2008年4月19日 (土)

遠くなりにけり

Img_0050 東京タワーが出来て五十年という記事を見た。そうすると上の写真は五十一年前になる。

「うわ~ そんなにもなるのか」というのが感想。我ながら年をとったことの驚いている。

写したのは高校の修学旅行のとき、バスの窓越しに写した建設中の東京タワーで、神田の旅館から保土ヶ谷の火薬工場へ行く途中だった。雨がシトシトと降っていたこと今でも憶えている。

このあと、何回も東京に行っているものの、東京タワーには一度も登っていないのはなぜだろう。

Img_0044 もうひとつ、この写真をコピーしていたら勝鬨橋の写真もあった。

勝鬨橋は橋が両側に立ち上がって船を通す仕組みの可動橋であったが、出来たのは昭和十五年というから私より一つ下になる。船を通すために最後に稼動したのがこの写真の十年ほど後だというと、今では動いたのを知っている人は稀だろうと思う。

今考えれば、うまいときに修学旅行をしたものだ。

.

目病み男は

”目病み女に風邪引き男”というのがある。落語のまくらにも使われ、江戸時代から使われた言葉らしい。

目を病んだ女の人は、目が潤んでいるためセクシイだと言うし。風邪を引いた男は声がかすれ、そのハスキーな声がなんと言えない。というが、治ればその思いも消えてしまうことから、一時的な魅力に惑わされるなという教訓だというが、、、、、。

今日は午前中晴れ間が覗いていたので、はっさくと甘夏摘みの手伝いに行ってきたが、木の枝に登り顔を上げてところで目じりの付近を小枝が触って、すこしゴロゴロとした痛みが今もある。

鏡を見たが、すこし充血している程度なのでそのままにして、「どう魅力的?」と問いかけてみたが、男はやっぱり風邪ひき。

目に涙は我ながらカッコいいもんじゃない。。潤んで見せても橋下大阪府知事ではないが、男の涙は、と言われて、、、、

涙は女の特権”  時代は変わっているのに、思いは変わらない、やっぱり情緒が古いんだね。

.

今日の花。だまし名前の草

左、狐の薊(キツネノアザミ)薊の仲間でなくキク科とのこと、狐と名が付くだけあって人を騙しているのか。 右、虫取り撫子、茎にねばねばした液をつけて虫を捕まえていることがあるが、消化するためでなく、蟻などを花に近寄らせないためらしいのだが、、、

Img_0055 Img_0069

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月27日 (水)

チョッキンチョッキン

Img_0087 春は はよから 川辺の葦に

蟹が店だし 床屋でござる

チョッキンチョッキンチョッキンな

北原白秋の作詞になる”あわて床屋”の出だしであるが、兎の耳を切り落とした蟹はあまり腕の良い床屋ではなかったようだ。いや、ど素人だったかもしれない。

写真は、30数年前、アンデスの4,000m近い高地で鉱石探しのボーリングしていたころの私である。

人里はなれた山奥では、近くに床屋なんてしゃれたものはない。しかし、髪の毛は伸びる。そこで”にわか床屋”の出番となる。

机の片隅から紙きり鋏を持ち出して、切れ味の良いのを選んで使う。その当時、日本では長髪が流行っていた。しかし、その限界も超えるとお互いに散髪しあったものだが、何せ紙を何度も切ったりして切れ味が悪く、挟み込むこと数知れず、そのたびに涙が出るほどの痛みが伴う。

何回か経験したあとに分かったことは、切りすぎるなどの失敗した時はそのままにしておくのが一番だということであった。

切りすぎた髪の周りを目立たなくしようと手を入れると、ますます被害が大きくなり、傍目からも髪型がでこぼこが分かるくらいならまだ良いほうで、髪の下だけ日焼けしていない頭の地肌の白さが目立ってくると、男所帯でも恥ずかしくて四六時中帽子が離せなくなったことさえあった。

.

イージス艦”あたご”の航海長がその日の朝に、ヘリコプターを使い、偽って大臣に呼びつけられていたという。その席には他に偉い人4人が居たというが、これはどういうことだろうか。

偽ってまで連れだしたということは、事後対策、情報隠し 隠滅を図ったと見られても仕様のないことだろう。

大臣の責任は重い。隠そうとすると、さらに影響が大きくなるのは何も髪の毛ばかりではない。それとも国家機密に名を借りて隠滅しようとしているのだろうか。

早めにチョッキンと切りたかったか。

,

今日の花。左、姫踊子草、髪に簪をあしらって花を付け出したが、まだ祭りには早いようで”そろうたそろうた 踊子がそろうた”とまでは行かない。右、西洋からし菜、種は辛子の原料になる野菜だが、蜜蜂の養蜂家が種を撒いたそうで、巴川近辺には、今では雑草並みの強さで繁殖している。

Img_0077

Img_0082

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月 6日 (火)

ヒッチコックの「鳥」を

Img_0139 時おり小雨がぱらつく夜が明けた。天気予報を見ても一日こんな天気が続くというので、念のため折りたたみの傘を持って日課の散歩に出かけた。

地面はしっとり濡れ、靴も濡れるが栴檀草のひっつき虫も嫌なので、成るべく舗装された道を選んでいると、頭上の電線にカラスが群れていた。下で大きくかしわ手を打つと一時は飛び立つもののすぐに帰ってくる。

おもわずヒッチコックの「鳥」という映画を思い出した。鷲などの猛禽類でなく、カモメやカラス、そして雀など身近にいる鳥が集団になって人を襲う映画だった。

どんな仕掛けであの鳥たちを動かしたか知らないが、帰って調べると1,963年制作と意外に古い作品だったので、今はやりのCGではなく、せいぜいが合成写真だったのだろうが、すごい迫力があったものだ。

上の写真は、その先で見たムクドリを写したものだが、この映画を見ていない人は、五線譜にお玉杓子が並んでいて、「どんな曲なのかな?」と想像しても、この鳥が一斉に襲ってくるとは思わないだろう。

安倍城址で遭難

報道によると安倍城址に登っていた人が、遭難し、今朝ほど遺体で見つかったと言う。上り口の洞慶院からあまり高くない位置で転落が原因らしいと書いてあったが、何処にそんな場所があったのか見当がつかない。

娘らからも「一人歩きはいい加減にして」と言われるが、生来我儘な性格から単独行が一番気に入っている。しかし、このようなことにならないよう用心深い山登り、すぐに逃げ帰ってくる山登りを心がけたいと思っている。

.

