2025年1月 9日 (木)

豪雪経験

記録的な寒波とかで主に日本海側のあちこちで被害が出ているというニュースがテレビで流れている。

画面を見ると家がつぶれたり、雪下ろし中に屋根から落ちたり、落雪事故で怪我や亡くなった人がいたりしている。

こんな画像を見ていて不思議だなと感じるのは、最大積雪七メートルを経験している鉱山にいたためなのだろうか。

当時、バラックに毛の生えた程度の隙間だらけの六軒長屋の社宅でも雪でつぶれたなど一回も見ていないし、斜面に立つ二階建ての校舎の雪下ろしに中学生がスコップを持って上がっていたがヘルメットや腰綱なんて考えもしなかった。

そもそも雪国の家の屋根には落屑防止の二インチアングルか細丸太の雪止めが固定されており、テレビのように一斉に滑り落ちることなどなかった。

ただ、卒業して15年ほど後体育館がコンクリート造りに改築されたが、この体育館がその後積もった雪でつぶれてしまったのは木造の方が柔軟性があったのか、屋根雪下ろしが疎かだったのか検証は聞いていないが丈夫なはずの建物にとって皮肉なものであった。

 

そんな雪国を離れて四十数年かって豪雪地帯だった鉱山は採掘部門が閉山となり社宅群は消え去り、ライブカメラを見ても道路が真っ白になる事もなくなって人々は雪の経験をなくしてしまった結果の被害だとしたら人間進歩はしないもんだ。

 

 

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2025年1月 3日 (金)

皮膚感覚

鉱山会社に就職し独身寮の風呂に入ったとき、定年まじかの年寄りが二~三人浴槽の中に鼻から上を出してドサイのように「ムフ ムフッ」ってうなりながら我ら若造を眺めていた。

そのころ、鉱山の定年は五十五歳だったが定年前に富山県などに家を建てた人や独身の人も寮に入っていたのだがいま思うと当時の五十五歳は老けていた。

そして、ドサイというのはガマガエルの方言で大きくなると15センチは優に越したものがおってまさに水辺の主みたいな存在であった。

鉱山の勤務は朝七時から午後三時まででこの勤務体系は自分が退職してもなお続いていたから、多分閉山まで続いたのではなかっただろうか。

この勤務体系を遅くしたいという若いものもいたが、、、、どこの鉱山も一緒だったのか#朝も早よからカンテラ下げて 坑内通いはぬしのため、、、   と歌の文句にある。

さて、独身寮の風呂に真っ先に飛び込むのはこの先輩というか老鉱夫であるがこの人たちは熱いのを好む、よって自分らは時間を遅くして入るのだが、暑すぎる風呂を前にして躊躇している姿を見て喜んでいる。

「我慢大会ではないよ!」と抗議すると「こんな風呂にも入れないのか」と水の蛇口を開けるのを妨害していた。

 

そんなことを思いながら家の風呂に入っているのだが、最近風呂で汗をかかなくなった。

かなり長風呂してもだ、、、、、以前は、しばらく入っていると額から汗が出てのぼせたものだが。

先日のテレビでは皮膚感覚が歳をとると鈍くなると言っていたがその伝になってきたのだろう、今自分が共同浴場に入るとむかし笑った人たちとおんなじに何だろうな。

一方で、ヒートショックで亡くなる人がいるから脱衣場を暖房してと言われているが娘に強く言われて携帯用の電熱器で暖めるようにしたが、これがあまり効果がないような気がするのは、これも皮膚感覚のせいだろうか。

暑さ寒さも彼岸までというが早くヒートショックと言われない季節が来るのを待っている。 

 

 

 

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2024年10月12日 (土)

栗はめば

瓜はめば子思う 栗はめばましておもわゆ、、、

だったかと思っているが、このころの瓜や栗はいまとはずいぶん味も違ってきていると思う。

先日来山の畑の傍に生えている栗がイガに包まれて落果してきているので拾っては食べているが、その大きさは子どものころに食べた芝栗の三倍以上はある大粒のもので見ごたえがあるが、その味はかなり落ちる。

