2025年8月15日 (金)

戦争余話

いまから八十年前、自分は飛騨の山奥茂住と言う集落に住んでいた。

その日はいまから思えばこのころには夏の暑さも峠を越し三十度に達してはいなかったと思うが暑い一日だったと覚えている、空は真っ青で暑い日差しの中プールに入っていた。

後々そのプールを見たが高々五メートル四方の小さな防火用水槽だったのだが、、、、、正午にラジオの前に集まれとのことで集落に何台しかないラジオをのある家に行った。

山間の集落だったせいか雑音が大きくて何と言っているのか分からなかったが誰かが「戦争は負けて終わった」と言ったので家に帰って母親に「日本が負けたんやって」と伝えると納戸の暗がりいた母親は生気のない声で「そうか」と一声発したのを覚えている。

 

日清戦争以来昭和二十年まで間断を入れながら日本は戦争を続けながら長期間かかわりあってきた。

最後の戦争で完膚なきまで叩きのめされて八十年が過ぎてきたが、もはや戦争というもの知らない世代がほとんどになって忘れ去られようとしている。

今日のBS放送で「日本で一番長い日」というタイトルの映画が放送されていたが、さすがに三度目となると途中で見るのをやめてしまった。

昭和二十年八月に入って日本各地はアメリカ軍のB-29による焼夷弾爆撃と原子爆弾あるいは艦砲射撃で日本は焦土化した。

その中で八月二日の富山大空襲が自分の知る限りの身近な戦争体験であった。それまでにも兵士を送る白いエプロンのおばさんたちが日の丸の旗を振っていたこと、鉱山に送られる捕虜が小さな貨車から顔をのぞかせていたのは覚えているが、、、、、

富山市内に爆撃が始まる少し前、高原川沿いの集落の人たちが総出で空を見上げていた。なんでもその日の夜に空襲があるとアメリカ軍がビラを撒いて通告していたためだそうで、事前に襲来が分かっていたのである。

何時ころだったか覚えていないが飛行機が編隊を組んで両翼のライトを点滅させながら上空を飛んでいくのに対して迎撃の日本の飛行機はおろか高射砲の射撃もなく悠々と通り過ぎた後間もなく富山方面の空が赤く染まった。

後で聞くと周辺を先に爆撃し市の中心を流れる神通川に避難したところそこを狙うかのようにして爆撃したとか、、、、

とにかく飛行機の通過に対して何の抵抗も見えなかったことから、幼心にも日本は負けたと思った。

しかし、映画によると陸軍参謀本部の若手将校はその事実を認めようともせず反乱を起こしてでも抵抗を試みたとのことである。

このように妄信的な人々は実情を見ようとはしないで、国民や兵士の生命三百万人にも上る犠牲には頓着する様子がない。

 

いま世界イスラエルやロシアの指導者の下、何万いや何十万人の命が無駄に消耗されているが気にする様子はない。

仏教徒風に言えばこれだけの人に被害を及ぼすような人は、死後地獄入りが確約され畜生道か餓鬼道に生まれ変わることになるのだが戦後八十年、あのころの日本軍指導者は靖国からどこの道にいるのであろうか。

 

 

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2025年5月12日 (月)

舎利

友人の奥さんが先日言っていた。

ゴールデンウイークに男の子が二人帰ってきたが、どちらも大ぐらいで米の飯が大量にいるのでもったいなくて混ぜご飯で量を増やそうと思ったけれど長男と次男と家にいる長女たちはそれぞれに入れる材料が違っていて、結局みんなが可もなく不可もなしに食べるのが白いご飯しかない。と嘆いていた。

また、別な人が取引先の接待で「菜飯を食べませんか?」と言われ戦後の食糧難でいろんなものが入ったご飯を食べさせられてきたのに何で今更菜飯なのかといってやった。といっていた。

自分らが白いご飯を食べられるようになったのは昭和35年から40年ころだと思っている。

飛騨は昔から米の採れる量が少なく戦前は勿論食糧難だった戦後もつづき、白いご飯を一般の人が食べられるようになったのはこのころからではなかろうかと思っている。

飛騨に伝わる話として、むかし瀕死の病人の枕もとに竹筒に入れた米を揺すって「これが米だよ」っていったそうでそれくらい貴重なものだった。

とにかく戦後の食糧難は米の配給さえ一か月のうち十日分くらいの配給しかなく、十日分と言っても政府がが勝手に決めた量でしかなく、当然足りない分は銘仙の着物などを持って県境を越え富山県まで闇米の買い出しに出かけ、富山県警の目を逃れて家に持ち帰っていた。

