今夜は皆既月食
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水面には、鴨が数羽泳いでいたが、自分の気配を察したようで、静かに気嵐の立つ向こう側に姿を消し去ろうと向かっていく。
その様子は朝の寒さで身体がなまっているのかあわてて飛び去るというのではなく、ただ静かに静かに、、、、、、
自動車などのほかの騒音も吸い込んで、夜明けの麻機遊水地は静かに朝を迎えている。
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子供たちに迷惑をかけたくないと、いま墓じまいというのが盛んに行なわれているそうだ。そして、自分の最後を自宅で終えたいと願っている人もかなりの割合でいる中、やはり迷惑をかけたくないと施設に入る人がほとんどだという。
また、近所ではお嫁さんに遠慮して我慢に我慢を重ねている人の話を聞くと時代も変わってしまったなあ~と言う感を強くする。
二世代くらい前の人たちは年よりは子供に見てもらうのが当たり前という気持ちであり、嫁いじめと言うくらい姑の力は強かった。
何時のころから「子供に迷惑をかけないように自分で始末する、、、」という風潮になったのだろうか。
今日の新聞によると全国的に求人倍率が1,6倍を超えているという。
しかし、就職しても親の面倒を見るというほど給料に余裕は無いようだ。
結局は、自分で自分を養っていくしかないいまの時代はどうなんだろう。
気嵐のかなたに静かに消え去るしかないようだ。
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「今年はどうなんかなあ~」と見に行くと厚いく毛羽立ったコートのような殻が割れて、仲の白い花びらを見せているつぼみが見つかった。
さながら”春一番”と言う歌の文句でないが#厚いコート脱いで 出かけてみませんか もうすぐ春ですね、、、、と、いった感じがしてならない。
今回の寒波もちょっとゆるみが見えてきたようで、今日の気温は曇り空ながらもう少しで10度
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まだ鉱山にいたころだから四十数年まえ、ハインリッシュの法則とやらで、重大な労働災害一件が起きる背景に29の軽微な事故が有り、その後ろには300の異常があると説明されていた。
どうも、その根拠は定かではないようだったが、割合は別にして否定し去ることはできないものがあったのは、軽微事故が続くと落盤や墜落など死に到る事故が連発したことがあった。
いまでも、工事現場では”ヒヤリハット何とか”名前を変えてうるさいくらいと思うが、人間のすること事故は絶えない。
ただ、佐久間ダムや丹那トンネルなどの一角で見られるが、犠牲者の慰霊碑には百人近い人の名前が書いてあるように、やっとこの間まで工事が完成するまで死者を想定し弔慰金が予算に計上されていると囁かれていたものである。
最近ではかなり減って来ているのはこの精神が影響しているからであろう。
二十六日国会で、最近沖縄の米軍のヘリコプター事故が連発していることから、それに関する質問中「それで、何人死んだ}という野次を飛ばしたとして、松本内閣副大臣が解任された。
こういう考えを持っている人は、いまの日米地位協定に何の不思議も持っていない人たちであろう。
米軍にヘリコプターの点検や学校の上空を飛ばないよう要請してもすぐに反古にされても自分には関係の無い土地に住んでいるという感覚がそうさせるのか、、、
この手合いの国会議員には「米軍には言いなり」という厚いコートを脱がせることは出来ないようだ。
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軒先に山から採ってきたハッサクをメジロに食べさせようと切ってつるした。
しかし、普段から目の敵にしているヒヨドリにはやりたくないので、周りを網で囲んでみた。
効果はてき面、思惑通り用心深いヒヨドリはこの網を警戒して遠くから見ているだけになった。
小鳥の中でも小さいほうになるメジロは、度胸が良いというか、お馬鹿三なのかは分からないが、最初の一日はそれでも警戒していたが以後は安心したかのように二羽一組になって朝昼夕方とやってくる。
