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2026年6月23日 (火)

光円寺

自分が高校三年生の十七歳から高校を管轄する鉱山に就職し、美山寮と言う独身寮を経てその下に連なる南平社宅の百十七号に入居したのは二十一歳だった。

すぐ上には光円寺というお寺があり住職もいた。

このお寺は江戸時代の中端 宝暦年間の1,754年に立てらて言われている。

お寺のすぐ下には小さな松の木がありその根方に祠があった。

入居してしばらくしてからこの松は土石流で埋まっており元はもっと高い木だったそうだと聞いたがそんな巨木でもなかったし松の木がそんな状態で生き残れるか疑問だった。

 

そのむかし、南平地区の上に大留(大富)いう鉱山で稼業する人たちの集落がありいくつかの坑内で銀や鉛を主体に採掘していた。(ちなみ、後ほど生産量日本一を誇った亜鉛は精錬技術がなく贋金として吹き分けご廃棄されていた)

ある年の夏大雨が降り続き大留地区が山抜けを起こし鉱夫500人ほどを飲み込んで南平の谷を流れ下り、今でも道路が大きく湾曲して登るところまで覆いつくした。

この大雨はいまでいう梅雨前線による線状降水帯が発生したのではないかと想像する。

そして、この話の続きとして贅沢三昧をしていた人々を懲らしめるためで飯炊きをして釜に残った飯を食べていたお婆さんだけが難を逃れたと続けている。

この土石流は、言い伝えだけでなく実際社宅などを建設する際に人骨などが発掘されていて、光円寺もその供養をするために建てられたある。

自分がいたころには寺の片隅に一辺80センチほど高さ2メートル弱の大きな石の供養塔があったが、先日神岡に行ったとき麓の洞雲寺の境内に移設されていた。

多分3~4トンくらいあると見ていたがいつの頃移設したものだろうか、聞いてみなかったので、、、

 

このお寺の円空作と言われる二十五体の木っ端仏はそれから百年ほど後のものだが果たしてこれに関与してのことか、それとも妖気を発していた二十五山を鎮めるためのものか、、、、

 

 

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コメント

丘崎在樹さま

二十五山も九番鉱床の充填に使われて背が低くなってしまった。
あのころは、旧栃洞谷付近にタヌキ掘りの穴が沢山あり大富側にはそれが見つかりませんでした。
鉱山人事があったレベルから260m上の場所で山頂から200mくらい下だったかな程度です。

この山には昭和三十年に初めて鉱山高校八期生の墨痕も鮮やかな角柱を担いで登り、以後何回登ったことやら、、
今では懐かしい夢舞台のような気がします。

投稿: オラケタル | 2026年6月24日 (水) 21時20分

光円寺のタカに建設された「菩薩堂」には、小桜の姉ちゃん(オラケタさん同期の山田恵美子さん)が書かれた説明文があるそうなよ✋✌ どうも笈破霧で不作になり、円空上人が山頂の御堂に籠もり二十五菩薩像を送仏祈願した結果やそうな✋


円空二十五菩薩堂由来
岐阜県百名山に指定されている二十五山(千二百十九米)は、 以前は峰鬼山と呼ばれ体験者の修業道場として栄えていた。

修験者達は二十五菩薩になぞらえ高原川から山頂まで二十五の石を運び安置して御堂を建立した。その内の一個だけが途中の和佐保の民家に置き去りになっていた。

この山頂一帯にはよく濃霧がかかり、高原郷を覆い農作物や養蚕などに被害が出ていました。

元禄三年 飛騨を訪れた円空上人は山頂の御堂に籠もり二十五菩薩像を送仏祈願の結果、濃霧はやみ豊作が続いたといわれた。 それからは毎年七月二十五日に近隣の農民達が五穀豊様を願って山頂の御堂で盛大にお祭りが行われ、二十五山と呼ばれるようになった。

前夜には船津の町から山頂まで提灯行列が出来るほどのにぎわいであった。その後、御堂は露天掘りのため昭和三十五年に山の中腹に移転されたが、五六豪雪の時に崩壊しそのままになっていた。

この由緒ある円空二十五菩薩像(県重要文化財)や絵天井、 約三百年ぶりに御堂に安置される石の想いを叶えさせ、後世に未永く語り伝えたいとここに円空二十五菩薩堂を建立する。

平成二十一年七月二十五日
菩薩堂落慶日改白

宝福山 光圆寺

投稿: 岡崎在住 | 2026年6月24日 (水) 19時41分

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