« あのころは | トップページ | 沙羅双樹 »

2014年6月11日 (水)

百花繚乱

002

高い山か~ら 谷底見ればよ~ 

 瓜やなすび~の 花盛りよ アレモヨイヨイヨイ

ふるさとの祭りで神輿が還御するとき、しこたま酒が入った白丁が右に左にと揺れながらお宮さんの長い参道を登っていくのが目に浮かぶ。

飛騨の祭りは、古式の白装束で身を固めた白丁が静静と担ぎ、町内を巡るため、わっしょいわっしょいとゆすりたくって歩く祭りはなんとなく肌に合わない。

まして、最近で出した”ソイヤソイヤ”と言う掛け声には何を気取ってんの言いたくなる。美空ひばりの歌にも神田明神は”わっしょいわっしょい”だったはず。

.

.

003

坑木がきしみ裂けて折れる、断層帯突破のための刺し抜き工法、

なまじっかの腕ではできない昭和30年半ば

昨日に続いて今日も鉱山の思い出話しを、、、

昨日も書いたが、鉱山に働く人々は戦後だけでなく、鉱山と言うものができた当時から特殊技術を持った人が流れ歩くため、人々の離合集散の場所であった。

自分が鉱山に入った当時はさすがになくなっていたが、友子制度と言うものがあって、ある程度鉱山の技術を持った人々が親分子分の関係を持ち、どこの鉱山に行っても、親分の名前を出して働くことが出来たそうだ。

それこそやくざ映画で見るように、飯場で仁義を切れば働かなくても一宿一飯の接待は受けられたそうだ。

同期生のひとりに、その当時の親分の息子がいて、子分だった当時五十歳くらいの人が丁寧に応対しているのを見てびっくりしたことがある。

そして、自分たちの入ったときにも全国から集まってきた人たちがいて、会社の調査によると、そのとき、奈良県出身者だけがいないということだった。

当然、それらの人々はお国言葉を持ち込んでいるため、飛騨に有りながらまともな飛騨言葉がうすれ、まわりの町村とはすこしちがっていたうえ、10kmほど離れた同じ事業所内の茂住坑(大津山)は富山に近いため富山弁が優勢であり、栃洞坑は飛騨弁が優勢であった。

しかし、鉱物の結晶は”ガマ”と言ったが、これは沖縄地方の洞穴を意味し、靴など反対に履くことを”アッペ”と言ったが、これは東北の言葉であった。

鉱山独特の言葉にくわえて、各地の方言が入り乱れ、戦後になっても残っていた朝鮮の人の言葉が、、、、それこそ、百花繚乱

|

« あのころは | トップページ | 沙羅双樹 »

コメント

岡崎在住様
遅くなりました。
あなたが学校にいた当時、転入してきた子供たちは、昭和44年に閉山になった九州の筑豊にあった嘉穂炭鉱の閉山で引き受けた人たちです。そのあと、昭和46年に北海道の虻田鉱山が閉山になってきた人たちです。大阪、鹿児島は分かりまっせん。
同じ鉱山でも、このころになると規模も違っていましたが作業の仕方も違いますので、坑内に入った父親たちは中年になってからの移動であり苦労したことと思います。
しかし、これらの人たちのことを、それこそエリートだった斉藤係長、温厚な顔の割にそれこそくそみそに言っていました。
鉱山がばたばたと閉山する中、会社同士が再就職の手配をした結果で、友子制度とはまったく関係ありません。

投稿: オラケタル | 2014年6月14日 (土) 16時39分

オラケタル様
友子かどうか知らんけど、小学校、中学校の時に、北海道、大阪、鹿児島からの転入生が多かったな。「かわいそうや。こんなへき地に連れてこられて。」と思ったもんやさ(笑)

投稿: 岡崎在住 | 2014年6月13日 (金) 22時24分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« あのころは | トップページ | 沙羅双樹 »