栗の思い出と言えば、太平洋戦争中でまだ学校に行っていないときだったから五歳くらいのころ、おじいさんの家に行くと囲炉裏の上に糸で通した芝栗をネックレスのようにしてぶら下がっており、時々そのうちからいくつか貰えるのだが茹でて干したものだけに硬くてなかなか噛み潰せなかった。

しかし、しばらくすると次第に柔らかくなり、甘味が出てきてそれは美味しいおやつだった。

次は小学校高学年のころだったと思うが、父親の実家に栗林があって三歳下の弟を連れて栗拾いに行ったが、下に落ちているのが少なかったので木に上って揺らしたら、下にいた弟に栗のイガがいくつも当たり泣かしてしまい、実家のおばさんからは「栗は落ちているものを拾うんだ」と叱られた。

それでも当時で一斗の栗をリックにいれ、国道迄標高差450mの坂道を下り 国道を6kmあるき、さらに家まで高低差400mの山道を意気揚々と帰ってきたもんだ。

 

あのころの健脚はいまどこに、栗一斗の重さはどのくらいだったのか、背中の痛みも感じなかったのは交通手段もなく無いのと飢えが神経を麻痺させていたのかもしれない。

 

今では考えられないことで、栗をはみ(食べる)ながら子どものころを思いだしてみた。

 

 

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2024年4月 9日 (火)

寂しいな

きょう故郷の友人が亡くなった知らせが届いた。

中学を卒業し、絵から20kmほど離れた鉱山の独身寮から鉱山所属の学校に通ったのだが、その独身寮の傍にある社宅に住んでいた一つ年上の四~五人が折に触れて相手をしてくれたおかげでホームシックも少なく済んだがその時以来の友人の一人だった。

当時は世の中不景気なうえ鉱山町にはそんなに就職先もなかったので彼らは日雇い仕事で鉱山に就職することを願っていたようだったが暗い影もなく、快く一つ年下の自分をどうしてかわいがってくれたのか聞かずじまいに来てしまったがその後、すべてが鉱山に就職し昨日亡くなったF君も坑内の運搬係として功績を運び出すトロリー電車の運転手になって再会した。

労働組合の選挙の折にも陰ながら力になってくれるなどにこにこと笑った顔しか思い出せないが、、、、

 

        寂しいな  寂しいな

 

 

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2024年3月29日 (金)

外山の桜

 

高砂の尾上の桜咲きにけり 

       外山の桜たたずもあらなむ

 

遠くに見える高い山の上に桜が咲いているようだが、霞が隠さないで欲しいものだが、、、という意味の歌だが、子どものころ競った百人一首の中で外山の桜の部分を”富山の桜”と勘違いしてどんな意味なんだか、、、なんて考えたことが有った。

 

午前中激しく降っていた雨も午後の日差しの中で急激に気温が上がり日当たりでは25度越えとなった。

近隣の山のあちこちでは霧が立ち上る中山桜は早くも山を駆け上っていて高さ300mあたりまで薄いピンクや雲と見間違うような白い斑点を作っている。

この歌が作られた当時、桜と言えば山桜だったのではなかっただろうか、それが今ではソメイヨシノがその場を取って代わり、開花 開花と騒ぎ立てるようになってしまった。

それにしても今年ほど開花予想がくるってしまったのも珍しい、、、、、

多分昨日までの冷たい菜種梅雨が予想を狂わせたのだろうけれど、今年の先行きを示すようで余計な心配をしている。

 

 

 

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2023年10月 1日 (日)

ニコヨンのころ

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幾分涼しくなったのかなと思っていたら温度計は31度を指していた。

