2017年4月11日 (火)

思い出すままに

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末期のあだ花となったスクープトラム

先日、コメントをしてもらっている岡崎在住さんのコメントに、鉱山の摺り取り機械スクープトラムのことがあったので思い出したことを書いてみた。

自分が勤めていた鉱山が大きく変化したと思ったのは、昭和30年代初めと、43年からだった。

もちろん、それ以前も大きな変化があったのだが、昭和32年十七歳で入社し、下っ端のまま退職した身では知る良しも無い。

ただ、何事も人力が主に時代だったので、力持ち、酒豪が幅を効かす職場でもあった。

最初の変化は、レッグ式削岩機で岩盤に穴を開ける機械が非常に軽くなって、一人で運搬できるようになったここととそれまで導火線に火をつけて火薬を爆発させていたのが、電気点火になったことである。

入ったばかりのころは、カンテラの明かりで作業をしていたが、ヘッドランプに変わり、導火線に火をつけて爆破するのだが、25本から30本にもなる導火線に決まった順序で火をつけなけらればならないので、最初につけた導火線が穴の中に入って行ったときにはいつ爆発するのかと心配したものだった。

それが、1/10秒ごとに点火するデシセコンド雷管が出来、安全な位置まで下がってから電気で点火するようになった時代である。

そして、昭和43年から、トラックレスマイニングと呼ばれる時代になり、坑内にモービルジャンボと呼ばれる削岩機とスクープトラムと呼ばれる岩屑を掬い取るローダーや四輪駆動のジープ型自動車や運搬車が入り、火薬もANFOという粉状の火薬の変わった。

その結果、作業効率はかなり上昇したが、空気の循環の悪い坑内にジーゼルエンジン駆動の機械が入ったことによって排気ガスと油煙が充満し、防塵マスクがたちまち真っ黒になり、それまで岩粉に依る塵肺(硅肺)に加えての環境悪化につながった。

自分は、そのころ職種を変更しボーリング部門になっていたため幾分影響がすくなかったため、退職した今でも塵肺認定は受けていないが、同期生のほとんどが軽いながらも認定されている。

先日も同じ鉱山で大学を卒業して入り、のちにお偉いさんになった人の、”採鉱屋の半生”とかを見たが、やはり立場の違いか作業効率の上昇や、見た目の安全など都合のよい面を強調していたが影の部分(自分がいた間に20人は殉職していることを含めて)は意識的にだと思うがふれていない。

そんなにも合理化したが、鉱山は昭和53年自分が応じた合理化で退職者を募り、その後、四年してサイド退職者をつのり、平成になって閉山し、いまは廃墟ファンの餌食になってしまった。

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2016年11月27日 (日)

木の葉をはらう

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今日は暦の上では「北風 木の葉をはらう」とある。

確かに暦どおり、近所の花水木の赤く紅葉した葉がここ二~三日の風で舞い散り、ほとんど木の枝先に残っていない状態になった。

しかし、木の葉をふるい落とした枝先には、来年の葉を包む硬い蕾が出来ており、世代交代は順調に進んでいるかのようだ。

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.先日、滋賀県でおにぎりの早食い競争で、喉にご飯が詰まってなくなった人がいたそうだ。

喉に食べ物を詰まらせてなくなる人は、例年だと年寄りが餅を詰まらせて、、、という話しで聞く。

しかし、今回のは二十八歳だとか、、、、、

親はどんな思いで、この知らせを聞いたことだろう。

戦後の食糧難を過ごし、いまでも、茶碗に米粒を残すことが出来ない自分から見ると、飽食の時代と言われる昨今、食べたくも無いのに大食いなど食べ物をおもちゃにするのは罰当たりなこととおもう。

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自分が鉱山(栃洞坑)で働いていたとき住んでいた南平社宅は、上の大富というところから江戸時代に大雨で崩落した土砂の堆積の上に建てられていると聞いた。

