2026年4月12日 (日)

井戸を掘った人

中国のことわざの一つに”飲水思源”というのがあり水を飲むときにはその源になる井戸を掘った人の苦労を忘れてはならないということだそうだ。

転じて大恩を受けた人を大事にしなさい。と言うことだそうだが黄土高原など渇き切った中国北部では水の確保は一大事業だったに違いない。

世界では生水をそのまま飲める国は数少なく、日本はその例外の国にの一つであるためこういう言葉はできなかったが経済成長の激しかった時代では河川の汚れは激しく、東京湾や静岡でも富士田子の裏そして有明海などではヘドロなどで死の海化していた。

近年ようやく浄化の効果が上がり多摩川に鮎が遡上したなどと聞かれるようになった。

また、工業用水などの確保のためあちこちで大口径の井戸が掘られ地下水位の低下に伴って弊害が出てきていたが、取水制限などで回復基調にある。

 

静岡に来てからであるが、自分も県東部でいくつかの井戸掘削にかかわってきたがいまから思うと環境悪化の井戸もあったようで、中国と違って”井戸を掘った人”のことは記憶に残ってはいないと思うが、忘れてほしいことである。

 

 

 

 

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2026年2月 4日 (水)

トッペ考

昨日は節分で豆まき、今日は立春。

春は名のみ風の寒さよ~~~という歌があったが、今日の温かさは春本番といった感じで十六度まで上がったのでむさくるしくなった髪の毛をみじかくしてきたが夕暮れになると首筋が冷え、早すぎたかな??って感じ、、、、、。 

 

昨年暮れあたりから行きかけたスーパーに「堅豆腐」というのがあるを知っていくたびに買ってきて食べている。

製品表示を見ると群馬県産で棚にはほかの豆腐に交じって肩身が狭そうな顔をして二~三個しか並べられていないので最初はなかなか目につかなかった。

この豆腐堅いとつくだけになかなか堅く閉まっていて、なんだか懐かしい。

自分がまだ学校にも行かないような子どものころ、母方のおばあさんがこんな豆腐を作っていて、注文があると縄で縛って「どこそこの家に持っていけ、転ぶなよ」といわれて配達の用事をさせられた。

縄で縛って持っていくというのは当時この地方だけのものかと思っていたが、小さくはなったものの現在でも作っているところがあるのだ。

前に別な店で富山の蒲鉾が店頭に並んでいたがしばらくすると消えてしまったので店員に聞くと、「売れないんでね~」という返事だった。

この豆腐もそんな憂き目にあわないようにと思って、行くたびに購入しているのだが、時々しか行かないのでたかが知れている。

どうかほかの人も買って長続きしてほしいものだ。

 

ちなみに飛騨では豆腐のことを「トッペ」というが、今でもあちらに行くとトッペを菰で巻いてさらに茹でた”菰豆腐”が好きで十丁ほど買ってくる、、、、、、、、、、、

 

 

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トッペ考

昨年暮れあたりから行きかけたスーパーに「堅豆腐」というのがあるを知っていくたびに買ってきて食べている。

製品表示を見ると群馬県産で棚にはほかの豆腐に交じって肩身が狭そうな顔をして二~三個しか並べられていないので最初はなかなか目につかなかった。

この豆腐堅いとつくだけになかなか堅く閉まっていて、なんだか懐かしい。

自分がまだ学校にも行かないような子どものころ、母方のおばあさんがこんな豆腐を作っていて、注文があると縄で縛って「どこそこの家に持っていけ、転ぶなよ」といわれて配達の用事をさせられた。

縄で縛って持っていくというのは当時この地方だけのものかと思っていたが、小さくはなったものの現在でも作っているところがあるのだ。

前に別な店で富山の蒲鉾が店頭に並んでいたがしばらくすると消えてしまったので店員に聞くと、「売れないんでね~」という返事だった。

この豆腐もそんな憂き目にあわないようにと思って、行くたびに購入しているのだが、時々しか行かないのでたかが知れている。

どうかほかの人も買って長続きしてほしいものだ。

 

ちなみに飛騨では豆腐のことを「トッペ」というが、今でもあちらに行くとトッペを菰で巻いてさらに茹でた”菰豆腐”が好きで十丁ほど買ってくる、、、、、、、、、、、

 

 

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2026年1月31日 (土)