暑さ慣れしたのか、湿気が幾分少なかったのか、それとも老人性何とかで温度の感知能力が低くなってきたのか、、、、、

夕焼けもすっかり秋色になってはきて畠を耕しては見たが、まだ種をまく気がしないでいる。

 

今朝の新聞によると建設業につく人がいないので困っているというのがあった。

近頃では建設業だけでなく汚いきついなどのいわゆる3Kと言われる仕事はにつく若者はまれで机の前に座って楽して稼げる仕事ばかりに目がくらんでいる。

せめて現場で汗して働く人の給料がもっと多ければ違うのになとおもっているのだが、、、、、

 

昭和30年代初め一ドルが360円だったころ、ニコヨンと言われる失業対策労働者がいた。

ニコヨンとは二百四十円の略で当時の最低賃金であった。今時給の最低金額を千円にという時代になったがその伝で行くと当時のニコヨンはいまでなら八千円くらいになる。

そのころ自分が勤めた鉱山では一日千円を稼げれば「坑内夫も一人前と認められる」と聞いたことが有るが、ニコヨンの四倍強という数字であり今の金にして三万円ほどと言うことになった。

これだけ出せば、かなり危険な職種でも就職する人がいるだろうし、当時の30年勤続者は飛騨から遠く離れた鬼怒川温泉に招待され会社役員が接待したのだが、当時の部長クラスの人が「まだあんたがたの給料に到達していない」と言ったとか、、、、

一人前の日給が千円だったとすると、勤続30年の表彰者の中にはかなり高額所得者がいたに違いない。

「大工(坑内夫)三年すりゃ よろけ(珪肺)になる」と言われたのは江戸時代のこと、それから職場環境もいくらかよくなった当時でも、珪肺はなくなっておらず坑内負の寿命は短いということで厚生年金の資格も15年で得られ55歳で満額貰えた。

また、坑内夫には四年に一年の加算が付くという制度があったため、五十五歳定年時に勤続五十年という人がいて「お前いくつから坑内に入とったんや」なんてからかわれた人もいた。

 

そんな昔の話しも今では夢のなかだが、汗して働く人をもっと大事にせな国がダメになってしまう。

 

 

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2023年9月27日 (水)

ファンクラブ

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故郷は遠きにありて思うもの」ということばがあるが、この歳になると中々行けなくなって思いだけが夢のなかで行っている。

故郷を離れてもうすぐ四十四年になり、人生の半分以上は静岡に住んでいるのだが、こちらに来た当時は東名高速道を小牧で降りて国道四十一号線をひたすら北上する道が最短で八時間くらいかかった。

この時は「帰ってきたな」と感じるのは数河峠の上り道で、ほっとするのは寺林から二十五山がちらほらと見える頃からだった。

そして、今は松本から平湯経由で帰るのが最短で五時間弱で行けるようになり、これまた故郷の帰ったと思うのは平湯から見る笠ヶ岳であり、ほっとするのが麻生野あたりから見る大洞山が見え始めたところあたりになる。

石川啄木も読んでいたが、故郷の山川はいつ帰ってきても穏やかに迎えてくれて、ただただ有り難い。

 

近々故郷納税が返礼制度が変わるそうだ。

もともとの発想は世話になった市町村に少しでお礼をしたいという意欲をかなえさせるために始まった制度と思っていたが、返礼品目当てのため知りもしない自治体に送るのが主体になってしまった。

そのため返礼品で釣ろうと自治体側もあの手この手で競争を始めてしまった結果がこのような規制を設けなくてはならなくなってしまった。

自分らのように年金生活者にとっては消費税を除けばわずかな税金しか収めていないので故郷納税はしたくても出来ない。

先日飛騨市のホームページを見ていたら飛騨市ファンクラブなるものあったので早速申し込んでみたが、せいぜい飛騨市を紹介したり、もし帰ることが有るなら飛騨神岡の宿を利用しいくらかでも、、、、なんて考えている。

 

