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2024年3月15日 (金)

いまから七十年近く前、中学を卒業した後親元を離れて鉱山が運営する高等学校に入学した。

当時は就職難だったのでこの高校に入るとほとんど自動的に地元の大企業である鉱山に就職することができたのでかなり遠くから入学希望者がいた。

生徒は坑内に配属される採鉱科と抗外に配属される冶金科あわせて30人ほどだったが、一二年生は市街地から一キロほど離れた木地屋地区の元捕虜収容所だった校舎に通っていたが、朝はバラバラに登校したものの帰りはわいわい騒ぎながら集団で下校した。

いま思えば坊主頭の可愛い坊やの塊だったのだが、対面する公立高校の生徒たちにとって数の上からも脅威だったようで学校間の話しでもう少し縦長になって静かに下校してくれと朝の朝礼時などに言われたことを記憶している。

 

今日手紙を出す用事があってポストに向かって歩いたが近くの高校の生徒がバスの停留所で行列を作っていた。

そこには十数人の生徒がいたが、どの子もスマホをいじくっていて会話の全然ない風景が見られる。帰り道すれ違う生徒も同じようにスマホの画面を見ながら首を下げて前方不注視の状態で集団を作ることがない。

当然仲間同士で話し合う光景もない。この子たちにとって高校生活とはどんなものなんだろうと考えさせられてしまった。

多分卒業した後縁が切れて、、、というかもともと縁なんてものは無いのだろうが、、、、

 

そういいながら、八十代半ばに入った自分も同級会なんて開ける状態もなく、何人生きているのだろうかなんて思うと、、、、、、

 

 

 

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コメント

岡崎在住さま

この写真は何かで見た覚えがあります。
昭和30年木地屋の学校、昭和s2年から三年間通洞の学校、南平の聳南寮と戦時中の捕虜収容所に関係するばしょで過ごしたわけですが、まだこのころは”十年一昔”で戦争を忘れたい時期だったようで、捕虜虐待で戦犯になった人のことも言えない雰囲気がありました。

投稿: オラケタル | 2024年3月26日 (火) 21時17分

懐かしい「しょう南寮」の写真がありましたので、展開するさな。戦時中は捕虜の宿舎であったとの事ですね。マチにも船津捕虜収容所が在って、それが鉱山高校になったそやね。

http://mansell.com/pow_resources/camplists/nagoya/kamioka_1/kamioka.htm

今年は勤めていた会社のOB会(それぞれ違うグループ)に三回、出席したんやけど、大概に昔の話で盛り上がるんやわね。傘寿の人や杖をつく人も見えて「元気」をもらったさな^^;

投稿: 岡崎在住 | 2024年3月15日 (金) 21時36分

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