春 遠からじ
大寒から立春にかけてが一番寒い季節である。
この季節になると思い出すのが飛騨の山奥の学校では”寒休み”という独特の休みが一週間ほどあった。
夏休みを少なくしての振り替え休みだったので夏休みの時は恨めしかったが、それも今ほど情報が流れなかった時代だったのでよほどのことがないと他校がどうなのか知らずにいた。
寒休み以外にも、吹雪が激しく登校しにくいと判断された日の朝7時半には社宅の電球が三度点滅すると、登校しなくてもよいという合図だったので、そわそわと電球を眺めていたものであった。
そんな吹雪が過ぎた後、時折真っ青な青空が広がる時があり、木の枝についた樹氷が解けてパラパラと降り注ぐ感触はまた気持ちの良いものだった。
「冬来たりなば 春遠からじ」
今日は、山の畑のハッサクを収穫した。
本当は、二月半ば近くまでおいておきたかったのだが、先日来誰かが来て盗んでいくようで採りやすいところが疎らになって空が透けて見えるようになってしまったためである。
自分たちは、この畑に行っても午前中に帰ってしまうことを知っての犯行のようで、大粒のものばかり20㎏以上の被害である。
幸いハッサクは涼しいところに保管しておけば熟してくるし、いつまでも採らずにいると木に負担がかかるといわれているので約150kgほどを3人で分けて家に持ち帰った。
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コメント
岡崎在住さま
親戚があってよかったですね。
我々の時代は栃洞出身の1~2年生10人余の生徒がひとかたまりになって毎日上り下りして通学していました。
入学資格の一つが身体健全だったのでみんな足腰は丈夫でした。
投稿: オラケタル | 2022年1月28日 (金) 21時55分
オラケタ様
おらんちの兄ちゃん(T字路さんの連れ😅)は、船津高校の時に東町の親戚に下宿やったわね。(冬は楽やわな!)
投稿: 岡崎在住 | 2022年1月27日 (木) 20時59分
岡崎在住さま
昭和29年、栃洞中学から6人が鉱山高校の同級生でした。
入学してから2年間は木地屋の元捕虜収容所だった学校に通うことになっていたので、それ以前まで裾丈の長いオーバーで冬の雪をかき分け通学していたそうですが、自分らの時から学校が進駐軍払い下げのアノラックを斡旋してくれましたので、家庭が苦しくて(親が事故死した後、奥さんが臨時雇いで育てていた)買えない人を除いてその冬着で前平から泉平を通り鹿間まで深い雪をこざいて(ラッセル)しながら通っていました。
その中の一人は南平の一番下の社宅ミズカンボラだったのでどのくらい時間がかかったのでしょう。
当時朝鮮戦争が終わったばかりも時期でしたので、アノラックも豊富に出回ったのでしょうね。
今のダウンの原型だったが、重い布地で暗い緑、血がついていないかなんて、、、、、
投稿: オラケタル | 2022年1月27日 (木) 17時15分
前平十字路さま
昭和30年代はよく事故がありました。
「良い人ほど早く死ぬ!」という言葉がありましたが、せいぜい悪(会社にとって)で通したため、何度かの危地をを切り抜け今まで生きております。
また定年まで全うした人でも、身体を壊して早死にした人も数多くいまして、同級生でも青山 井出 田村君なと栃洞中学出身者は今はいなくなりました。
投稿: オラケタル | 2022年1月27日 (木) 16時58分
栃洞の吹雪休みは、パカパカ3回を覚えとるよ。1回、二回のパカパカは「様子見」みたいなヤツで、朝7時の連絡でなかったかね? その後、「カモメの水兵さん」や「おサルの籠や」の音楽に変わったけんど、様子見の連絡は最早消えたんやわね。当時は毎年のように吹雪休みがあったけど、まさしくホワイトアウト、ブリザード状態でおすなかったちゃ。あっ、みなんびらの児童は遠いで大変やわな^^; 事故といえば、学校前のバス道路の整備で土砂崩れが発生し、作業しておった人が一人亡くなった記憶があるわね。昭和45年くらいの時やったけど。
ところで前平のバス停留所やけど、神岡物産が出来たころ(病院の跡地)は第一浴場前に停留所があったけど、その前はT字路さん宅、鉾木のおっちゃん宅の前が停留所で、T字路さんはバス乗りにチョー楽やったんやわね^^;
投稿: 岡崎在住 | 2022年1月27日 (木) 16時13分
オラケタルさま
そうです。「マットちゃん」とは、まさしく昭和38年の夏の終わりに、坑内で転落事故を起こして亡くなられた山口雅人さんの事です。いま、栃洞校史で確かめたら、雅人さんは(オラケタルさまの成人式の写真にあった)青山務さんや山田(小桜)美恵子さんの一学年したでしたので、鉱山高校でオラケタルさまの一級下ですよね。
