馴染めない
キク科の花の特徴を全て兼ね備えており、菊の花と何一つ遜色がないのだが、取り上げる人もいなかったようで打ち捨てられている。
嫁菜にはいくつも種類があるようだが、細かい違いなので区別するのは学者様に任せておき、一般に言う野菊が一番性に合うように思う。
野菊と言えば、伊東左千夫の「野菊野ごときは君なきなり」を若いころ読んで感激したことを思い出す。
いまでは、筋書きさえよく憶えていないのだが、、、、、
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もう、あと少しで生まれ育った飛騨の山奥での生活と、静岡での生活が同じになる。
しかし、生まれ育った地は代替わりも進んで、知った顔も少なくなりたまに帰っても浦島状態になったにもかかわらず、ただ懐かしさだけがのこり思いで多き地になっている。
そして、三十九年という長き生活をし、いずれこの地で生涯を終えると思っている静岡にはいまだ違和感みたいなものが残っており、”客人”という思いが残り、いまだ、この地に馴染んではいない。
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先日、大分県でUターンした人を村八分にしたとして、弁護士会が是正勧告を出したという記事があった。
多分、Uターンした人は若いころ家を出て親の介護で戻ってきたものの、他所の地での生活習慣と戻ってきてからの土地の習慣の違いで集落から無視されることになったようで、是正勧告が出たからといって急に仲良くなれるものではないような気がする。
テレビでは「田舎で暮らそう」だの「人生の楽園」だのと田舎暮らしで成功したかのような映像が流されるが、他所の地、特に小さな集落に後から入り込むのは大変なことである。
自分のふるさとでも、戦国時代からの家柄が重視されてきた集落では、集会の席順が先祖代々決まっており、新参者はいつも末席でなにかのおり「あそこの家はじいちゃんの代になって入ってきた家だから、、、」と言われたそうだ。
自分も静岡に来た当時「何処の馬の骨とも知れんやつ、、」と陰口を叩かれたことがあり、静岡ではごく少ない苗字を持ち、言葉になまりが取れないでいることから、僻目かもしれないがいまだに、よそ者扱いを受けることがある。
それに比べると小学生のとき一緒に来た娘は、完全に静岡人になりきっているようで違和感はないそうだ。
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