今日の花。昨夜来の雨に打たれていたアサガオとツワブキ。最近気になっているのだが、アサガオはこんなに遅くまで咲くものだったのだろうか。まだ葉も元気だし花も結構大輪だ。野に咲く花と一緒なのだから人の保護も無いはず、、、品種が違うのかな?これじゃ夏見ても”涼しげな花”とは思わなくなるね。

Img_0134 Img_0141

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月10日 (水)

金木犀のかおり

Img_0079 久し振りといった感じで近所の散歩に出た。昨日は空模様がよくなかったのと稲刈り疲れか身体がだるくて、散歩に出る気がなくそこらをよろよろと回っただけでお茶を濁した。

近所の下水処理場まで来たとき、強烈な匂いが吹き渡ってきた。金木犀だ!。高さ5mくらいか金木犀にしては大きいほうにはいるその木に、黄色い花をいっぱいつけて香りを放っている。

以前、トイレの消臭剤と言えば金木犀と言われた時代があったが、これは、ボッチャントイレの匂いを消すため、さらに強烈な匂いを漂わせた結果であり、そのため金木犀の匂いを嗅ぐとトイレを思い出す人がいて、金木犀には気の毒な事になった。

その後、トイレの消臭剤はラベンダーが主力になったので、、、、、これまた気の毒をした。

私自身は、この香りで思い出すのは、名古屋城の近辺で招待された結婚式場に行く道すがらを思い出す。歌は世につれ、、、という言葉があるが、香りや花にもその時を思い出させるものがある。

.

今日10月10日は43年前に東京オリンピックが開催された日である。あの日は全国的に晴れた日だったのか、テレビの中も自分の頭の上もピーカンの青空だったのを覚えている。このオリンピックに間に合わせて買ったカラーテレビには真っ赤な選手の上着が写っていた。

あのころは、生活が急速に変化していった時代で、三種の神器から3Cの時代にまさに入ろうとしていたときであり、なんとはなしに高揚感があったように思う。

来年は、北京でオリンピックが開催されるのだが、彼の国もいまこんな感じなのだと思う。

ただ、外目から見ると一党独裁国家であり、衛生を含めての環境問題や応援態度から民衆のレベルが気にならんでもないが、これを機会に発展することは確実であろう。

.

今日の花。左、七竈(ナナカマド)右、紅葉。何れも長野県立科町で、、、P1010024 Img_0013

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 5日 (金)

5球スーパーで

P1010091 久し振りに秋らしい天気になったが、夕方には一面の厚い雲の下夕焼けを見ることが出来なかった。秋に三日の晴れ間なしとは言うがあまりのも根性なしである。そして今日も、秋の夜長を思い出に浸ることとする。

私が育った鉱山の社宅は、いわゆるハモニカ長屋といわれるものだった。戦前の九尺二間の長屋はさすがになくなっていたが、それでも、八畳六畳の二間が最高で、風呂と便所は共同、流し(台所)は各家ごとに割り当ててあるものの共同であった。(写真、採鉱中止で荒れはてた社宅)

こうした中で、娯楽と言えば映画と演芸。戦後復帰の原動力として鉱山は景気がよかったので、周2回の映画と美空ひばり以外の芸能人がかなり来ていた。

しかし、秋から冬の夜は長く、一番の楽しみは当時全盛だった”5球スーパー”から流れてくる歌と落語、浪花節などを聞くこと。

”5球スーパー”と言っても今では何のこと?と言われるのが落ちだろうけど、真空管を5つも使った高級ラジオであった。ここから流れる落語や浪花節は最高だった。

耳で聞いて、場面を空想する楽しみ、巧みな話術でその世界に引き込んでくれる。先日、ご当地の新聞に「本を読むのは音読か黙読か」なんてのをやっていたが、私は、ラジオ同様、黙読し空想の世界に入っていくほうが好きだ。

先日も、浅草演芸場で落語を聞いたが、演者の質もあったかもしれないが、手振りや顔つきが気になって、目を瞑って聞いていたが、このほうがよほど臨場感があったのを憶えている。

.

とつこつしている間に、長野の義弟から稲刈りの手伝い要請があった。「猫の手」程度しかならないけど、毎年100㌔ほども貰っているので明日出かけることにした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月29日 (金)

真理と自由と正義とは

Img_0126_4 いま、麻機沼では蓮の花が真っ盛り、そして、周りの小さな水溜りには、いろんなトンボが縄張り争いを繰り広げているが、人間と違って許認可権や天下り先、あるいはピストルが持ち出されることはないので高みの見物が出来て面白い。

なかでも、一番目立つのは蝶蜻蛉(チョウトンボ)ではないだろうか、黒光りをした羽根をひらひらさせながら飛び交うさまは、忍者かイスラムの戦士を想像させる。そして、休憩に草の茎に掴まるとき幅広の羽根でバランスを取っているが太陽の加減で虹のようにいろんな反射をしていた。

Img_0132_1 真理と自由と正義とは

めざす我らが栄冠ぞ

まもりゆかばや

        この誇り

           とわに栄えん わが母校

上の歌詞は飛騨の山奥の小さな学校の校歌の一節であった。小中学校あわせての200人ほどの学校だったから、小学一年の小さい子も以後の9年間はこの歌をうたっていた。(写真*わたしが通っていた学校、昭和29年冬、一階部分は雪の下に埋もれている)

あったというのは、昭和51年、鉱山の社宅移転に伴って廃校になったから、いまこの歌をうたう生徒はいない。

戦後間もないころ、当時の校長先生が作ったものであるが、多分当時の世相を加味して作られたものと思う。いまでは、こんな難しい言葉の校歌を持つ学校は少ないと思うが、戦時中に”真理と自由と正義”なんて言おうにも言えない時代を経て、民主主義とはこういうところにあると思われていたのではなかったろうか。

私が学校に入ったのは、敗戦の翌年だったので、それまでの教育が180度変換した年であった。先生は民主主義とはどんなにすばらしい制度であるか、口を酸っぱくして説明してくれた。