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aスペイン語でゲリラ(guerra)とは戦争と言う意味であり、一般的に言われている小規模、突発的に打撃を与えて姿を隠す戦術を意味するものではない。
白根山が噴火して二日、その後大きな噴火は無いが気象庁の観測の裏をかくような場所で噴火した。
昨年、長年研究し観測機器を各地に設置して予測可能か?とも言われた東海地震がやっぱり予知が難しいと匙を投げてしまったが、火山についても同様な状態になったことは確実である。
自然現象のひとつである天災には人知が及ばないことを再確認させられた。
このさき何時になったら、、、と思うのだが、
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空飛ぶ鳥すべてが流されるように風下に飛んでいき、風花が舞い散っている。
今日はこの冬一番の荒れた日のようだ。
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ちょうど51年前のこの日も寒い日だった。
二の方(夜勤)の仕事を終えて帰ってきたときに父親の亡くなった知らせが病院からきた。病弱で入退院を繰り返しており、このときは入院して一週間、前の日の見舞いでは元気だった。
それが、付き添いの母親と父親の妹も気づかないくらいの間に息を引き取ったとのことであった。
雪の中を急いで駆けつけ、霊安室まで叔父と二人で担架に載せ冷たい階段を降りて行ったときの重さは今でも身にしみている。
そのとき、二十六歳だった自分は親戚関係のことに無頓着だったため、住んでいたところから十数キロはなれた山の村の親戚が分からず、わずかに知っていた親戚に電話し、あとは「心当たりに連絡してくれるよう」以来するしかなかった。
神岡町山の村は標高1,000mに近い高冷地であり、あのころはブルドーザーも少なかったこともあり、陸の孤島化していたため、親戚の男衆だけ10人ほどが股上まである雪をこざいて(踏み分けて)来てくれたが、気温も低かったため眉毛を凍らした人まであったのを覚えている。
そのご、これらの人の恩返しもすることなく別れてきたわけだが、今日のような寒い日に思い出しては、なんとも心苦しい命日である。
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山茶花の根元にはこの雨を待っていたかのように、はらはらと落花。
さながら、赤い色が入ったじゅうたんのように花びらを撒き散らしている。
これが、世に言う”落花狼藉”っていうんだろうな。
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a朝からテレビは関東地方に大雪が降ると放送し、その予報どおり都心を白く染めていた。
残念と言うか雪好きの静岡人の期待にそぐわず、静岡市街地にはいまのところ雨もやんで雪の気配は無い。
自分がいま住んでいる場所で最後に積雪があったのは23年ほど前のことだと思っている。
それだけに静岡の人は雪に憧れて朝雪が降っているのを見ると、早くから電話を掛けまくっている。
雪国に育った自分なんか静岡に来た当時、冗談に「雪がいやでこっちに来たよ」って言ったら「そんないいところに住んでいたんだ」って言われて面食らったことがある。
先日テレビを見ていたら東南アジアから来た人が雪を見て大喜びしていたが、静岡の人は良くわかるといっていた。
それにしても、冬の正装は長靴で、葬式などの際、誰の長靴か分からなくなってしまって大騒ぎしていたのをふと思い出してしまった。
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「雲ひとつ無い空とはこんな空です」と言わんばかりの青空の下、実蔓の実が太陽光を跳ね返し艶々と輝いている。
南東に向いた山の畑は風もさえぎられ、じっと座っていると、なんだか眠くなってくるような長閑さを演出してくれている。
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大寒小寒 山から小僧が降りてきた
岩手の和尚さん寒がりで
すっぽりかぶった白頭巾、、、、、て歌があった。
今日も大寒とは名ばかりの暖かい日より続きである。
多分冬将軍が、次の寒波を吹き出すため大きく息を吸って肺に溜め込んでいるのかもしれない。
ふるさとはどうかな?