白いご飯のことを”銀シャリ”と言うが艶やかに輝く炊き立てのご飯にどれだけ憧れたか。

このシャリは舎利という字を書き”骨”のことをいう。

 

般若心経の中に舎利子と仏弟子の名前が出てくるが、舎利とどんな関係があるのかないのか聞いてみたいのだが、 、 、 、 、

 

 

 

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2025年5月 1日 (木)

五月朔日

今日はメーデーと八十八夜が重なった日である。

べトナㇺ戦争が終結して五十年、メーデーの行進で高揚した気分聞いたニュース、あの無敵アメリカが見放すと民衆の支持を失っていた傀儡政権はあっという間に制圧されてしまった。

アメリカとの同盟はこの程度のものであることを知った最初であり、その後のアフガニスタンなどでも同じことが繰り返されたが日本政府はそうした現実から何も学ぼうとはしてこなかった。

 

一方「八十八夜の別れ霜」と言われるように暖国静岡でもようやく霜が降りすことがない時期になったとのことで、ここしばらく燃料切れのまま放っておいた石油ストーブを掃除して片づけることにした。

山は若葉の黄緑色に覆われてきたがそのむかし四月末の遅い霜に茶畑を霜害でやられた農家の人がすることがなく、自分らの現場に来て文句たらたらと嘆いていたのを思い出す。

こちらも公共予算のあまり金で発注された工事で大急ぎ、残業に残業をかさね夜遅くまでの突貫工事で気が高ぶっていただけに、関係のないブツブツに危うく喧嘩しそうになったことがあった。

 

いつの世もいろいろと思い出すことの多い五月朔日である。

 

 

 

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2025年4月13日 (日)

ディスコ踊れば

いまから五十年ほど前海外で仕事をしていた当時食べたカルフォルニア米は美味かった。

日本から米を持っていけないので、食事を担当してくれた人たちが一番日本の米に似ていたカルフォルニアからの米を選んでくれたのだが、先入観として持っていた陸稲はまずいという認識を改めさせてくれた。

こんな米が作れるのなら、日本も水田をやめて陸稲でいいのではないかと思ったくらいである。

そして、いま何が因果か分からないが備蓄米を放出してもコメの値段は変わらないくらい米の需要はあるらしいので、カルフォルニアからコメを輸入すればトランプも喜ぶんでなかろうか。

一昨年は別として昨年の米の収穫は平年作だったという、それに追い打ちをかけるようにして二十万トン余加えても需要がひっ迫しているということはどうしてなんだろう。

今年の収穫期に入って古米や古古米を抱えている業者がいるとは思えないのだが、、、

 

余談ではあるが、この時仕事休みの合間に都市部に降りデイスコで踊った。

日本でディスコが流行り始めたのはそれから十五年余りたってからであり、扇子をフリフリ女性が舞台に上がったのはバブル真っ盛りの1,990年代だから、ディスコに関しては先駆者と言ったところだろうが、踊っているとどうしても盆踊りにしぐさになってしまいお互い笑いあったものだ。

しかし、彼の国の人々はそれがまた新鮮だったようで、真似をされて、、、、、

 

 

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2025年1月 9日 (木)

豪雪経験

記録的な寒波とかで主に日本海側のあちこちで被害が出ているというニュースがテレビで流れている。

画面を見ると家がつぶれたり、雪下ろし中に屋根から落ちたり、落雪事故で怪我や亡くなった人がいたりしている。

こんな画像を見ていて不思議だなと感じるのは、最大積雪七メートルを経験している鉱山にいたためなのだろうか。

当時、バラックに毛の生えた程度の隙間だらけの六軒長屋の社宅でも雪でつぶれたなど一回も見ていないし、斜面に立つ二階建ての校舎の雪下ろしに中学生がスコップを持って上がっていたがヘルメットや腰綱なんて考えもしなかった。

そもそも雪国の家の屋根には落屑防止の二インチアングルか細丸太の雪止めが固定されており、テレビのように一斉に滑り落ちることなどなかった。

ただ、卒業して15年ほど後体育館がコンクリート造りに改築されたが、この体育館がその後積もった雪でつぶれてしまったのは木造の方が柔軟性があったのか、屋根雪下ろしが疎かだったのか検証は聞いていないが丈夫なはずの建物にとって皮肉なものであった。