雅人さんは夏前に足の裏を怪我して、しばらく休んでいました。その為、夏休み中だった私は、しばしばマットちゃんと日中に話をした記憶があります。その後、傷が癒えたので復帰したのですが、間もなく、坑内のはしごから転落したと聞きました。
「事故が起きた!」という連絡を受け準備を整えていた病院(栃洞分院)に運び込まれた担架を受け取ったのは、看護師をしていたマットちゃんの二番目のお姉さんで、担架から出た足元の靴下を見て、「えっ!これって、私がマットに編んであげた靴下では?!」と気づき、ゾッとしたと、のちにご本人から伺った覚えがあります。
私の中学三年の夏の、一番イヤな記憶ですね。
そういえば、あのころはたびたび、坑内事故が起こっていたように思います。オラケタルさまも怖い思いをされたことがあるのではないでしょうか。
投稿: 前平T字路 | 2022年1月27日 (木) 11時08分
前平十字路さま
当時の10歳は大きな開きがありましたが、この歳になればごく近い年代になりますね。
山口のマットちゃん、もしかして昭和38年の夏に坑内で事故死した山口雅人さんでしょうか。
彼なら、幾分覚えています。おとなしい人で話をした記憶はないのですが小柄で細身の人だったように思います。
仕事を覚えて少しが一番事故にあいやすい時期で、自分もそうでしたが30歳未満の怪我が多かったように思います。
竹田さんはその通りの人でしょう。
いつ退職したのかは知りませんが、ブルドーザ運転で身体を壊したと聞いています。
リーゼント?で背の高い男という印象を持っています。
こうしてみると、お互い印象や出会いは違っても同じ人を知っているものですね。
投稿: オラケタル | 2022年1月25日 (火) 21時37分
聳南寮から前平への道とは番屋坂ですよね。あの谷は日陰でしたら、雪の解けるのがひときわ遅かったのでしょうか。
そうですか、オラケタルさんが栃洞の住人になられたのは昭和32年なんですね。32年といえば、私や岡崎在住さんの上の兄ちゃんが9歳になる年です。そういえば(前に書いたかも知れませんが)隣の山口のマットちゃんが中学3年の時に私達が小学校入学でしたが、オラケタルさんとマットちゃんは一年違いでしょうか?
ブルトーザーを運転していた竹田さんって、非常部(消防)にいた竹田さんですかね?なんとなく顔を思い出しています。
小さい時、日が暮れると鉱山施設の入口付近にあった非常部車庫(のちに組合事務所になった建物ですかね?)へ行って、ひときわ明るいライトに集まるオニムシ(クワガタをこう呼びませんでしたか?)を探しに行っていました。
ある朝(竹田さんだったかは忘れましたが)非常部のオッチャンが「昨日、でっかいオニムシが来てたから、採って来てやったぞ」と家まで届けてくれたことがありました。
投稿: 前平T字路 | 2022年1月25日 (火) 09時49分
前平十字路さま
そうですね、今のように携帯が発達している時代と違ってあの頃は電気の点滅が一番の早道でしたが今ならとても使えた方法ではありませんね。
私が鉱山高校の3年生になり栃洞に上がったのは昭和32年で、聳南寮から前平に上がる道にはブルドーザーで押してきた雪がたまり四月二十五日の祭り近くまで融けきらずに残っていました。
祭りの行列がぬかるんだ坂道を降りてくるのが気の毒でしたが、帰りはどうだったのか覚えていません。
あの頃までは雪も多かったので、寮生の竹田さん(?)が夜っぴいてブルドーザーを動かしていましたが、「泉平まではなかなか行けない」と朝飯を食べながら言っていたのを思い出します。
投稿: オラケタル | 2022年1月24日 (月) 16時39分
吹雪での休校連絡、懐かしいですね。
栃洞では「パカパカ」と呼んでいたので、電気が二度、切ったり入れたりしたような記憶がありますが、オラケタルさんのところ(大津山?)では三度だったのでしょうか?
あの頃は、電気の灯りと言えば「電灯」でしたので、切れたり入れたりするのが分りやすかったのでしょうが、今の様に「蛍光灯」のようなものですと、あんなにハッキリとは<電源の短期切断>が分らないのかも知れませんね。というより、様々な電子機器がある今頃の家庭では、電気を切ったり入れたりされたら、めちゃくちゃになっていたかも知れませんね。例えば、炊いている最中の炊飯器が電気の変な動きで混乱し、ご飯が生煮えになってしまうとか(笑)
そういえば、その後は「おさるのかごや」や「カゴメの水兵さん」のような童謡を防災スピーカーから流して通知していたとの事ですが、岡崎在住さんの子供の頃はコレでしたか?
投稿: 前平T字路 | 2022年1月24日 (月) 07時56分