住む人絶えてなく
幾年ふるさと来てみれば 咲く花啼く鳥 そよぐ風
門辺の小川のささやきも なれにし昔のままなれど
荒れたるわが家に 住む人絶えてなく
むかしの小学校唱歌に載っていた「故郷の廃家」だった。
今から五十数年前、神岡鉱山 栃洞坑のこの社宅に数年間住んでいたことがある。木造の二階建て、下が六畳、二階が八畳という間取りに親子五人で住んでいた。
そのころの鉱山は、景気の回復と東京オリンピックを前にして”所得倍増論”で賃金が毎年のように5~6%の割で上がり、なんだか前途が明るいものを感じる時期でもあった。
鉱山社宅は石炭山とちがって、全国を見ても街中に出来ているもはすくなく、大抵は坑内に入る抗口の近く、つまり山の斜面にへばりつくようにして建てられたものが多く、この一角も南平社宅と言ったが、平らなところはどこにもなかった。
そして、何もないところに建てられたということは、民家と言えるものはほとんどなく、あってもすべてが鉱山の従業員という一種企業城下町であり、おなじ職場に入っているもの同志として家族ぐるみの付き合いの濃厚なところであった。
また、市街地から離れた不便な場所に建てられたため、鉱山の福利厚生施設は当時の世間と違った生活環境がつくられており、社宅は当然としても、従業員は給料のほか冬を過ごすための燃料(当時は薪と炭が主体)水道、電気は無料であり、少し離れたところにあった大津山では、子供出産届けや名前付けなどまで人事係が相談に乗り、役場へは代行で行ったなどの逸話さえあった。
そのため、ここに長年住み続けると、それが当たり前となり、鉱山を退職して世間の風の冷たさにびっくりすると言うのが常であった。
そして、この社宅の近辺には、鉱山が経営する購買部と言うスーパーと床屋も何箇所かにあり、住めば都ではないが、ここも、ほかの鉱山同様”雲上の楽園”などとも言われたことがある。
その鉱山も、昭和五十三年に大幅な合理化がなされたのを皮切りに、幾多の人が鉱山を離れ、平成に入って閉山ととなるに及んで精錬部分を除き、四散してしまった。
それから五年、久しぶりに訪れた自分が住んだことのある長屋は庇も折れ、窓ガラスも割れており、そのむかし働いた坑内は口元がふされ、廃墟マニアの好餌にされてしまっているのは痛ましいかぎりである。
上の写真は、この奥にある山の村の従兄弟を訪ねた帰りに通りかかったもので、今から十年前のもだが、今ではさらに荒れているだろう.
いや豪雪地帯のため、、、、、
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追 岡崎在住さんや船津さんのコメントにもあったように、映画全盛のころは毎月日本映画五本と、洋画四本が上映されていたが、栃洞、大津山の両坑は無料だったようにおぼえている。精錬が主体の鹿間関係は一枚5円ほどの切符を買っていたのではなかっただろうか。
そのほかの演芸に関しても、美空ひばり以外の当時の有名タレントの公演はすべてあったと豪語されるなど、鉱山の繁栄を伝える話はいくつもある。
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コメント
去年、東京大学博物館で「神岡展」をやったそうで、そこではデジタル化した「飛騨のかなやま」があったそうや。昭和25年でいいみたいやよ。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/museum/ouroboros/06_01/tenji-rebyu.html
なんか昔、小学校での巡回映画でみたような気がして来たな(笑)
投稿: 岡崎在住 | 2014年9月20日 (土) 17時22分
岡崎在住様
鉱山病院が昭和25年に作られたかどうかは、鉱山史を見てもでていませんのでわかりません。
ただ、建物が鉄筋コンクリートの当時としてはモダンな造りからそのころだったでしょう。
この後の昭和26年からの朝鮮戦争は、鉱山がぼろ儲けをし、従業員に何に使ったらよいかアンケートをとった時期でもあり、そのことと関連していれば、もうすこしあとになるかもか、、、、。
通洞や夕陽丘に鉄筋アパートが建ったったのもそのころだったはずです。
鉱山に関係のない人が、もと自分たちが住んでいた場所にずかずかと入り込んで写しまくることには不快感を催します。
これには鉱山も安全面ばかりでなく、後始末をしっかりしなくてはならないし、立ち入り出来ないようにして欲しいものと願っています。