     まあ年寄りに出来ることは限られているんだけど、、、、

 

 

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2023年6月17日 (土)

今日も暑かった

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空の入道雲は真夏を現しているかのようににょきにょきと高く舞い上がる。

昨日に比べれば幾分湿気が少ないものの暑い日差しが降り注ぎ昨日に続いてエアコンの厄介になった。

 

テレビを見ていたら、福井県のソールフードとしてへしこ鯖なるものが写っていた、

自分らが子供のころ食べていた米糠イワシによく似ていたので変な名前だな?なんて思っていた。

若いころ言われた言葉の一つに「へしこが何言うか」っていうものがあってこの場合は半分見下げた言葉であり、語源はカタクチイワシを干した煮干しを”へしこ”と言っていたと思う。

そのくらい魚の中でも細かいもの、屑みたいな意味合いでつかわれていた。

 

ちなみに、この米ぬかイワシを同級会に行った折「なつかしいたべものだった」と言って富山県在住のものに頼んで送ってもらったが、、、、

それこそ塩辛くて塩辛くて食べるのに苦労した。

洗えば小糠の中に入った唐辛子が抜けてしまうし、当時は味噌汁もそうだったがこんな塩辛いものが当たり前だったんだなと変な感想をもったものだ。

 

 

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2023年6月 9日 (金)

雨に咲く花

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警報級の雨が降るとテレビは言っていたが、自分の予報はそうでなかったため自動車の避難はせず朝を迎えた。

結果的には自分の予想の方が当たり、裏の川の水位も50センチ程度の増水でおさまった。

あさ起きてみると、名残りの雨に打たれてタチアオイの花が優雅に立っていた。

花びらの色が薄めのピンクだったことがそんな印象を強くさせたのかもしれない。

しかし、この空模様では何処へも行くことができないようだったので終日家に閉じこもっていたのだが、午後になって薄日もさすようになるとじっとしていられなくなり、玄関から外に出たり入ったりと落ち着きのないことおびただしいと自分ながら思ってしまった。

 

昭和三十五年と言えば成人式の翌年であるが、「雨に咲く花」という歌が流行っていた。

”及ばぬことと あきらめました、、、”で始まる失恋の歌であったが、成人式の翌年である自分もようやく二つ三つ目くらいの恋をしていた。

なにしろ、男女七歳にして席をおなじゅうせず」の時代がまだ色濃く残る世相もあったなか男子校の青春は色恋沙汰は皆無、おまけに諦めるのが早く相手の雰囲気だけで退いていたため最近の男のようにしつっこく付きまとうなんて夢のまた夢でもあった。

ただ後になって思うと、いくつかのモーションに気が付かなかったこともあったようだ。

とにかく、この雨に咲く花はそのころの自分にとっては軟弱、女々しいという印象しかない歌だった。

 

 

 

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2023年3月 7日 (火)

寒干し大根

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先日テレビを見ていたら山の村の寒干し大根を知っている人が作っているのが映し出されていた。

二月の寒のさなか畑から掘り出した大根を輪切りにし、茹でた後外に出して凍らせて水分を抜きカラカラになるまで干したものを大根のない時期にまた煮て食べる保存食である。

こどものころ、父親が山の村へ行くと大抵これをもらって帰ってきたが、子供心には美味い食べ物ではなかった。

それが美味いと思ったのは、静岡に来てからだった。(ひょっとしてこれも大人の味?)

懐かしの味を思い知らされたという感じで、神岡の帰るたびどれだけか持って帰るのが習慣になってしまったが、コロナでそれも途絶え、今では味は違うがこちらでも作ることができる切り干し大根でしのぶことにしている。

今日は裏の畠に行くと、取り残した十数本の大根が薹を立て始めていたので、全部抜き地中にあった白い部分で切り干し大根づくりで午後を過ごした。

ぬくとうて春もすっかり定着した感じ、、、、、、

 

 

 

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