2021年4月14日 (水)

カンカコカン

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カンカン カンカコカン お~りゃ

飛騨の祭りは、春雪が解けて畑仕事が始まる前に行われるのが多い。

そのなかで、神輿の前に獅子舞とともに闘鶏楽が付きものであったが、文化財に指名されている上宝村の村上神社をはじめ高山などの闘鶏楽は大人がするのに対してふるさとの神岡では小学生を中心にした子供たちがすることになっていた。

小さなお盆のような鐘をみんなで打ち鳴らすさまは整然とした大人のものより可愛げあって見ごたえがあったように思っている。

一番小さい子は小学校3年生くらいから入ってくるのだが、緊張していることもあってなかなか同じようには鐘を打つ鳴らせずワンテンポ遅れてしまうのだが、、祭りもあと10日日ほどのこの時期には少しづつコツが飲み込めてくるころである。

故郷を離れて43年、以後、祭りの時期には帰ったことがないので、思い出のなかだけにあるのだがあの町も鉱山の縮小で人口も半分以下になっているうえ少子化でできない神社もあるのではないだろうか。

桜咲く神社の境内を元気に下ってきた子供たちも町内あちこちでカンカン カンカコカンと打ち鳴らすうちに暑い太陽にさらされて、、、、、

思い出は常に霞の中にうずもれてぼやけていくものである。

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2021年3月15日 (月)

おばこ こんころも~ち

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もう咲いているころだろうと草むらを分けてみたら踊子草が花を咲かせていた。

毎年のことながら時節をたがえずに真っ白な漏斗状の花を茎の周りに三層 五層と積み重ねている。

この茎の周りに花を咲かせる様子から、踊り子の花笠に見立てつけられた名前であろう。

生まれ故郷の春の祭りには小学生の女の子がこの花笠を冠り、手には二つのくるりくるりと回る花をもって踊るのが憧れで、今八十四歳になった姉が、引っ越しで踊れなかったのいまだに悔しがっている。

おばこ こんころも~ち   と謡いだししか覚えていないないのだが、、、、、

 

今国会は総務省幹部の飲食接待で連日質問攻めにあっているが官僚の上にいる大臣クラスにまで飛び火している。

中でも、現大臣である武田総務相が一番始末が悪い。

会食をやったかどうかの質問を17回もはぐらして答えようとはしない。

こんな人の下で、調査が進められるはずはないので、当然更迭ということにしなければならないと思うのだが、任命したガースーはコロナ対策と一緒のうえ、自分の息子も関係しているだけに、する気は全くないようだ。

それにしても、この問題の火付け役は例によって週刊文春というのもおかしな話である。

いぜんなら、大手の新聞記者などがすっぱ抜いたものだったがこのとこ鳴かず飛ばずで音なしの構えなのは力不足ではなく、例によって新聞社幹部の忖度で記事にしようとしないのか、もし早とちりした場合のことを考えすぎているのかもしれない。

それにしても、マスコミがこれだけ慎重になり、後れを取っているとなると今後マスコミは価値を無くし自滅していくことになるのだが、、、、、

 

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2021年3月14日 (日)

お水取り 考

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昨夕NHKーBSで東大寺二月堂のお水取りをやっていた。

自分が子のお水取りを見たのは昭和35年くらいの時だったかとおもっている。

特に目当てもなく奈良まで汽車に乗っていくと、今晩はお水取りがあるというので駅の案内所に行って宿を頼み、その夜お水取りを見に行き火の粉を浴びるところまでわけも分からないまま行ったものである。

それでも、長い階段廊下を大きな松明があがり、上の階(きわざし)から舞い散る火の粉には感動したものだった。

春を告げる一大行事ではあったが、当時はそんなに有名ではなかったのだろうか、宿も簡単にあったし、階下の芝生の中に入れたし、松明の燃えカスも簡単に拾えたと思っている。

それから、二月堂には三回以上行っているのだが、お水取りはその時だけである。

その後、もう一度行きたいと思っている場所の一つとしてお水取りがあるが、なかなか行く機会がなく六十年ほどたっている。

六十年といえば、十干十二支の一巡で本卦がえりにあたるのだから別人として行ければいいんだが、、、、

それにしても、今年のお水取りはコロナに負けて無観客になってしまったようだがこの反動で、来年あたりからは芝生どころの騒ぎじゃないような気がしてしまう。

遠い夢物語になりそうなきがするが、、、、、、、

 

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2021年3月 5日 (金)

