2018年7月11日 (水)

月下美人に思いを

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今年初めての月下美人の花が宵闇のはじまるころになって咲き出した。

長い間この日を待っていたかのように、十五個の蕾のうち十二個が固い蕾から純白のレースのような花びらと、舌のような雄しべと雌しべを見せてきた。

明日の朝までのまさに”花の命は短くて、、、」と言わんばかりの大輪の花である。

この花は十数年まえ、四国は愛媛から引っ越してきた人の置き土産、最初の出会いは彼が脳梗塞の後遺症で足を引きずりながら麻機周りを歩いていたとき話しかけたのが縁であった。

その後数年互いの家を行き来するまでの中になったが、彼の子供がアメリカ留学をすることになって愛媛に帰っていった。

そして、七年前に再度の脳梗塞で無くなったとの知らせが入った。

ちょうど、このように暑い季節だった。心なしか花の色も今宵は愁いを帯びているかのよう、、、、、、

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a西日本の豪雨災害の犠牲者の数は日を追って膨れ上がり留まるところを知らない。

テレビでよく聞いた言葉の中に「経験したことのない雨が降ります」や「五十年に一度の災害がでるおそれが、、、」などというのがあり、被災者がなぜこれらの情報を無視して動かなかったのかと言う報道もあった。

自分を含めて、とくに年寄りはいままでの経験から物事を判断し、警報は聞いてもいても自分のことと思いにくい面が多々あるのではないだろうか。

また、ひとつの問題点はしょっちゅう警報を出して「狼少年」のようになっていたきらいもありそうだ。

天気予報に関しては、晴れの予報が雨になるとお叱りを受けるが、雨の予報が晴れてもあまり文句が来ないと言うところから、天気の変化を悪目に言っておくということがあるのではないだろうか。

また、大雨注意報などでも行政区画で赤くしたり、黄色したりしているが、県境で雨の量が違うなんてことがあるはず無いことは誰でも知っていることであり、もっと決めの細かい予報が出さなければ、われわれが信用しないことぐらい、、、、、、、、あまり文句をいってもしようが無いか。

日ごろから、人の運命はどこかで決めれていると言う運命論者としては、、、

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2018年1月24日 (水)

荒れた日

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空飛ぶ鳥すべてが流されるように風下に飛んでいき、風花が舞い散っている。

今日はこの冬一番の荒れた日のようだ。

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ちょうど51年前のこの日も寒い日だった。

二の方(夜勤)の仕事を終えて帰ってきたときに父親の亡くなった知らせが病院からきた。病弱で入退院を繰り返しており、このときは入院して一週間、前の日の見舞いでは元気だった。

それが、付き添いの母親と父親の妹も気づかないくらいの間に息を引き取ったとのことであった。

雪の中を急いで駆けつけ、霊安室まで叔父と二人で担架に載せ冷たい階段を降りて行ったときの重さは今でも身にしみている。

そのとき、二十六歳だった自分は親戚関係のことに無頓着だったため、住んでいたところから十数キロはなれた山の村の親戚が分からず、わずかに知っていた親戚に電話し、あとは「心当たりに連絡してくれるよう」以来するしかなかった。

神岡町山の村は標高1,000mに近い高冷地であり、あのころはブルドーザーも少なかったこともあり、陸の孤島化していたため、親戚の男衆だけ10人ほどが股上まである雪をこざいて(踏み分けて)来てくれたが、気温も低かったため眉毛を凍らした人まであったのを覚えている。

そのご、これらの人の恩返しもすることなく別れてきたわけだが、今日のような寒い日に思い出しては、なんとも心苦しい命日である。

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2017年11月 1日 (水)

十三夜

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今日は旧暦の九月十三日。

雲なき夜空に十三夜の月がくっきりとかかる。

日本人は完全よりすこし欠けたものに美を感じるという。

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河岸の柳の行きずりに  ふと見合わせる顔と顔 

立ち止まり 

懐かしいやら 嬉しやら 青い月夜の十三夜

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いろんな歌手が歌っているが、やっぱり市丸に止めをさす。

意味は分からなくても、子供心に響いた歌だった。

市丸の原点は松本の浅間温泉だったとか。

いまじゃ、こんなに悠長な歌は流行らないだろうけどね。

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2017年7月21日 (金)