便りもすっかり途絶えて異郷の地になってしまった感がある。
こちらが恋い焦がれても、向こうではすっかり忘れ去られた人なんだろう。
今ごろは大洞山を初め二十五山、漆山岳など町を囲む山々は木の葉も落ちて、五分がりのように稜線が透けて地肌のように尾根は白くなっているに違いない。
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雪深い飛騨でも寒の最中に何日か暖かい日があって、雪でなく雨が降ることがあった。
これを”寒の緩み”といって、ともすると雪崩の原因になったりする。
もちろん、春先 地面が暖かくなって起きる”地こすり”でなく凍った雪のうえに積もった雪が滑って起こす表層雪崩、向こうでは”泡”と呼んだ。
春先に起きる地こすりは重い雪が一気に砕けて谷沿いに流れ下ったときは、向かいの山でも音が聞こえるくらい破壊力があり、神岡町割石地区は障子破りと言われていたが、向山で起きた雪崩に混じっていた石が高原川を乗り越えて反対側の民家の障子を破ったということから名付けられていた。
そして、泡は積雪量によって違うが、凍った雪の上を猛烈なスピードで下るため、昭和30年代にはトラックが下の川まで押し流されて死者まで出たことがあり、その対策として、国道四十一号線の神岡~茂住間は雪崩よけのスノーシェッドだらけになってしまった。
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一昨日の雨の後、二日続けて気温が十五度以上となった今日、春と勘違いしてか黄蝶をはじめシジミ蝶が舞いだしていた。
三月末くらいの気温だったとテレビが行っていたが、蝶のほうも春が来たなんて思ったのかもしれない。
ただ、カメラに収めようとしたがあちこち飛び回るだけで、下に咲いているタンポポに掴まろうとする様子は無い。
寝ぼけまなこで花が見えないはずが無いと思うのだが、、、、、、、
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啼いてはあ~がり 啼いてはさ~がる
越中五箇山の民謡 コキリコ節の一節だが静岡に来るまで見たことのない鳥だったような気がする。
見たことが無いのでどちらかと言うと、義経の鵯越などから良い印象を持っていたが、実際に見てがっかりした。
みかんなど冬場の餌不足のとき、庭においておくとメジロなどほかの鳥を追い散らして我が物顔で食べるとか、人の様子を窺っている格好がいやらしい上、人の気配を感じるとけたたましい声を立てながら逃げていく。
まるで、人を非難しているかのような声で啼きたてられると、みかんを狙ってくるたびに追っ払ってしまうようになった”憎っくき鳥”である。
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普段常用している血圧の薬が切れそうになったので医者に行ってきた。
前回「今度来たときに血液検査もしておきましょう」と言うことだったので、朝ごはんを食べずに行ったのだが、クリニックの待合室に入ってびっくり、待っていた十五人以上の人が全てマスクをし咳をしているのである。
新聞にも、インフルエンザが蔓延しているという記事もあり、、、、、、
二十分ほどそれらの人に混じって座っていたが、とても耐えられなくなって「出直してきます」といってクリニックを出た。
クリニックを出て一時帰宅しては見たものの腹が空いて怒りっぽくなっているのが自分でも分かる、もういっそのこと食べて後日にしようかと思ったが、ここが肝心とばかり二時間待っていくと、待合室は半減しており咳をする人も少なくなっていたので待つことにした。
血液採取の前に血圧を測ると上が116下が66という。
「こんな高血圧患者がいるんかね」と見たことのない新しい看護師にいったが、どうやら、腹ペコで怒りっぽくなっていた腹の機嫌が良くなっていたようで安心した。
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ちなみに、今日から冬の土用に入ったのだが、昨日の暖かさと今日の雨は季節の変わり目の前触れであろうか。
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山の畑の八朔(ハッサク)が色づいてきて収穫の時期が近づいてきた。
今日も雲が無い空から燦燦と光と輻射熱で完熟度を上げようと照らし続けている。
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昨日年賀状の当選発表があったというので、改めて新聞を引っ張り出し合わせてみた。
最盛期のころは、年賀状も200通近く出していたので、何枚か最下位とその上の四桁が当たることもあったが、最近では70通ほどに減ってしまい、当選番号も少なくなっている。
と、いうことで、一枚一枚あわせては見たがなかなか当たり番号が出てこない。
今年もどうした弾みかは分からないが、ひとつ違いの数字が五枚も出てきたあと、ようやく、最下位の27と言う数字が一枚出てきた。
まるで、スキーの回転競技のように旗門一つ一つを肩で避けながら滑っていたが、最終旗門でスキーの先端を引っ掛けて転んだようなものである。
当選したものを転んだという表現は当たらないのだが、一枚くらい持って郵便局に行くのもねえ~