ごぼる

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つくし誰の子? すぎなの子 

誰でもが知っていることであるが、似てもも似つかない子供が生まれたとびっくりしている。

春まだ早きに、出てきたつくしはいびつに歪んでいる。

今日は啓蟄、土の中で冬眠していた虫がうごめきだしているはずなんだが、、、まだ見当たらない。

 

昭和もまだ20年代だったころ、飛騨は雪が多くこの時期でも積雪二メートル以上はあった。

それでも、今の時期にになると昼間の温度は天気が良ければ10度くらいにはなり、雪の表面が急速に溶けて行くのがわかり、雪の間からアオキの赤い実が雪の中から出てきて、白い雪に映えた。

しかし、夜になるとこの溶けた部分が寒さで凍り、朝になると雪の上を歩いてもごぼらなくなり、雪面を自由に歩き回れるようになる。

”ごぼる”とは北陸地方一帯で使われた方言?古語?で”めり込む””沈み込む”と言った意味である。

このごぼらない状態になると野うさぎの刈りのシーズンになる。

肉といえば、クジラの筋だらけで固い肉しか買えなかった(それも配給で)時代、ウサギの肉は貴重なたんぱく源で小学校のころから畑の縁や野山にわなを仕掛けて獲ったものだが、いまの時期が一番獲れて美味しかった。

わなは、ワイヤーを1メートルほどに切ってほぐして焼きなまし、丸い輪っかにしてウサギの通り道に仕掛けるのだが、夏場は通り道がよくわからず、雪の降る量が多いときはわなそのものが雪に埋もれてしまうので、雪が溶けだす今の時期が一番好都合であった。

わなを仕掛けた翌日、山の上のほうから布に来るんだ雪玉をもって、ウサギが昼寝しているところを探り雪玉を投げる、、、、、、

まさに、ウサギ追いし 彼の山であり、この時期になると今でも懐かしく思いだす光景である。

年に何匹かしか獲れなかったが、獲れたときには低い鼻を空に仰向かせて意気揚々と凱旋したものだった。

 

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2021年2月22日 (月)

疲れたあ~

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今日2月22日はニャンニャンニャンと語呂合わせで猫の日だという。

時あたかも、猫の発情期に入る季節であり、先日も家のそばで2匹の猫が威嚇しあっていた。

むかし、高校受験で宿に入った夜一晩中猫の啼き声で眠れなかったのを思い出す。

メスを呼ぶオス猫が二~三匹集まっていたようで、交互に啼き声を出す合間に喧嘩もするらしく激しくギャッという声や走り回る音で迷惑したものだった。

中学が大津山という鉱山住宅の子供だけがいた学校だったが、このころ、食糧難もあってか猫は目の付くところにはいなかったような気がする。

なので、猫がこれほど激しく鳴きかわすのも知らなかったので、はじめは何の声かさえ知らなかった。

翌日、30人採用の入学試験は寝不足もあり朝からだるいような気持ちで臨んだが受験者100人を超す中で50人以内に入ったようで、一次試験は何とか通過することができ、翌日の身体を主とする二次試験に臨むことができた。

 

昨夜はさすがに疲れて早寝をしてしまった。

自動車の運転疲れというより、神経を使わなかったと思っていたが葬儀疲れだったようである。

しかし、身体は疲れ、目はしょぼしょぼしていたのですぐに熟睡するかと思っていたが、これが意外と寝つきが悪かったうえ、隣で寝ていた連れも同じような気配で寝返りを打ってばかりいたので、朝の3時ころ、寝るのを明らめて、起きることにした。

おかげで、朝からだるさが募り一日中ぐうたらぐうたらで過ごす。

 

 

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2021年2月12日 (金)

ボーリング

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今日は旧暦の元旦。中国ではこの日を春節と言い民族大移動と言われるほど人が動くそうだ。

しかし、今年は新型ウイルスで政府が厳しく制限したため、様変わりの様子。

昨年の今ごろは、中国の惨状をテレビなど報道を通じて知られていたはずなのに、中国からの客をあてにして旅行業はバカ騒ぎをしていたし、政府も何の手も打たずその後の感染拡大に至ったが、いまだにその無策が続いている。

 

以前「何を仕事にしていた?」って聞かれた時に「ボーリングを中心にその周りの仕事をしていたよ」って答えたら「すごい プロですか」って言われ「プロっていえばそれで飯を食っていたのだからプロでしょうな」って答えた。

その後の話しの流れから、玉ころがしのボウリングと勘違いしていたことがわかって大笑いしたことがある。

ボーリングは英語で書くとBORINGであり、玉ころがしはBOWLINGなのだがカタカナに直すと日本人には区別がつかないうえ、われわれのボーリングは世間的にはあまり人目につかない仕事だった。