とにかく暑かった

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”梅雨明け十日”とはよく言ったもので、今が一番太陽を厳しいと思う時期なのかもしれない。

先日種をまいた夏レタスを裏の畑へ移植し、寒冷紗を上にかけて日よけとし、毎日水遣りをしているがなかなか元気を回復しないでいる。

そんななか、そばの庭ではデュランタの青い花が太陽の光を真っ向に受けて輝いている。さすがに南国生まれだけあって、こんな季節が好きなんだろうな。

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小学校のほうは夏休みに入ったようで、テレビが報じていた。

こちとらは、この暑さに負けて、畑に一時間程度行ってくるだけで、引きこもっている。

この夏に入ってすでに熱中症で死者まで出ていると聞くと、山の集会にもおちおちと出かけて入られない。

先日床屋でも「子供のころは静岡でも三十度越えの日はあんましなかった」と言っていたが、寒暖計を見たわけでもないのではっきりしたことは分からない、と言う結論になった。

ただ、海から10kmくらい離れたこのあたりからでも、自転車をこいで海水浴に行ったものだと聞くと、今ほど暑くてはいくら子供でも行く気がしないだろう、と思う。

そして、”海水浴”ときくと、はじめて、富山の岩瀬浜に言ったことが思い出された。

山の中腹にある鉱山の社宅から、朝早く起きて、一里の道を歩いて降りてロコに乗り、高山線で富山駅までは順調だったが、それから海へ向かう岩瀬線が超満員、座るどこではもちろんなかったが一番の苦痛は大人の尻の間にはまって、押されるやら暑いやらで焦熱地獄を経験した。

浜について、高山の海の家で支度し、海岸までの砂浜がまた暑く草履で鍛えた足でも我慢がならなかった。

その後どうしたかは覚えていない。あの時何歳だったかも憶えていないが、とにかく暑かったのだけ、、、、、、

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2017年5月 6日 (土)

夏は来ぬ

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卯の花の匂う垣根に ほととぎす 

早も来啼きて 忍び音もらす 夏は来ぬ 

卯の花とは一般的に、芯がコルク状の白いものが詰まった空木のことをいう、この花が咲き出すと初夏の候だというが、色の濃いタニウツギを見かけた。

これだけ色鮮やかな花は自然界では見当たらないので品種改良とかで、作られた庭木には違いないだろう。

しかし、昨日暦の上で立夏を迎えたからって、律儀に気温が三十度近くになら無くてもよいのに、、、、、

こんなに早く夏日と言われる二十五度の基準をとっくに超してしまうと、身体が付いていかなくいのだが、タニウツギのほうはそんなことに意を解さないようにして花を爛漫と咲かせている。

前にも書いたのだが、この木の花のことを”ダニバナ”と習い、花の中にダニがすんでいると思って避けて歩いたが、タニウツギから変化した言葉に違いないと思ったのはそれからずいぶん後のことだった。

ただ、この花が咲くと1,000m級の高い土地に生える竹の子が芽を出すため、山へネコダと呼ばれるアケビなどの蔓で編んだ背負子を担いで山に入ったものだった。

この竹の子というものは、実際には根曲がり竹と言う正式名があったが、実際は笹でありこれの密集した場所に入ると方向感覚がなくなり、何年かに一度行方不明の捜索が行われた。

そのほとんどが中年のおばさんだったのは、竹の子を見つけるとずんずんと進んでいった挙句のことだと言うのは、なんだか女性の特色を現しているようで、、、、

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2017年4月 4日 (火)

お茶かね?

