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2015年7月 5日 (日)

かってこの地は

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かってこの地は前平銀座と呼ばれていた。

昭和の時代、この道路を、たくさんの鉱山労働者とその家族が行きかい、両側に私宅と呼ばれる家々が社宅に囲まれるようにして、この道路の両脇に立ち並んでいた。

スーパーを小さくした八百屋や駄菓子屋、酒やコーヒーを飲ませる店、本屋と信用金庫の分店等々、、、、、、。

それが、今ではどこがどこやら、かろうじて残っていた消防倉庫を目印にしなければ位置関係が判然としないほど草と木に覆われてしまった。

この場所から人が消えたのは、自分が退職し、この地を去ってからのことで分からないが、昭和六十年としても30年くらいの間のことであろう。

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木々の中に埋もれようとしている赤茶けたトタン屋根の建物。

右から、労働組合栃洞分局の建物と床屋、そして,

倉庫係と守衛を兼ねた自治消防の詰め所だったと記憶している。

給料支払日には、この前に掛取りの人がたむろし、給料をもらって帰る人を見逃すまいと、、、、、、、

もちろん当時は、全額封筒に現金が入っていたものだった。

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この地を離れて、今年で35年、いろんな思い出があるはずなのだがあまりの景色の変わりように思い出までが忘却のかなたに消え飛んでしまい、感慨に浸ったることもなく引き返してきた。

馬齢を重ね重ねて七十歳も半ば過ぎ、このあと、この地に来ることが多分無いとは思いつつ

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コメント

岡崎在住様
家を建てるまえ、基礎工事を見ていると六畳間ってこんなに小さいものなのか、って思ったことがあります。
更地になってしまうと、よくこんなところに何軒も家があったもんだ。と思ってしまいました。
道路も同様なのでしょう。
栃洞小中学校の跡地も、今ではバッテリー置き場のようで中央にブルーシートがかけられていた以外、銀嶺会館側に記念碑が移されていました。
グラウンドの周りは、結構大きな木が茂り、往古の昔に返りつつあります。

投稿: オラケタル | 2015年7月 8日 (水) 21時11分

インド在住の2007年の時、日本一時帰国の際に栃洞に寄ったけど、そん時と略、同じ状況やね。そん時も「電信柱が「でこんなところにあるんや」と訳が判らんかった。しかし、今、オラケタさん写真を良くみると前平第二浴場の面影があるね。その前にある坂は子供の頃は長く感じたけど、短いもんやね。道路の両側にあった下水(側溝)が無くなったのも、きっと混乱の元やね。

投稿: 岡崎在住 | 2015年7月 7日 (火) 21時40分

岡崎在住様
上の写真ですが、あなたの家のあったところです。
奥のコンクリート製の電柱は柏豆へ行く道路があったところです。
あちらの道は、草が生えて行きにくい感じがしました。
従兄弟の子供(といっても65歳ですが)がシルバーの仕事に頼まれて、草刈りに行っていたので一緒に出かけてみましたが、、、、、、

投稿: オラケタル | 2015年7月 7日 (火) 21時12分

オラケタ様、栃洞まで大変ご苦労さまやったね。通洞人事のところには濃飛バス停留所があって、その奥には通洞購買部があって、人の往来が多くてそれはそれは華やかな場所やったね。でも給料のよもやま話は全く知らんな(笑)午後3時過ぎての鉱山グランドでの各種スポーツの賑やかさも思い出すさな。サッカーや野球をやっとったね。マラソンが盛んだったのは全く覚えがないな。

投稿: 岡崎在住 | 2015年7月 6日 (月) 21時11分

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