民主主義とは、多数の意見に従うものだが、少数の意見にも耳を傾けより多くの人が共感を持っていくように努力するものであり、一部の人の意見に引きずられて多くの人が戦死した教訓を生かすものであると聞き、戦災孤児や戦死者の家族のことを聞くたびに、さもありなんと思ったものだった。

戦後、62年たっていま国会を見るに、ろくに説明もなく、審議もせずに数による強行採決を繰り返しているが、これが素晴らしいといわれた民主主義の成れの果てかとがっかりさせられるものがある。

私のように国会議員は勿論、政治というものかかわる人にに愛想を尽かしたものからみると、党議拘束のかかった政治は一部の人の意向だけで動いているように見えて仕様がない。(小泉郵政改革が執行部批判をさせない風潮を作った)

むかし、”良識の府”といわれた参議院においてすら良識なんてどこかへ飛んで、数の倫理がまかり通っている。

国民のことをそっちのけで明け暮れている議員を情けないと思いつつも、選挙権を放棄すればお題目だけになった”民主主義”がさらになくなってしまうと、むなしい気持ちで今年も投票に行くのだが、、、、、さて、誰に入れようか。

.

今日の花。左、車葉草、名前の通り葉が車のハブのように節ごとに開いている。右、夏椿、椿と名前が付いているが椿の仲間ではない、姫沙羅(ヒメシャラ)という別名を持ち、日本ではお釈迦様が亡くなった沙羅双樹がこの木でないかといわれた時期がある。(いずれも大光山で)

Img_0041_3 Img_0085

| | コメント (2)

2007年6月 4日 (月)

とんぼのめだまは

とんぼのめだまは 水色めだま

青いお空を見てたから 見てたから

Img_0060_6 我々のころはこの歌はなかった(とおもう)が、こどもが保育園で歌っていたためか知っている。

この歌は歌わなかったが、写真のギンヤンマはオニヤンマについで欲しい蜻蛉のひとつだった。歌の文句のように青い色をした目はどんな風景が見えているのだろうか。

理科の時間に虫は複眼で、身体にくらべてこの大きい目は小さい目がいっぱい集まっているといわれ、むしって顕微鏡の下に入れたり、ヤンマの尻尾を糸で縛りおとりに使うなど今思うと残酷なことをしたが、トンボは子どもの友でありいい玩具でもあった。

今日久し振りにギンヤンマの産卵を見て「はて、こんなに早かったのだろうか、、、、」と思ったが、子供の頃こんな状態をみたらただでは放っておかなかったことだろう。

悠然と、巨体をひるがえし家の間の路地を行き来し、子どもに歓声を上げさせていたオニヤンマ。ひとつところを縄張りにしてグルグルと外敵を追っ払っていたギンヤンマは、塩辛トンボや赤とんぼとは一段格上のトンボという印象があり、夏休みになるといくつ取ったかが自慢の種。

そして、これらのトンボがいなくなって赤トンボが出始めると夏休みが済み秋風が吹き出すという仕組みであった。

.

今日から「歯の衛生週間」だという。子供の頃、「6月4日は虫歯の日」と憶えていたが、調べてみたら虫歯の日といったのは昭和3年から13年までで、一度途絶えて昭和33年にいまの名前になって復活したそうだ。そうなると私が学校にいた時期は何にもなかった時期に当たるのだが、記憶ではあったような気がする不思議なもんだねぇ~。

虫歯の語呂合わせから、この日になったのだそうだが、やっと先年まで虫歯もなく、ビール瓶の蓋など口で開けられたものだったが、急激にガタが来た。

いわゆる、歯周病である。歯茎がはれ、熱を持って何度かはうがい薬で直していたが、歯医者に行ったら「奥歯の歯ぐきが駄目になり浮いている。そのうえ歯の根元が化膿してしまったから」と言って抜かれたのが皮切りに、何本か抜かれると、歯の間隔が広がりスキッ歯になり、爪楊枝が必需品になってしまった。

若いときは、そんなことも知らずに「食後に人前で歯をほじくったり、入れ歯を口のなかでもぐもぐさせたりして、、、」と嫌ったものだが、今ではそっくりそれのお返しを言われそうな身になっている。

サメなどは入れ替わり立ち代わり歯が奥から出てくるそうだし、象は6回も生え変わると聞くと羨ましい限りであるが、人の永久歯は二度と生えない。歯茎の炎症は今後も出てきてその度に抜かれていくと、80歳に20本の歯を残そうと言うのも自信がなくなり、先日も「先生、寿命が先か、総入れ歯が先か分からなくなってしまったよ」なんて言わなくても良いことを言うようになってしまった。

今日のトンボ。いずれも糸トンボ。左、クロイトトンボ、右、アオイトトンボと思うがはっきりしたことは分からない、なにせ、糸トンボをトンボとして認識したことは最近までなかったので。

Img_0017_6 Img_0105

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月22日 (火)

桑の実が熟れて

Img_0131_4 山の畑の桑のみを

小籠に摘んだは

     まぼろしか

 (あかとんぼ  より)

山桑の実が熟れてきた。野生の桑の実は小さくて食べる気もしなかったが、黒いのを二つ抓まんで口に入れれば懐かしい味がほのかにした。

子供の頃までは、日本各地で蚕を飼っていたのでどこへ行っても桑の木があり、いまの時期の熟れた実は子どものいいご馳走だった。

桑は葉を取るため、高くて大きな木にはしないため、小学生でも簡単によじ登ってとれる。ほのかに甘く、果汁がいっぱいあり、黒く熟した物を選んで口に放り込んだ。

何時のことだったか、なにか流行りやまいが出て「桑の実を食べたらダメ」と学校で禁止した年があった。が、止められない。

こっそり食べた後、口の周りの紫色の証拠が隠滅できないで、すぐに見つかり大叱られした事もあわせて懐かしい思い出となって今でも残っている。

その桑の木も、絹がシルクと呼ばれるようになってから衰退し、今では童謡の文句の通り、桑畑、お蚕様とともにゆめまぼろしの世界になってしまった。

今日の蝶。左、クロアゲハ、背中から見ると黒一色だが裏側は赤を主体とした綺麗な模様がある。江戸時代の粋みたいなところがあって飛んでいる時は見えるが止まると見えない。左、図鑑で見たが名前が分からない。タテハチョウの仲間だろうか。

Img_0117 Img_0121_2

.

