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2021年2月 1日 (月)

とりとめもなく”チョウハイ”

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お茶畑の向こうにお化粧の雪が吹き飛ばされてまだらになった富士山がぼんやりと見える。

そろそろ春の兆しの黄砂が舞っているんだろうか、これからの時期茶畑のなかに立ち並んだ防霜フアンが活躍する日が近いことを示している。

そのむかし、春の芽吹きの時に霜が降りると新芽がだめになってしまうため、畠の周りに自動車のタイヤを配置して降りそうな気配を感じると火をつけ煙を茶畑の上空に煙幕のように張ったものだが、現在ではこの防霜フアンが自動的に回るようになっているとのことで、農家もかなり楽になったそうだ。

 

昨日の記事に前平十字路様からのコメントに”チョウハイ”という懐かしい言葉のコメントがあった。

かなり長くなりそうなので、こちらのほうで自分が聞いた範囲のことを書かせてもらうことにした。

チョウハイは漢字で朝拝と書くらしい。

朝拝とは、元日の朝大宮人が天皇に新年の賀詞を寿ぐために参集することとなっているが、これが嫁の里帰りとどうなっているのかしっかりしたことはわからないそうだ。

ただ、チョウハイは主に北陸地方、特に富山のほうで使われた言葉で、飛騨の嫁さんが高山のほうに行く場合は使わなかったのではないかとおもっている。

自分が生まれ育った東茂住や大津山は富山県の人が多かったのでよく聞いた言葉だが、「富山から嫁さんをもらうと大変やぞ!」というのをよく聞いた。

その一例として、大みそかが近づくころになると大きなブリを一匹嫁さんの家にもっていかなくてはならなかったそうだ。

持っていくと、嫁さんの家では三枚におろしてその一枚を返礼として返してくれるほか何かしらのものを一緒に渡してくれるそうだが、ブリの値段がかなり高額なので、貧乏人の飛騨人には、、、とか

そのほか、盆の法事や子供の誕生日など何かと散財がおおきいという。

そして、東茂住あたりから国境の猪谷までは6kmくらいと近かったので足の丈夫な人は庵谷峠を越えて笹津や八尾くらいまで一日で歩いたそうだが、船津やその先の栃洞あたりまで嫁に行った人は、鉱山の軌道ができるまで一日では歩けなかったそうで、茂住の長田旅館や金山旅館にときたま宿をとったほか、猪谷の宿まで足を延ばし、あとは汽車に乗って行けたのはお金に余裕のある嫁さんだったようだ。

なにしろ、チョウハイで帰る嫁さんは嫁ぎ先の人になっているので、今のようにただ「ただいま~」なんて気軽には行くことができないのでそれ相応の支度と土産をかついで向かったと聞いている。

ちなみに朝拝と里帰り関係は、帰った嫁さんは婿の家の代表であり、生家とはいえその家の主人には礼を尽くさねばということからではないかというが、多分帰れば婿の家の悪口や愚痴で盛り上がっているのが常ではなかろうか。

とりとめもなく書いてしまったが、こんなところでどうでしょう。前平十字路さま

 

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コメント

岡崎在住さま

神岡あたりでは、東男に京女みたいな取り合わせで古川の女性を求めたんやろうか。
しかし、わたしが大津山から旭丘の寮に入ったときには、方言のギャップを感じたものです。
それで、越中言葉は茂住が境かと思っていました。

鉱山を定年になった人を見ると、茂住のほうは富山県の大沢野周辺が多く、栃洞の人は各務ヶ原や関など中濃に多いのは鉱山労組が紹介したこともありますが、友達同士が誘い合ったのも大きいことと思っています。
あとは、子供の就職先というのもありましたので、岡崎在住さんのところは最後の選択でしたでしょうか、、

投稿: オラケタル | 2021年2月 6日 (土) 17時09分

神岡は、飛騨弁と富山弁が入り混じっておったね。前平の父ちゃんは富山の「まいどはや~」やったし、
母ちゃんは古川の出身やもんで飛騨弁が、ほっときつかったわな(笑)きっと数河峠を境に富山弁は遮断やろな。
あー、親戚の叔母ちゃんの話では、「神岡の人は古川の母ちゃんをもらわんとダシカン!」という話が昔あった
そうで、親戚の叔母ちゃん(古川)は、お見合い一発目で結婚を決めたそうやよ。(笑)

