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2014年12月29日 (月)

雪またじ

013

これがまあ 終の棲家か 雪五尺   

 

こんな句を思い出したのは古郷に住む従弟との電話からだった。

「どのくらい積もった?」「そうやな 二尺くらいかな? 今年はチョット早いな、久しぶりに雪の正月になりそうだよ、、」

二尺なんて尺貫法がすら~っと出てくるところは、従兄弟とはいえ軍隊経験もある八十代後半の人だけある。

自分らが子供のころは、雪のない正月はありえなかった。

元旦の初詣は、一張羅の綿入れを来て雪駄で行くのだが、足元の雪は冷たい風で冷やされ、何人もの人の下駄の歯に打ちつけられた金属のすべり止めで踏まれて粉になっており、固まることがない。

その雪が歩くたびに、鳴き砂のようにキュッキュッと鳴る。お宮さんの参道付近で知り合いにあっても挨拶は神様に詣でたあとと言われていたので目で合図しただけですれ違う、、、。

小林一茶がふるさとに帰ったのは、50歳になってからのことだったそうだ、あのころの50歳はいまの自分くらいの老け込みようだと思うが、当時の人の背丈ほどの雪を前にして暗鬱な気分で「う~ん」と唸ったことと思う。

ここ十八年、積雪を見たことない静岡の人は雪に憧れを持ち、豪雪地帯の飛騨から来た。と言えば、「あんなよい所から、どうして?」と言うが、”雪またじ”を考えれば一茶ではないが、う~んとうなり「とても無理」と言ってしまう。

”雪またじ”の「またじ」とは平安時代以前の古語、”またし”から来ている言葉で、片付けると言う意味がある。

この言葉は、北陸の雄都、金沢でも使われているが、その隣富山県では”雪まとい”という。と言うことは北陸伝いに伝わった言葉ではないし、おなじ岐阜県の美濃のほうからの言葉でもないそうだ。

そこで考えられるのは、飛騨の匠たちが持ち帰った言葉ではないかと言うことを聞いたことがある。

ともあれ、降り積もった雪を屋根から下ろした後が本当の”雪またじ”であり、ブルドーザーなどの機械がなかった時代は軒下のほうから水路に流すため、道路の真ん中に尾根のような道が残り人々は狭い通路をやっとの思いですれ違ったものだった。

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コメント

岡崎在住様
そうです。雪駄(セッタ)といいましたね。字から見ても雪の上を歩く下駄です。
ちゃらちゃらと音を立てて歩くのが粋だった頃もあったようです。
手軽にもはけましたが、雪に湿り気があると歯の間に雪玉がついたり、雪の尾根のようなところを歩くと、”げくる”といって足首をひねってしまい、捻挫の元になりました。
でも、ずんべに比べると、濡れてもすぐに乾くのでよく履いたものです。
我が家にも、金具の打っていない新品の雪駄が一そろい残っています。

投稿: オラケタル | 2014年12月30日 (火) 21時50分

前に雪よけのカバーがついた「つっかけ」やな。下駄歯に丸い金具が打ってあったかな。オランドコ母ちゃんのを借りて風呂場によぉ行ったな。雪道はおすないでな。でも「つっかけ」は雪にごぼるとホント駄目やな(笑)

投稿: 岡崎在住 | 2014年12月30日 (火) 21時20分

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