「人間万事塞翁が馬」「人生はあざなえる縄の如し」なんて格言を何度も聞いてきた。幸不幸は交互にやってくるので、幸福でもおごらず不幸な時でもめげず次に備えなさい。という意味だと言う。

しかし、本当にそうなのだろうか。最近の日本を見ていると、勝ち組負け組みに代表されるように、金持ちはさらにお金が入り、貧乏人はますます貧乏になるという二層化社会の仕組みが出来上がりつつある、縄のようによじれることがなく、紙のように裏は何時までたっても表にはならない社会が出来上がってしまったような気がしならない。

スタート地点で将来が決まってしまうと言う閉塞間のある社会。これは、以前からアメリカでそうだといわれて来たが、先日のテレビでもワーキングプアーが日本でもアメリカに並んで13%台とダントツに高い比率になってきたといっていた。(暴動で揺れるフランスや階級社会のイギリスで8%台という)

そのむかし、テレビコマーシャルで「美しい人はより美しく、そうでない人はそれなりに、、、」と言っていたが、昭和のころの一億総中流社会が崩壊してしまったという。

石川啄木が「はたらけど働けど わが暮らし楽にならざり じっと手を見る」と歌ったころと同じ環境になり、ドラマ「おしん」の再現が近づいてくるのが予想出来ないだろうか。

これから行き着くところがどこにあるか知らないが、古くは百姓一揆のような庶民の爆発はぬるま湯の日本人にはまだまだ先の話だろう。昭和初期の政治腐敗と国民の貧窮を代弁する形で5,15事件に軍部が蜂起し、クーデターのようなことが起きたときも賛成した人がかなりいたようだ。

その後、軍部が独走し先の見通しもない世界大戦に突っ走ってしまたが、人は、未来に夢を託せ無くなったとき、あの時は”まぼろしか”とは言っていないように思う。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年3月30日 (金)

イタンドリ

Img_0157 イタンドリが芽を出していた。

子供の頃、板取(イタドリ)をこう読んで、茎の太いのを選んでへし折って、皮をむき、おやつ代わりにそのまま食べたものである。

久し振りに、食べてみた。シャキシャキとした歯ごたえの後、口の中に顔が曲がるほどの酸っぱさが追いかけてきた。こんなに酸っぱかったかなと言うのが感想である。

この板取の太い、若い茎を採って来てつぶし、熱湯をかけてあくを抜き、煮付けにしたり、ごま油でいためたりして食べたものだった。蕨やあずきな、こごみ(クグミと言った)と共に春の山菜のひとつであり、簡単に大量に取れるところから、よく食べて戦後の食糧難の時代を支えたと思っている。

なお、ぜんまいはあく抜きをした後、灰にまぶし乾燥させながらよく揉んで冬に食べるが、高い値段で売れるところから、換金山菜として貴重なものでなにかの行事や葬儀の時以外、あまり食べる事は無かった。

また、若いころ聞いた話だが、板取やスギナは酸性土を好む所から、金気草(カナケ草)と呼ばれ、江戸時代の山師はこの草のあるところに地下資源が有ると言って山奥の谷筋をかき分けて歩いたいう。

そして、この板取が、スカンポというのを知ったのは、ごく最近。

Img_0063_1 唱歌に”土手のスカンポ ジャワ更紗 昼は蛍がねんねする、、、、”と歌ったころは酢葉(スイバ)のことだと思っていた。土手にスイバが密集して赤っぽい地味な花を咲かせている様を勝手に想像していたわけだが、思い込んでいると調べたり聞いたりということが無いので誤解はいつまでも続き、、、あとで恥をかく。

名前の出所は中空になっている茎を折るとき、スッポンと音を立てることに由来すると言う、ちなみに”板取”も痛み取りから来ているという説があるらしいが、漢字の当て字にしては随分と違うじゃん。

.

追*  08年5月13日、由紀さおりが”笑っていいとも”で酸葉(スイバ)をスカンポだと長野の人に教えられたと言い、コップに入れたのを見せていたが、PCで調べてみてもスイバ説とイタドリ説がありどちらとも言えないようだ。

自分も当初はスイバとばかり思っていたので、この際特定しないほうがよいのかもしれない。 

       

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年3月24日 (土)

春一番の黄色い花

Img_0054_2 Img_0053_4 一昨日のヤンブシ登りの途中で、油瀝青(アブラチャン)の花を見た。

油瀝青とは変わった名前であり、正式な名前はかなり最近まで知らなかった。

この木は、黄色い花小さな花を密集させてポンポンのように、また、正月に作る花餅のように咲かせ、いまに時期しか目立たない木なので、どんな実がつくのかも気にしていなかったが、黒文字(クロモンジ)の木同様クスノキ科に属するため、油分が多く、そこから名付けられたと言う。

油と瀝青(コールタールを言う)を足した名前から見てもよほど油っぽい名前だが、皮や木、花からはそんな感じがうかがえない。

下の、写真は、サンシュウユ(左)とクロモンジ(右)の花であるが、よくよく近寄って見ないと分からないが、私にとっては、子供の頃、雪が消えるか消えないころ、春一番に咲く嬉しい花であり、今でもこの花を見ると懐かしい気がする。

Img_0010_5

Img_0027_3 そして、春の花と言えば猩猩袴(ショウジョウバカマ)。

Img_0017 あまり、日当たりの良くないじめじめした場所に群生して咲く花であり、どんな意味があったのか「キンパラ」と呼んでいた。

猩猩というほど赤くは無いが、この花も春先雪の解けたのを追いかけるようにして咲くので目立つ花だが後はどうなっているか知らなかった。

とにかく雪の多い山奥で育った者としては、清浄な雪に対して春先のじめじめとした土はなんだか汚らしく思えても、マンサク、アブラチャン、クロモンジなど黄色い花が咲き出し、ポカポカした陽気が立ちだすと、清浄と思った雪はうっとうしくなって、畑に残った雪に灰を掛けスコップで突っついて溶かす作業に入ったものである。

去るものは日々に疎し、の自然版。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月 1日 (木)

