吾亦紅
誰が名付けたのか知らないが吾亦紅という名前が好きだ。
真っ赤な花が数ある中で、我も紅であると主張するところがなんとも言えない。
日本には赤に分類される色の名だけでも100種類を超えるそうだが、吾亦紅の色は紅というより暗い臙脂というか赤色の主流からは随分と離れているようだ。
「それでも私は紅です!」と
叔郎さんはきっぱりといった「私は協調性がないので日本にはいられないのです」と
自分も中学までの通信簿に協調性がないとよく書かれた。
いとこの子供が母親から「もう少しうまく立ち回って出世を目指したらどうなの?」って言われたときに、「じいちゃんがあんなで、父ちゃんがこうだろ、なんで俺がおべんちゃらをこける?」って答えたそうだ。
飛騨には昔から反骨精神が旺盛でいわゆる協調性に欠けるものが多い。
自分の親類関係を見ても父方にも母方にも出世したものがいないのは、飛騨伝統の”ねじべぇ”が身についているためらしい。
協調性というのは本来それぞれの考えを合わせて一つのものに作り上げるのが筋であるが、日本でいう協調性は「上の人の言うことに素直に応じる人」とか「学校で人とは別な意見を言わず素直についていく生徒」みたいなところがあって、各自の意見を持たないで”長いものに巻かれろ”という教育を小さなころからしつけの一環として行ない、身に染み込ませた。
わけも理屈ももない校則で縛ったのもその一環であろう。
したがって、選挙の際もその伝統が生きてきて、お上の気にいる候補に投票するのに疑問を持たない人がたくさんいる。
これを忖度という。
「吾亦紅」人がどういおうと自分の信念はしっかり持たないと国際社会でも日本字は何を考えているかわからないという批判を肯定していることになる。
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