静岡は一月の降水量はゼロだったそうだ。

裏の畠はからからに渇いて雑草のない場所はさながら砂漠状態になっていて、野菜の生育も遅れ気味どころかそら豆などが少し萎れていたのので氷の張った水槽から水を汲み地面を濡らしてきた。

 

テレビを見ていると日本海側の各地の雪景色を映し出している。

ふるさとはどうかなと思いライブカメラを見ると道路はまだ黒い、除雪作業が順調なのかもしれないが降雪量はそんなもんでもないらしい。

何しろ昭和38年の三八豪雪では標高800m余の大津山では積雪7mという記録があり、学校の鉄筋コンクリートの体育館が建てて間もないのに崩壊したくらいである。

そんなことを知っているだけに、度々テレビに出てくる酸ヶ湯温泉の5m弱には驚かない。

 

雪にまつわる思い出はたくさんある。

共同浴場の帰り濡れたタオルを振り回すと凍っ板状になってしまったこと斜面に立つ学校の屋根雪下ろしは生徒が昇って10数m下に雪を投げおろしたこと、ウサギの足跡から通り道を見つけ罠をかけて捕まえ肉の少ない時代にはご馳走だった。    等々

風のない夜空を見上げると舞い降りてくる雪のため、身体が宙に浮いて空に向かっていくような錯覚、晴れた朝のサンピラーはいまでは夢の世界としか思えない。

といって雪の季節は楽しいことばかりではない。

屋根より高い積雪は交通を遮断し、平屋に雪囲いをした社宅は一日中真っ暗で電灯をつけっ放しの生活を強いられた。

 

雪 ゆき ユキ また雪   溶けた春を待つ気持ちは一方ならぬものがあった。

 

 

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2025年8月15日 (金)

戦争余話

いまから八十年前、自分は飛騨の山奥茂住と言う集落に住んでいた。

その日はいまから思えばこのころには夏の暑さも峠を越し三十度に達してはいなかったと思うが暑い一日だったと覚えている、空は真っ青で暑い日差しの中プールに入っていた。

後々そのプールを見たが高々五メートル四方の小さな防火用水槽だったのだが、、、、、正午にラジオの前に集まれとのことで集落に何台しかないラジオをのある家に行った。

山間の集落だったせいか雑音が大きくて何と言っているのか分からなかったが誰かが「戦争は負けて終わった」と言ったので家に帰って母親に「日本が負けたんやって」と伝えると納戸の暗がりいた母親は生気のない声で「そうか」と一声発したのを覚えている。

 

日清戦争以来昭和二十年まで間断を入れながら日本は戦争を続けながら長期間かかわりあってきた。

最後の戦争で完膚なきまで叩きのめされて八十年が過ぎてきたが、もはや戦争というもの知らない世代がほとんどになって忘れ去られようとしている。

今日のBS放送で「日本で一番長い日」というタイトルの映画が放送されていたが、さすがに三度目となると途中で見るのをやめてしまった。

昭和二十年八月に入って日本各地はアメリカ軍のB-29による焼夷弾爆撃と原子爆弾あるいは艦砲射撃で日本は焦土化した。

その中で八月二日の富山大空襲が自分の知る限りの身近な戦争体験であった。それまでにも兵士を送る白いエプロンのおばさんたちが日の丸の旗を振っていたこと、鉱山に送られる捕虜が小さな貨車から顔をのぞかせていたのは覚えているが、、、、、

富山市内に爆撃が始まる少し前、高原川沿いの集落の人たちが総出で空を見上げていた。なんでもその日の夜に空襲があるとアメリカ軍がビラを撒いて通告していたためだそうで、事前に襲来が分かっていたのである。

何時ころだったか覚えていないが飛行機が編隊を組んで両翼のライトを点滅させながら上空を飛んでいくのに対して迎撃の日本の飛行機はおろか高射砲の射撃もなく悠々と通り過ぎた後間もなく富山方面の空が赤く染まった。

後で聞くと周辺を先に爆撃し市の中心を流れる神通川に避難したところそこを狙うかのようにして爆撃したとか、、、、

とにかく飛行機の通過に対して何の抵抗も見えなかったことから、幼心にも日本は負けたと思った。

しかし、映画によると陸軍参謀本部の若手将校はその事実を認めようともせず反乱を起こしてでも抵抗を試みたとのことである。

このように妄信的な人々は実情を見ようとはしないで、国民や兵士の生命三百万人にも上る犠牲には頓着する様子がない。

 

