すべては夢幻

ふるさとの飛騨には二十五山と池の山という二つの宝の山があった。
二つの山の間には、跡津川断層と言う巨大な断層で隔てられていたが、いずれもそのむかし海の底に出来た石灰岩を基盤にしており、その中を熱水が貫入して出来た接触交代鉱床が眠っていた。
この鉱床に手をつけたのは養老年間だと言われているが、近代的な採掘は茂住宗貞が江戸時代初期に開発しだしてからである。
最盛期には、4,000人以上がこの鉱山で働き、戦時中には戦場に狩り出された日本人に代わって朝鮮の人や捕虜までが坑内作業に従事した。
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昭和三十年六月、自分たちは八本目になる四寸角の柱を交代に担ぎながら二十五山の山道を登った。
自分たちの学校は、鉱山が運営する高校で、入学すれば自動的に鉱山に採用されるため、朝鮮戦争の後の不景気で就職難だった当時としては人気のある学校で、かなり広範囲から生徒が集まっていた。
そして、自分たちはその学校の八回目の新入生であり、開校記念日には新入生が”開校記念”と墨書された柱を山頂に担ぎ上げるのが慣わしになっていた。
その柱は、山頂の祠から四メートルおきに立てられ、いつの年か麓まで立ち並ぶはずだったが、15本目を最後に終わってしまった。(確認はしていない)
と、言うのは、さしもの二十五山も長年の採掘により山体崩壊がはじまり、採掘した後の空洞に山頂部を削り充填し始めたからである。
その後、1,219mの高さを誇り、日本海が見えたと言う伝説を持つ山は大きな変貌を遂げその山から派生していた尾根より低くされてしまった。
もちろん、山頂の祠も十五本の柱もどうなったか確認の仕様もなく、すべては夢幻と消え去ってしまった。
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きのう、久しぶりにその神岡鉱山が新聞記事になった。
もと鉱山で働いていた人たちが予防措置が不十分だったため、塵肺になったとして鉱山を訴えていたが、岐阜地裁は鉱山に賠償を命令する判決を下した。
これによると、賠償する27人中15人は塵肺法上の塵肺とは認められないが、、、いくらかでも影響があるだろうということで賠償対象に含めたとある。
自分の幼友達の兄も訴訟に加わっていると聞いているが、20年以上粉塵職場で仕事してきた自分としては複雑な思いで新聞を見ている。
































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