 

そんな雪国を離れて四十数年かって豪雪地帯だった鉱山は採掘部門が閉山となり社宅群は消え去り、ライブカメラを見ても道路が真っ白になる事もなくなって人々は雪の経験をなくしてしまった結果の被害だとしたら人間進歩はしないもんだ。

 

 

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2025年1月 3日 (金)

皮膚感覚

鉱山会社に就職し独身寮の風呂に入ったとき、定年まじかの年寄りが二~三人浴槽の中に鼻から上を出してドサイのように「ムフ ムフッ」ってうなりながら我ら若造を眺めていた。

そのころ、鉱山の定年は五十五歳だったが定年前に富山県などに家を建てた人や独身の人も寮に入っていたのだがいま思うと当時の五十五歳は老けていた。

そして、ドサイというのはガマガエルの方言で大きくなると15センチは優に越したものがおってまさに水辺の主みたいな存在であった。

鉱山の勤務は朝七時から午後三時まででこの勤務体系は自分が退職してもなお続いていたから、多分閉山まで続いたのではなかっただろうか。

この勤務体系を遅くしたいという若いものもいたが、、、、どこの鉱山も一緒だったのか#朝も早よからカンテラ下げて 坑内通いはぬしのため、、、   と歌の文句にある。

さて、独身寮の風呂に真っ先に飛び込むのはこの先輩というか老鉱夫であるがこの人たちは熱いのを好む、よって自分らは時間を遅くして入るのだが、暑すぎる風呂を前にして躊躇している姿を見て喜んでいる。

「我慢大会ではないよ!」と抗議すると「こんな風呂にも入れないのか」と水の蛇口を開けるのを妨害していた。

 

そんなことを思いながら家の風呂に入っているのだが、最近風呂で汗をかかなくなった。

かなり長風呂してもだ、、、、、以前は、しばらく入っていると額から汗が出てのぼせたものだが。

先日のテレビでは皮膚感覚が歳をとると鈍くなると言っていたがその伝になってきたのだろう、今自分が共同浴場に入るとむかし笑った人たちとおんなじに何だろうな。

一方で、ヒートショックで亡くなる人がいるから脱衣場を暖房してと言われているが娘に強く言われて携帯用の電熱器で暖めるようにしたが、これがあまり効果がないような気がするのは、これも皮膚感覚のせいだろうか。

暑さ寒さも彼岸までというが早くヒートショックと言われない季節が来るのを待っている。 

 

 

 

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2024年10月12日 (土)

栗はめば

瓜はめば子思う 栗はめばましておもわゆ、、、

だったかと思っているが、このころの瓜や栗はいまとはずいぶん味も違ってきていると思う。

先日来山の畑の傍に生えている栗がイガに包まれて落果してきているので拾っては食べているが、その大きさは子どものころに食べた芝栗の三倍以上はある大粒のもので見ごたえがあるが、その味はかなり落ちる。

栗の思い出と言えば、太平洋戦争中でまだ学校に行っていないときだったから五歳くらいのころ、おじいさんの家に行くと囲炉裏の上に糸で通した芝栗をネックレスのようにしてぶら下がっており、時々そのうちからいくつか貰えるのだが茹でて干したものだけに硬くてなかなか噛み潰せなかった。

しかし、しばらくすると次第に柔らかくなり、甘味が出てきてそれは美味しいおやつだった。

次は小学校高学年のころだったと思うが、父親の実家に栗林があって三歳下の弟を連れて栗拾いに行ったが、下に落ちているのが少なかったので木に上って揺らしたら、下にいた弟に栗のイガがいくつも当たり泣かしてしまい、実家のおばさんからは「栗は落ちているものを拾うんだ」と叱られた。

それでも当時で一斗の栗をリックにいれ、国道迄標高差450mの坂道を下り 国道を6kmあるき、さらに家まで高低差400mの山道を意気揚々と帰ってきたもんだ。

 

あのころの健脚はいまどこに、栗一斗の重さはどのくらいだったのか、背中の痛みも感じなかったのは交通手段もなく無いのと飢えが神経を麻痺させていたのかもしれない。

 

今では考えられないことで、栗をはみ(食べる)ながら子どものころを思いだしてみた。

 

 

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2024年4月 9日 (火)

