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2023年10月 1日 (日)

ニコヨンのころ

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幾分涼しくなったのかなと思っていたら温度計は31度を指していた。

暑さ慣れしたのか、湿気が幾分少なかったのか、それとも老人性何とかで温度の感知能力が低くなってきたのか、、、、、

夕焼けもすっかり秋色になってはきて畠を耕しては見たが、まだ種をまく気がしないでいる。

 

今朝の新聞によると建設業につく人がいないので困っているというのがあった。

近頃では建設業だけでなく汚いきついなどのいわゆる3Kと言われる仕事はにつく若者はまれで机の前に座って楽して稼げる仕事ばかりに目がくらんでいる。

せめて現場で汗して働く人の給料がもっと多ければ違うのになとおもっているのだが、、、、、

 

昭和30年代初め一ドルが360円だったころ、ニコヨンと言われる失業対策労働者がいた。

ニコヨンとは二百四十円の略で当時の最低賃金であった。今時給の最低金額を千円にという時代になったがその伝で行くと当時のニコヨンはいまでなら八千円くらいになる。

そのころ自分が勤めた鉱山では一日千円を稼げれば「坑内夫も一人前と認められる」と聞いたことが有るが、ニコヨンの四倍強という数字であり今の金にして三万円ほどと言うことになった。

これだけ出せば、かなり危険な職種でも就職する人がいるだろうし、当時の30年勤続者は飛騨から遠く離れた鬼怒川温泉に招待され会社役員が接待したのだが、当時の部長クラスの人が「まだあんたがたの給料に到達していない」と言ったとか、、、、

一人前の日給が千円だったとすると、勤続30年の表彰者の中にはかなり高額所得者がいたに違いない。

「大工(坑内夫)三年すりゃ よろけ(珪肺)になる」と言われたのは江戸時代のこと、それから職場環境もいくらかよくなった当時でも、珪肺はなくなっておらず坑内負の寿命は短いということで厚生年金の資格も15年で得られ55歳で満額貰えた。

また、坑内夫には四年に一年の加算が付くという制度があったため、五十五歳定年時に勤続五十年という人がいて「お前いくつから坑内に入とったんや」なんてからかわれた人もいた。

 

そんな昔の話しも今では夢のなかだが、汗して働く人をもっと大事にせな国がダメになってしまう。

 

 

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