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2019年7月10日 (水)

ぽつんと一軒家?

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久しぶりに雲が切れ青空の多い一日になった先日来の長雨による湿気でカビが生えていたイグサの敷物を日に当て家の中を開けっ放して風を通すなど今日一日干せるものは全て外に出して除菌デー。

それにしても今日は暑くなった。気温も三十度越えとなり部屋の中にいても汗が止まらないような状態になった。

先月末から日照時間が全国的に少ないそうで米の生育に影響が出かねないと聞いているが、梅雨明け以後はこの暑さに耐えていけなければならないのかと思うとぞっとしてしまう。

 

写真だけを見ると、テレビの「ぽつんと一軒家」的な感じがする建物。

これが、お寺だと分かる人は地元の人くらいであろう。

お寺の名前は光円寺、昨日書いた二十五山の山頂に有った円空仏二十五体はここに移住しているそうだ。

この地は、江戸時代上部に大富という鉱山の飯場があったが、長雨で山抜けが起きそこに寝ていた坑夫すべてがこのあたりまで押流されて亡くなったのを弔うために建てられたと聞いた。

そのとき、唯一生き残ったのが、飯炊きをしていたおばあさんだったことから、贅沢三昧の坑夫が山の神の罰を受け、釜の底に残った米を食べていたおばあさんが難を免れた。という逸話が残されている。

そのむかし、と言ってもやっと三十年位前までは、このお寺を中心に写真の範囲内だけでも六軒長屋を含む鉱山社宅が二十棟はあり、百軒くらいの所帯があったのだ。

そしていま、このお寺の周辺を除いてすべてが元の原野に戻って面影はない。

 

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コメント

岡崎在住さま
むかし聞いた話ですが、金気のある山には妖雲が漂うそうです。
この妖雲で日が遮られ、金気を含んだ水で農作物は生育が遅れます。
そこで山師といわれる人たちはこの妖雲と金気草を目当てに迫迫(さこさこ)に分け入り鉱石を見つけたと言われています。
ちなみに、金気草とは酸性土壌でも生育できる草でイタドリとかヨモギなどをいいます。
茂住宗貞は茂住谷、跡津、鹿間、和佐保の谷は金気の含んだ水が流れ茶色くなった石アカを見て谷を遡ったとか、、、

投稿: オラケタル | 2019年7月17日 (水) 21時37分

娘っこの話では、光園寺にあるのではということでした。そやで、前平T字路(実はY字路さん;笑)の語られた通りではないかな^^;光園寺の住職さんは変わっておるけど、神岡の同級生等々がまんだ法事で光園寺を利用しておるよ!

投稿: 岡崎在住 | 2019年7月17日 (水) 21時28分

菩薩の行方は光園寺の娘っこに聞いとくさな(笑)ところで、以下の紹介があるよ。⇒神岡鉱山写真史によれば、越中の方からの一人の僧が霧(笈破霧)を追い払うべく二十五体の菩薩像を鉈(ナタ)一丁で掘り刻んで、精魂込めた御仏を御堂に納め、お経を読めば山は静まったそうな。いつしか村の人達は山を二十五山と呼びなれ、7月25日の縁日には詣でる人数が年々増して賑わったそうな。

投稿: 岡崎在住 | 2019年7月17日 (水) 20時17分

前平T字路さま
円空仏の大半は木っ端仏といわれ、一日何体も彫ったとか、そして、明治のころその評価は低かったようで風呂の薪代わりにして焚いてしまったと聞いた事があります。
一度見た二十五菩薩もそんななかのひとつだったのですが、逆に良く残していてくれたものだという感じを持ちました。
写真の中央に白い建物がありますが、それがいまの住まいでしょうか。
なんだかすぐ罰当たりなことがおきそうなほど無用心ですね。

投稿: オラケタル | 2019年7月12日 (金) 21時03分

オラケタルさま
そうですか、分からないですよね。
ここは、光円寺さんの檀家さんの生まれで、ご住職の娘さんをご存じの岡崎在住さんにお出ましを願わなければならないようですね。
ところで光円寺の本堂裏手、駐車場の横の一段高い場所にある新しいお堂は、二十五仏を祀るために新築したと聞いたことがありますが、現在はあのお堂におられるのでしょうね。そういえば、二十五仏は小さな小さな、経木のような大きさの木を刻んだ仏様だったような・・。

投稿: 前平Y字路 | 2019年7月12日 (金) 11時17分

前平T字路さま
私が栃洞に住んでいたのは、昭和三十二年から四十年まででした。
そして、二十五山のてっぺんまで開校記念の角材を担いで登ったのは(昭和三十年)一年生の春が始めての二十五山登頂でした。
そのときは、お堂の中に二十五菩薩があると聞いた覚えがありますが、おじさんのような上級生に囲まれて萎縮していたのか、確かめてはいません。
まだ円空仏のブームがくる前だったのか、仏様を盗む罰当たりもいなかったのか、、、、
円光寺に下りたと聞いたのは大分立ってからでした。
本当は、当時から下りていたのかもしれませんが、記憶にないんです。

投稿: オラケタル | 2019年7月11日 (木) 21時09分

オラケタルさま
(昨日の)伊西道からの二十五山の山容も、この光円寺の赤い屋根と手前に広がる<番屋坂を覆う草むら>も、にぎやかだったころを懐かしみながら佇んでいるのでしょうね。
そういえば後二週間もすれば「二十五仏のお祭り」の季節ですね。提灯を下げてお宮さんの裏から山頂のお堂へ登ったことを想い出します。私の記憶では(というか、何時の頃からか?)その日に光山寺のご住職とか檀家さんが二十五仏の円空仏をオネて、山のお堂に運んでおり、山頂のお堂に年中、鎮座していたわけではないと思い込んでいましたが、思い違いでしょうか。

投稿: 前平T字路 | 2019年7月11日 (木) 13時22分

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