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ツバキの仲間であるがおしべが退化し、花びらが大きく開かない花で、もらったときはたしか”乙姫”と言う名前だと聞いたような気がする。
桃色の花びらの先が白い花だが、西に傾いた日の光を透かしたさまは、先端が溶けてさらに光を増したようにさえ見える。
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韓国ってつくづく不思議な国に見える。
いままでに何度も北朝鮮に裏切られてきたのに、金正恩委員長がオリンピックに参加しても良いと一言いっただけで、あんなに喜んでしまって言いなりになってしまうようにみえる。
鉱山で仕事をした関係から、戦時中に徴用工として連れてこられた人たちがかなり残っていたのでいろいろと話しをする機会もあったし、いまだに年賀状をやり取りしている人もいるのだが、日本での生活が長いためか外国人といった印象はあまりか感じたことは無かった。
それだけに、報道から感じるかの国の人は、自分の知っている朝鮮人とは別の人のように見えて仕方が無い。
たしかに、日本のどこかで線を引かれ分割占領されていたとしたら、思想は違っても同朋意識はあるのかもしれないのだが、あそこまでなってしまうのだろうか。
同じように、分割占領されたドイツがひとつになったとき経済格差が話題になったことがあるが、遠い国だったためも有ってか比較的スムースにまとまったような気がしている。
朝鮮半島では同じようなことが起こりえる可能性とその後のことはドイツのように上手く(?)行くとは思えないのだが、、、、、どうなんだろう。
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イムジン川 水清く 滔々と流れる、、、、、
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とばかりに蛸型の凧を揚げようとしたが揚げ切れなかった。
今日は朝霧高原で”第16回たこたこあがれ”の催しがあると聞いたので出かけてみた。
昨年は開催日を失念し、その前の年は荒れ模様で中止になったので三年ぶりだとおもっている。
あるいはもっと行っていなかったのかも知れないのだが、、、、
とにかく、昨日のうちから行くことにしていたので朝早く現地に行ってみると、空は真澄に晴れ上がり、富士山をさえぎる雲も無く剣が峰の元観測所もくっきりと見えていた。
そして、北からの風がかなり強くふいていて、凧揚げ日和だと思ったが、主催者は強風を気にしていたようだった。
そのため、長さ10mくらいの凧をあげる子供を募ったが、「風が強いので、、、」放送し子供を募ったが、なかなか集まらずそのうちに風はかなりおさまってしまい、まず最初にあげる蛸型の大凧を三度挑戦してみたがなかなか上げきれないで中止してしまった。
この凧揚げを部外者としてみる限り凧揚げの経験のない子供に挙げさせようとしたことに問題があるとみた。
また、前回のまでは、屋台も数多く出ていたし遠くの地方からも凧揚げ会が幾組みも来て賑わっていたが、今日はそんな様子も見えずなんだか寂しい凧揚げ会なってしまった様子だったので早々に引き上げた。
なにごとも、継続していくには新しい趣向をいれて、リピート率を上げなければならないのだが、、、、、難しいようだ。
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昭和30年代の子供、屋根の上まで簡単にスキーで登れた
雪深い飛騨の山奥でも昔ほどは降らなくなったが、それでも自分が住んでいた四十年ほど前は3mくらいは当たり前だった。
記憶の中で一番多かったのは昭和三十八年だったと思うが、大津山社宅で積雪7mと言うのがあり、そうなると平屋屋根を越し、屋根雪下ろしではなく屋根雪上げと言う状態になってしまう。
その年は雪の重さで学校の体育館が押しつぶされたものだった。
そして、昭和も40年代に入ると、幹線道路は朝の四時ころからブルドーザーが除雪をするために走り回り、通勤に支障が出た記憶は無かった。
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今朝方のテレビを見ていたら、新潟で上越線が雪で動かなくなり、乗客が十五時間も車内に閉じ込められたとあった。
いまどき、十五時間も乗客を閉じ込めるとは何事だろうか。
画面を見ていたらかなり満員状態で全員席に座っていない状態のようだったが、さそかし迷惑をこうむったようで気の毒だった。
積雪で列車が止まるほど急激な降り方をしたようだが、なぜ、バスなどを配車して乗客の一部なりとも救出できなかったのかと疑問を感じてしまった。
JRの職員が何人も来て車輪の下の雪を掻きだしていたが、一所懸命仕事しているよと見せかけているようにしか見えなかったのは、雪国育ち僻目だろうか。
列車が止まった場所が信号のすぐそばで駅から300mのところだったと言い、一部乗客の家族が自家用車で迎えに来ていることでも分かるように、道路は車が走れたのだから雪でバスが手配できなかったのではなく、手配しようとしなかったのであろう。
つまり、下手にバスに乗せて休憩できるところを探すより、閉じ込めておいたほうが楽だという発想だと思う。