ヤマカンで

Img_0008 今日は、一日冷たい風が吹きまくった。冷たいといってもせいぜいが例年並だろうけど、、、。

しかし、陽だまりの中花全体が真っ白なナルシスが、少し顔を上げて自慢げな顔をし、花虻に愛撫させていたので写真にしてあげた。

子供の頃、周りに犬や猫が不思議といなかった。

戦後の食糧難の時代で、飼うだけの余裕が無かったためかもしれない、ひょっとしたら捉まえて食べてたかもしれない。(実際に闇汁で食べた肉が猫だった、と後で聞いたことがある、闇汁については何時の日か、、)

そのため、高校受験のとき泊まった宿の塀の上で、猫の恋歌を聴いたときは「なんだこりゃ~」だった。

Img_0014_2 猫がこんな大きな声で長鳴きすると知らないものだから何が鳴いているか分からないし、不気味だった。

近くに魅力的な雌猫がいたらしく何匹かで交互に鳴き、ある時間がたつとギャォッ!と喧嘩して屋根を走り回る騒々しさはかなりのものであった。

しかし、宿の人は勿論、近所の人も何の反応も示さないまま一夜が開け、寝つけなかった自分は、眠い気持ちのまま受験会場に向かった。

いまでも、猫の恋歌を聞くと当時を思い出す。

今日は、静岡の私立高校の受験日だとのことだが、まだ、近所の猫は小さな声でしか鳴いていない。

受験といえば、今ではかなり加熱し、複雑になり、一に勉強、二に願掛け、三にヤマをかけ、四に鉛筆ころがしとなるのは昔から変わりない相場であろう。

ただ、自分のころは学習塾(塾はそろばんだけ)なんて無い時代だし、早寝早起きの時代だったから、家族が九時ころ寝た後まで勉強はしたことがなかった。そのため、三、四が本命だった。

そうして、三が外れたら、四しかなかったが、皆がそうだったので(周りだけかもしれないが、、)そんなに苦にならなかったし、学校が身体が丈夫そうなのを主体に選んでくれたおかげで、なんとか形が付いた、、、。

ところで、「山を賭ける」というのは、江戸時代以前に金や銀、鉛など地下資源を探す、いわゆる山師が経験と感に頼って「一か八か」の投機的な冒険をすることからきている。そのため、山師のことを「千三ッつ屋」(千のうち三ッつしか本当のことが無い)という仇名さえあるくらいである。

現在のように、科学が発達した世の中でも鉱山開発は、「ヤマカン」を元に頼り、試験のたびにこの言葉は使われている。

自分も、ヤマカンが当たったせいで鉱山に入り、アンデスの山まで出かけ鉱物資源の調査をし、こちらに来ても、山の中に入っての仕事が多く”山を賭ける”の一端を荷なったのは、全ての出だしが山に関係していたことにあるのだろうか。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年1月29日 (月)

プヤライモンディ

Img_0002 家から竜南小学校を回り真東に向かった。東高校の前を突きっきり瀬名の川伝いに土手を登っていく。しばらく行くと利倉神社という、このあたりの鎮守の神様がある。

祭りの時期には賑っているが、今日みたいに普段の日は人っ子一人いない。

昨年夏の祭りには、孫たちと寄ってみたことがあるが、その時子どもたちの幾人かが裏山に上っていくのを見て気になっていたので、尾根に通じる道でもあるかと登ってみることにした。

上り口は、ごく目立たないようにつけられている。ジグザグに登って神社の木立より高い位置に来たので標高で50mくらいか、突然道は荒れて行き止まりになっていた。

そこは、もと畑でもあったか少し広いところがあり、子供用の椅子と足が無く背もたれだけの椅子が一脚ならべておかれていた。

そして、その脇に雨露を避けるためらしく、絵本が10冊ほど入ったビニールの袋が写真のように広げてあった。

雑木が回りに茂っていて見晴らしは良くない。こんな場所でだれが何をしていたのだろうか?

ビニールをすかして見ると幼児用の絵本ばかりらしい。椅子が二つということは幼児を連れた親なのか、じいじばあばなのか。どうしてこんな所で詠み聞かせをしているのか。

事情を聞けば案外単純な理由かもしれないが、聞きたくても誰もいない場所では、いろいろと疑問が湧き想像が広がっていく。

よく、テレビを見るのに対して、ラジオ聞いたりや本を読むというのは、聞いたこ読んだこととを元にして、想像を膨らませ、考える力を育てるという。つまり、テレビは視聴覚全てを与えられるため、創造というものが無いといわれている。しかし、こんな謎めいた現場では、果てしなく世界が広がる

なぞがなぞ呼ぶ○○事件である。

Img_0069_1写真はヤナシラ峠でプヤ(PUYA)に寄り添った自分)

 そして、昨夜は懐かしいものを見た。NHKの”ダウインが来た”という番組にアンデス山中のプヤ.ライモンデイという世界一高い花、百年に一度しか咲かない花ということで放送していたが、自分が行っていた所の傍だったと思われる場所が映し出されていた。

慌ててアルバムを引き出してみたが、アンデス最高峰、アコンカグアの山の形がよく似ていたのでその感を深くした。

標高四千数百メートルのヤナシラ峠は峠とは言いながら広い草原のようになっていた。

そこに点々とプヤ(槍の穂先)が巨大な花を咲かせている。長い槍の穂に何万という花は壮観であImg_0100_1 った。テレビを見ていたら当時のことが甦り、丁度来ていた孫たちにアルバムを繰りながらいろいろと追加説明をしたが、後になって考えればはた迷惑だったろうとおもう。

もう一度行ってみたいものだが、夢のまた夢をなのだろうな、、、、

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月23日 (火)

バッカみたい

P1010082 青木の実が真っ赤に色づいてきた。

葉が一年中青いので青木というそうだが、静岡近辺では年中青い葉の木が沢山あるので、あまり目立たないが、雪深いところでは、雪の間から青い葉、赤い実を覗かせているのは印象的である。

