水車に思う
小さな谷間におもちゃのような水車が回っていた。
なにかに使うわけでなく、ただ回しているだけの水車だが、かなり長く回しているようで心棒の金具なども金属色を失い水にぬれて黒々と溶け込んでいた。
宇治の川瀬のみずぐるま
なんと浮世をめぐるろう
無心に回る水車に人生の流転を重ねて感慨にふける古歌だと聞いた。
そういえば故郷飛騨には”鈴虫水車”というものがあって水車の回転で鈴の付いた紐をまわしかすかな鈴の音を響かせていたが、いまでもあるのだろうか。
元祖は、双六川の小学校の退職教員、もしかして校長先生だったかが考案して作ったもので、昭和40年代だったかに町のバスターミナルにも分家があったような気がするが、、、、、、、
| 固定リンク
コメント
前平十字路さま
双六あたりでもそんなに気温が上がっているんですか。
それにしても25度はけなるいこっちゃ、、、
山の村のいとこの家でもほうれん草をやっていたけど、寸法ばっかりでなく色つやも煩くて、、、、なんて言っていたけど、今年のように野菜不足でもそんなこと言っとるんやろか。
三金不動産は自分たちの同級生も出向していたけど、儲かり過ぎて所得隠しみたいな感じだったのでは、、、、
投稿: オラケタル | 2022年6月30日 (木) 17時12分
オラケタルさま
山之村への往路は山吹峠を、帰路は伊西トンネルを通りました。双六の入口あたりで車の外部気温は「37度」を示していましたが・・・。大規模林道を上がるにつれドンドン下がり、峠の上では「25度」でした!
お蔭で、窓を開けて走っても涼しく、山のアチコチから鶯などの鳴き声を聴きながら走ることが出来ました。
今の時期は、ホウレンソウとトマト作りの真っ盛りの山の里を満喫出来ました。
そうですよね、昭和27年と言えば朝鮮特需の真っ最中。金木戸まで軌道を伸ばしたのもその頃ですかね?
「三金不動産」のことは知りませんでしたが、千葉あたりまで土地購入をしていたとは、ディベロッパーの走りなんでしょうか。さすが「三井さま」ですね。
投稿: 前平T字路 | 2022年6月30日 (木) 07時14分
前平十字路さま
山のむらに行ってきんさったか、涼しかったでしょう。
鈴虫水車はぶじでしたか、それにしても分家が130か所以上のなったのが、今はどのくらい残っているのだろうか。
昭和27年ですか。朝鮮特需で鉱山が大儲けをし、どこにお金を使ったらよいか分からず、従業員にまで聞いた末、金木戸に発電所を作り千葉で土地を買って三金不動産を作った時ですね。
その後戦争特需というものが亡くなったと思っていましたが、ウクライナの戦争ではアメリカ軍の武器やIT関連が大売れに売れていると聞くと、戦争とは人の命を商売道具にするのは変わらないものですね。
投稿: オラケタル | 2022年6月29日 (水) 21時48分
オラケタルさま
奥様、一般病棟へ移られた由。一安心ですね。
ただ、梅雨明けの異常な暑さですので、お二方ともご自愛ください。
さて、久しぶりに山之村へ行ったおり、双六の学校跡にある鈴虫水車の横に建つ説明板を具に見てきました。
いつ頃にこの看板(立て札?)を建てたのかは不明ですが、建てたのは上宝村教育委員会でした。
鈴虫水車本家
昭和二十七年、当時の第五小学校長杉淵陸三氏が、文化に恵まれない山峡の児童達のために、遠く故郷を離れて入山してきた発電所建設の労務者達の、ともすればすさみそうになる心を慰めることができればと、この水車を設置した。
小さい水車に細いひものベルトをかけ、十六個の鈴が水車の回転と共に、チリン チリンと響く可憐な鈴の音は鈴虫の鳴く音に似ていつしか「鈴虫水車」と呼ばれるようになった。
やがて鈴虫水車は新聞・雑誌で全国に紹介され、今日まで二百三十余ヶ所の分家を持つに至ったのである。分家が成立するたびに杉淵氏は小さな鈴に添えて次の歌を記して送った。
鈴虫よ 暑さ寒さに 心して
楽しく鳴けよ 人の世の道 陸三
投稿: 前平T字路 | 2022年6月29日 (水) 13時00分
前平十字路さま
鈴虫水車ができたのは、昭和40年代に入ってからだったでしょうか。
神岡ニュースか何かで知った程度で詳しくはなかったのですが、一昨年山の村のいとこが亡くなったとき双六小学校跡地で見たような、見なかったような ボケましたね。
それにしても、とても詳しい話しありがとうございます。
投稿: オラケタル | 2022年6月14日 (火) 21時20分
オラケタルさま
「鈴虫水車」は、双六の小学校の校長先生が生徒を慰めるために、空き缶を工夫して鈴と水車を作り、学校の横を流れる水路に架けたのが最初だったのではないでしょうか。
それが世間に知れ渡り、神岡あたりでも類似の作品を作って、家の前の水路(昔の下水)に設置していたのを、船津の町中では良く見かけた記憶があります。
ご記憶にあるという「バスターミナルにあった分家」とは、林菓子店の前にあった鈴虫水車のことだと思います。あれは、元祖を作った方に作ってもらったか、許可を得て作成・設置したはずで、考案者が「分家・鈴虫水車と認めた」旨の立て札が傍に立ててありましので、バスを待っている間に読んだことが、ご記憶に残っているのではないでしょうか。
双六の学校跡の近隣には、いまでも「本家・鈴虫水車」というような看板と共に、何代目かの鈴虫水車があるのを見た記憶があります。たしか、むき出しではなく屋根で覆われていたような・・。
投稿: 前平T字路 | 2022年6月14日 (火) 07時07分