先日の新幹線の台車問題と言い、リニア新幹線の談合に職員の疑惑があるそうだが、なんだか事なかれ主義が蔓延しているように見える昨今である。、
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aあまりの寒さに着込むだけ着込んで野菜の収穫を
この冬一番の寒波が襲来しているそうで、静岡でも零度ぎりぎりまで下がっていたようだ。
勤め人がいない我が家では、朝五時過ぎには起きているが、外に出ないためこの寒さは経験していない。
昨年末から天候異変によって農作物が異常に高くなり大根や白菜などは昨年の2.5倍にまで跳ね上がり、一般家庭では白菜を丸のまま買えないほど高くなって、鍋料理は高嶺の花だそうだ。
さいわい、というか小さな畑にはネギと大根、レタスが育っており、白菜も少しばかり育っているので近所に喜んでもらっている。
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今朝の新聞に静岡市の人口が四十七年ぶりに増になったと書いてあった。
自分が静岡に来たのは四十年前になるのでそんなに長い間減少しているとは知らなかった。
四十年前と言えば、家の裏は家も無く冬になるとカモ打ちの鉄砲の音さえ聞こえてくるところだったが、今では家が建て込んできて田んぼ越しに見えた山は”とてもとても”といった状態になっている。
それでも人口が減ったということは、一軒当たりの人数が減ったいるのだろうな、、、、、
来た当時、わが家の二人娘に加えて十三軒の組には十人ほどの学童生徒がいたが、今はたった一人しかおらず平均年齢も六十代は優に超えているような感じになってしまった。
今年成人した人は五十年前の半分になってしまったと聞くとさもありなんと実感し、生まれ故郷も鉱山の縮小により人口は最盛期の四割も満たしていない。。
東京一極集中といわれながら、地方ばかりが減っているのではなく、日本全体が減って、一億人割れも近いそうだ。
なんだか、新年早々暗い話しになってしまった。
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a本殿を垣間見ることが出来ない小国神社
一番初めは一宮 二また日光東照宮 三また佐倉の惣五郎 四また信濃の善光寺 五つつは出雲の大社、、、、手まり歌に歌われたように日本人は古来神仏混交で何処の神社仏閣を問わず巡り歩くことを奇としなかった。
と、言うことで、本日は遠江の国一ノ宮である小国神社へ行ってきた。
昨日の雨で上空の空気が入れ替わったようで、空は青く晴れていたが風が冷たくほっぺたに気持ちよく吹き付けていたが、連れ合いにはとても寒かったようで、一番厚手の防寒着を着て境内を歩いていった。
さすが、遠江の一ノ宮だけあって参道も長く取ってあり三が日も済んだというのに参詣する人はかなりいた。
駿河一ノ宮は富士宮浅間大社ということなので、先日行った同じ名前の静岡浅間神社は小国神社より格下ということになるようで、規模、人出はこちらのほうが多いようだ。
ともあれ、特に神道に詳しいわけでもないし、神頼みをすることも無いので、軽く挨拶をした程度である。
なにせ、今日の主目的は野菜などを探して掛川から森町付近をさがすことだったから、、、、、、
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先日来、渇水状態で伸びが止まっていた野菜に生気を潤したのではないかとおもっている。
庭の万両も水滴を付け艶々と光っていた。
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今日は暦の上では成人の日だといい、各地で着飾った”はたちの成人”がインタビューをうけたり、何の技量も無い若者が、ただ目立ちたいというだけで壇上に上がりこんだり、暴飲、暴走と暴れる画像を流していた。
成人の四倍近くも年を食ったものから見ると、いまどきの”はたち”のねんね(
赤ちゃん)くさいことおびただしいものがある。
「いまどきの若い者は、、、」と言い出すのはエジプトのピラミッド造り以来、年寄りの繰言と言うそうだがどうせこの歳になれば自他共に認める年寄りなんだから気にしない。
そして、先ほどのテレビを見ていたら女の子の衣装に数十万円もかけてといっていたが、自分らの成人を祝う会の写真を見ると、男女ともに洋服であり、自分の甲斐性で作ったものだったことがわかる。
こんなに華美な成人式はいつからだったんだろう。
ちなみに、静岡市の成人式は、三日に済んでいたんだって、、、、、、
雨が降らなくてよかったね。
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裏の空き地にフキノトウがかわいらしい蕾を付け出しているのをみつけた。
十数年も前山から採ってきた蕗の根っこを埋めておいたものだが、日陰の土地ながらけなげに命を永らえて範囲を広げてきているもので、春になるとときどき食膳にあがるようになっている。
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きみがため 春の野に出でて 若菜摘む
わが衣でに 雪は降りつつ 光孝天皇(830~887)
平安字代真っ盛りのころの天皇の歌である。
まさか、この歌のように天皇自らが若菜摘みに出かけたことはないと思う。
