四十七年まえ
その二~三日まえから、寒波が襲来し鉱山病院の軒下におおきな氷柱(カネコリ)が下がっていた。
午前四時を回ったころ、その前日遅くに亡くなった父親を、担架に乗せ伯父さんとふたりで人気のない階段をくだり、霊安室まで長い廊下を移動するのはとてもつらかった。
とにかく当時は、病院と言えど冷暖房の設備はなく、患者を運ぶストレッチャーもない時代で、すべて人力に頼るしかなかった。
やけに重く感じ手がしびれたのは、零下十度を下回っていた、寒さのためか気落ちしていたせいか分からなかった、、、、
さっそく、葬儀の支度に入ったのだが、父親の親類関係がよく分からずにいたため知っている人に連絡して、「よく分からないのでよろしく」というと、夕方までに十人ほどの人が、猛吹雪の中”山の村”から雪をこざいて来てくれたが、深いところは腰までつかるくらいの積雪があり、前が見えないくらいの風で往生したと言っていた。
それほどまでにして来てくれた人にろくな御礼も出来ず今日を迎えている、、、
テレビで見る雪の映像を見ながらそんなことを考えていた一日である。
| 固定リンク
« ぬくぬくと湯に浸かる | トップページ | 月と星 »
コメント
岡崎在住さま
雪の降らない静岡では”雪見遠足”と言うのがあります。
そんな人たちに、雪深い飛騨から来たと言うと「あんな良いところから、なんで、、、」という人が必ずいます。
雪の怖さ、つらさが実感できないでいるようす。
わたしの高校に通っていたころはブルドーザーの除雪はなかったので、栃洞からの同級生は泉平から毎日下って木地屋の学校に通っていました。
南平から前平に上がり鹿間経由の往復の毎日ですから、、、
また当時、小萱から栃洞選鉱に通っていた人もいましたが、東町の柳谷(ヤナダニ)経由でした。
宮下で飲んだあと、一緒に登ったこともありましたよ。
投稿: オラケタル | 2016年1月26日 (火) 21時18分
そらぁ、おおじょうこいたな。親戚に電話をかけたんかな?その頃は一般家庭に電話普及の時代やな。オリは濃飛バスが大雪で運休になったとき、前平から釜崎(神工)まで歩いて二時間も掛かったな。(距離は10kmあるんや)前平までやったらブルが雪をあんばよーかくもんで、どうさないが、伊西やと除雪が進まんでないかな。鹿間の鉱山病院やと、更に遠いしな。
投稿: 岡崎在住 | 2016年1月26日 (火) 20時27分