いま世界イスラエルやロシアの指導者の下、何万いや何十万人の命が無駄に消耗されているが気にする様子はない。

仏教徒風に言えばこれだけの人に被害を及ぼすような人は、死後地獄入りが確約され畜生道か餓鬼道に生まれ変わることになるのだが戦後八十年、あのころの日本軍指導者は靖国からどこの道にいるのであろうか。

 

 

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2025年5月12日 (月)

舎利

友人の奥さんが先日言っていた。

ゴールデンウイークに男の子が二人帰ってきたが、どちらも大ぐらいで米の飯が大量にいるのでもったいなくて混ぜご飯で量を増やそうと思ったけれど長男と次男と家にいる長女たちはそれぞれに入れる材料が違っていて、結局みんなが可もなく不可もなしに食べるのが白いご飯しかない。と嘆いていた。

また、別な人が取引先の接待で「菜飯を食べませんか?」と言われ戦後の食糧難でいろんなものが入ったご飯を食べさせられてきたのに何で今更菜飯なのかといってやった。といっていた。

自分らが白いご飯を食べられるようになったのは昭和35年から40年ころだと思っている。

飛騨は昔から米の採れる量が少なく戦前は勿論食糧難だった戦後もつづき、白いご飯を一般の人が食べられるようになったのはこのころからではなかろうかと思っている。

飛騨に伝わる話として、むかし瀕死の病人の枕もとに竹筒に入れた米を揺すって「これが米だよ」っていったそうでそれくらい貴重なものだった。

とにかく戦後の食糧難は米の配給さえ一か月のうち十日分くらいの配給しかなく、十日分と言っても政府がが勝手に決めた量でしかなく、当然足りない分は銘仙の着物などを持って県境を越え富山県まで闇米の買い出しに出かけ、富山県警の目を逃れて家に持ち帰っていた。

白いご飯のことを”銀シャリ”と言うが艶やかに輝く炊き立てのご飯にどれだけ憧れたか。

このシャリは舎利という字を書き”骨”のことをいう。

 

般若心経の中に舎利子と仏弟子の名前が出てくるが、舎利とどんな関係があるのかないのか聞いてみたいのだが、 、 、 、 、

 

 

 

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2025年5月 1日 (木)

五月朔日

今日はメーデーと八十八夜が重なった日である。

べトナㇺ戦争が終結して五十年、メーデーの行進で高揚した気分聞いたニュース、あの無敵アメリカが見放すと民衆の支持を失っていた傀儡政権はあっという間に制圧されてしまった。

アメリカとの同盟はこの程度のものであることを知った最初であり、その後のアフガニスタンなどでも同じことが繰り返されたが日本政府はそうした現実から何も学ぼうとはしてこなかった。

 

一方「八十八夜の別れ霜」と言われるように暖国静岡でもようやく霜が降りすことがない時期になったとのことで、ここしばらく燃料切れのまま放っておいた石油ストーブを掃除して片づけることにした。

山は若葉の黄緑色に覆われてきたがそのむかし四月末の遅い霜に茶畑を霜害でやられた農家の人がすることがなく、自分らの現場に来て文句たらたらと嘆いていたのを思い出す。

こちらも公共予算のあまり金で発注された工事で大急ぎ、残業に残業をかさね夜遅くまでの突貫工事で気が高ぶっていただけに、関係のないブツブツに危うく喧嘩しそうになったことがあった。

 

いつの世もいろいろと思い出すことの多い五月朔日である。

 

 

 

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2025年4月13日 (日)

ディスコ踊れば

いまから五十年ほど前海外で仕事をしていた当時食べたカルフォルニア米は美味かった。

日本から米を持っていけないので、食事を担当してくれた人たちが一番日本の米に似ていたカルフォルニアからの米を選んでくれたのだが、先入観として持っていた陸稲はまずいという認識を改めさせてくれた。

こんな米が作れるのなら、日本も水田をやめて陸稲でいいのではないかと思ったくらいである。

そして、いま何が因果か分からないが備蓄米を放出してもコメの値段は変わらないくらい米の需要はあるらしいので、カルフォルニアからコメを輸入すればトランプも喜ぶんでなかろうか。