今日は七草。このころすでに上流 貴族階級で始められた風習で、一般に七草かゆを食べだしたのは江戸時代に入ってからのことだそうだ。
そして、わが家では静岡に来てからのことである。
雪深い飛騨の山奥では、今ごろ少なくても雪が積もり、七草なんて捜しようも無い。
あえて手に入るものとしては、畑に立てた四~五mの棒の下にあるスズナ スズシロ(蕪や大根)くらいしか手に入らない。
ただ、毎日のように食べさせられた、数の子 黒豆 田つくりで飽きが来ていた口に御粥は新鮮である。
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ここにくると、浅間神社の上、標高50mくらい高い位置にある麓山神社に通じる百段ほどの石造り階段があって、そこを一分以内に登れなくなったら山登りを止めようと以前から思っていた。
それで今回も”年の初めのためしとて、、”とばかりに試してみた。
(この階段、写真以上に急な階段で多分45度くらいの傾斜はありそう)
階段は規定以内にようやく登れはしたものの、上に着いてから息切れが激しく余裕も何も無いといったところ。
つまり、八分どおりの出来かな?ってとこ、、、。
下の境内に下って本殿の前でお賽銭を上げ、すこしすると巫女さんの舞が始まった。
本殿前には、黒い服を来た男の集団がいく組みもあり、祈祷の受付を待っていたが何処かの会社の仕事始めなんだろうか、、、、
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今日は自動車の車検だというので、ディーラーまで車を持ち込んだので、そのついでに浅間神社のほうに歩いて行ったのだが、暗い空から時折雨粒が落ちてくるので、大降りにならないうちにとせわしない初詣になった。
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家にじっとこもっているのも嫌だし、かといって下手なところに行って人ごみや渋滞に巻き込まれるの嫌だしと考えあぐねた末出かけたのは、日本平。
しかし、行ってみると駐車場はほぼ満車状態で車が一杯止まっていた。
駐車場からゆっくりあるいて、10分足らずの山頂からは、富士山と清水港を一望にする景色はいい意味でも悪い意味でも絵葉書そのもの、、、、
風も穏やかなため、波もなく一面のコバルトブルーのシートを引いたような感じさえする海。
この景色も何度と無くみてきたが、ほこらしげに「観光地百選の一位 日本平」と言う石碑を見てもほんまかいな?と言う気分にさせられるのは、しょっちゅう富士山をあちこちから眺めてきた静岡に住む者のぜいたくか。
それかあらぬか「富士山が見えなきゃただの荒れ山」と言う声さえ聞いた。
もっとも、一位になったのは昭和25年のことだから、いまの時代ではどうなんだろうか。
そして、県立公園になったのはその翌年とか聞くと、頂上のすぐ裏手が手入れをされていない私有地なのも分かるが、一位になる前は県も国もあまり関心が無かったようだ。
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くっちゃね~ 食っちゃ寝~の生活が続き、体重はもとより精神的にも良くないと思い、麻機沼まわりを一時間ほど歩いてみた。
冬枯れで茶色一色、写真にするものが無いと思っていたら、すぐそばから一羽のカワセミが飛び出し、30mほど離れた枯れすすきに掴まったまま動かないでいた。
川を挟んだ対岸なので安心しているのかそのままずっと水面を見つめている。
こちらとしては今にも飛び込んで小魚を射止めるのかと待っていたが、なかなか飛び込まないでこちらをじらしていた。
ひょっとして、いま食べたばかりで食欲がわかないのだろうと判断し腰を上げたら、向こうもさらに川下に飛んでいった。
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昨日、孫たちが急にやってきた。
そして、一番下の孫は規制ラッシュに会わないため、三日から北陸地方に雪が降る予報が出ているため、今日のうちに帰ると言う。
ものの二時間もいないで帰っていくというのは、お年玉稼ぎなんだろうが、寂しい限りである。
とはいうものの最後の未成年孫であり、じいじとしては、、、、、、
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朝まだ来、初日のでは新聞より五分遅れ七時ちょうどの登場となった。
今年はいままでより60mほど低い畑に集まったためである。
よる年波は、340段の階段とその先の斜面を敬遠することにしたためである。
酒と肴をもちより、日の出20分前から酒盛りで、身体の冷えを誤魔かし、待ちに待った日の出を迎える
ここよりかなり高い日本平が日の出を遅くした原因だったが、雲ひとつ無い南東の空を赤く染めて揚がって来た。
いつも見慣れている太陽とは幾分違った印象を受けるのは、気分のせいかほんのりと酔ってきた目がそう見せたのか、まさに”天照大神”である。
これで、初日の出を見るのは何十年連続になるのだろうか、、、、
今年は、平穏無事で過ごせるよう祈念してまた一杯とホットウイスキーで腹を温める。
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