投稿: 岡崎在住 | 2021年2月 6日 (土) 12時37分

前平十字路さま

江夏美好さんとは当時神岡鉱山主婦会の会長を長く勤めていた大江もとえさんを介して知り合いました。
温厚な人柄で、、でも最後は舌がんが苦痛で自殺されたと聞きました。
「針千本}今ならせめて痛みだけでも取れたのでしょうが。
一昨年、下の本のいとこが無くなった折に「なんで中河与一の碑があるのに江夏美好はないんや」って言いましたが、下の本鉱山がなくなったのが影響しているのかな?なんて、、、、

投稿: オラケタル | 2021年2月 4日 (木) 17時24分

オラケタルさま
「有峰物語」はダム建設で水没した(行政上は富山県)有峰集落のことを綴ったルポルタージュですが、跡津川添いの集落や山之村集落を幾度も訪ね、様々昔話を掘り起こしていますので、既にお亡くなりになった方々が大勢、出て来られていました。
オラケタルさんなら、「あの人や!」と顔を思い出しながらお読みになるのではないでしょうか。1995年の発刊ですが、未だ(ネットを含め)入手可能かと・・。
「下下の女」!懐かしいですね、読みました!
その昔、たまたま書店で見かけて購入した記憶がありますが、確か二段組の大部な一冊でした。白川郷と下之本鉱山などが舞台ではなかったですか?
そうですか、著者の江夏美好さんにお会いになったことがおありですか。今年97になる母親の一つか二つ年上で、「幼い時から知っている」と言っていた筈です。

投稿: 前平T字路 | 2021年2月 4日 (木) 09時15分

前平十字路さま。
さすがにお若いですね、本を一気に読めるなんて、、、。
跡津川沿いには佐古や大多和集落があって、昭和30年代まで我が家にも小さな山林を所有していましたので年に1~2回見に行っていました。
いまでは、カミオカンデの入り口としか記憶されていませんが、そのむかしは、土の停車場から歩いて登ったものです。

有峰物語は読んだことがありませんが、山の村の瀬戸や和佐府、下の本には親戚もいますんでどう書かれいるのか気になります。

それと郷土の小説家に江夏美好という人が書いた「下下の女」というのがありますが読んだことありますか?
わたしが会ったことの有る唯一の作家ですが、、、

投稿: オラケタル | 2021年2月 3日 (水) 17時29分

オラケタルさま
ご承知のこととは思いますが、「チョウハイ」で検索したところ、ずいぶん前に出ていた飯田辰彦さんの著書「有峰物語」を知り、早速に読んでみました。
有峰集落は無論のこと、大多和や佐古、跡津、それに(山の反対側である)瀬戸や和佐府、下之本などのいわゆる山之村界隈も出て来て、一息に読み上げてしまいました。
これらの集落、特に無人となった集落は今頃、雪の中に埋もれてひっそりとしているのでしょうね。

投稿: 前平T字路 | 2021年2月 3日 (水) 11時45分

前平十字路さま

わたしのおばあさんんも笹津のすぐ北の”マチナガ”という集落からきていたようで、チョウハイの話しは聞かされましたが、何せ子供のころの思い出のの一つなので、間違っているかもしれませんよ。

投稿: オラケタル | 2021年2月 2日 (火) 21時55分

オラケタルさま
早々に「チョウハイ」についての詳細なお話と想い出、ありがとうございます。
「朝拝」と書くとは、また大層な語源を持っている言葉だったのですね!なんとなくニュアンスは分かりますが。
そうですか、富山辺りでは普通に使われていた言葉なんですね。偶々、私の周囲には富山辺りから来られたお嫁さんがいなったので聞かなかっただけで、栃洞でも家によっては使っていた可能性があったことが判りました。

投稿: 前平T字路 | 2021年2月 2日 (火) 08時45分

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