江戸時代、この大富というところは鉱山に入る人たちが沢山入っている飯場があったが、稼ぎの良い坑内夫は贅沢の限りをしていたそうだ(当時では)が、大雨で山抜けで一瞬にして全ての人が飲み込まれて死んだとそうだ。

しかし、このとき、飯場にいた飯炊き女だけは、つましく釜に残ったご飯を食べていたため助かった。という。因果応報の話しがのこっている。

食料自給率の少ない日本。くれぐれも食べ物を粗末にしないで欲しいと思う。

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2016年10月 9日 (日)

コスモス

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コスモスの花が盛りを迎えている。

短日植物だと言うが、品種改良(?)と言うのか、七月に見たこともある。

花の色も以前はコスモス色というと、ピンクが多く、秋桜なんて名前まであったが、濃い赤、純白などの三色しか見なかった。

しかし、最近では黄色いものやチョコレート色と言うものまであり、「花の色はうつろいけりないたずらに、、、、」なんて状態になってしまった。

ともあれ、荒れ地でも簡単に花を咲かせるため、手っ取り早い花園としてあちこちで即席の名所を作ることができる。

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2016年9月12日 (月)

ミキヨキ

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先日になってようやくヨキの意味を知った。

ヨキとは、薪わりに大きな斧のことを子供のころ言ったのだが、その斧に三本線と反対側には四本の線が掘ってあった。

この三本線をミキといい、四本線をヨキということから、斧の名前をヨキというそうだ。

そして、ミキは御神酒という字から来ており、ヨキは四気つまり”地水火風”を言うとのことで、刃物に対して神聖視したものであったという。

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Img_0010鉱山に入って七年くらいたったころだったと思う、ようやく一人前と認められると鋸と刃広という手斧を持って歩けるようになった。

削岩機で坑道の先端に穴を掘り、発破をかけて坑道を掘り進めるのだが、硬い頑丈な岩盤ばかりでないことがあり、そのままでは危険な場合、松丸太で支柱を組んで支えるのだが、バッテリー電車やローダーと言う土砂を積み込む機械を通すため、五六の加背という大きさが最低必要であった。

五六の加背と言うのは五尺六尺を意味し、高さ1,8m 幅1,5mの大きさを言う。

この坑木は、30センチと離れない場所で発破をかけても耐えられるようにするため、それなりの技術が必要であった。直径25センチ前後、長さ2,1mの丸太を現場に運び込み、鋸と刃広で加工し組んでいくのだが、見栄もあってよい道具を自慢し合った。

その刃広を退職してからも、ずっと持ち歩いていたが、仕事をやめてから道具箱の墨にしまったまま放ったらかして置いた。

今日その刃広を取り出してみたら真っ赤にさび付いており、あまりにも哀れだったので砥石で研いで見た。

50年近く前買ったものだが、当時一日働くくらいの代金だったのではなかったかと思う。(今の価格でなら一万円以上にはなっていたはず)

打った鍛冶屋の銘は照秀とも読めるが、、、、、、とにかく極上品だったに違いないとみた。

あらあら研いだところで、写真にしてみたが、この先何に使う予定も無し、ダンシャリということになるのだろうが、、、、、

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2016年5月 8日 (日)

ベサメムチョ

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全国至るとこと言ってもよいくらい繁茂しているスイカズラに花が咲き出した。

つぼみのうちは先端がすこし赤紫がかった色をしているが、開花時には唇状に上下に分かれた白い花が咲き、その後黄色くなっていく、そのさまから金銀花と言ったり、冬も葉が落ちない常緑の蔓であるため、忍冬とも呼ぶ。

スイカヅラを漢字で書くと吸蔓と書くが、唇状の花から来るのではなく付け根の部分に蜜があることから、花を取って吸うことから来ている。

ちなみに江戸時代はこの花から作った”忍冬酒”は浜松の名物だったようで、参勤交代の大名衆が楽しみにしていたとか、、、、どこでも作れそうなのだが、そんな話が残っていると、遠州で聞いたことがある。