我々のボーリングは日本語に直訳すると”円筒形の孔を穿つ”ということで機械工作でも同じ言葉が使われているが、鑿を回転させて孔を穿ち、地中深いところの岩石を採取したり、深く掘った孔に鉄管を入れて井戸や温泉として利用することなどであった。

そのほか、鋼管を入れてセメントで固め地滑りを止める工事など現場作業で終始した。

同じボーリングでも分業化した石油の掘削はしたことが無いが、最大で直径500ミリの鑿を回したのと最深1,000m近くを掘削したことがあるが、すべて自分の才覚で機械を動かしたのは仕事冥利に尽きた感がする。

上の写真は、今から三十数年前の自分であるが、現状は胴回りに脂が取り巻き頭は真っ白とまではいかなくてもかなり白くなり面影はない。

 

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2021年2月 1日 (月)

とりとめもなく”チョウハイ”

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お茶畑の向こうにお化粧の雪が吹き飛ばされてまだらになった富士山がぼんやりと見える。

そろそろ春の兆しの黄砂が舞っているんだろうか、これからの時期茶畑のなかに立ち並んだ防霜フアンが活躍する日が近いことを示している。

そのむかし、春の芽吹きの時に霜が降りると新芽がだめになってしまうため、畠の周りに自動車のタイヤを配置して降りそうな気配を感じると火をつけ煙を茶畑の上空に煙幕のように張ったものだが、現在ではこの防霜フアンが自動的に回るようになっているとのことで、農家もかなり楽になったそうだ。

 

昨日の記事に前平十字路様からのコメントに”チョウハイ”という懐かしい言葉のコメントがあった。

かなり長くなりそうなので、こちらのほうで自分が聞いた範囲のことを書かせてもらうことにした。

チョウハイは漢字で朝拝と書くらしい。

朝拝とは、元日の朝大宮人が天皇に新年の賀詞を寿ぐために参集することとなっているが、これが嫁の里帰りとどうなっているのかしっかりしたことはわからないそうだ。

ただ、チョウハイは主に北陸地方、特に富山のほうで使われた言葉で、飛騨の嫁さんが高山のほうに行く場合は使わなかったのではないかとおもっている。

自分が生まれ育った東茂住や大津山は富山県の人が多かったのでよく聞いた言葉だが、「富山から嫁さんをもらうと大変やぞ!」というのをよく聞いた。

その一例として、大みそかが近づくころになると大きなブリを一匹嫁さんの家にもっていかなくてはならなかったそうだ。

持っていくと、嫁さんの家では三枚におろしてその一枚を返礼として返してくれるほか何かしらのものを一緒に渡してくれるそうだが、ブリの値段がかなり高額なので、貧乏人の飛騨人には、、、とか

そのほか、盆の法事や子供の誕生日など何かと散財がおおきいという。

そして、東茂住あたりから国境の猪谷までは6kmくらいと近かったので足の丈夫な人は庵谷峠を越えて笹津や八尾くらいまで一日で歩いたそうだが、船津やその先の栃洞あたりまで嫁に行った人は、鉱山の軌道ができるまで一日では歩けなかったそうで、茂住の長田旅館や金山旅館にときたま宿をとったほか、猪谷の宿まで足を延ばし、あとは汽車に乗って行けたのはお金に余裕のある嫁さんだったようだ。

なにしろ、チョウハイで帰る嫁さんは嫁ぎ先の人になっているので、今のようにただ「ただいま~」なんて気軽には行くことができないのでそれ相応の支度と土産をかついで向かったと聞いている。

ちなみに朝拝と里帰り関係は、帰った嫁さんは婿の家の代表であり、生家とはいえその家の主人には礼を尽くさねばということからではないかというが、多分帰れば婿の家の悪口や愚痴で盛り上がっているのが常ではなかろうか。

とりとめもなく書いてしまったが、こんなところでどうでしょう。前平十字路さま

 

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2021年1月28日 (木)

小冊子に

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雨が降っている時間の方がすくなかったが、雲の層が厚いらしく週日薄暗く、体感温度は気温より寒さを感じさせてしまう一日だった。

庭の南天の実についた露の中にそれぞれが小さな景色をもっているが、そよ風が吹くたびにその景色を一斉に更新するかのように消し去ってしまう。

 

