまう。
とにかく、お昼の時間も差し迫ってきたので、案内者の「座魚荘」に行くことを勧められたのだが、榊屋のさしみ定食に目がくらんで「後日に、、、、」と挨拶をして退散する。
刺身定食は、新鮮で冷たく予想通りの旨さに満足した。
「同じ魚でも、どんぶりの上の暖かい魚はわしの口には合わん」といいながら
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