2019年9月 5日 (木)

サボテンの花

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今年最後のサボテンの花が散った。

もう十年余前になるが、知り合いの九十翁の家にあったものをもらってきた。

いわば形見といったところのサボテンだった。

土が合わなかったのか、その後長らく成長もしないでいたのを、三年前に日当たりの一番強い場所に移したらすくすく伸び四mほどになった今年初めて花を咲かせた。

みれば、その前からある月下美人の花ともよく似ていて、サボテンの花というのはこういうのが多いのかなって感じがする。

 

昭和五十年だったと思うが、ペルーから帰ってきたとき、「一つ屋根の下」と言う青春ドラマあって、その主題歌に”サボテンの花”と言う歌が流行していた。     とおもっているが、、、、、思い違いでなければ、

ドラマも見ないで、そのドラマの題名から、全然場違いながら鉱山社宅のハモニカ長屋を連想し、そこにまつわる青春の一頁、、、、、、、、

従業員の独身寮をからみる先輩の娘さんたちはいずれも美人ぞろい、目がくらんでロクに口が利けなかったのはバンからを気取る時代だったのか、男しかいない学校のためか、、、、

寮の上を通る番屋坂から女子中学生にさえひやかされる始末。

あれからうん十年、あの娘達も今では後期高齢者になっているのだが、記憶の中ではいつまでも いつまでも

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2019年7月11日 (木)

釣瓶橋考

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#殿の若い衆に 吉田の小町

    なんで釣瓶に 橋かけぬ 

                はしぃ~かけ~ぬ

船津の盆踊りに歌われるひと節だが、若いころ夏になるとふんどし一丁で釣瓶の橋の下の深みによく傍の岩からどぼしこんだ(飛び込んだ)り、川を流れ下って下流の八幡地獄あたり川から上がり、十六切から戻ったことがあるがくたびれてやっとこさの思いをしたことを思い出す。

そのむかし、飛騨の神岡と言われる前 このあたりは麻生野村と呼ばれていたころ、この水面から50m(もっと低かったかも?)ほど高いところに藤で編んだ危なっかしい橋が架かってはいたそうだが、この歌詞は橋がないと歌っているので、それ以前のものだとすると、、、、、、、

昭和30年代初めには、当然藤蔓の橋はなくなっており、狭いながらワイヤーで張った釣り橋がかけられており自動車は少なかったかのか通っていなかったような気がする。

ただ、年長者が言うには橋から川まで直接飛び込むものもいたやに聞いているが、自分が川遊びするころはとてもとてもと言った感じになっていたし、当然、両岸に住む殿村の若い衆と吉田村の小町は充分に行き来できた。

六月七日早朝散歩がてらに釣瓶橋の欄干越しむかし遊んだ淵を眺めてきた。

川の様子はむかしと変わらず、梅雨時なのに濁りもなく青々と流れており、今日見た安倍川のねずみ色に濁った安倍川とは印象が全然違う。

 

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2019年6月 3日 (月)

山法師の花

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山法師の花が一列になって咲いていた。

これに長刀でも持たせたら、平安時代の叡山の荒法師さながらに白川上皇まで嘆かせた法師となろう。

街路樹の花水木とはよく似ているが、みのできる時期と形がまるで違う。

しかし、子供のころこの木の実を”いつき”と呼んだのは大人の誰かが水木だといったことによるのかもしれない。

七月の終わりころ、梅雨明けと夏休みが始まるころ、この木の実が赤く熟れると、何をおいても山に行き底なしの腹を少しでもいっぱいにしようと食べ漁ったものだった。

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2019年5月29日 (水)

双六谷

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「うん、たしかここだったよな」そこは、五十年ほど前と変わらぬ姿を残していた。