自分は花の形状からこの花を見ると、ラテン音楽のベサメムチョを思い出してしまう。

besame besame mucho

como si fuera esta moche la ultima voz

キスしてよ キスしてよ もっといっぱい

今夜が 最後かもしれないから 

と、狂おしいセニョリーターの愛の告白である。

この歌の意味を知ったのは、アンデスの山中で仕事をしていたときであった。

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1,975年ペルーの標高4,000m付近で仕事をしていたとき、先輩がよく宿舎に訪ねてきてくれ、励ましてくれた。

先輩とは同じ鉱山で仕事をしたこともあったが、ペルーには鉱山出資の子会社があり、そこへ採鉱を指導するということで派遣されていた。 

その後、自分は金属鉱業事業団から、鉱床探査のボーリングをするため国の予算がついた時点で行くことになった。

当然、一年ごとの短期派遣なので、会社派遣の人たちからはうらやましがられたものだった。

派遣先が違うため、宿舎は別であったがすぐ近くだと言うことで、髪が伸びたときなど交代にはさみを持って床屋さんをし合ったこともあった。

昨日、その人の姪御さんと言う人から別のブログで照会があり、よく知っていると答えたところ、先輩は20年も前になくなっていたことが分かった。

気配りの長けた人で誰にでも好かれる人であったが、それだけに苦労をしたのではなかったのだろうか。

自分の数少ない同級生の中にもすでに鬼籍に入った人は1/3に及ぶが、事業所採用の社員が本社採用扱いになるにはそれぞれに苦労したようで、亡くなったすべてがそんな人である。

幸いと言うか、海外派遣から早急に脱落し、静岡に流れてきた自分はいまだに健在である。

それにしても、企業戦士として、会社の花形として、身を粉にして働きづめに働いた”地上の星”はみんな散りじりになり、見送られることも無く散って逝きつつある。

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2016年1月15日 (金)

お先棒を担ぐ

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この花の名前が分からなかったが、花の格好からナス科の植物だと確信して、「ナス科、蔓」で入力して見たら、その名もツルハナナスだと言うことが分かった。

漢字で書けば、蔓花茄子であり、ごく単純に名づけられていた。

しかし、この花のおかしなところは、一年中あちこちに花を咲かせているくせに、この株では実をつけたのを見たことが無いことだ。

「親の意見と茄子の花は 千にひとつの無駄もない」と言うのだが、この花に限って当てはまらないようだ。

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昭和50年代ころまで、現場の仕事と言えば人力が主で力自慢が幅をきかしており、人に負けじとがんばったおかげで、肩の付け根の筋肉がこぶのように盛り上がっていた。

それでも、会社に入りたてのころ重いものを運ぶ場合、荷物をロープで縛り丸太を通して前後ろで担いだものだが、前を担ぐ先棒は手元のものが担当し、後棒は親方と言う決まりになっていた。

この方式は、江戸時代の駕籠かきと同じ方式だが、前を担ぐ者はどうしてもよろけてしまい右に左にとふらふらとしてしまうものである。

それを後棒の親方がからかい半分、叱り半分で声をかける。

映画で見る早駕籠のばあい、縄を先棒のそばにくくりつけ引っ張るように走るのは、このよろけを防ぐ意味もあるんだなと感じてしまった記憶がある。

と、同時に、ふつうの町駕籠では映画のように「えいほう えいほう」と掛け声勇ましく走るのは無理なことだと言うことも知った。

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今日も国会の中継を少し見たが、与党議員の質問は政府に対するおべんちゃらにしか見えず、すぐにほかの番組に切り替えてしまった。

あんな質問をするのは、首相に認めてもらって、何か肩書きのつく役職をもらい次の選挙に使いたいため、右往左往しているのが見え見えである。

とにかく”お先棒を担ぐ”と言う言葉がそのまま当てはまる。   

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2015年10月29日 (木)

