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2020年5月22日 (金)

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センダンの木の先が淡い紫色になっていた。

この木は本来なら四国のあたりを北限としていたそうだが、この花を愛でてか庭木などにしたのが野生化してあちこちで見られるようになったそうだ。

そのむかし、この木の名前はオウチと言ったそうで、小さな花のおしべの色からオウチ色という名が作られたと書いてある。

薄紫っぽいその色は昔の人に愛されていたようだが、木そのものは薪にもならないくらい、何の役にも立たず”唐変木”という名前の由来になったと聞く。

秋も遅くなって白い実を地面に落としているが、その前に鳥が群がって食べることもなく落ちた実も果肉がなくてしわしわの皮が種に張り付いて一面に転がっているのを見ると、種が芽を吹くのはよっぽどのことなんだろうなて感じがする。

 

先日、当ブログにたびたびコメントをいただいている岡崎在住さんから自分が小中学校をころ過ごした大津山を写したホームページを転送してもらった。

大津山は、神岡鉱山の一番北側にある池の山鉱床から鉱石を採掘していたが、今では採掘も終わりスーパーカミオカンデやカグラで有名になった鉱山である。

神岡鉱山の鉱床は栃洞坑、円山坑そして大津山坑と大きく分かれていたが、それぞれに地質もかなり違ううえ採掘している人たちの気質も富山県系の人が多かったのでかなり違っているように見えた。

ここに自分がいたのは八年くらい、学校に通う生徒は250人くらいだったから人口はその当時家族を含めて1,000人くらいだったろうか、すべてが社宅住まいのため、定年を迎えるとこの地を去っていくという入れ替わりの激しい場所だった。

そのため、10年もすると知らない人がかなりいてビデをを見てもなかなか知った人が出てこない。

何度も画像を止めてみたりしたがわからない。

唯一、社宅全面移転してから下の茂住に住んでいた〇山▢郎さんが徒歩で上がり、あちこちを棒で示しているのを見ただけであった。

その人もすでに故人となったが正式名称は憶えていないが神岡の歴史研究会に所属し10年ほど前に笈割の祭りで語り合ったのが最後である。

このほかにも、全面移転した際には自分も最後の集会に参加させてもらったが、このあと自分が静岡に来てから、社宅のほとんどがタイミングよく火事で焼けてしまった。

この火事にはいろいろな疑惑があるように聞き及んでいるが、一応原因は漏電ということになっている。

なにしろ、企業城下町では鉱山の承諾なしには動けないところがありそうで、いまの中国を見る思いがする。

とはいえ、しばらくは眺めて新発見が有るか無いか調べるつもり、、、、

 

追:5月25日、2018年のビデオに笈割の祭りを写したビデオがあったが、そこには従兄弟の子供が映っていたが、自分が参加した時の顔触れは動作がしても見当たらなかった。

こちらのほうも、世代交代が進んでいるようだが、参加者も自分が出たときに比べれば酸くなっていることから、いずれ、全てが消え去っていくのだろう。

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コメント

岡崎在住さま
虻田、徳舜別は北海道、嘉穂は福岡から1,971年だったと思うけれどいずれも閉山になり、三井金属が整理された人の中から何十人かを引き受けて栃洞坑や茂住坑に配属したけれど、鉱山によって採掘方法がちがうためと中年以上の人が多かったため、なかなか仕事に慣れず苦労したと思います。
そのため、78年の合理化にはかなり辞めていきました。
これは、同じ会社の下ノ本鉱山でもおなじです。
中年になって仕事を変えるのがいかに大変か、自分は運がよかったほうです。

投稿: オラケタル | 2020年5月24日 (日) 16時48分

オラケタさんは栃洞の方が長いんやもんね。 やれ北海道だ、 鹿児島だと鉱山関係で転入生が多かったし、また、転出生も多かった時代やね。(*_*)

投稿: 岡崎在住 | 2020年5月24日 (日) 11時43分

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