この木はどちらかというと半日陰を好むので、園芸品種は紫陽花同様じめじめとした雰囲気があって好きではない。

また、木の葉は健胃剤として、有名な漢方薬”陀羅尼助”に含まれている。しかし匂いがあまり良いとは言えないので見るだけにしている。

ちなみに、ゴルフアーの青木は、向うでエーオーキとよばれているそうだ。

自分は、高校が男子校で、就いた仕事が鉱山だったので、男だけの職場で過ごした。またこちらに来てからもボーリングの仕事だったうえ、廃業するまで周りは、ほとんどが男しかいなかった。おかげで、女性の心理の機微に触れることも無く扱いもぶきっちょである。

こんな男だけの職場といえば、酒を飲める奴(勿論強い者)腕っ節が強い奴が相対的に幅を利かせていたし、話題もそんな方向に行った。

かなり法螺の入った自慢話の挙句、証明するためいろんな無理をしてしまう。

腕相撲をして上腕骨折をしたとか、チンピラ相手に足駄を持って立ち回りを演じじたとか、、、そして、そんなことまで自慢の種になった。

この傾向は、今でも続いているようで、娘の一人が石油のタンクローリーを運転しているが、最近女性が男の職場に進出したとはいえ、この業界はまだ少ないそうで、職場の懇親会などに行くと上のような話しになってしまうらしい。

先日も、自分のむかし話を聞いていた娘は、「男って単純なのね、バッカみたい」とあっさり切り捨てられてしまった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月 6日 (土)

百人一首に花札にと

Img_0107 きょうは、暦の上では”小寒”である。昨夜来低気圧が日本を横断しているためかなりまとまった雨が降っていたが、北陸地方をはじめ各地で大雪が降るとの予報が出ていたが、寒さもこれからが本番になりそうだ。(夕方になってようやく上がった雨、とんびがホッとしたような顔をして、、、)

昨年の今頃は各地で記録的な大雪が降り、テンヤワンヤの騒ぎであったが、今年は打って変わって少ない。故郷飛騨でも今年は年末になってようやくスキー場をオープンする始末。

今年、80歳になる従兄弟も昨年の豪雪に懲り、今年は、かなりの出費をかけて屋根に融雪装置をつけたが、いまの所全然役に立っていない、と言っていた。

降りすぎれば交通遮断、降らなければ滑れない、スキー場周辺で民宿などやっている知人は「毎年博打をやっているようなものだ」とこぼしていた。

今日の夕刊に百人一首の日本一を決める大会が開かれていると書いてあった。この大会は毎年のようにテレビなどで放送されるので、目にすることがあるが、言われているように遊びでなくスポーツであることが分かる。

上の句の一部で下の句が書いてある札を取るのだが、その反射神経の速さにびっくりするばかり、、、、。

自分たちが小学生のころの遊びのひとつに、この百人一首があり、友達ともしたが、家族ぐるみでやったのが一番多かった。

このおかげで、いまだに百枚の札、全てを暗誦できる。この遊びには両親も入り子ども5人を含めて、真剣に争ったものである。そして、それぞれが好きな歌は人に取られたくなく、頑張ったが、いざ取られでも仕様ものなら、たとえ枚数が多くても悔しかった。

父親は、順徳院の「ももしきや ふんどししめて、、、」と狙っていたし、母親は年甲斐もなく「あまつかぜ、、」だったように思う。そして、自分は「いにしえの、、、」にこだわった。

そのほかに、花札を使って、バカ花や六百間、雨、桐をはずしての”おいちょかぶ”などもしたが、こんなとき、同じ家族ながら性格の違いがでて面白いものがあった。(いまになって思うと、、)

特に父親は、子どもを相手に真剣にマッチ棒のやり取りをしたことが、正月の思い出としてある。

百人一首は、平安時代を中心にした上流搾取階級の歌人が、想像だけで書いたものだと毛嫌いし、万葉集に興味を移した時期もあったが、このようにしてよい歌をそらんじることが出来、家族団らんの思い出が今でもときどき、何かの拍子に甦ってくる。

とくに、寒さが厳しくなればよけいに、、、、

| | コメント (0)

2007年1月 4日 (木)

痰きり豆は痰きらず

P1010071 道端の”痰きり豆”がつややかな黒い豆を見せびらかしていた。

上手に、種を両側に広げている。

痰きり豆という名前から、何か薬効があるのかと思っていたが、漢方薬の中に入っていないので薬にはならないらしい。しかし、こんな名前がつく以上、何かあったに違いないとにらんでいる。

よく、健康雑誌とかいうものに、いろいろなものが癌に効くとか、腰痛に効くとか言って騒ぎ立てているが、データーが少なすぎて本当かどうか分からないものばかりだと言う。

しかし、溺れるものは何にでも頼ってみるため、たとえ効かないとしても、大金を払って購入する、一種の詐欺行為だと見るが手入れをされたとは聞かない。

さて、今日は魚について一言。

海外で仕事をしていてある程度日にちがたつと、無性に日本食が食べたくなる。自分が言っていた中南米では、何でもかんでもオリーブオイルを使った料理になるので、集まると「秋刀魚か鯖の熱い塩焼き、ジューッと油の滴るやつを食べたい」とか「鯖の味噌煮がいい」「冷奴でセルベッサ(ビール)」「ここで漬物が出てきたら最高だね」なんて日本にいれば何時でも手に入るものが懐かしくなる。

たまに、町に下りると日本食堂を探して出かけるが、刺身よりこれらのものに興味がいってしまう。

他所から来ると、静岡は勿論だが、東京から東海地方にかけて鮪と鰹に非常に執着しているように見える。どの店に行っても売り場面積が大きく、一番良いところにある。

さんま、いわし、にしんなど小骨が多く、内臓まで食べるものは、売れ行きが悪いのか横に追いやられている。

先日も、小料理屋で出されたこれらの魚を背中の一部だけ食べて止めている人を見たが、自分らからすると「一番いいとこを食べないでどうすんの」「日本人なら身のほぐし方ぐらい、、、」「もったいない」という言葉を飲み込むのに精一杯だった。

鮪や鰹には小骨が無いものナ。鮎などは頭からがりがりと食べるのが美味いと思っている者からすれば、楽しみで行った小料理屋で、隣の他人の食べ方にケチ付けるわけにも行かず、ストレスがたまってしまう。

そして、こんな奴に限って箸の使い方がなっていない。「ええい、もう二度とあんな店には行きとうないわ」と業を沸かして(ごわかいて)帰ってきる。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2006年12月30日 (土)