途中で見るのをやめた

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高原川を挟んで立ち並ぶ神岡の中心街、正面霧に包まれたほうと右上に鉱山がある。

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自分が生まれ育って、39歳までいた神岡町はノーベル賞に関与したカミオカンデがあることで、明るい話題になっているが、その前はイタイイタイ病の公害を出したということで、悪名をはせていた。

そのもとは、いずれも町の北側にある鉱山である。

鉱山の最盛期には、27,000人余の人がいて、町から市になるのも間近と思われていたが、非鉄金属が国際商品となってからは、鉱物の含有品位がたかい世界の鉱山に太刀打ちができず次第に寂れていき、坑内での採掘をやめてから人口も半減してしまった。

それだけに、昨夜は神岡町を主題にしたドラマ「ガッタンガッタン それでもゴー」がNHKで放送されるというので、期待をして見ていた。

しかし、あまりにも予想とはなれたストーリーと背景の画面にあきれてしまい一時間ドラマの半分でスイッチを切ってしまった。

前半しか見ていないのだが、20数キロはなれた隣村の一重が根の本陣という温泉旅館や下流15キロほどのところにある、カミオカンデの坑口がまるでひとつところにあるような設定。

そして、坑内を走るバッテリー電車を何も知らない素人が運転したがるなど、荒唐無稽もいいとこ、、、、、

多分、このドラマの自分以外のも神岡にいる人や居たことのある人が期待し、見ていた人は何万人といたことと思うが、感想はどうだったんだろうか、、、

聞いて見たい気がする。

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2015年5月 1日 (金)

目に青葉

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目には青葉 山ほととぎす 初鰹  

この句の通りの季節になった。

麻機沼に柔らかな風が吹き、新緑の青葉を揺らし若葉の匂いを漂わせている。

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今日は五月一日。    メーデーである。

40年ほど前まで毎年のように赤い組合旗を先頭に小さな町の中央通りを歩いた。

#晴れた五月の青空に 歌声高~くひびかせて、、、”と   今日はその歌のように雲のない暖かな日和である。

ゴールデンウイークのさなかながら三千数百人の組合員の半数以上が、約3kmの道筋を行進した。

ほとんどの人の目的は、メーデー行進のあと職場単位で”山行き”と称する飲み会が目当てでもあったろう。

解散地点近くの大津神社の周りに茣蓙を引き、呑み助が多い鉱山労働者がビールを掲げて終わったばかりの春闘でいくら上がったのか職場役員と語り合う場でも有り、今日のように晴れ上がった日は、、、、、、、、。

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それから幾年、労働組合とも縁がなくなり当時の仲間もいまはいくたり残っているのか、、、、、

むかし軍隊いま総評と言われた、当時の労働組合もすっかりと様変わり、最近では賃上げ闘争に保守の政府の後押しがなければ戦うことさえままならない、労働組合に成り下がってしまい、メーデーも四月の休日に行なわなければ鳴らないほど堕落してしまった。

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2015年1月31日 (土)

廃墟

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鉱山最盛期のころの映画館、これらの人はいまどこに

自分が生まれて39歳まで住んでいた飛騨の神岡町は鉱山が主産業の町であり、最盛期は人口二万五千人ほどの八割くらいが鉱山と何らかの関係があった企業城下町であり、我が家も先祖代々この地に住んでいて、鉱山とは何らかのつながりがあったと思っている。

その鉱山も国際競争力に勝てず、人員整理のなどの合理化とそのあと、採掘を止めてから寂れていった。

そのため、採鉱部門のあった栃洞地区と大津山地区の社宅は無人となり廃墟になった。

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2006_0219_135726昨夜、NHKテレビで「廃墟」と題した放送があり、それを見ようとチャンネルを合わせたが、ものの10分ほどで見るのを止した。