秘境の中の秘境と言った感じの双六谷の青く澄み切った淀みは深さ5mほどもあっても水底まですっきりと見える。

奥飛騨の霊峰笠が岳(2,869m)を源にもつ双六谷は、上流に人が住んでいないこともあって高原川と合流するまでその清らかさを失うことが無い。

広大な流域面積を持っているため、いざ雨が降り出すと水かさは急激に上昇し釣り人などが遭難したこともよく耳にしたくらいの暴れ谷でもある。

ここに、自分と弟、妹などの家族を連れて水遊びに来て、写真手前の飛び出した岩の上から飛び込んだり、甲羅干しをして楽しんだものだった。

水は、真夏でも冷たく泳ぐ泳ぐと言ってもすぐに冷え込んでしまうためと魚釣りなど水遊びが主であった。

今回ここを通ったのは、山の村に上がる栃洞からの道路が工事で五月いっぱい通行止めになっていたため、金木戸周りの道を使うしかなかったためである。

おかげで、普段は一番奥にある山吹峠が玄関口になってしまった。

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双六川沿いの金木戸集落はそのむかし小学校などもあって、図書室だったかに八寸(25cm)の岩魚を飲み込んだ尺二寸余(40cm)の鼻曲がり大岩魚が飲みきれずともに死んでしまった標本があったのだが、学校ともども何処かへ消えてしまったようで、学校跡地はきれいさっぱり何もなくなっていた。

ただ、校庭の隅にあった「鈴虫水車」のみを残して、、、、、

人の歴史は、簡単に変わり現況をとどめないが、あの暴れ川が流れる双六谷はいまも尚、五十年余も前の姿を残している。

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2019年5月13日 (月)

桑の実

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ヤマグワの実が黒く色付いてきていたので、つまんで食べてみた。

ほのかに甘く懐かしい味である。

子供のころおばあさんの家の前にあったので、登って摘まんで食べていると、その家の上にあった小学校の生徒たちが「食べるな~」って言いながら石を投げつけてきた。

どうも、その学校では何か食中毒か木から落ちるなどの事故でもあったらしく生徒に「桑の実を採るな」と言うようなことがあったらしく、桑の木も無く当然禁止されていな隣の学校の子供が桑の実を食べているのにうらやましく感じたのか、事故のことを教えたかったのか、、、、

あのころの子供は、すぐに石を投げるのが常道だったように思う。

当時おばあさんの家は、蚕を飼っていたので桑の木が幾本もあったし、写真のような山桑ではないのでもっと粒が大きかったので沢山食べたためばかりでないのだが、摘んだ手はもちろん口の中を紫色に染めていい訳のできない証拠を残した。

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そういえば昭和30年代、鍬野みゆきって言う女優さんがいた、いかにも日本風な顔立ちで、、、、、あんなタイプ好きだったなあ、、、、、いまどうしているんだろう。

おばあちゃんになって「見る影も無い」なんてことにはならないと思っているが

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2019年1月20日 (日)

ねっその花

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なんともお粗末な花びらながら人気があるのは名前からか。

マンサクを飛騨では”ねっその木”という。

雪がとけると、山のあちこちに黄色い花が見られ、春一番に咲く花として知られているがそれよりなにより、この木の粘り強さから、春祭りの幟を台木にしっかりとくくりつける気として使われるからである。

ぐりぐりと二回ほど巻いて梃子棒でねじるのだが、普通の木だと千切れてしまうのだが、高さ5mほどの幟がびくともしないようになる。

合掌造りの木組みもこれを利用するくらい丈夫な潅木である。

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十年ほど前、富士山に登った折、頂上から少し下がった地点で十人ほどの人に囲まれたお年寄りがいた。

そばに近寄るとお年寄りの周りにいた人は、親類縁者のようで「100歳のおじいさんの登山だ」と言っていた。

その賑やかさは並みのものではなかったしおじいさんは神輿のように祭られて登って行った。

また、テレビで御嶽山の頂上にある神社の宮司だと紹介されていたように思ったが高齢の神官が強力に背負われて登って行く放送を見た。

そして、今日の新聞には元スキーヤーとして名をはせた三浦雄一郎氏が南米の最高峰アコンカグアに登るためヘリコプターで標高6,000m地点までいったそうだ。

確かこの人、八十歳の折エベレスト登ったそうだが、周りに担ぎ上げられるようにして登頂したとか、、、、、

さすが有名人は違う富士山の百歳翁は親類縁者だし、御嶽山の神官は強力の日当で済んだが、が以外へ行ってヘリコプターで頂上近くまで行くんじゃ並大抵な費用ではいけるものじゃないだろう。