花餅を作る

Img_0050_1 今年一番の寒気が入ってきたらしくて、静岡でも氷点下になり小さな水溜りが凍っていた。

静岡に来た当時、仕事場の仲間が大きな声で「今日はレイカ、今日はレイカ」と騒ぎ立てているのを聞いて、レイカとは何ぞやと考えたことを思い出した。

大人でも水溜りの氷を足で割っていたし、その後、子どもが雪見遠足に行くと聞いてまた驚いた。

「静岡の衆はぬくといとこにおるもんで、、、」という言葉をよく耳にしたが、三方を山に囲まれて南側を海に面している市街地は、よくある○○降ろしというような風もなく、夏場も名古屋や東京などのよりいくぶん気温が低く住みやすい。

これで、”東海地震”さえ来なければ、、、、といったところ。

Img_0072 今日は、我が家の餅つき。といったって大したことは無い、たかだか四升ほどが所。鏡餅三軒分と花餅で一升。つまみ餅(搗き立てを抓まんできな粉や餡にまぶして食べる)のに五合、残りは伸し餅にした。(写真は、とりあえず餅をつけた所まで、このあと飾りをつけて完成)

自分たちが子供の頃、親は、まずもち米を集めるのに苦労した。

ときどき、うるち米の入った米を買わされて、どんなに搗いても粒々が残り怒っていた年もあった。

白い餅のほか、粟餅、草餅、栃餅など、合計で一斗以上を毎年搗いたが、両親と子供5人で、たちまち食べてしまい、寒餅などといって1月末にはまた搗いた覚えがある。

そのくらいよく食べたものだが、いまでは、孫たちに持たせて返しても、青かび、赤かびを生えさせる年があるくらいになってしまった。

昨年、孫たちと花餅を作ったのが面白かったらしく、今年もリクエストされたので今年も遊水地からヤナギの小枝を少し剪定してきた。

これも以前は、子どもの仕事で雪山をかき分けて前から目をつけていた欅の切り株から5mmほどのヒゲ枝を何本も差し出した部分を株のところから切り取って帰ったものだが、同じ切り株を他の子が目に付けていたりすると先にとられてしまうので、何本も押さえておいて余った分は売り出して小遣いにした。

花餅は、七日から小正月に降ろし、固くなった餅を壊し、フライパンで炒ってアラレニして食べたが、左儀長のとき棒の先に突き刺して焼く鏡餅よりはよほど美味いものだった。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年11月26日 (日)

ふるさとの汽車 廃線

Img_0095_2 写真は野茨(ノイバラ)。赤い小さな珠をすっかり葉を落とした枝の先端につけている。

花は6月、真っ白な八重咲きを密集させていたが。薔薇の仲間だけにその匂いは微かながら芳しかった。

今日、テレビを見ていたら、ふるさとの山あいを走っていた汽車が今月いっぱいで廃線になるため、感謝イベントが開かれ、鉄道マニアが押しかけていると言っていた。

高山線猪谷駅から約20km。盲腸のように突き出た鉄道が開通したのは昭和41年だった。急峻な川沿いを走るため、六割以上がトンネルのため地下鉄みたいと言われた。

どこの鉄道もそうであったと思うが、この地方も名にしおう豪雪地帯でしばしば陸の孤島状態になったことや、終点近くの鉱山の製品搬出などが目的とされ、長年の悲願であった。

そのため、着工が決まった昭和31年だった頃からと思うが、記念の駅伝がこの区間を往復する形で開かれ、生まれ故郷を高校生部門の区間賞で走りぬけ、晴れがましい思いをしたことがあった。

それから10年後に開通、昭和59年から第3セクターに移管。丁度40年後に廃線することになった。

そのあいだ、世の中は急速に変遷した。駅伝で走った当時の国道41号は自動車の轍がへこんでいる未舗装道路だった。

鉱山も従業員が三千人はいたし、その家族を含めて二万七千人の人口はもうすぐ町から市になるかとさえ思えた頃であった。

いま、この鉄道も思い出だけを残して、 役目を終え静かに消え去ろうとしている。

ちょうど、野茨の実を見て花を思い出すように、、、、、、

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月15日 (水)

かまぼこの日

Img_0017 きょう11月15日は、七五三の祝いの日でもある。

各お宮さんでは、着飾った子供づれの親子が集中しているのだろうなと予想しながら、近くの浅間神社まで散歩の足をのばして見た。

ウイークデイにもかかわらず、いたいた、それこそ沢山の子どもが着飾ったうえ、お供を引き連れて、それこそお殿様、お姫様のように出かけてきていた。

普段着慣れない、羽織袴に押しつぶされるかのように猫背になった男の子が、履きなれない草履でよちよちあるきをしながら登場、ついで振袖姿の女の子。

女の子は、何人もいたが、嬉々として、また誇らしげに玉砂利を踏む。この辺に男、女の本性が出てくるのだろうかと感心しながら見ていた。

Img_0001_3 そして、今日は「かまぼこの日」古文書に1,115年に祝いの膳に供されたと書いてあったことから、蒲鉾組合が指定したそうだ。

かまぼことは、言うまでも無いが魚の練り製品のひとつであり、むかしはすりつぶして練った魚肉を割り箸のような木の棒に練りつけたもので、蒲の穂のようなものを言い、そこから「蒲鉾」というようになったようで、今のかまぼこというより竹輪のような形をしていた、とある。

このかまぼこ、その後各地に広がって、そこそこの材料の特徴を生かしたつくりになっており、味、風味、歯ごたえなどさまざまである。

自分も、あちこちのを味見したわけではないので、詳しくは無いがやはり育ったところに一番有った「富山のかまぼこ」それもあるメーカーの品物に尽きると思っている。

またしても、幼いころの思い出になるが、兄弟が多くて好きなだけ食べられなかったせいもあるが、一本丸かじりをしたいと言うのが夢であり、じぶんの給料で始めて実現した時と、富山へ機関紙の校正に行ったおり、まだ暖かい状態の物を食べた時のことは今でも鮮明に憶えている。

もっちりとしたなかに甘味のある味わい、向うに行くと必ず買って帰るもののひとつである。(お土産でなく自家用)