先日、ふるさとの菩提寺から新年のあいさつとともに小冊子を送ってくれたが、そのなかに昭和30年ころの物価というものがあった。

昭和30年は自分にとって大きな節目の年だった。

三月に中学を卒業すると、鉱山付属の高等学校に入り鉱山従業員の入っていた寮でくらすことになったとしである。

従業員の子弟ということで入寮したのだが、初めて親元を離れ見知らぬ大人と一緒の相部屋は今でいうかなりのストレスでしばらくはホームシックに悩まされ勉強にも手が付かなかった。

同室の人は四十代だったと思う。硫酸工場に勤務し三交代作業だったから子供のような学生と一緒というのは「困ってもんだ」と、戸惑っていたに違いないが、どうして同質を承諾したのか知らなかったが金沢生まれの人で優しい人だった。

さて、小冊子に載っていた当時の物価だが、国鉄の最低料金が十円、葉書が五円、週刊誌が三十円、ガソリンが一リットル三十七円、卵が一kg二百五円、ラーメンが四十円、コッペパン十円。そして、人民の酒焼酎は三百六十円、大卒初任給八千七百円だったそうだ。

当時自分は寮の食費三千円ほどは親が負担していたが、毎月鉱山から二千円の手当をもらう身であった。

この二千円は、当時の最低賃金でニコヨンと呼ばれた二百四十円から見るとかなり高額なものかもしれなかったが、一杯四十円のラーメンや一個十五円ほどの卵はもったいなくて食べられなかった。

しかし、月に一回程度親元に帰るときに当時新しい食パンで黒糖入りのコッペパンを兄弟の数だけ買って意気揚々と帰ったものだった。

小冊子の片隅の記事が、まだ子供だった時の懐かしい記憶をよみがえらせてくれた。

 

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2021年1月15日 (金)

ひとり左義長

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今から70年余も昔のこと、字が下手だった自分には正月二日に書く書初めが大の苦手だった。

いまのように紙が十分にない時代、練習は新聞紙で行った後枚数が制限されていた清書紙に書くのだが、緊張しているものだから、さらに下手な字になる。

その書初めは常に右上に赤紙を張られて廊下に張り出される屈辱を味わった。

 

生まれ育った東茂住の三枚に青年団の若い衆が3~4メートルほどの杉の木を立て、その周りに正月飾りや書初めなどをまとわりつかせて15日の夜は華やかに左義長が始まった。

子ども心ではまるで天まで届くかのように高い杉の木の上の方にヘタな書初めを上げてもらい、金紙の書初めより高く上がれと祈ったものだった。

 

最近、一人キャンプが流行しているそうだ。

”ひろしです”で一時人気だった芸人が山を買ってその中で一人キャンプをしているのが評判になり、その影響だそうだが、自分も静岡に来て以来ひとり左義長をしている。

町内会でもやっていた時期があったが、人混み嫌いの自分は庭に一角でトタンを敷きそのうえで家の分と知り合いのを寄せて燃やしているのだが、連れは近所を気にして「やめろ!」何度も言うが、火には怪しい魅力がありやめられない。

しかし、ものの10分ほどで炎の祭典は終了となり、水をかけて消した灰は魔除けになるとかで家のそばの木の根元などに分散して撒けば、今年の小正月の行事はお終い。

もちろん、餅を焼くことなどできないほど短い祭典である。

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2020年12月 4日 (金)

冬イチゴ

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赤いルビーのような実が、緑の葉っぱに囲まれてひときわ映えている。

この時期になると、山でのつまみになる果物がなくなるので、こんな実でも子供たちはつまんで食べた。

子どものときはもっと大きな実だと思っていたが、手がちっちゃいためだったからなのかな?

雪をかき分けて探し出したように覚えているが、七十年以上も前の話しになると記憶も定かではなくどこで誰と、、、、みんな消えてしまったが、冷たい指の感覚だけは残っている。

 

月めくりのカレンダーも最後の一枚になり正月支度の一番手として年賀状を買ってきた。

郵便局のお姉ちゃんの愛想のよいこと、50枚の袋入りとおまけにテイッシュー カレンダーと、、、、

以前は200枚近く買ったものだが亡くなったり、高齢を理由に辞退されたりでこの枚数になってしまった。

さて、勝ったばかりの年賀状を見ながら最初の文字をどう書けばよいのかわからなくなってしまった。

例年のように賀正だの謹賀新年などはどうも似つかわしくない。

今年が悪い年だったうえ来年はどうなるのか想像ができないのである。

引きこもり状態でふるさとにも帰っていないうえ、手紙電話などの連絡はほとんどなく、この賀状が久しぶりの便りになるのだが、、、、、、、

”このご時世”ならではのこととなると、、、、、、、迷いは深い。

 

 

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