寂しいな

きょう故郷の友人が亡くなった知らせが届いた。

中学を卒業し、絵から20kmほど離れた鉱山の独身寮から鉱山所属の学校に通ったのだが、その独身寮の傍にある社宅に住んでいた一つ年上の四~五人が折に触れて相手をしてくれたおかげでホームシックも少なく済んだがその時以来の友人の一人だった。

当時は世の中不景気なうえ鉱山町にはそんなに就職先もなかったので彼らは日雇い仕事で鉱山に就職することを願っていたようだったが暗い影もなく、快く一つ年下の自分をどうしてかわいがってくれたのか聞かずじまいに来てしまったがその後、すべてが鉱山に就職し昨日亡くなったF君も坑内の運搬係として功績を運び出すトロリー電車の運転手になって再会した。

労働組合の選挙の折にも陰ながら力になってくれるなどにこにこと笑った顔しか思い出せないが、、、、

 

        寂しいな  寂しいな

 

 

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2024年3月29日 (金)

外山の桜

 

高砂の尾上の桜咲きにけり 

       外山の桜たたずもあらなむ

 

遠くに見える高い山の上に桜が咲いているようだが、霞が隠さないで欲しいものだが、、、という意味の歌だが、子どものころ競った百人一首の中で外山の桜の部分を”富山の桜”と勘違いしてどんな意味なんだか、、、なんて考えたことが有った。

 

午前中激しく降っていた雨も午後の日差しの中で急激に気温が上がり日当たりでは25度越えとなった。

近隣の山のあちこちでは霧が立ち上る中山桜は早くも山を駆け上っていて高さ300mあたりまで薄いピンクや雲と見間違うような白い斑点を作っている。

この歌が作られた当時、桜と言えば山桜だったのではなかっただろうか、それが今ではソメイヨシノがその場を取って代わり、開花 開花と騒ぎ立てるようになってしまった。

それにしても今年ほど開花予想がくるってしまったのも珍しい、、、、、

多分昨日までの冷たい菜種梅雨が予想を狂わせたのだろうけれど、今年の先行きを示すようで余計な心配をしている。

 

 

 

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2023年10月 1日 (日)

ニコヨンのころ

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幾分涼しくなったのかなと思っていたら温度計は31度を指していた。

暑さ慣れしたのか、湿気が幾分少なかったのか、それとも老人性何とかで温度の感知能力が低くなってきたのか、、、、、

夕焼けもすっかり秋色になってはきて畠を耕しては見たが、まだ種をまく気がしないでいる。

 

今朝の新聞によると建設業につく人がいないので困っているというのがあった。

近頃では建設業だけでなく汚いきついなどのいわゆる3Kと言われる仕事はにつく若者はまれで机の前に座って楽して稼げる仕事ばかりに目がくらんでいる。

せめて現場で汗して働く人の給料がもっと多ければ違うのになとおもっているのだが、、、、、

 

昭和30年代初め一ドルが360円だったころ、ニコヨンと言われる失業対策労働者がいた。

ニコヨンとは二百四十円の略で当時の最低賃金であった。今時給の最低金額を千円にという時代になったがその伝で行くと当時のニコヨンはいまでなら八千円くらいになる。

そのころ自分が勤めた鉱山では一日千円を稼げれば「坑内夫も一人前と認められる」と聞いたことが有るが、ニコヨンの四倍強という数字であり今の金にして三万円ほどと言うことになった。

これだけ出せば、かなり危険な職種でも就職する人がいるだろうし、当時の30年勤続者は飛騨から遠く離れた鬼怒川温泉に招待され会社役員が接待したのだが、当時の部長クラスの人が「まだあんたがたの給料に到達していない」と言ったとか、、、、

一人前の日給が千円だったとすると、勤続30年の表彰者の中にはかなり高額所得者がいたに違いない。

「大工(坑内夫)三年すりゃ よろけ(珪肺)になる」と言われたのは江戸時代のこと、それから職場環境もいくらかよくなった当時でも、珪肺はなくなっておらず坑内負の寿命は短いということで厚生年金の資格も15年で得られ55歳で満額貰えた。

また、坑内夫には四年に一年の加算が付くという制度があったため、五十五歳定年時に勤続五十年という人がいて「お前いくつから坑内に入とったんや」なんてからかわれた人もいた。

 

そんな昔の話しも今では夢のなかだが、汗して働く人をもっと大事にせな国がダメになってしまう。

 

 

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