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柳につばめは あなたとわたし 

胸の振り子がなるなる 朝から今日も

ひさしぶりの麻機沼周りの散歩。すこしに見ない間に季節はまた一歩進み柳の木は一番と緑が深くなっていた。

そして、春を告げるツバメも帰ってきて高く低く飛び回っている。

季節のものが季節どおりに来ると言うのもこれまた安心感がある。

帰って霧島一郎の”胸の振り子”を聞いてみた。

昭和22年の歌だと言うから、かなり古い歌なのだがそのテンポのゆっくりした歌い方は、いまの早口歌に慣れない耳には安心感とともにこんな歌のほうが歌唱力が必要なんだなって気がした。

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テレビを見ていたら、何処の地方(多分京都)か分からなかったがお茶漬けを出されたら「帰りなさい」という意味を持つといっていた。

飛騨でも北部の自分のふるさとでは、禅宗の影響からかご飯が済むとその茶碗にお茶をいれ残った飯粒と茶碗をゆすぐためにお茶をだした。

そのため、御替りをしようと茶碗を差し出すと「お茶かね?」と聞かれることが多々あった。

飛騨は、山また山の国であり、米を作る田んぼの少ない土地柄だったので江戸時代には米なんぞはめったに食べられない食物だったので、御替りをされては困るので、これで切り上げてくれと言う意味で、茶碗をゆすぐ「お茶ですか?」と聞くのだが、他国者には分からない言葉である。

自分もこの風習を今でも捨てきれず最後にはお茶を使っているが、静岡ではお茶が茶飲み茶碗に入って最初に出てくる。

ところ変われば品変わる、他国者はそれが分かるまでにいろいろと恥をかく。

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2017年3月 3日 (金)

上巳の節句

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Img_0038梅、桃、桜の花と言えば春の幕開けがこの花の順に進むことから古くから日本人に愛でられてきた。

花の時期と季節があいまって、梅の花は凛として、桜の花は華やかにと言われる中で、間に咲く桃の花は温かな感じがするのは、桃色といった言葉の語源からも察することが出来る。

今日は上巳の節句、雛を飾って桃の花を愛でる日でもあるが、年寄り二人所帯では何てことも無い日である。

しかし、季節はめぐり温かさも一段とすすみ、軽装で出かけても下着は汗ばんでくる。

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かまやつひろしさんが亡くなったそうだ。

はや生まれなので、学年はひとつ上になるが同い年である。

彼が好きになったのは若いころ歌った「我が良き友よ」であり、せっかちの自分に比べてヌーボーとした雰囲気からである。

グループサゥンズで歌っていたころは興味が無かったこともあるが目だっていなかったような気がして覚えが無い。

そして、解散の後、ソロになって歌ったのがこの歌であったが、思っていたより遅く昭和40年であった。

自分たちがその10年前に通っていた学校は男ばかりの学校だったのでことさらバンカラを競う校風があり、学生服の洗濯などした覚えがなく、今思えば臭い学生だったであろう。

それだけに、卒業してしてから数年たってのこの歌は自分たちを歌っているようで、、、、、、、

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2017年1月28日 (土)

万作の花

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古来農耕民族であった日本人は豊年満作を常に願ってきた。

そのため、春に先駆けて山に咲くこの木をまず咲くという意味をこめたとも、良く咲く年は豊作になるとも言って”万作”と言うめでたい名前をつけたと言われる。

木の高さは、せいぜいで三~四メートルほどにしかならない低木であり、飛騨ではこの木の名前を”ねそ”とも”ねっそ”とも言ってきた。

縮れた鉋屑のような黄色い貧相な花であるが、花の無い季節には珍重され、名前ゆえにもてはやされた。

また、木の粘り強さから、この木を切り出した後小槌で叩き、木と木をねじり合わせて締めることで建物や祭りの幟などを建てるのに使った。

世界に誇る文化遺産の合掌造りなどが釘一本使わないと言われるのも、この木ですべて締め上げられていることによる。

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2016年9月 7日 (水)

