小冊子に
雨が降っている時間の方がすくなかったが、雲の層が厚いらしく週日薄暗く、体感温度は気温より寒さを感じさせてしまう一日だった。
庭の南天の実についた露の中にそれぞれが小さな景色をもっているが、そよ風が吹くたびにその景色を一斉に更新するかのように消し去ってしまう。
先日、ふるさとの菩提寺から新年のあいさつとともに小冊子を送ってくれたが、そのなかに昭和30年ころの物価というものがあった。
昭和30年は自分にとって大きな節目の年だった。
三月に中学を卒業すると、鉱山付属の高等学校に入り鉱山従業員の入っていた寮でくらすことになったとしである。
従業員の子弟ということで入寮したのだが、初めて親元を離れ見知らぬ大人と一緒の相部屋は今でいうかなりのストレスでしばらくはホームシックに悩まされ勉強にも手が付かなかった。
同室の人は四十代だったと思う。硫酸工場に勤務し三交代作業だったから子供のような学生と一緒というのは「困ってもんだ」と、戸惑っていたに違いないが、どうして同質を承諾したのか知らなかったが金沢生まれの人で優しい人だった。
さて、小冊子に載っていた当時の物価だが、国鉄の最低料金が十円、葉書が五円、週刊誌が三十円、ガソリンが一リットル三十七円、卵が一kg二百五円、ラーメンが四十円、コッペパン十円。そして、人民の酒焼酎は三百六十円、大卒初任給八千七百円だったそうだ。
当時自分は寮の食費三千円ほどは親が負担していたが、毎月鉱山から二千円の手当をもらう身であった。
この二千円は、当時の最低賃金でニコヨンと呼ばれた二百四十円から見るとかなり高額なものかもしれなかったが、一杯四十円のラーメンや一個十五円ほどの卵はもったいなくて食べられなかった。
しかし、月に一回程度親元に帰るときに当時新しい食パンで黒糖入りのコッペパンを兄弟の数だけ買って意気揚々と帰ったものだった。
小冊子の片隅の記事が、まだ子供だった時の懐かしい記憶をよみがえらせてくれた。
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