一昨年は別として昨年の米の収穫は平年作だったという、それに追い打ちをかけるようにして二十万トン余加えても需要がひっ迫しているということはどうしてなんだろう。

今年の収穫期に入って古米や古古米を抱えている業者がいるとは思えないのだが、、、

 

余談ではあるが、この時仕事休みの合間に都市部に降りデイスコで踊った。

日本でディスコが流行り始めたのはそれから十五年余りたってからであり、扇子をフリフリ女性が舞台に上がったのはバブル真っ盛りの1,990年代だから、ディスコに関しては先駆者と言ったところだろうが、踊っているとどうしても盆踊りにしぐさになってしまいお互い笑いあったものだ。

しかし、彼の国の人々はそれがまた新鮮だったようで、真似をされて、、、、、

 

 

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2025年1月 9日 (木)

豪雪経験

記録的な寒波とかで主に日本海側のあちこちで被害が出ているというニュースがテレビで流れている。

画面を見ると家がつぶれたり、雪下ろし中に屋根から落ちたり、落雪事故で怪我や亡くなった人がいたりしている。

こんな画像を見ていて不思議だなと感じるのは、最大積雪七メートルを経験している鉱山にいたためなのだろうか。

当時、バラックに毛の生えた程度の隙間だらけの六軒長屋の社宅でも雪でつぶれたなど一回も見ていないし、斜面に立つ二階建ての校舎の雪下ろしに中学生がスコップを持って上がっていたがヘルメットや腰綱なんて考えもしなかった。

そもそも雪国の家の屋根には落屑防止の二インチアングルか細丸太の雪止めが固定されており、テレビのように一斉に滑り落ちることなどなかった。

ただ、卒業して15年ほど後体育館がコンクリート造りに改築されたが、この体育館がその後積もった雪でつぶれてしまったのは木造の方が柔軟性があったのか、屋根雪下ろしが疎かだったのか検証は聞いていないが丈夫なはずの建物にとって皮肉なものであった。

 

そんな雪国を離れて四十数年かって豪雪地帯だった鉱山は採掘部門が閉山となり社宅群は消え去り、ライブカメラを見ても道路が真っ白になる事もなくなって人々は雪の経験をなくしてしまった結果の被害だとしたら人間進歩はしないもんだ。

 

 

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2025年1月 3日 (金)

皮膚感覚

鉱山会社に就職し独身寮の風呂に入ったとき、定年まじかの年寄りが二~三人浴槽の中に鼻から上を出してドサイのように「ムフ ムフッ」ってうなりながら我ら若造を眺めていた。

そのころ、鉱山の定年は五十五歳だったが定年前に富山県などに家を建てた人や独身の人も寮に入っていたのだがいま思うと当時の五十五歳は老けていた。

そして、ドサイというのはガマガエルの方言で大きくなると15センチは優に越したものがおってまさに水辺の主みたいな存在であった。

鉱山の勤務は朝七時から午後三時まででこの勤務体系は自分が退職してもなお続いていたから、多分閉山まで続いたのではなかっただろうか。

この勤務体系を遅くしたいという若いものもいたが、、、、どこの鉱山も一緒だったのか#朝も早よからカンテラ下げて 坑内通いはぬしのため、、、   と歌の文句にある。

さて、独身寮の風呂に真っ先に飛び込むのはこの先輩というか老鉱夫であるがこの人たちは熱いのを好む、よって自分らは時間を遅くして入るのだが、暑すぎる風呂を前にして躊躇している姿を見て喜んでいる。

「我慢大会ではないよ!」と抗議すると「こんな風呂にも入れないのか」と水の蛇口を開けるのを妨害していた。

 

そんなことを思いながら家の風呂に入っているのだが、最近風呂で汗をかかなくなった。

かなり長風呂してもだ、、、、、以前は、しばらく入っていると額から汗が出てのぼせたものだが。

先日のテレビでは皮膚感覚が歳をとると鈍くなると言っていたがその伝になってきたのだろう、今自分が共同浴場に入るとむかし笑った人たちとおんなじに何だろうな。

一方で、ヒートショックで亡くなる人がいるから脱衣場を暖房してと言われているが娘に強く言われて携帯用の電熱器で暖めるようにしたが、これがあまり効果がないような気がするのは、これも皮膚感覚のせいだろうか。

暑さ寒さも彼岸までというが早くヒートショックと言われない季節が来るのを待っている。 

 

 

 

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