富山は、むかしからかまぼこを非常に大事にしていたらしく、結婚式の引き出物に色とりどりのかまぼこで作った縁起物の鯛などがだされ、その重量、大きさでかなりのものがだされた。

そのため、他所から招かれた客の中には、その価値(値段)も分からない人がいて、よく富山空港のロビーに置いて帰る人がいることから、「あそこに行けば蒲鉾が拾える」なんて話まで聞いた。

富山にかぎらず、関西系の蒲鉾はもッちり感を大事にするのに対して、小田原を初めとする関東系はさくさくとしたはぎれのよさを持ちみにしている風があり、自分としては、板に付いた蒲鉾は、味気なさを感じて買ってまで食べる気がしない。

また、九州では、はんぺん系の黒い魚を使用しているのか、「此方の蒲鉾は色が白いのだけど、漂白剤を随分と使っているんだね」と言われたことがあった。

「白いのは、鱈など白身の魚を主体にしているせい」だと言ったものの、あちらから来た人には胡散臭い食べ物のように思われたには違いないと思っている。

以上、蒲鉾の日にちなんで、ひとりよがりの一家言。まことに食べ物のことに関してはうるさく、ガンコな爺さん。と自認している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月22日 (日)

むかごの思いで

むかご、漢字で書くと零余子と書くそうだが、これはとても読めたものではない。

どこからこんな漢字になったのか、まさか漢字の発祥地、中国直伝ではあるまいな。

むかごは、山芋の蔓にできる種と言ったら良いのか、小芋といったら良いのか知らないが、子どもでも簡単に取れるところにある、

小さな袋にいっぱい詰めて意気揚々と振り回して家に帰ったものだが、その食べ方はフライパンに塩をひとつまみ入れて、炒って食べるのが常だった。

芋だけあって、生では少し苦いような粘りのあるところが口に合わなかったが、炒ると、ほくほくした芋に塩味が効いて、自分で取ってきたおやつという感じで子供心を満足させる食べ物だった。

後で聞くと、むかご御飯などと言う食べ方があるそうだが、まだ食した事が無い。なんだか皮を剥くのが面倒くさいような気がするので、、、、。

はたして、美味いのかね?。

Img_0082_1 今朝は、朝早くから花火が上がっていた。聞けばすぐそばの「流通センター」の祭りだと言うので、散歩がてらに歩いて行ってみた。

例年のことだが、今年も沢山人が来ていて車がいっぱい、駐車場を求めてそばの道路が渋滞していた。

やはり、少しでも食品が安いと言えばかなり遠方からでもやってくるんだろうな。

入ってみると、鮮魚コーナーは人だかり、とても、人を掻き分けて買う気がしない。ということで、野菜のコーナーへ行って見ると、10時前だと言うのにたたんだ段ボールしかなく人が閑散としている。(売り切れたらしい)

今年は、野菜が不作だったので、みんなが先を争って買ったのか、販売量が少なかったのか。昨年などと比べるとこんな所にも世相が反映している。

仕方がないので、鮮魚コーナーに戻ってはきたが、”帯に短し襷に長し”食欲のそそるものがあまり無く(腹が満腹の時は何を見ても駄目)、それ以上に財布の中味が離れたくないと言うので連れて帰ることにし、ほとんど来た時の状態で帰ることになった。

帰り際、別の場所でも花火が上がっていたが、あれはどこのなんだったか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月17日 (火)

ほろ苦い思い出

Pa260016 庭の片隅で不如帰(ホトトギス)が咲き出した。

もう、10年くらいになるか、相良町女神で咲いていたのを一株も採ってきたものだった。

不如帰(鳥)の胸の模様に似ているため付けられた名前と聞くが、多彩で目立つ花、生命力の強さは抜群らしく、種をあちこちにばら撒いて到るところで芽を吹き出し、一時は雑草扱いにして、若芽を摘んで捨てていた。

こんな所は、鶯など他の鳥の巣に卵を産みつけ育てさせる不如帰(鳥)の生命力とも一致するのかもしれない。

小学校1年に2回、2年生の時1回、転校の経験し他の同級生の仲間入りが難しかったせいでもないと思うが、小さいころの自分はしょっちゅうヒーヒーと泣く気弱な少年であった。

いつも、母親の後ろに隠れ、着物のすき間から世間を覗いている風があった、と後になって思っている。

こんな少年は、同級生から見てもからかい易かった、面白かったのだろうと思う。しょっちゅう”いじめ?”の対象になっていた。

しかし、中学になって、クラスの一番ボス、ドラえもんのジャイアンみたいな子に追っかけられ、逃げ場が無くなったあげく”窮鼠猫をかむ”状態になって取っ組み合ったら意外と簡単に勝ってしまった。

当時、学校から帰ると地区ごとに子どもが群れを成してあちこちを歩き回り、隣の地区の子どもたちと会おうものなら石合戦などざらであったが、そんな時でも仲間内から弱い者扱いをされていた。

そのため、集団で遊ぶのは出来るだけはずれ単独行動を好み(今でもそうだが)自尊心は強く、内弁慶だったため、陰で弟や弱い者いじめをする根くらな少年だった。

ところが、取っ組み合いの喧嘩で、「頑張れば俺が一番!」という変な自信がついてからは、態度が一変してしまい、いまでも、同級会に出ると「クラスで一番性格が変わった男」と、まるで二重人格者みたいな言われ方をする。

あの時、あのことがなかったら今でも同じ性格を持ち続けていたのかと思うと、「人間どこで災難にあうか分からない」という言葉の反対で、何がきっかけで性格が変わらないものでもない。(逆でなくて良かった)

いま、学校ではいじめで毎年何人もの生徒が自殺している。

その予防も難しいのだろうが、周りに苦悩を聞いてやる人がいないんのだろうね、いれば随分と違うと思うんだけれど。

そして、学校の管理者や教育委員会が事なかれ主義で事態を隠しさらに傷口を広げていることに大きな問題があるのでなかろうか。

”美しい日本”は臭い物には蓋をして、表面上をつくろうものではないはず、大人と言われる人が先生、教育者を名誉職でなく真剣に責任を感じてもらいたいものである。

一方で、親が先生たちをとっちめている映像が