いまから八十年前、自分は飛騨の山奥茂住と言う集落に住んでいた。
その日はいまから思えばこのころには夏の暑さも峠を越し三十度に達してはいなかったと思うが暑い一日だったと覚えている、空は真っ青で暑い日差しの中プールに入っていた。
後々そのプールを見たが高々五メートル四方の小さな防火用水槽だったのだが、、、、、正午にラジオの前に集まれとのことで集落に何台しかないラジオをのある家に行った。
山間の集落だったせいか雑音が大きくて何と言っているのか分からなかったが誰かが「戦争は負けて終わった」と言ったので家に帰って母親に「日本が負けたんやって」と伝えると納戸の暗がりいた母親は生気のない声で「そうか」と一声発したのを覚えている。
日清戦争以来昭和二十年まで間断を入れながら日本は戦争を続けながら長期間かかわりあってきた。
最後の戦争で完膚なきまで叩きのめされて八十年が過ぎてきたが、もはや戦争というもの知らない世代がほとんどになって忘れ去られようとしている。
今日のBS放送で「日本で一番長い日」というタイトルの映画が放送されていたが、さすがに三度目となると途中で見るのをやめてしまった。
昭和二十年八月に入って日本各地はアメリカ軍のB-29による焼夷弾爆撃と原子爆弾あるいは艦砲射撃で日本は焦土化した。
その中で八月二日の富山大空襲が自分の知る限りの身近な戦争体験であった。それまでにも兵士を送る白いエプロンのおばさんたちが日の丸の旗を振っていたこと、鉱山に送られる捕虜が小さな貨車から顔をのぞかせていたのは覚えているが、、、、、
富山市内に爆撃が始まる少し前、高原川沿いの集落の人たちが総出で空を見上げていた。なんでもその日の夜に空襲があるとアメリカ軍がビラを撒いて通告していたためだそうで、事前に襲来が分かっていたのである。
何時ころだったか覚えていないが飛行機が編隊を組んで両翼のライトを点滅させながら上空を飛んでいくのに対して迎撃の日本の飛行機はおろか高射砲の射撃もなく悠々と通り過ぎた後間もなく富山方面の空が赤く染まった。
後で聞くと周辺を先に爆撃し市の中心を流れる神通川に避難したところそこを狙うかのようにして爆撃したとか、、、、
とにかく飛行機の通過に対して何の抵抗も見えなかったことから、幼心にも日本は負けたと思った。
しかし、映画によると陸軍参謀本部の若手将校はその事実を認めようともせず反乱を起こしてでも抵抗を試みたとのことである。
このように妄信的な人々は実情を見ようとはしないで、国民や兵士の生命三百万人にも上る犠牲には頓着する様子がない。
いま世界イスラエルやロシアの指導者の下、何万いや何十万人の命が無駄に消耗されているが気にする様子はない。
仏教徒風に言えばこれだけの人に被害を及ぼすような人は、死後地獄入りが確約され畜生道か餓鬼道に生まれ変わることになるのだが戦後八十年、あのころの日本軍指導者は靖国からどこの道にいるのであろうか。
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