世の中変わった

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アラゲハンゴンソウの花。

花床を高く掲げているさまは百日草を小型にしているようにも見える。

漢字で書くと粗毛反魂草と書くがこれも帰化植物で古来から日本にあったものではないという。

開けた山野に自生し、日本の風景に今では溶け込んでいるが、昔の日本人が今に蘇ったとしたら、かなり自然も変わってしまっていることだろう。

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自分たちが小学校の(修学旅行と言ったかどうか覚えが無いが)一泊旅行といえば近隣では一番大きな都市だったと富山市であった。

昭和25年ころの旅行と言えば、米が配給制の時代であり、一人五合くらいの米を持って行かなければ宿に泊まれない時代であった。

この米が用意できないため、旅行をあきらめた子さえいた時代に、行けただけでも良かったが、中学の修学旅行は行かないから生かせてくれといったその場限りの言い分に、親は覚えていて中学は学校に居残り授業になった覚えがあった。

そのとき、行けなかった者は自分ひとりではなく、22人の同級生のうち3人はいたと覚えている。貧乏人の子沢山、ずいぶんと貧しい時代だった。

さて、小学校の旅行は、都会の学校の子供がキャンプなどで田舎に行くのと逆であり、山奥からはじめて都会に出たこどもたちににとって、七階程度でも、ものすごく高い建物である大丸デパートでは、上へ下へとエレベーターの初体験や初めて見る陳列棚の品物の多さ驚異であり、鉱山の購買部とは大違いであることの認識であった。

そして、工場見学に必ず寄ったのが万金丹と並び証せられる”越中富山の反魂丹”であった。

真っ黒いその丸薬は、江戸時代すでに富山の薬売りで全国に知れ渡っていたくらい有名であり、反魂丹の効能のいわれとして、死者さえ蘇らせるくらいの効果があるとして名づけられたとある。

それから、六十有余年。反魂丹はまだ口にしたことが無いが、この間の世の中自然の変化は地球の温暖化であれ、電化製品であり、人情であれまったくの別世界になってしまった。

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2016年6月19日 (日)

祖母を思い出した

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Img_3600今年の大河ドラマで有名になった上田市につむぎ工房があると聞いていたので出かけてみた。

場所を知らなかったので、宿に電話番号を聞き、後はカーナビに案内されていったのだが、宿は上田市の東の市であり、工房は上田市の西はずれだったので、上田市を横断するような格好になってしまった。

いままでなら30分もすれば行けたところだったが、大河ドラマの影響だったためか、あちこちで渋滞に巻き込まれ、とくに、上田城近辺がひどかった。

ようやく工房近辺に着いたものの反対車線が渋滞している上、道幅が狭く、、、、

上田紬は、パンフレットによると二本三大紬といわれたそうだが、手織りをするところは今では二か所しか残っていないそうで、風前の灯といった様子になってしまった。

見学者は時間内ならいつでもOKということなので、突然訪れた、われわれ四人しかいなかったが快く工房の中を案内してくれた。

何台も並んだ機織り機を見て、自分の母方の祖母も蚕を飼い、自宅の二階で機織り機で、トントンカラリと機を織っていたのを小学校へ入る前に見たことを思い出した。

しかし、その工程を見ているうちに、機を織るのは最終段階であり、蚕を飼い、繭から糸を引き、拠りをかけて糸にし、それを染めたうえで、何千本もの糸をまとめて縦糸にし、筬に横糸を取り付け、、、、、

機を織り出すのは、九分九厘仕事が済んだ上の作業だと言うことを再確認させられた。

祖母の場合、紬ではなかったことだろうが、そんな複雑な仕事をしたのだろうかと今になって疑問がわいてきた。

蚕を飼って、山の畑に桑の葉を毎日採りに行き、繭を見た。そして、機を織っていたがその中間が抜け落ちている、、、、、、

ただ、囲炉裏の煙が漂う薄暗い二階にあがると、背中をまぁるくした祖母が、綿入りのちゃんちゃんこと同じように分厚いもんぺ姿でトントンカラリと一心不乱に織り機にむかい、孫の自分たちに目もくれない有様は、鶴の恩返しに似て鬼気迫るという感じがしたもんだった。

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