投稿: オラケタル | 2014年9月20日 (土) 17時11分
船津様
製作されたのは、そのころでしょう。
ただ私が見たのは、神岡会館でしたし、見たのは従業員だけが会館に集まっていたように思っています。
と言うことは、昭和三十年に鉱山高校に入ってから見たものと思っています。
映画の内容は、よる年波でほとんど忘れています。
投稿: オラケタル | 2014年9月20日 (土) 16時32分
旧神岡鉱山病院の設立は昭和25年12月とあり、その「飛騨のかなやま」という活動写真(笑)に病院が映っておったかどうかが、ポイントということやな。
http://hasiru.net/~maekawa/mine/kamioka/tetudo.html
この病院はオリが小さいとき、扁桃腺で入院した記憶があるな(^_^)
投稿: 岡崎在住 | 2014年9月20日 (土) 09時36分
オラケタルさま
製作年が昭和25年とする根拠は
1、企画が神岡鉱業(株)である。
2、六郎にあった鉱山病院がまだない。
3、神岡鉄道本線で貨車を牽引している機関車が5トンである。
以上というだけなので、詳細は不明です。なにせ「神岡町史」など公的刊行物はもちろん、鉱山関連の資料にも一切この映像には触れていません。(僕が見た限り)
個人的な所感として、神岡では昭和以降の現代史が軽視される傾向にあると思うので、鉱山や付帯設備の資料について無くなってしまう前になんとかしたいと思います。
投稿: 船津 | 2014年9月20日 (土) 00時45分
船津様
昭和25年でしか。もうすこし遅かったのではなかったかと思っていました。
当時社長だった佐藤久喜氏だったと思いますが、冒頭に挨拶があり、途中で坑内の採掘風景が写っていたのを憶えています。
あの映画は、当時の鉱山を写した貴重なフイルムであり、重要文化財に指定されていても不思議ないでしようね。
投稿: オラケタル | 2014年9月19日 (金) 16時06分
お久しぶりです。
神岡鉱業(株)の企画で昭和25年頃に製作された「飛騨のかなやま」という映画に当時の南平、泉平社宅での生活の様子が少し映っていました。
このような資料も神岡の歩んだ道として残さないといけないですね。
投稿: 船津 | 2014年9月18日 (木) 22時05分
おばさま。
燃料、電気、水道が無料だったのは時代のせいではありません。
鉱山がそれほどしなければ人が来ない。というのと、儲かりすぎていたのです。
暗くて冷たく危険な坑内では毎年のように殉職する人がいました。それだけに働く仲間同士が密になっていたのでしょうね。
鉱山を退職してからの人生はいろいろとありますが、私のように見知らぬ土地で一人でいるのは珍しく、富山や岐阜県のいくつかの団地にかたまっているの例が多いようです。
投稿: オラケタル | 2014年9月18日 (木) 21時39分
岡崎在住様
田嶋さんが係長になってからの社宅でしょうから、少し違っていたのでしょう。
さらに鉱長社宅は、女中さんの部屋までありました。
私が入社したころの、坑内上部の係長と言えば、部下が4~500人いまして、めったに見ることさえ出来ない偉い人でしたし、昭和も20年代は茂住鉱山の坑長といえば、馬に乗って茂住から上がりました。
そのための道路が、馬道といって、それ以外に使われることのない道でした。
身分の格差は、それはそれは大変なものでしたよ。
投稿: オラケタル | 2014年9月18日 (木) 21時32分
燃料・水道・電気は無料であった<<<
良い時代だったというのでしょうか
正に雲上の楽園とは言え、
労働は厳しかったのでしょうね
鉱山を離れた今 皆さんはどのような
方向に進んだのかしら
投稿: おばさん | 2014年9月18日 (木) 20時04分
田嶋君の社宅(四柱神社の下)は3つくらい部屋があった気がしたけど。庭が広かったしエラ様はちょっと違うんかいね(笑)50年前というと下之本鉱山が閉山し、栃洞に転勤された方が多くて社宅の空きが少なかった時代やろな。オランチに電力計があったもんで電気は有料と思っとったけどタダやったんやな。風呂、映画、芸能人の公演は当たり前にダダやったね。山之村は平地で川が流れて、暮らすには最適やね。サブイのがいかんけどな(笑)そういや、森茂の獅子舞は栃洞と似ており、仕事や生活面で頻繁な交流があったんやろね(^_^)
投稿: 岡崎在住 | 2014年9月18日 (木) 19時50分