どこから、こんなお金を工面したのか知りたいものだが、何か採算が合うから出したはずの勧進元はわからない。

弁慶並みに勧進帳を読んでみてほしいものというのは、ひねくれものの僻みである。

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一月二十一日の報道によると、三浦氏はドクターストップによって登頂をやめたとのことであった。

医者まで同行して行っていたのか、まさに、大名旅行然とした登山だったわけで身体の調子くらい前もって分かっていたとすると一帯なんだったのか。ってことになる。

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2018年12月29日 (土)

仏頂面で

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青く澄み切った空からは、日本海側の大雪が想像できないが、テレビでは大陸からの噴出している寒波の流れを伝えている。

いつもこの時期になると思い出すのは、昭和二十年代の大雪である。

当時はいまより寒冷な気候だったようで早いときは十月に初雪を見た年もあったりして年末のこの時期はかならず雪が積もっていた。

このときは高山本線はどうにか動いているようで、飛騨と富山の国境付近の猪谷駅には名古屋方面の紡績工場から正月休みに入った子供たちが帰ってくるとの知らせが入る。

自分の家でも三歳年上の姉が午後に到着すると言うので、親に言われたのか自発的だったのか憶えていないが、鉱山社宅のある標高800mの大津山社宅から標高400mの国道四十一号線の降り、そこから8kmほどはなれた猪谷駅まで徒歩で迎えに行った。

このころ、国道とはいえ雪が積もりだすと交通機関はすべてがストップするため、土産などの膨らんだ荷物を一人で担いでくるのが難しく、どの家でも兄弟や親が迎えに行ったものだった。

たぶん昭和二十七年か八年だったと思うがその年も積雪40センチくらいあったのだが、あいにくと自分らのほかに誰も行く人がいなくて、雪を掻き分けながらっ途中まで来ているのでは、、、、、と歩き出した。

ところが何処まで行っても出会えず駅まで行くと、列車は遅れているとのこと、やきもきしている時間の長いこと、、、、、、

ようやく、遠くのトンネルを抜けて汽笛を鳴らす蒸気機関車の音を聞いたときには涙が出てきてしまった。

改札を出てきた姉を見たとき涙を見せないため、仏頂面をしていてが涙のあとを見破られていたことと思う。

荷物を背負って弟と三人で家に帰り着くころはあたりが暗くなっていた。

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2018年8月21日 (火)

花ぞむかしの香に匂いける

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花の向こうに鉱山があった二十五山を望む

a百人一首にこんな歌があった。

人はいざ 心も知らずふるさとは 

     花ぞむかしの 香に匂いける  

ふるさと神岡は鉱山の城下町であった。

そこには、先祖代々過ごし、自分も鉱山で二十一年勤めててきたのだが三十九歳のおり、なんとなく風に吹かれるようにして静岡に流れ着いた。

そして、「ふるさとはどんなところ」と聞かれるたびいろいろと説明してきたが、最近ではスーパーカミオカンデのある町だと答えている。

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お経の中に延命十句観音経という短いお経がある。

そのむかし、飛騨の神岡では他所ではまず例がないと思われる通夜の行事(?)があった。

一般といえるかどうか知らないが、通夜は遺族がいる中を通り挨拶と焼香をしてかえるのだが、神岡では参列者が定時に集まると二時間以上かけて西国三十三箇所御詠歌を唱えるのが慣わしであった。

あまり長いので中休みがあり町内会がお茶の接待などし、同級会は下足番などしていたが、通夜の最後は先の延命十句観音経を三度繰り返すので、この段になって「ようやく済んだ」と、ほっとしたものだった。

