仏頂面で
青く澄み切った空からは、日本海側の大雪が想像できないが、テレビでは大陸からの噴出している寒波の流れを伝えている。
いつもこの時期になると思い出すのは、昭和二十年代の大雪である。
当時はいまより寒冷な気候だったようで早いときは十月に初雪を見た年もあったりして年末のこの時期はかならず雪が積もっていた。
このときは高山本線はどうにか動いているようで、飛騨と富山の国境付近の猪谷駅には名古屋方面の紡績工場から正月休みに入った子供たちが帰ってくるとの知らせが入る。
自分の家でも三歳年上の姉が午後に到着すると言うので、親に言われたのか自発的だったのか憶えていないが、鉱山社宅のある標高800mの大津山社宅から標高400mの国道四十一号線の降り、そこから8kmほどはなれた猪谷駅まで徒歩で迎えに行った。
このころ、国道とはいえ雪が積もりだすと交通機関はすべてがストップするため、土産などの膨らんだ荷物を一人で担いでくるのが難しく、どの家でも兄弟や親が迎えに行ったものだった。
たぶん昭和二十七年か八年だったと思うがその年も積雪40センチくらいあったのだが、あいにくと自分らのほかに誰も行く人がいなくて、雪を掻き分けながらっ途中まで来ているのでは、、、、、と歩き出した。
ところが何処まで行っても出会えず駅まで行くと、列車は遅れているとのこと、やきもきしている時間の長いこと、、、、、、
ようやく、遠くのトンネルを抜けて汽笛を鳴らす蒸気機関車の音を聞いたときには涙が出てきてしまった。
改札を出てきた姉を見たとき涙を見せないため、仏頂面をしていてが涙のあとを見破られていたことと思う。
荷物を背負って弟と三人で家に帰り着くころはあたりが暗くなっていた。
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