最近、”廃墟マニア”と言われる人が、人が住まなくなった建物などを傍若無人に入り込み、写真を写して悦に入っているようだが、この番組の冒頭に、そんな人が神戸の元ホテルにはいり、壁の汚れ具合などを見ていたからである。

”廃墟”自分が育ち仕事をした場所は、火事と雪と風化によってほとんどが消えうせた。

しかし、物はなくなっても思い出の中に、それらが生きている。

まさに、夏草やつわものどもが 夢のあと    といったところ

そんな場所を、全然関係の無い人に荒らさられ、勝手な批評にさらされるのは我慢が出来ない。何だか自分たちの墓を土足で踏みにじられているような気がしてならないのだ。

都会の廃墟は、更地にされ次の新しい建物に変わっていく。これも思い出は跡形も無く消え去ってしまうので寂しいものだが、廃墟は生き恥を晒しているようで切ないものがある。

一つには、廃墟を作った会社なりが厳重に管理して立ち入らせないようにすれば良いのだが、そんな余裕は無いらしい。

廃墟マニアよ! そこに住んでいた人たちがどんなに嫌な思いをしているのか、知って欲しいものだ。

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2014年9月27日 (土)

 チュースピー

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1,975年。ペルーはワヌーコ県のアンデス山中でボーリングをしていた。

その現場から小さな谷を挟んだ向かいの山にチュースピーという山があった。

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ボーリング現場からアコンカグアを遠望する

この山はアンデスの最高峰アコンカグアからどのくらい離れたところにあるのか分からないが、、現場から「あれがアコンカグアだ」と言われて見えたところから、5~60kmくらいの距離にみえた。そして、このあたりは6,000m級の山々が連なっているところなので、今になって地図で調べてもその位置が分からない。

なにしろ、ボーリングの現場でさえが標高4,000mを越えており、赤道直下に近いこのあたりの山でも4,600mを越えれば、氷河が山に居座ってしまうところから、このチュースピーという山は5,000mを優に越えていると思われた。

ボーリング作業は、三交代で昼夜休みなく続けられたが、機械修理だったか、何かの折休みが一日出来たので、この山のどこまで登れるか行ってみたことがある。

このあたりの山は、森林限界を越えており低い草しかないのと、羊飼いが羊を追って歩く山なので、特に道がなくても好きなように歩くことが出来た。

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4,600mまであと少し

それでも、4,600mくらいと思われる氷河の下まで登ったときには息が切れだしたのでそこで引き返してきたが、このあたりが自分が足で登った最高到達点である。

そこから見た景色は、アンデスの山々を連ねて、行く筋もの横線が走っていたが、この横線はむかし海の底に堆積した珊瑚などによる石灰岩と泥が堆積した頁岩の互層が大陸移動の圧力で幾重にも折り曲げらた末に見せた断面である。

そして、圧力を利用するような形で地下からマグマが亀裂に沿って登ってきたのが、日本で言う安山岩である。

安山岩や玄武岩はマグマが押し上げられ、地表の比較的浅い場所で急激に冷え固まった岩石をいい、白っぽいものを流紋岩、黒っぽいものを玄武岩と言いい、その間の色合いのものを安山岩と言う。(細かく言えばきりがないので省略)

安山岩。その名前の由来はアンデスの岩(andesite)と言うところから日本語に直されたものであるが、その元となったのはペルーで第二公用語になっているケチュア語の東(アンテイ)という言葉が元になっていると聞いた。

自分が現場に入ったころ、草の間に咲く花を指差して名前を聞いたところ、すべてを「フロール」で誤魔化されてしまったように、アンデスの山に向かってあの岩はと聞いたところ、指差す方向が東だったのではなかっただろうか。

多分、当たらずとも遠からずでなかっただろう。それにしても安山岩が元をたどると東だったというのは、最近の若者言葉に目くじらを立てることもないか。と、言いながら気になってしまうんだな       

            これが

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