自分が神岡を離れて四十年、今ではこの風習も廃れてしまった。

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今日は娘の命日。

ここのところの定まりの無い天候のためふるさとへ帰り墓参りするのをためらって行かなかったので、仏壇の前で御詠歌を早口に唱え、延命十句観音経を唱えて偲んだ。

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2018年7月11日 (水)

月下美人に思いを

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今年初めての月下美人の花が宵闇のはじまるころになって咲き出した。

長い間この日を待っていたかのように、十五個の蕾のうち十二個が固い蕾から純白のレースのような花びらと、舌のような雄しべと雌しべを見せてきた。

明日の朝までのまさに”花の命は短くて、、、」と言わんばかりの大輪の花である。

この花は十数年まえ、四国は愛媛から引っ越してきた人の置き土産、最初の出会いは彼が脳梗塞の後遺症で足を引きずりながら麻機周りを歩いていたとき話しかけたのが縁であった。

その後数年互いの家を行き来するまでの中になったが、彼の子供がアメリカ留学をすることになって愛媛に帰っていった。

そして、七年前に再度の脳梗塞で無くなったとの知らせが入った。

ちょうど、このように暑い季節だった。心なしか花の色も今宵は愁いを帯びているかのよう、、、、、、

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a西日本の豪雨災害の犠牲者の数は日を追って膨れ上がり留まるところを知らない。

テレビでよく聞いた言葉の中に「経験したことのない雨が降ります」や「五十年に一度の災害がでるおそれが、、、」などというのがあり、被災者がなぜこれらの情報を無視して動かなかったのかと言う報道もあった。

自分を含めて、とくに年寄りはいままでの経験から物事を判断し、警報は聞いてもいても自分のことと思いにくい面が多々あるのではないだろうか。

また、ひとつの問題点はしょっちゅう警報を出して「狼少年」のようになっていたきらいもありそうだ。

天気予報に関しては、晴れの予報が雨になるとお叱りを受けるが、雨の予報が晴れてもあまり文句が来ないと言うところから、天気の変化を悪目に言っておくということがあるのではないだろうか。

また、大雨注意報などでも行政区画で赤くしたり、黄色したりしているが、県境で雨の量が違うなんてことがあるはず無いことは誰でも知っていることであり、もっと決めの細かい予報が出さなければ、われわれが信用しないことぐらい、、、、、、、、あまり文句をいってもしようが無いか。

日ごろから、人の運命はどこかで決めれていると言う運命論者としては、、、

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2018年1月24日 (水)

荒れた日

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空飛ぶ鳥すべてが流されるように風下に飛んでいき、風花が舞い散っている。

今日はこの冬一番の荒れた日のようだ。

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ちょうど51年前のこの日も寒い日だった。

二の方(夜勤)の仕事を終えて帰ってきたときに父親の亡くなった知らせが病院からきた。病弱で入退院を繰り返しており、このときは入院して一週間、前の日の見舞いでは元気だった。

それが、付き添いの母親と父親の妹も気づかないくらいの間に息を引き取ったとのことであった。

雪の中を急いで駆けつけ、霊安室まで叔父と二人で担架に載せ冷たい階段を降りて行ったときの重さは今でも身にしみている。

そのとき、二十六歳だった自分は親戚関係のことに無頓着だったため、住んでいたところから十数キロはなれた山の村の親戚が分からず、わずかに知っていた親戚に電話し、あとは「心当たりに連絡してくれるよう」以来するしかなかった。

神岡町山の村は標高1,000mに近い高冷地であり、あのころはブルドーザーも少なかったこともあり、陸の孤島化していたため、親戚の男衆だけ10人ほどが股上まである雪をこざいて(踏み分けて)来てくれたが、気温も低かったため眉毛を凍らした人まであったのを覚えている。

そのご、これらの人の恩返しもすることなく別れてきたわけだが、今日のような寒い日に思い出しては、なんとも心苦しい命日である。

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